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2021-01-10 17:38

2021/01/10:創世記(5)神のいのちの息

2021/01/10 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 2:4-8


00:03
おはようございます。
久しぶりに創世記の見言葉に帰ってきました。感謝します。
ちょっとミスがありまして、4回目じゃなくて5回目でした。失礼いたします。
創世記2章。
この創世記の2章は、まるで神様がもう一つの創造をなかったような第一章の内容が、ちょっと違う言葉で書かれているから、そういう誤解があったりするんですけど、
新しい創造があったわけじゃなくて、この第一章に書かれた創造の記事を、また違った言葉で創造のことが解説されて記録しているわけなんですね。
今日はこの中で、特に7節を中心にして、神の命の息、神の命の息と一体にして言葉の恵みを共に受けしたいと思います。
もう一度、7節だけですね。みんなで一緒に読みましょうか。
7節だけです。
では、ご一緒に読みましょう。
神である種は、その大地の地理で、人は生きるものとなった。アーメン。
これからメッセージはちょっと短くなりますので、皆さん十分集中して聞いていただけたらと願っております。
神様が人を創造するときに、大事な二つのことがあります。
その一つ目のことは、すでに第一章で学んだ内容ですけど、
人はただで作られたんじゃなくて、神の形に見せて作られたことが、人の創造において一番大事なことですね。
もう一つが、今日のこの7節に書かれている。
人は生きるものになりました。
どのようにして生きるものになったんでしょうか。
どこか空気のいいところ、田舎で生まれたから生きるものになったんでしょうか。
そんなことではない。
この7節に書かれているように、神様がご自分の命の息を、アダムにエヴァに人に吹き込んでくださったから、人は生きるものになったんです。
つまり、命の源は神様であり、命の主は神であるということです。
03:01
このことは私たちは一行でも忘れてはいけないと思います。
なぜなら、一般的に医学的には脳が停止したり心肺が停止したら、
お医者さんが死亡を宣告するんですか、何月何日死亡みたいにするわけです。
確かにそれはそうですけれども、しかし私たちは神様を信じる者として、
聖書や信仰的に見れば、神様がこの人に命の息を続けて吹き込んでくだされば、その人は生きるわけなんですね。
でも神様がその命の息を吹き込んでくださることを、神様が止める、ストップしたら、その人の命はそれで終わりということなんです。
ですから皆さん、人の生きること死ぬことはどこにありますか。神の身体の中にあるということです。
ですから、命の始まりも神様であり、命の終わりも神様であるということなんです。
もちろん神様は一般恩徴というものがありますから、
いろんな薬とか、いろんな手術方法とか、さまざまな研究が開発されて、
例えば50年前とか100年前ではちょっとした風邪でも死んだ人が、今は軽い風邪で、
そういうふうにいい時代にはなっていますけれども、根本的に命は神の身体の中にあるということなんです。
聖書を読むと、聖書は命の書とも言われるんです。
多くのところに人の生きること、死ぬこと、生死についてたくさん書かれています。
イエス様はよくご自身を指して、ヨハネイノ福音書6章35節を読むと、
私が命のパンですと言われました。
それから同じヨハネイノ福音書14章6節を読むと、
私が道であり真理であり、その次は命なのですと言われました。
またイエス様が天に昇られた後、ペテーロとかヨハネイとか、
その人たちはイエス様のことを命の書、命の書とよく言っていました。
皆さん本当にそうなんです。神様が命の根源である。
06:02
イエスキリストが命の源であるということなんです。
ですから、私たちがこの神様とイエスキリストを信じて、この方についていくこと、
この方の中にあって生きることこそ、恵みであり祝福なんです。
ところが、私たちが生きていく中でいろんなことが起きるわけですね。
嬉しいことも起きますし、すごいなということも起きますけれども、
悲しいことが起きることもありますし、病気のことが起きることもありますし、
家族が先に亡くなることもありますし、いろんな事故が起きたりするですし、
若いからこそ長生きするか、そうでもないこともあったりするんです。
そんな中で私たちはお互いに神の知恵をいただきながら、注意してほしいことがあります。
聖書をいろんなところを読めばわかると思いますが、特に予布記を読みますと、
予布がいろんな試練に遭うんですね。
子供が死ぬ、財産が全部奪われて死ぬ、自分は重い病気になって苦しんでいたわけなんです。
でも予布がなぜそんな家族に、家庭に、予布にこんなひどいことが起きたのか、
予布自身も、その妻も、名古屋産免に来て結果的には労働者になってしまった友人たちも知らなかったわけなんです。
知っているのはただ神様しか知らなかったわけですね。
でも予布の妻もそうですし、最初は名古屋産免に来た友人だけですけれども、
結果的には全部今度のような因果応報的な話をするだけなんです。
予布さん、あなたが悪いから、これは神様からの罰だ。
あなたが悪いからなんだ。あなたの罪は重いんだ。そういう論争が続くわけなんです。
でも不思議に、本当の答えを知っておられた神様は沈黙しておられるのに、
この地上では予布も予布の友人たちも、ああだ、こうだ、このせいだ、あのせいだ、論争をし続けているわけです。
神の立場から見れば、ある意味で愚かなことかもしれない。
ところが予布の場合のですよ。本当にこの地上でそんな場合もよくあるかなと思いますけど、
予布の場合は神様がサタンに予布にその試練を神様が許されたわけですね。
09:02
それでそんなひどいことが起きたわけなんです。
それはなぜ起きたのか、神様だけがご存知である。
結果的には、私たちは最初の結果も知っているから楽に読むわけですけれども、
結果的に予布はその試練を通して、神様はもっと本当に深く知るようになった。
もっと良い信仰を持つようになった。
神様は子どもも財産の祝福も前よりもっと与えてくださったわけですね。
そんなふうに予布期はハッピーアンドで終わりますけれども、
もちろん全ての人が、特に何かの苦しみにあったときに、みんな予布のようだとは言えないと思うんです。
予布のような場合もあるかもしれませんが、そうでない場合もあるかと思うんですね。
例えば、小さな子どもが早めにこの市場で命を亡くすこともあったり、
神様がこの市場でこれ以上苦しまないで、早く連れて行ってくださったかもしれない。
あるいは何かの苦しみを通して、その人をもっと清められて鍛えられて、
もっと神様が尊く落ちるかも、そのためかもしれない。
あるいは本当に悔いたらべき罪があるから、それが気づくように種の一つのムチかもしれない。
でも大事なのは、私たちはそれがわからないということが、実は人間としての答えだと。
そこがまた謙遜でありますね。
神様だけがご存知であるということなんです。
善人がなぜ苦しむのか、あるいはなぜ早く死ぬのか、なぜ悪人は栄えて繁盛するのか。
この世の中に、クリチャーはそう思うんですね。
この世の中にあんなに悪い人もたくさんいるのに、なんで?みたいな。
私たちはわからない。
しかし、確かなことはありますね。
私にはわからないんだけど、人にはわからないんだけど、
神様がそう許されたことには、神の確かな、正しい、清い理由がある。
神の目的が確かにあるということなんです。
そして、神様がなさることはいつも正しくて清いということなんです。
私たちにはわからないかもしれない。
12:02
何より、この地上での人生は旅人にすぎない。
誠のふるさとは天国であるということを、私たちはいつも覚えたいということであります。
ですから皆さん、このようなコロナだけではありませんが、いろんなことが起きたりします。
皆さんも様々な家庭の事情があっても、それをみんなに全部言えるわけでもありませんし、
心に皆さん何か留めていることもあるかなと思います。
だから、そういうときに私たちに必要なのは、御言葉にありますように、
互いにさらに愛し合って、助け合って、支え合って、祈り合って、慰め合って、
そしてそれはただ生きるためじゃなくて、御国のために、福音のために、神のために生きるためなんです。
私が新学校の1年生のときだと思うんですけど、授業で老教授に聞いた話です。
僕は、僕会社はいつも3つのことをいつもできるように準備していなければならない。
1つは、いつでも説教ができるように。
どこでも突然頼まれても、神の御言葉を語れる準備をしていなさい。
2つ、いつでも引っ越しできるように。神様が行きなさいと言ったら、どこでも行くように準備をする。
3つ、いつでも天国に行く準備をする。
特に今、新学生、韓国は新学生が多いんですけど、その中に私みたいに選挙主になりたい、そういう新学生もたくさんいるわけですから、
特に選挙主になりたいと思う新学生は、この3つ、特に3つ目を心に、希望に銘じてくださいと言われたことが、
ずっと前から思い起こして心に留めていたわけですけど、最近よく思わされるところであります。
僕主なのに、主の下目なのに、しかも選挙主なのに、いつでも福音をお述べ伝えられる準備をしないといけない。
神様が行きなさいと言ったら、お口でも行ける準備をする。
あるいは神様がこっちに来てねと、神様が呼んでくださるならば、この父上のすべてのことを箱にして、
15:02
神のところに行ける、いつでも行ける準備をしておかなければならない。
そういうように、初心に戻らなければならないと思っております。
皆さんは、僕主ではないから。
もちろん、神様が皆さんを見知ってくださって、67歳になっても献身する方もおられますから、油断してはいけませんよ。
だから、説教とか引っ越しの準備は、今のところは該当しないかもしれませんが、
神様がこっちに来てねと呼ばれたら、悔いもなく、悲しみもなく、未練もなく、
神のために生きて、福音のために生きて、愛し合って、
そして神のところに行く、それから行ける、そういう準備を普段していこうではないでしょうか。
2021年、この先に何が私たちの前に待ち構えているか、誰も分かりません。
もっとひどいことが起こるか、あるいは今までなかったような本当に素晴らしい時代が来るか、誰も分からないんですね。
しかし、コロナのような嵐が吹いてきても、どんな苦しみがやってきても、
善能なる神様を信じて、神様のために生きて、神のために歩む、福音のために歩む、
また、イエス・キリストの十字架の愛を実践していく、その道こそ祝福の道、人生ではないでしょうか。
メッセージをあげたいと思います。
善能なる神様が私たちと共にいてくださる、私たちを助け、私たちを癒し、
また、主が私たちに命の息を吹き込んでくださる限りは、生きていて、
本当にもはや自分のために生きるのではなく、キリストのために生きる我々でありたい。
ヨーダニー教会でありたいと、そういうふうに願っております。
私がまず一言お祈りします。その後また司会者お願いします。
17:38

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