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2021-01-03 22:09

2021/01/03:新しく始めましょう

2021/01/03 聖日礼拝

尹善鎬牧師

詩篇 39:4-7


00:01
みなさん、主によって新年明けましておめでとうございます。
今年も、神の豊かな祝福と恵みが、皆さんお一人一人の上に豊かに注がれますように、心からお祈り申し上げます。
また、このように、様々な事情、あるいはコロナ、いろんなことがありますけれども、
主に守られて、また礼拝が行われていること、主の恵みを、助けを本当に感謝いたします。
今年も、全身全霊で、礼等のことをもって、主を礼拝してまいりましょう。
今日は、開かれています、詩編の39編の4節から7節、新しく始めましょう、という題にして、言葉の恵みを共にお受けしたいと思います。
神様が、2021年という、この新しい時間を、私たちに預けて下さいました。
この時間は、日々は、私のものではない、主のものであります。
そうであるならば、自分のために生きるのではなく、もはや主のために生きる道が、信仰の道です。
新しい年を始めながら、3つの信仰についてお話をしたいと思います。
まず1番目、謙遜の信仰です。
今日の御言葉を改めて、4節、5節、6節読みますと、私たち人間は、その人がいくら偉いものであっても、主の前には何者でもないんだ、ということがわかります。
4節の3行目を見ると、私がいかに儚いかを知ることができるように、5節も3行目に、5節はみんなで一緒に読みましょうかね、5節みんなで読みましょう。
せーの、ご覧ください。
アーメン、皆さんいかがでしょうか。
本当に旅でのこの歌のように、共感、同感、同意していますでしょうか、皆さん。
03:07
あなたの見前では、私の一生はないも同然です。
願うわくは、私たちの心の深いところから、旅でのこのような言葉が響いてきてほしいんですね。
この詩編が、人の言葉ではなく、私の言葉、私の信仰の言葉でありたいです。
主よ、本当にあなたの見前では、私の一生はないも同然です。
私がいくらしっかり立ってはいても、つにむなしい限りです。
神の見前では、私たちは何者でもありません。
実は皆さん、信仰というものは、これを悟ることなんですね。
当然の聖書が教える真理でありますけれども、この真理を悟るのに、ある人は一生がゆかかる。
でもある人は、二十代、三十代にこれを悟る。
ある人は、もう死の時までも悟らない場合もあるかもしれません。
ダビデが、誠に人は幻のように歩き回り、誠に虚しく立ち騒ぎます。
人はたくらえるが、誰のものになるか知りません。
このダビデの深い冷静まで入りたいんです。
私は、毎日を送るのではなく、毎日毎日、主よ、私は何者でもありません。
あなたの助けなしには、私は生きられません。
この一年も、主よ、あなたの助けとあなたの導き、憐れみがなくしては、私は何もできません。
何者でもありません。主よ、助けてください。
私の意思は、ないも同然ですと、毎日毎日、主の前に告白して、主の助けを求める。
主の導きを求める。主の憐れみを求める。進行の道を歩んでいこうではないでしょうか。
06:07
そういった意味として、この真理を悟るクリスチャンは、まさに謙遜な進行の人です。
神の前では、私は何者でもないんだ。
ただ、神が生かしてくださるから、私は生かされているだけだ。
主が助けてくださるから、助けられて立っているだけだ。
主が導いてくださるから、一歩一歩歩いているだけだと、これを悟り、いつも神の前に、人の前に、謙遜な進行を歩んでいきたいです。
この一年、神様が新しい一年を、私たちに与えてくださいました。
それは至極でもありながら、同時に神様からのテストかもしれません。
いや、テストだと思います。
この一年を、私たちがどれだけ減り下りしつつ、主だけを仰ぎ見ながら歩むか、
どれだけ謙遜な進行で歩むか、主に試される一年でもありましょう。
御言葉にありますように、神様は謙遜な者を祝福し、高ぶる者を知りづかれます。
つまり皆さん、結局のところは、謙遜な人が祝福されます。
これは神の御言葉ですから、神様が誓われた御言葉ですから、神様は必ずそのようにしてくださいます。
たとえこの地上では報いがなくとしても、しかし高ぶる者、傲慢な者は結局のところ、祝福を受けません。
神様が知りづかれるわけですから、その人が祝福されるわけではないでしょう。
御言葉の真理は極めて簡単です。
過ぎ去った一年、2020年は過ぎ去りました。取り戻すことはできない。
ある時は謙遜であったかもしれません。ある時は、しかし傲慢であったかもしれません。
09:02
すべては過ぎ去りました。
この新しい年を一緒にやって、まずこの謙遜の信仰を持って歩んでまいりましょう。
2番目。2番目は希望の信仰です。
新しい都市というものは、誰も歩んでいない道の世界です。
2021年何が起こるか私たちには分からないです。
去年のことを皆さん思い起こしてみてください。
2020年1月、新年礼拝をして記念写真も撮りました。
1月はまだ実際的にコロナが始まっていないような時でした。
うちの妻も草にも行けましたから。
しかし2月からは世界が完全に変わってしまいました。
本当に道の世界なんです。
誰も行ったことがない。誰も見ることができない。
ただ予測するだけ人間はね。
しかし全てを治めてあられる主なる神様が私たちの霊のお父さんであり、
その方が私たちを守って祝福してくださる、その信仰を持って歩んでいきたいです。
また、ヨハネイの福音書28章20節を見ると、
主は世の終わりまであなたと共にいると主が約束してくださいました。
また、ヨハネイの福音書14章27節を見ると、
この世が与えるのと全く違う平安を私が与えると約束してくださいました。
それだけでなく、ヨハネイの福音書16章33節を見ると、
勇気を出しなさい。私はすでに世に勝ちました。
イエス・キリストの勝利を私たちにも与えると約束してくださいました。
誰も会えたことのないこの一年、何が起こるか誰も分かりません。自信ありません。
12:08
いろんなプランを立てます。こんなことがしたい、あんなことをしてみようと思うことは自由です。
それが罪ではないでしょう。
しかし、未知の世界ですから、私たちは恐れを感じるかもしれません。
このコロナがどうなるのか分からないですし、
コロナが始まっているのですが、本当にコロナのなかった時代に戻れるか誰も分からない。
誰も私たちの先の道を保証してくれる、それができる、全くできる人は誰もいません。
誰が保証してくれるのでしょうか。誰がそれができるのでしょうか。
国が、職場が、銀行が、誰もいないんじゃないですか。
自分も自分の人生を保証できないわけなんです。
親も子どもの人生を今年を保証できない。
もちろん全力でサポートするんだけれども、保証できない。
私たちの先の道を、人生を完全に守って、保証して、カバーしてくれる。
それがお出来になる方は、唯一の全能なる神様お一人しかありません。
この方が主なる神様が、天の父なる神様が、
ご自分の子どものために道を開いてくださり、問題を解決してくださり、祝福してくださり、助けてくださる。
だからダビデの七節のように告白ができるのではないでしょうか。
七節を一緒にですね、声を合わせて読みたいと思います。
七節、ご一緒に、せーの、
アーメン。
皆さん本当にこの通りですか。
皆さんの望みは、神様お一人だけなんでしょうか。
そういう信仰のものでありたいんですよ。
希望を神様においてください。
三番目、喜びの信仰です。
この喜びはいつも喜びましょう、そういった信仰で喜びではありません。
15:06
意味がちょっと違います。
この喜びは、神様を喜ばせる信仰です。
神様を喜ばせたい。
意味わかりますか、皆さん。
日本語の聖書はほとんどが、濃度的表現より受け身的表現が多いですね。
ほとんどそういうふうに訳されています。
韓国と他の言葉では、濃度的に神様を喜ばせる、そういう表現を日本語の聖書は、
翻訳聖書はそもそもそうですけど、
違和感のない日本語的に、最も日本語的な表現で、
神に喜ばれる信仰のように訳されているんですけど、
私は個人的に、ちょっと意味違うなと、私個人的ですよ、そういうふうに思います。
神様を喜ばせる。
神様を喜ばせたい。
皆さん考えてみてください。
皆さんがね、誰か好きで、愛する。
そしたらですね、その人を喜ばせてあげたい。
そういう気持ちになるんじゃないですか。
それが夫だったり妻だったり、子供だったり、親だったり、あるいは恋人だったりね。
その人が好きなことを一緒にしたい。
その人が好きな食べ物を一緒に食べたり、あるいは作ってあげたり、
その人を愛して、好きで、大切にしていたら、そうしてあげたいんですよ。
そんな気持ちないですか。
あったと思うんですよ、昔は。
皆さんが若い時、恋愛していた時どうですか。
自分の恋人がいればね、何か喜ばせたいんですよ。
昔、高校生の時、私の話じゃないですけどね。
中学生の時でした。
中学生は教学でしたけれども、クラスが1組から5組までは男子、
6組から10組は女子みたいに分かれて、ちょっと変な形の教学でしたけれどもね。
男の方ですよ。
男の方が好きな女の方がいてですね、
学校に来てね、授業の時間に折り紙で鶴を一生懸命作るんですよ。
昔、今もそうするか分からないけど、線香作ってね、
綺麗な透明なガラスみたいなところに入れてね、それをプレゼントしてね、
18:02
それを一生懸命作るんですよ。
あの子が好きだから、あの子を喜ばせたいみたいね。
皆さん、私たちは神様を愛して、神様を大切にして、
神様をたっとんで、神様を喜ばせたい、
神様が喜ばれることをさせていただきたい、
そういう気持ちになるのが、それが信仰なんです。
難しく考えなくていいんじゃないですか。
とすればね、神様が何を喜ばれるか、それを知ることが大事ですね。
神様は何に関心を持っておられるか、
神様が何を喜ばれるか、神様が何を願われるか、
あるいは神様がしようとされようとするのは何なのか、
これを考える、このために祈る。
そしてそれを自分も喜びながら、神様が喜ばれることをさせていただく。
そういうふうにして、主を喜ばせたい。
そういう信仰を持ちたいんですね。
今年一年、皆さん、もちろん私たちが神様、これも知ってください、
あれもください、これもください、こんなふうに祈ること、
それが悪くないんですけれども、ちょっと変えて、
どうしたら神様を喜ばせる、主を喜ばせる信仰のものになりたいと、
そういう願いを持ってほしいんですよ。
たくさんあると思うんですけれども、
その中の最も大事なことを一つだけお話しましょう。
どうしたら神様を喜ばせることができるでしょうか。
それは礼と誠を持って神を礼拝してください。
これが神様が一番最も喜ばれることなんです。
力を尽くして賛美してください。
心を尽くして神の御言葉をお受けしてください。
日々賛美して日々祈って日々神を礼拝する生活を送ってください。
日曜日の礼拝だけで全て素敵ことをできたと思わないで、
毎日礼拝して毎日賛美して毎日祈って、
そして誠実には全心全霊で神様を礼拝してください。
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毎日の礼拝に失敗すれば一日を失敗することになります。
誠実礼拝に失敗すれば一週間を失敗することになります。
それが重なったら一年を失敗することになり、
それがもっと重なったら一生が失敗することになるでしょう。
そしたら振り返ってみたら、
神様を悲しませたことしか残らない人生になることもあるかもしれません。
言葉にありますように、神をたっ飛ぶ者はその人も神様にたっ飛ばれます。
しかし神を軽んじる者はその人の人生も神様に軽んじられます。
この神の法則を皆さん覚えていてください。
今年一年、謙遜の進行、希望の進行、喜びの進行をもって、
この新しい年を主にあって新しく始めさせていただきましょう。
お祈りします。
22:09

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