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2020-12-06 27:03

2020/12/06:アドベントメッセージ(2)神の国を待ち望む信仰

2020/12/06 聖日礼拝

尹善鎬牧師

マタイの福音書 3:1-6

00:02
皆さん、あらためておはようございます。
今日も礼拝にようこそいらっしゃいました。
今年のアドベント第2週、このように成日を迎えて、
また久しぶりの方々もお見えになって、一緒に礼拝できますことを本当に感謝いたします。
アドベントメッセージの2番目、2回目です。
今日のタイトルは、神の国を待ち望む信仰、神の国を待ち望む信仰、です。
先週は、イエス・キリストの再認を待ち望む信仰について、
御言葉の恵みを一緒にお受けしました。
そこで、先週のメッセージの中でですね、他はもう全部忘れても、
これはぜひ覚えて、このアドベントの期間中に心に留めて、
このように歩んでいこうではありませんかとね、
強調しましてお話したことがあります。
何でしょうか。
聖なる経験な生き方でした。
聖なる経験な生き方。
忘れた方は、またあらためて覚えていただきたいですし、
この聖なる経験な生き方、この言葉を心に留めてですね、
特にこの今年のアドベントの期間の中でですね、
本当にこの御言葉通りに、聖なる経験な生き方で歩んでいきたいと願います。
今日のメッセージは、そのイエス様の再認に続くメッセージであります。
イエス様の誕生は、すでに2000年前に起きたことです。
そしてイエス様は天に昇られて、今は神の右の座についておられます。
そして、そこから生きている者と死んでいる者を裁かれるために再び来られます。
先ほどの一緒に告白した執行信仰で、私たちはその通りに告白して信じています。
あらためて確認しますとですね、イエス様がですね、天に昇られました。
そして、全能の父なる神の右に座しておられます。
そこから来られて、生きている者と死んでいる者と裁かれます。
と、毎週私たちは告白しています。
大事なのは、その告白とともに、告白した通りに生きることが大事なのではないでしょうか。
その執行信仰をですね、古語訳でしようが、神話訳でしようが、英語でしようが、それはそんなに重要なことではないと思うんです。
03:08
一番大事なのは、私は信じて告白している通りに生きているか、ということなんですね。
信じて告白している通りに、そのように私は生きているのか。
その点において私たちは、ああそうだ、毎週告白しているように、
イエス様は生きている者と死んでいる者を裁くために、再び必ず来られるんだ、ということをいつも心に留めて、
そしてその来られるイエス様を待ち望みながら、聖なる経験な生き方で生きることが大事です。
その点において、今日のこのパプテスマ・ヨハネのメッセージを聞きたいと思います。
パプテスマのヨハネは、イエス様の祭輪と同時に来る神の国、未国、あるいは天皇未国、
それを待ち望む人々がどのように生きるべきなのかを教えてくれる大事なメッセージだと思います。
イエス様が来られることを待ち望む人は、イエス様を愛する人です。
愛するから早く来てほしい、早く来てほしいと待って待っているんじゃないでしょうか。
だから待ち望んでいるわけなんです。
そしてその人はイエス様を信じる人だから、イエス様が救い主であり、同時に裁き主として来られることを信じる人です。
だからその人は、終わりの日に来られるイエス様をお迎えする用意をして生きる人なんですね。
毎日毎日来るイエス様を迎える用意をするわけなんです。
どのようにでしょうか。聖なる経験の生き方なんです。
それを今日のバフティスム・ヨハネは、タイの訓示書3章2節でこのように言いました。
2節一緒に読みましょうか皆さん。
正書あるいは前の字幕を見てですね、一緒に読みたいと思います。
せーの。
悔い改めなさい。天の御観に国が近づいているからと言った。
06:05
ここにですね、悔い改めなさい。天の御観にが近づいたから。
皆さん、天の御観にが近づいたということは、イエス様の再臨が近づいたということと同じメッセージですね。
終わりが日が近づいてますよ。
イエス様が救い主と裁き主で息子して来られる日がもう近づいてますよ。
だから皆さん、悔い改めて用意しましょうよというメッセージなんです。
私たちは神様を信じる者として、清い生き方をしたいとみんな願っています。
願わない人は誰一人いないと思うんです。清く生きたい。
本当に聖なる経験な生き方のものでありたいとみんな願って祈って、清く生きようとしておられると思います。
ところがどうでしょうか。
願っていないんだけれども、時には罪を犯したりする。それが私たちなんです。
それが見えない罪であってもですね、心の中の罪であってもですね、それを時にはたまには犯してしまう弱いものが私たちなんですね。
ですから私たちは十字架の前に、イエス様の十字架の前に行って、自分の弱さを主に委ねて、また示される通りに罪を悔い改めて十字架によって清めていただく。
この清い生き方を一生の間私たちはやっていくわけなんですね。
以前ある説教で聞いた話ですけれども、実際に私はデータを調べたわけではありませんが、
アメリカのジョン・ホッキンスという有名な大学があるんですよね。
そこで30年ぐらい癌の研究をしたシャーマンという博士がですね、興味深い統計を出したそうなんです。
それは、この癌の患者さんの特に精神健康と言いましょうか、人間関係、家族関係、主に体の部分じゃなくて精神的なそれが、
この癌の発病とどういう相関関係があるのかを研究した結果だそうなんです。
ところがですね、興味深いというか、いろんな癌があるじゃないですか。
その癌の患者さんの中で89%くらいの人々は、極度のストレスを感じている人がほとんどだったそうなんです。
09:08
特に心の中に誰かを恨んだり憎んだり、あるいは怒りを何十年も抱いたままで生きていた人であるほど、
癌になるその確率が高かったということなんですね。
そこでですね、誰かを憎んでいる、恨んでいるといったら必ず癌になるわけではないんですけれども、
そういう統計があるということなんです。
極度のストレスで苦しんでですね、それがいわゆる癌の細胞を生じさせたということになるんですかね。
このようにですね、私たちの精神健康と言いましょうか、心の怒りとか、誰かに対する恨みとか、
あるいはもう嫌で嫌でどうしようもない憎しみとか、他にもですね、いろんなストレスがあるかもしれませんけれども、
そのような心の清くない部分、あるいは他の何かの罪、
そういったものは私たちの精神も体も人間関係も、また神様との関係も壊してしまうものなのかなと教えられるところがあります。
もう簡単に考えてですね、誰かをものすごく憎んで、恨んで、もう怒りがもう火山みたいに爆発しそうな感情をずっと抱いたままで、
本当にその人の顔が太陽のように輝いて、血色もよくって、とても元気な人を皆さん見たことありますか?
見たことないですよ、多分。ないと思うんですよ。
大事なのはですね、聖書でも教えていますが、何らかの罪は私たちを縛りつけてしまうということなんですね。
目には見えないんですけれども、私たちのこの人生を神様が作ってくださった美しい神のこの似た形として作られたその素晴らしさを縛りつけて、それを壊してしまう、けがしてしまうという部分がある。
そこでその罪の中で迷ってしまうということなんです。
そうすると、そこが清められないままであれば、あるいは末にあって解決されないままであれば、本当に神様がこの地上で味わってほしいという御国の素晴らしさを、信仰の素晴らしさ、永遠の命の祝福を味わいにくくなるんじゃないかなと思うんです。
12:12
だから聖書はイエス様がくださる福音の力についてこのように話しています。私がお読みいたします。
イエス様を信じるということは、信仰を持つということは、私たちが何かの鎖から縛りから、それが罪であろうが憎しみであろうが恨みであろうが何かの怒りであろうが、
そこから解放されて自由にされる、自由にされて癒される、その信仰の道、それが人間関係も神との関係も回復される、そこが福音の力であります。それがイエス・キリスの十字架の力であります。
それを私たちはこの地上で楽しんで味わって享受することを主が望んでおられる。そのために信仰があり、そのためにイエス様の十字架の福音のメッセージがあるんです。
それをこの地上で味わいたいんですよ、私たちが。いかがでしょうか。
そのために私たちに本当に必要なのは、何らかの形で何かがきっかけになってもいいでしょう。メッセージを通して、あるいは祈りの中で示されてでもいいでしょう。
死の前に自分の罪を悔い改めて、徹底的に悔い改めて、すべてをもう吐き出すかのように死の前にすべてを委ねて、清められる、それをいい死をやっていくことであります。
それなら私は弱いから、つまづきやすいものですし、人に傷つけやすいものですし、罪を犯しやすい、汚れたものであるから、このアドベントの期間に十字架の許しを覚えたいんですね。
そして、許されたい、解放されたい、癒されたい、自由にしていただきたいんですよ、皆さん。
多くの人々が、罪から来る、神様は喜ばれない、サタンは喜ぶ、何かに縛りつけられている人々が、信仰生活をしていきながらも、意外と少なくなるんです。
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それが先ほど言いましたような、何かの自分の親に対する、母親がもうすでに亡くなっているにかかわらず、その怒りとか憎しみをずっと持っている。
あるいは何かの罪があるにかかわらず、それを悔い改めに引き付かされて導かれていないとか、誰かに対する怒りをずっと抱いたままであるとか、
神様と自分との関係が何か霞んでいる、何かぼやけている、クリアに見えていない、何かが汚れているような感じがする。
それが何十年も続いているまま、そのままほったらかしのままである。
そうするとすれば、私たちは十字架の前に行って、イエス様の力によって、それをきれいに清めていただかなければならない。
そう、清めていただくときに、私たちに本当の自由が、本当の癒しが私たちに与えられるんです。
それが福音の力ではない。これが理論ではない。教科書の書いてある何かの公式ではない。
実際であることをみんな、私たちは体験していこうではないでしょうか、皆さん。
イエス様は何かの物語が書かれているお化けみたいな神じゃないんじゃないですか。
イケる神なんですよ。私たちに働きかけて関わってくださるお方なんです。
その方が本当にイケる人として、私に関わってくださるんだ、働きかけてくださるんだ、そのイエス様を感じて、体験していきたいんです。
それを求めていく信仰のものでありたい。
一つある本で読んだ70代の女性のお訳しを代わりに読ませていただきたいと思います。
この女性は旦那さんがとても病弱で、入院して退院して、入院して退院して、それを何十年も続いていて、それでも疲れて疲れきっている。
それでお金も自分もバイトしないといけないし、それでお金を貯めても夫の患病でJMお金がもうなくなってしまう。
子育てをしなくてはならない、もう疲れきって、でもお金がないから追い詰められている状況になっているし、生きていかなくてはならないんだから、
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そこで手っ取り早くお金を得るために水商売の世界に入ってしまった。
そこで彼女が経験したものは偽り、偽善の世界。
本当にもうこれ以上堕落した世界はないだろうといった、もう闇の世界を彼女はそこで経験して苦しんで、
でも家に帰ってきたらまた病弱な夫がいつも寝込んでいる。子供はいる。
そこで本当に苦しくて何度も自殺しようと思ったことが何度もあった。
その中でその姉妹に天気が訪れ来た時が1983年、かなり前ですけれども夏のことだったそうです。
新聞に一枚の教会のチラシが入ってきたそうなんですね。
そこで全て疲れた人、主に追っている人は私のところに来なさい。
私があなた方を休ませてあげます。
そのチラシに書かれていたこの見言葉にこの姉妹は何か光を感じて、
不思議に一度も行ったことのないチラシに書かれている住所の教会に行ったそうなんです。
だから普通の民家の教会だったそうなんです。
そこに行ったら多分CSの教科学校の子供たちの礼拝が先にやっていたらしいですね。
その子供たちが先生の後にこういうふうに祈っていたそうなんです。
天皇父なる神様、お友達と喧嘩したこと、お父さんお母さんのいいことを聞かなかったこと、
嘘をついたこと、私たちの罪をお許しください。
イエス様の皆によって祈ります。アーメン。
CSの先生が後について小さな子供たちが祈っていた。
あの姉妹は初めてあのような祈りを聞いて、
もう頭を打たれたかのように愕然としたそうなんです。
自分は今まで神社とかに行ったことがあって、何かのご利益と言いますか、
そういったことをお願いしたことはあるんだけれども、
21:00
罪を許してくださいと祈ったことは全くなかった。
その子供たちの祈りがもう何か心に深く刺されて、
もう涙が後ろで座って聞いているときにボロボロ涙が止まらなかったそうなんです。
それで彼女が心の中で感じたそうです。
この方が私の罪を許してくださるんだろうか。
この方は誰なんだろうか。教会って何?とね、そう思ってですね、
それで教会に行き始めたそうなんです。
わからないことばかりでしたけれども、なんとか聖書を読み続けた。
そして少しずつイエス様の御名によって祈るようになった。
その中で牧師に勧められて、聖書の学びをし始めた。
その中でですね、自分が今までそんなことを一度も考えたことがなかったんだけれども、
自分がどれだけ穢れた最悪の罪人であるのかが示された。
気づかされた。
みだらな生活、貪欲、妬み、夫や親を憎んでいた罪、人を騙した罪、物を盗んだ罪、
自分が小学生の時に人の物を友達の消しゴム、鉛筆を盗んだこと、
友達のノートをちぎって嫌なことをさせたこと、
そんなことが不思議に映画のフィルムみたいに思い出して、
そこで何回目の牧師との学びの中で悔い改めて、悔い改めて、
その日も涙が水道水みたいに出たそうなんですね。
こんなに私は悪い人間だったんだ。
でもそれを全然知らなかった、気づいていなかった。
その時に牧師先生はイエス様の十字架の罪許しのメッセージを語ってくださいました。
そして罪を悔い改めるならば主は許してくださると。
先生はその姉妹にあなたはこの御言葉を信じますか。
彼女は軽じて信じたいです、信じますと答えた。
その時その先生は私の求所に説、
子よしっかりしなさい、あなたの罪は許されたという御言葉をいただきました。
その日以来どんどんどんどん神様はその姉妹の心を
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あの何かの深い縛り、鎖から本当に解放してくださったそうなんです。
それで本当に病弱な夫に対しても自分自身に対しても
時には子供がいるからもうこの子供がいなかったらみたいな思いまでしたわけですから
その子供に対しても謝ったり、夫にも謝ったり、
そしてですね、その長年の飲酒もですね、お酒もタバコも全部やめて、
その水商売の仕事もやめて、
そして本当に満州教会に行って、
イエス・キリストがくださるその本当の自由を味わって
今本当に別人のように生きているという証を
私ね、その説教で聞いてですね、なんと素晴らしいな、
本当にイエス様の十字架の力はこのように解放して自由にして癒す力があるんだなと
思いました。皆さんいかがでしょうか。
信仰をですね、理論的にしてはいけないんです。
信仰は理論ではない。単なるたこじょうの勉強ではない。
生きている人と一緒に生きることなんです。
そして私たちも皆それぞれの何かの罪から、腐りから、縛りから、
そこから本当にキリストによって解放していただかなければならないんです。
特に皆さん、今年のこのアドベントのこのシリーズの中で
聖なる経験な生き方をしましょうと何度も強調してお話をしています。
ですから皆さん、イエス・キリストの再臨を待ち望む人は
その方が救い主とまた裁き主として来られることですから
その方の再臨を用意するものは、清く生きることなんですね。
どうか今年も毎日、聖なる経験な生き方を実践していこうではないでしょう。
そして未だに何か、自分が縛りつけられている何かがあるならば
主よ、私をここから自由にしてください。
私に癒しを与えてください。あなたが本当に生きる神様だから
主よ、私を憐れんで助けてくださいと祈り求めて。
そして本当にやがてはイエス様が再臨なさると
神の御国が来たその日には本当に完全に解放されて
癒されるその日を待ち望んで歩んでいこうではないでしょうか。
お祈りしましょう。
27:03

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