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皆さん、おはようございます。
今日も、アドベント第3章、聖実礼拝に来いらっしゃいました。
主の恵みによって、祈りの支えらやられて、
共に礼拝できますことを、主に感謝いたします。
今日も、主の御言葉を期待して、主に期待して、会いたいと思います。
今日は、アドベントメッセージ3回目です。
タイトルは、主の慰めを待ち望む信仰、です。
主の慰めを待ち望む信仰。
アドベントメッセージ1回目は、
キリストの再臨を待ち望む信仰についてお話をしました。
2回目は、神の国を待ち望む信仰についてお話をさせていただきました。
その中で、何度も私が強調させていただきましたキーワードは、
聖なる経験な生き方でした。
このアドベントを送っている中で、
御言葉通りに歩んでまいりましょうと、
お勧めして御言葉を取り透かしていただいております。
今日は、開かれていますルカノ福音書。
この中で、シメオンという人から、
私たちが何を待ち望むものなのか、
キリストを待ち望む信仰とは具体的に、
何を待ち望むことなのかを、
このシメオンから一つ教えてもらいたいと願っております。
まず、今日の御言葉、聖書25節を、
もう一度一緒に読みたいと思います。
そこにですね、シメオンがどういう人なのか書かれています。
25節、御一緒に読みましょう。
その時、エルサレムにシメオンという経験な人で、
司祭を行った聖霊が彼の家にかかれた。
アメン。ありがとうございます。
このシメオンという人は、後から見ますと、
高齢のお年寄りの人でした。
彼はエルサレムに住んでいたんですけれども、
この25節の2行目に書かれているように、
この人は正しい経験な人でした。
この正しいという言葉は、
偽なる、偽と認められる、偽の意味なんですね。
偽人である、神の目に正しい人であるという意味です。
そして、最後に書かれていますように、
聖霊が彼の家におられました。
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聖霊に満たされた人でした。
ある意味で、イエス様がお生まれになるあの時代に、
珍しい、本当に良い信仰を持っている神の人でした。
ところが、このシメオンは何を待ち望んでいたんですか?
ここに見るとですね、
イスラエルが慰められるのを待ち望んでいたとあります。
イスラエルが慰められるのを待ち望んでいた。
自分の国、自分の民、このイスラエルが
神様によって慰めていただくことを
切に切に待ち望んでいたということでしょう。
このシメオンがイスラエルが慰められるのを
待ち望んでいたことを理解するために、
当時の社会や歴史の背景を少し理解する必要があると思います。
イエス様がお生まれになる時ですから、
エイリーゼロにしましょう。
その前後の話を少ししますと、
イスラエルはBC586年、南のユダ王朝が滅亡した後、
国家のない状態がずっと続いていました。
だからBC586年から、このイエス様が生まれる時から、
現代にいけますと、1948年か43年まで、
イスラエルという国はなかったわけなんですね、実際。
彼らは国を失っただけではなく、
神の御言葉を、その思想、言葉を、
信仰までも失っている状態でした。
当時、ローマの支配の中にあったわけですけれども、
マカビ運動という独立運動が、
イスラエルの民族の中にありましたが、
ローマを勝つには、対抗するには力不足でした。
だから、ピラトという総督官、ローマから派遣されて、
建てられたそういう人々によって、
イスラエルは支配されて、植民の国、暗黒の時代でした。
歴史的にも、政治的にも、文化的にも、信仰的にも、
混乱と葛藤と、とても不安定な時代でした。
何より彼らには、神様が治められる国、民族という
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アイデンティティを彼らは持っているんですけれども、
それが今、なされていない。
そこからこの使命は、イスラエルがなくさめられること。
ローマではない、人ではない、
神によって治めていただく国、
身国として、その神の国の民として生きることを、
この使命を、また他の人々もいたと思うんですけれども、
彼らはそれを待ち望んでいたということなんです。
信仰の回復を、この潰れてしまった神の民が、
本当に神の民らしく生きることを、待ち望んでいたわけなんです。
そのような人が、イスラエルが生まれる時には、
みんな、多くの人々が、
その使命をなくさめよう、
使命の回復を、待ち望んでいたということでしょう。
今の時代の私たち、もちろんシミオン、
あるいはイスラエルの時代の人々とは、ほとんど関係のない、
あまりこのような経験をしていない、
今日の私たちです。
2020年も、そろそろ終わろうとしている、この時期ですけれども。
ところが、時代が変わっても、今の時代、
子どもにも、大人にも、みんなには、
主の誠のなくさめが必要だろうと思っております。
様々な困難や葛藤、戦い、争い、
あるいは病、事故、
あるいはこのような、今年も2月からずっとコロナ、コロナ、コロナ、
言っていますけれども、
それによって起きてしまった、本当に想定できなかった、
悲しいことがたくさん起きた一年でした。
多くの人々が、疲れやストレス、不安、恐れを感じて歩んで、
みんな頑張って歩んでいる時代だなと思っております。
1つのアメリカの場合ですけれども、
探しても日本はなかなかデータがネットに公開されていなかったんですが、
アメリカの5年前の統計ですが、
アメリカ人の中で、
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全人口の48%の人が、
調査したその年、あるいは一生の間、
1回は精神疾患を患おうという統計でした。
48%ですから、
もう2人の1人は、一生1回ぐらいは、
あるいはその年、精神疾患を患おうということです。
その中の3代は、1番目はうつ病でした。
それは、大体10%ぐらいの人が、
1年、あるいは一生の間、1回かかるということです。
その次多い病は、いわゆる依存症ですね。
昔は中毒と言いましたけれども、
いろんな中毒がありますけれども、
それも9.7%ぐらいでした。
そして、3回目で多い病は、
いわゆる恐怖症、パニックですね。
8.8%ぐらい。
4回目多いのは、社会恐怖症、
日本の引きこもりのようなことですね。
これも7.9%ぐらいでした。
このような統計を言わなくてもですね、
昔も今も、これからもっとひどくなるか、
どうなるか分かりませんけれども、
特に感情的に精神的に病んでいる人々が、
本当に多いかなと、そういうふうに思われる時代です。
鬱や、あるいはソーツ、パニック、引きこもり、
DV、暴力、いろんな依存症、
多くの人々が精神的に病んでいます。
ある医者さんはですね、
軽い鬱はある意味でみんながかかっていますよ、
と言われたことを聞いたことがありますけれども、
体の病気は、例えば骨が折れてしまった、
ギフトしたら治るんですけれどもね、
2,000ヶ月ちょっと不便さを我慢すれば治ると思うんですよ。
ところが心の病は難しいことがあります。
本人もつらいですし、しんどいですし、
家族も疲れるということであります。
ところがここまで話をしますと、
神様を信じない人々の話と全く同じですね。
しかし私たちは違う生き方をする人々なんです。
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全能の神様、死んだ者をよみがえらせた
神様を信じる人の人生は違う。
それは苦しみとか病気とか、
事故に対する取るべき姿勢が違うということなんです。
なぜでしょうか。全能なる神様を信じるからなんです。
その神様の御心のままに、私を助けてくださることを信じるから。
文字の中の神様、イエス様、聖霊様ではなく、
今もなお生きておられ、働いておられる神様を信じるからなんです。
だから皆さん、そういった重い病の方でなくてもですね、
ある意味で多くの人々には、いやみんなには、
本当に主の慰めが必要な時代であります。
今日は先週に続きまですけれども、
もう一人の男性の栗ちゃんの証を
少しお話をさせていただきたいと思います。
この方は東京生まれで、若い時には
お父さんが経営していた商店で仕事をして、
そしてお母さんの事業は繁盛していたから、
いわゆる旬風満帆の時代を送ってきたんですね。
それで大学院を卒業して、
善と悠々たる門出をして、いわゆる社会人になったわけなんです。
ところがなかなか馴染めない、
慣れないサラリーマン生活で、いじめにもあってですね、
その会社も3年で辞めてしまったそうです。
その時は結婚して子供もいましたけれども、
その後はたくさんの転職を繰り返して経験していたそうです。
その中で30代半ばでうつ病になってしまいました。
それで3年間寝たけり状態でした。
東北の地で単身婦にされたこともありましたけれども、
仕事がうまくいかなかった。
東京の本社からは応援もなかなかなく、
もう孤立無縁の状態でした。
いつもたった一人で放っておかれる、
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そんな自分でつらくてつらくて、
またこの世の圧力の前に何もできない自分があさけなくて、
ただ寝ていました。
うつ病はひどくなってですね、東京の本社へ戻らされてもですね、
結局またただ寝ている状態が続きました。
この方は退職の手続きすら自分のお父さんや奥さんにしてもらう、
そんな始末でした。
退職した後は、最後の退職した後はですね、
数ヶ月数ヶ月精神病院に入院していて治療を受けたんですけれども、
ただ薬を飲まされてくたくたと寝ているだけでした。
後から聞いたんですけれども、
未満の帰りに妻とですね、奥さんと子供がですね、
東京の何かの船の名前みたいですけれども、
赤羽船、そこの踏切でですね、身を投げてしまうかと、
何度も思ったそうですね、奥さんは。
そのようなことすら自分には気づくことができなかったそうです。
悲しかったですし、家族みんなとても辛かったそうです。
そういう状況の中で不思議に神の光がこの家庭に照らされたんですね。
奥さんの方に神の光がまず照らされて、
そして奥さんの方が不思議に教会に導かれて、
信仰を持つようになり、洗礼を受けるようになりました。
その頃、奥さんは洗礼を受けて、
その頃この男性はまだ寝ている、ほぼ寝てきりみたいな、
鬱の状態が続いている中でですね、
昔テレビで三年寝たろうという昔話の漫画がやっていたそうなんですね。
主人公の太郎さんがずっと寝ているみたいなんです。
最後に不思議な力で何かをするみたいなんだけれども、
それで家族からみんな、お父さんは三年寝たろうだみたいにですね、
そう笑われるように言われたそうなんです。
ところがその中で奥さんがあきらめずに、
もうしつこく私を教会に誘ってくれました。
はじめは嫌で仕方がなかったんですけれども、
その中で最初は奥さんに強いられて教会に行き始めましたが、
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その後は少しずつ、
ちょっと自分の意思と言いましたかね、
それが生じて通えるようになりました。
その中で先生の説教に恵まれ、
また仲間たちの信仰の確かさに直接触れて、
自分の心が少しずつ柔らかくされて揺れるような気がしました。
そしてある日、
イエス様は自分に悔い改めの時を与えてくださいました。
それで私は39歳の時に、
新宿のとある教会で受禅の恵みに預かりました。
その頃、うつ病の薬をまだ多く飲んでいましたけれども、
僕先生から薬に頼るんじゃなくて、
誠の主イエス・キリストに頼りなさいという祈りに勧められて、
飲んでいた薬をやめました。
ところが不思議にも、不安も心の動揺もなくなり、
無情にうつ病は消え去りました。
その後、引っ越しをして、
一昨年11月、この教会に来るようになりました。
東京の教会では、家内がたくさんの奉仕をしましたが、
最近は疲れ気味なので、ここで私が一生懸命に奉仕させていただいています。
そして今は、私がうつ病を病んでいたのを知らない教会員は、
信じられないと言われるくらいすっかり癒されています。
医者の処方や薬を依存することなく、
ただ、食いやらためや神の憐れみによる癒しです。
癒されたから、心霊内科に行ったことは一回もありませんでした。
30年前には家族のみんなが、誰も主を知りませんでしたけれども、
今は家族全員受診して、クリスチャンになりました。
全てはただ、私を憐れんでくださった主の恵みです。
主の皆を崇めます。
こういった証でした。皆さんではでしょうか。
こういう場合もありますけれども、
様々な混乱、苦しみ、病気、ストレス、争い、
あるいは未来への不安、あるいは死への不安、
様々な不安、恐れ、ストレス、あるいは病気、
その中で私たちには、イエス・キリストの誠の慰めが必要なのです。
願わくれます。
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その中で私たちには、イエス・キリストの誠の慰めが必要なのです。
願わくは、このイエス・キリストによって、
癒されて、回復されて、自由を得たいと願っております。
私たちにも皆さんにも、イエス様のゆえに、
うつ病が癒され、パニックが癒され、精神病が癒され、中毒が癒される、
種の癒しが起きるように願っております。
そして私たちもこのような証が多く言われる、
そういう教会でありたいと思います。
周りに旦那さんが、ギャンブリングとか、
いろんな中毒で離婚する家庭も多くあります。
他にも様々な依存症に病んでいる人々が大勢います。
隠されているだけなんですね。
あるいは家庭内の暴力も、本当に今の時代ではひどい時代になっています。
もちろんその背後には、とても複雑な原因があると思うんですよ。
簡単に1だと2だと、そういうふうに断定はできない時代ではありますけれども。
もちろん病院に行って治療をして、
そういうことが全部不思議ですよ、やめましょうという話ではないんです。
今日はそのテーマではないので、またの次回にお話をしたいと思います。
ところが皆さん覚えたいのは、この地上で、
私たちが時には病を病んだり、あるいは癒しを体験したり、
喜び悲しみの中に生きていますけれども、
しかしこの地上での自由や回復・癒しは、完全なものではありません。
私たちがこの地上で体験している回復・癒しは、
あるいは祝福や恵みは、再び来られるイエス・キリストによって
称えられる神の御国、新しい天と新しい地で私たちが味わう、
そのことの前味に過ぎないということなんです。
だから、たとえこの地上で病があっても、苦しみがあっても、
願って祈っている祈りが、その私の願い通りにならなくても、
あるいはその通りになってもどっちも、神様は正しいことをなさる。
そして神の説理、神の契約は完全である、私には理由がわからないことがあるんだ。
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しかし私は主を崇めますと賛美していく人が、主の再臨を待ち望む信仰、
主の慰めを待ち望む信仰ということではないでしょうか。
皆さんにも祈っていただいておりますけれども、
私の母も韓国の院長にいますが、今まで私が7歳の時に、
末期子宮間から不思議に神の癒しによって癒されました。
また私が21歳の時に、交通事故で両足がこなこなになってしまいましたが、
不思議に神様は歩けるように癒してくださいました。
また2001年、私が新学校2年生の時でした。
母は、いわゆる脳梗塞みたいな病気で倒れてしまったんですけれども、
そして体のほぼ半分以上も麻痺になってしまった。
戻らないかなと思ったんですけれども、
医者からもそういうふうに言われましたが、
母は何ヶ月後、不思議に自分の足で退院して家に帰ってきました。
そこまで主が奇跡的に癒してくださった母ですけれども、
2年前から妊娠になって、今本当に寝たけりになっています。
喋れない、食べれない、動けない。
首をこれくらい、目をパチパチするくらいしか動けない母です。
中学生の時に心肝を持ってたくさんの苦労をしました。
昔亡くなった父ですけれども、
悪口になるから言いたくないんだけれども、
本当にたくさんの良くないことがあって、
母は心肝を持ちながら、とても苦しい日々が長い間続いていました。
そんな母を、神様は最後にきれいな良い状態で天に行ったらいいのに、
なぜああいうような状態になっているんだろうか。
見る私たちより本人が本当につらいだろうなと思っております。
しかし、私は確かに信じることがあります。
神の御心がある。
主がなさることがある。
そして、やがては主の時に神様が母を、
あの新しい天と新しい地に、主が連れて行ってくださる。
一箇所皆さん、聖書を開きたいと思います。
ヨハネの目白21章1節からです。
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ヨハネの目白21章1節。
新約聖書の516ページです。
皆さんちょっと長いですけれども、
突然ですが、信友さん、すいませんが、
1節から4節読んでいただけますでしょうか。
お読みいたします。
ヨハネの目白21章1節から4節。
また私は新しい天と新しい地を見た。
以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
私はまた聖なる都、新しいエルサレムが
夫のために飾られた花屋のように整えられる。
神の御元から天から下ってくるのを見た。
私はまた大きな声が御座から出て、こういうのを聞いた。
見よ、神の幕屋が人々と共になる。
神は人々と共に住み、人々は神の神となる。
神御自身が彼らの神として共におられる。
神は彼らの上から涙をごとごとく拭いとって下さい。
もはや死はなく、悲しみも叫び声も苦しみもない。
以前のものが過ぎ去ったからである。
新しい天と新しい地は、以前の天と以前の地は過ぎ去ったということですから、
この地上のすべての見えるもの、見えないものは過ぎ去るわけなんです。
この地上であった苦しみや病気や葛藤や戦争や
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様々な罪によってできたすべての破壊、堕落、
すべてそれも消え去るわけなんです。
そしてそこはどうでしょうか、四節。
その時は神様が私たちの目から涙をごとごとく拭いとって下さいます。
もはや死はありません。
だから死を恐れる恐怖もないわけです。
悲しみもありません。叫び声もありません。苦しみもありません。
この地上で私たちが本当に悩んで悩んで悶々していたすべての
罪によるものは過ぎ去ってなくなるということなんです。
この日は必ず来ます。アーメンですか。皆さん信じますか。
もし皆さん今何かのことで辛い日々を送っているでしょうか。
しんどいでしょうか。心が複雑でしょうか。恐れを感じているんでしょうか。
何かの圧力でひどいストレスを感じているんでしょうか。
あるいは長い間数年を祈っても答えがなくて
失望しているでしょうか。
あるいは皆さん本人じゃなくても家族の中で
苦しみの中にいる方がいらっしゃるでしょうか。
主は必ず私たちを失望に終わらせる方ではありません。
神様私たちの祈りを聞いて下さり、
癒して下さり、自由を与えて下さる、
回復をして下さる、そして慰めて下さる主であることを信じて下さい。
しかしそうして下さらなくても、この地上での苦しみや
全てはやがて消え去る一瞬のものである。
そして新しい天と新しい地で永遠に主を喜び、
礼拝しながら生きるようになることを待ち望もうではありませんでしょうか。
その日とその日に私たちに捧がれる主の慰めを
待ち望む信仰を持って前に進みましょう。
アメン。お祈りします。