1. 名谷教会 podcast
  2. 2011/10/23:聖日礼拝(旧音源)
2011-10-23 48:04

2011/10/23:聖日礼拝(旧音源)

2011/10/23 聖日礼拝(旧音源)


00:01
ご着席ください。聖書朗読をしていただきます。
今日の聖書の箇章は、《跨いの福音書》6章26から30です。
白石兄弟に読んでいただきます。
聖書を拝読いたします。
《跨いの福音書》6章26節から30節まで、新約聖書10ページでございます。
裏の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、裏に収めることもしません。
けれど、あなた方の天の父が、これを養っていてくださるのです。
あなた方は、鳥よりももっと優れたものではありませんか。
あなた方のうち誰が心配したからといって、自分の命を少しでも伸ばすことができますか。
なぜ着物のことで心配するのですか。どの百合がどうして育つのか、よくわきまえなさい。
働きもせず、紡ぎもしません。
しかし、私はあなた方に言います。映画を極めたソロモンでさえ、このような花の一つほどにも着飾ってはいませんでした。
今日あっても、明日は炉に投げ込まれる野の草でさえ、神はこれほどによそおってくださるのだから、
ましてあなた方によくしてくださらないわけがありましょうか。
信仰の薄い人たち、以上でございます。
聖歌大儀、聖歌324番を賛美していただきます。
その後、今、新学生さんに赤紙をしていただき、その後、うちら先生より課長風劇図と題して説教をしていただきます。
水面輝し、我を巻き込む。
壁の雪もって、矢下に包む。
風をそよがせ、日々あなたで、
育つ日は週の似てばさまに。
我ら呼び物、似てよりゆく。
03:07
深き愛の葉、溶けた枯れ葉。
作り失る、神の愛を。
知らぬ者に、今、呼吸を聞き、
小鳴る我が家、
仕事の糧と、
あはれ飯を。
我ら呼び物、似てよりゆく。
深き愛の葉、溶けた枯れ葉。
見事熟成し、母のもの。
我ら捧げて、米を連れ戸。
取り分け、父の受けた。
手に下りたり、母の願い。
我ら呼び物、似てよりゆく。
深き愛の葉、溶けた枯れ葉。
おはようございます。
06:05
関西聖書新学校から参りました 庭昭和です。
今日お明かしをさせていただきます。
私はクリスチャン家庭に育ったわけではありません。
しかし、両親と祖父母、親戚の愛を受けて、
表面上、物質的には不自由なく育ちました。
表面上、物質的と強調するのは、
内面の心は罪に穢れていたと、今は認めるからです。
私は聖書や教会とは、無縁の生活を長く送ってきました。
生まれは石川県の七尾というところです。
お寺や神社が多く、また仏壇、仏具屋が多い町です。
お寺のすぐ近くには神社があります。
家の中には紙棚があり、朝は神社の太鼓の音で目が覚めるという環境でした。
両方の祖父母の家には大きな仏壇がありました。
両方の祖母はいつもお経を口ずさんでいる、ある意味、信心深い人たちでした。
友働きで、小さい頃は大抵どちらかの祖父母の家に預けられていました。
よく預けられていたのが母方の祖父母の家だったのですが、
彼らの影響を受けて、強く受けて私は育ちました。
そこは小さな漁師町で、祖父は体が強くなかったので、漁には出ていなかったのですが、
地域住民のために働いた人で、家にはよく近所の人が集まって談笑していたのを覚えています。
私はそのような祖父母がいることを誇らしく思っていました。
このように周囲から守られた幼少期を過ごせましたが、小学校に入ると祖父母とも疎遠になっていきました。
会う機会が減っていきました。
一人で留守番をする生活が長くなりました。
いつも近くにいて私を褒めたり叱ったりしてくれていた祖父母がいなくなったせいで、
私は寂しい思いをするようになっていきました。
しかし、そういうことは恥ずかしくて親に言うことができませんでした。
私は自分がいつも正しいわけではないことはわかっていました。
しかし、それを身近に叱ってくれる人がいないまま、それを強制できないまま学年が上がっていきました。
小中高等学年が上がるにつれて、自分の中に自分では直せないその汚いものがあると強く感じ始めていました。
09:03
そういう自分が嫌でした。内面を見られるのが嫌で、人と接するのが苦手になっていきました。
悪い性質が妬みです。
実の弟が一人いるのですが、彼に対してもまた友人、先輩、後輩、そして近所の人々と自分をいつも比較して、
何か自分が常に勝っていないといけない、上位でなければいけないというひどい高慢な心を抱くようになっていました。
もしそうでないと感じたとき、相手を妬んで心の中で攻撃をしていました。
常に自分が中心でした。世界が自分を中心に回っていました。
このような状態だったので、精神状況はとても不安定でした。周りとの人間関係がうまく保てなくなりました。
自分が嫌になって生きていることが苦痛になりました。
誰かに助けを求めればよかったのかもしれませんが、自分の弱さを人に見せたくない、相談してもどうせバカにして笑われるだけという諦めが先行して、
結局誰にも相談できない状態でした。
学校の先生方も素晴らしい方々ばかりでしたが、当時は私の方が心を開けず信頼することができませんでした。
どこにも抜け道がない袋工事に迷い込んでしまっていました。
現実に対して悲観的になり、内向的になり、顔面になっていったのが私の10代の終わりでした。
人生の暗闇から抜け出すきっかけとなったのは、20代の初めにアメリカに留学して教会に出会ったからでした。
すでに内向的な性格になっていましたが、唯一心を開くことができる手段が英語でした。
中学の英語の先生は中3の時担任でもあった先生で、この先生は私の悩みや努力していることをしっかり聞いて認めてくれる先生でした。
それで私は英語が一番好きな科目となっていました。
今思えばそれも神様のご計画の一部であったのかもしれないと思います。
向こうの生活が始まって間もなくホームステイをしている時、アメリカの文化をもっと深く知りたいと思い、
ホームホストファミリーに教会に連れて行ってほしいとお願いして連れて行ってもらいました。
生まれて初めて教会の制度に入った時感じた心の温かさを未だに忘れることができません。
12:04
礼拝の後、白髪で髭を生やされた牧師先生は大歓迎してくれました。
そして集まっている皆さんからも喜びと平安が感じられて、私はそのような空間にそれまで入ったことがない、経験したことがないと思いました。
私は教会に非常にとらわれ、ここで教えられていることを学びたいと思うようになりました。
積極的に礼拝に出るようになり、英語で書かれた修法でしたが、辞書を持って弾きながら読んだり、礼拝も複数回出たり、
説教の録音テープを買ったりして、なんとかして教会で語られていることを理解しようと努力し始めました。
聖書の学びをしているうちに、心打たれる場面にいくつも出会いました。
そのうち当時一番心に残っていた場面は次の箇所です。
ルカの福音書23章32節から35節です。
交互訳ですがお見せします。
さて、イエスと共に刑を受けるために、他に二人の犯罪人も引かれていった。
サレ神戸と呼ばれているところに着くと、人々はそこでイエスを十字架に着け、犯罪人たちも一人は右に、一人は左に十字架に着けた。
その時イエスはこう言われた。
父よ、彼らをお許しください。
彼は何をしているのかわからずにいるのです。
人々はイエスの着物をくじ引きで分け合った。
民衆は立って見ていた。
役人たちも嘲笑っていった。
彼は他人を救った。
もし彼が神のキリスト、選ばれたものであるなら、自分自身を救うがよい。
何をしているのか自分でわからないもの、それは過去の自分のことを指していました。
昔、自分がどれだけ罪深いかわからずに罪を犯して続けていたことに気づかされました。
もし私がこの場面にいたら、役人たちに合わせてイエス様を嘲笑っていただけではないかと思わされ、
非常に愚かで愚かな自分というのが思わされ恐ろしくなりました。
私は20歳過ぎまで表面上は何も問題ない人間のように振る舞って何とか世を渡ってきました。
仕事も得ることができました。
普通にやれてきたつもりでした。
15:00
人間関係も同様です。
しかし内面はいつも人を値段で攻撃している凶暴な人間でした。
自分の利益が最優先、他人はもの同然、このような心を神様が喜ばれるはずがありません。
私も神様から離れ堕落した一人の罪人に過ぎない、そのことに気づかされました。
イエス様が十字架にかかられているが、むしろ自分こそ神様の前に十字架にかからなければならない人間ではないかということに気づかされました。
イエス様がお示し下さったそこしらの愛に応えて生きていきたいと思って、その後、そして今日も会いませていただいています。
献身について考えるようになったきっかけ、それはアメリカの教会にいるとき、神徒の方から導かれるように祈っていますと言われたことでした。
言われたとき内心とてもうれしかったです。しかし素直に喜んで感謝を述べることはできませんでした。
すでに洗礼を受けていましたが、それは日本の家族に相談せずに行ったことであり、仮に洗礼を理解されても、さらに献身となると日本の家族がどう反応するかということが一番の心配事でした。
また自分の信仰についてももっと深めることが先決と考え、当時していた一般の仕事を続けながら、教会の奉仕生活を続けることにしました。
仕事と教会のご奉仕に時間のほとんど割く日々が続きましたが、中心は教会にありました。
日本を離れているせいで孤独感を味わうことがたまにあったのですが、教会の交わりのおかげでそこで励まされ、慰めを得、そして仕事に向かう、そういう生活を送っていました。
その中でまた聖書を勉強していくのですが、強く印象に残っている場面はマルタとマリアが登場する場面でした。
ルカの福音書10章40節から42節です。
ところがマルタは接待のことで忙しくて心を取り乱し、イエスのところに来ていった。
主よ、妹が私だけに接待をさせているのを何とも大思いになりませんか。私の手伝いをするように妹におっしゃってください。
主は答えて言われた。マルタよマルタよ、あなたは多くのことに心を配って思い患っている。しかしなくてはならないものは多くはない、いや一つだけである。マリアはその良い方を選んだのだ。そしてそれは彼女から取り去ってはならないものである。
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一般の仕事と教会のご奉仕、私にとってはどうしても必要なことはどちらなのか、取らなければいけないのはどちらなのか、考えさせられるようになりました。
当時教会にゲストスピーカーとしていらっしゃったウェイド・エイキンスという海外宣教師が、火の出るような語り口調で、世界でどれだけ多くの人々がイエス・キリストの救いを必要としているかということを切実に訴えていました。
世界の人々というのは、私にとっては日本の人々のことでした。自分の家族の救いのことがやはり一番に思いましたが、それだけではなく、日本人全般にも思いは広がっていきました。
毎年発表されている自分で自分の命を断つ方々の数の多さを非常に悲しく胸に感じていました。そのニュースを聞くたび、すごく日本の多くの魂が悲鳴を上げているように思えてなりませんでした。
と同時に、自分も過去、福音を知る前は同じように人生に絶望感を抱き、死を考えることもあったことを思い出しました。自分と同じような人がいる、自分と同じように福音を知らないままの人が、日本にはまだ大勢いるということを知りました。
誰かが伝えなければいけない、そう思うようになりました。敬信ということを真剣に考えるようになりました。
2010年の1月に約10年間滞在したアメリカを去り、日本に帰ってきました。日本での教会生活というのは初め不安でしたが、地元で良い教会に導かれたことは感謝でした。
そこでの教会生活を通じて、自分が日本でも教会にいるとき心が一番落ち着いて幸せで、報酬をしているときや神様のことを語っているとき、心から喜びを感じられる人間だということが確認できました。
その後、2011年の春から関西聖書新学校の基礎館にて学びの機会をいただいています。
新学校では大きく分けて2つのこと、聖書の学びと寮生活を通して実際の訓練を受けさせていただいています。
聖書の学びは幅広く奥深く毎日新たな発見があります。
実際の訓練はそれらを通してあらゆる余分なものがそぎ落とされていって、恐れ多くも神様との交わりをさらに密にさせていただいているように感じます。
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このような恵みの機会を与えてくださっている先生方、また、見えないところでサポートしてくださっているこちらもいらっしゃいます。
皆さんにはいつも感謝の気持ちでいっぱいです。
日本という国で、特に私の地元では、クリスチャンとしての信仰を保つのは、アメリカで同じことをするよりも大変であることを返ってから切実に感じています。
多くのクリスチャンの先輩方が神父神老の中で信仰を守られてきたことを存じ上げています。
諸先輩方の尊いお働きを忘れることなく、私もこの道に精進し、神様のお働きのお手伝いをさせていただきたいと願っています。
最後に次の御言葉を信じて、それに応答する生き方をしたいと願っています。
第一手もての手紙、二章四節です。
神は全ての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
もうちょっと生意気な新学生で、もう今や何かすり切れてしまって、もう一度新学校に行き直さなければいけないんじゃないかな、そんなことも思いましたが、
こうして私たちが神様の導きで今共にここで礼拝を捧げさせていただいている、これが葛藤の神様の御計画と御業であると思います。
私たちは感謝をし、またこうして主の働きに使わされる人たちがまた多く起こされますようにという、そういう祈りも込めて、今日の御言葉に向かいたいと思います。
一言お祈りをさせていただきます。
勤勉で怠らず、礼に燃え、主に仕えなさい。望みを抱いて喜び、艱難に絶え、絶えず祈りに励みなさい。
24:06
恵み深い天の父なる神様、今日の良き日をありがとうございます。
一週間の歩みはそれぞれの場で異なりましたが、今時と場所を一つにしてここで礼拝を捧げています。
日本中の礼拝が、また世界中の礼拝が主にあって尊く恵みをいただき、またそれぞれが御言葉によって養われてまいることができるように、また福音を必要としておられる方々、救いを求めておられる方が多くいます。
特にこの日本を憐れんでください。またそのための働き人をあなたが起こしてくださって、礼に燃え、主に仕えて、そこに私たちの喜びと生き甲斐を覚えるものとしてくださるようお願いいたします。
二は新学生さんのうちにも、あなたがどうぞこれからも尊く導きを与え、そして良き学びと訓練を与えてくださって、またおつかわしくださるようにお願いいたします。
ただ今から今日の御言葉をいただきます。どうぞ全てを主がお導きくださるよう、この者をも憐れんで最後までお支えください。
委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
ある人が言いました。人生楽しまなきゃ生まれてきた意味がない。人生生まれてきたんだから楽しまなければ意味がないんだ。
この言葉は一つは単なる楽観主義者、そういう人が言う言葉でもあると思うんですね。人生楽しまなきゃ生まれてきた意味がないんだ。だから楽しみましょうよと。
しかしもう一つの意味は、あらゆる人生の辛酸を舐め尽くしたと言いましょうか。そういう人がたどり着いた結果としての言葉。人生楽しまなきゃ生まれてきた意味がないんだ。
もう自分はあらゆる苦しみと悩みと困難と試練を通ってきた。もう何度死のうと思ったかわからない。でも本当にそれでいいんだろうか。私が生まれてきた意味は、そして生きている意味はこんなんでいいんだろうか。いやそうじゃない。
神様が私たちをもし生まれさせ、そして命を与えてここに置いていただいているとするならば、そこには何か意味があって、そして私たちがこの生涯というものを謳歌する喜び、そして感謝し感動し楽しむ、そういうこともきっと与えていてくださるに違いないんだ。
27:11
そういうところに気づいた人の言葉。人生は楽しまなきゃ生まれてきた意味がないんだ。そう言ったわけですね。
私たちはこれから秋も深まってますます紅葉の美しい季節、ですから今からどこに行こうかな、今年はどこの紅葉を見に行こうかな、そういう楽しみを私たちは持っていいんです。そうしなければ私たちは生きてはいけないわけです。
ただ単なる楽観主義の言葉ではない。もちろん私たちは日々の生活、楽しいこと喜ばしいこと嬉しいことばかりではない。そんなことは百も承知です。だからこそ楽しまなければいけない。楽しむことを知っていなければならないんだということ、彼は言ったんだと思うんですね。
私たちの心というのを百%としましょうか。私たちはその心に二つの大きな部分を持っていると思うんですね。
一つは悩み苦しみ困難行き詰まり悲しみ、そういうものが私たちの心を占めている、そういうことがあります。それともう一つは喜び楽しみ感動感謝祝福、そういうものも私たちは心を占めているわけですね。
そういう私たちの限られた私たちの心、そういうものが苦しみ悲しみそして悩みでもう80%90%支配されているとき、もう自分はやっていけない、こんなことでは生きていても面白くないと思うわけですね。
しかしそれだけではない。私たちには喜ぶことも感謝することも楽しむことも知っています。そういう中で私たちはその比率をいつもどういうふうにしようか、あるいは今の自分はどうだろうか、そのせめぎ合いをいつもしている、これが現実ではないかなと思うんですね。
そしてもう100%苦しみ悲しみ困難行き詰まり悩みに支配されたとき、もう生きていく意欲もそして力も失ってしまう希望も失ってしまう、その中で多くの人が命を絶ってしまうという悲しい現実を見ることがあるわけですね。
でもそういう人々も決してそうじゃないんだ。人生はそんなものじゃないんだ。楽しめばいいんだ。私たちにはもっともっと喜び感動そして感謝することが満ち溢れているんだ。そこに気づいてほしい。そんなことを彼は語ったと思いますし、今日の見言葉もそんなことを言っておるんだと思うんです。
30:23
私たちの日々の悲しみ苦しみ困難、それを一番よく知っておられるのは神様です。神様は人間というものを一番よく御存じであります。人間というものがどういうものであるのか。そういう中でその人間に対してその人間が心配しやすいものだということもよく御存じであるわけです。
私たちにとって心配するということは大切だと思うんですね。何を食べようか何を飲もうか何を着ようか。それが人間なんです。しかしそういうもので私たちの限られた心を全部満たしてしまっていいんだろうか。神様はそのことを私たちに問いかけておられるわけですね。それは大切であろう。
もっと大切なものがあるのではないか。ここにありますように命は食べ物よりも大切なもの。体は着物よりも大切なものではありませんか。心配することも大事。しかしもっと大切なことがあるんだよと。
命も体もそして食べることも飲むことも着ることも、それらの源が全て神にある。それらは皆神から来るということに気づいたときに私たちは大切なもの、さらに大切なもの、いや最も大切なものを覚えてそこに目を向けていくということ。そのことを今日私たちに教えているわけです。
三十三節の言葉。だから神の国とその義徒をまず第一に求めなさい。そうすればそれに加えてこれらのものは全て与えられるであろう。私たちは生きている限りこの世で生きていく限りいろんなことを経験するわけです。
悩むことも苦しいことも試練も心配事も多くあるわけですけれども。しかしそれだけではないということを今日の御言葉は繰り返し繰り返し私たちに言っておるわけです。
例えば空の鳥を見なさい。空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。いわゆる花鳥風月。花や鳥や夜には月を見そして心地よい風を感じる。今日もここに美しい花が生けられていますけれども。
33:25
私たちは普段のさまざまなことに思い患って、そしてこういう花を見る、そういうこともしなくなった自分に気づくことがあります。
そして毎日の忙しさの中で私たちの心を占めているもの。それは心配事であり、そして悩み事であり、そしてどうしようか、あれはどうしようか、こうしようか。野相じゃない。
あるいは人間関係で、あの人はどう思うだろうか、この人はどう思うだろうか。私は誰それに対してどうだろうか。もうそんなことで頭がいっぱい、心がいっぱい。そういう中で鳥を見ることもしない。花を見ることも忘れている。海へ出かけていくこともなくなった。山に行って、そして自然を楽しむということもしなくなっている。
そういう自分に気づかされたときに、今日の御言葉は私たちに語っていてください。
空の鳥を見なさい。種まきもせず、刈り入れもせず、蔵に収めることもしません。けれども、あなた方の天の父がこれを養っていてくださるのです。あなた方は鳥よりももっと優れたものではありませんか。
私たちはいつも悩み、そして心配し、頭を抱え、眉間にシワを寄せて、ああどうしよう。それが人間。空の鳥を見なさい。鳥が頭を抱えて、明日からどうしようか。
人間どもは銀行の窓口に列を並んで、ATMのところに並んで通知を見ながら心配している。鳥が通知を見ながら心配している。そういうの見たことないですね。もうあっちに飛んで行き、こっちに飛んで行き、そっちでどこかで餌を得てきたのか、それを持ってきて、餌に帰っては非難に餌をやっている。
そういうことを見るときに、あれほど小さな鳥でさえも神様がその鳥を養っていてくださり、何も心配しないように鳥たちは今日も元気に空を飛び回っている。
人間は神様によって作られた。鳥よりももっと優れたものとして、神様がもっと愛すべきものとして作ってくださった。その人間たちが今日も心配事、悩み事で頭を抱えている。
36:02
そうであっていいんだろうか。いやそうじゃない。もっともっと楽しみなさい。喜びがある。感動を覚えなさい。そんなことを今日私たちに語っていてくださる。野の花を見なさい。野の花が今日は何色を着ようか。明日は何色にしようか。そんなことを心配している花なんてないわけです。
私たちがいくらこういう花の色を作って出そうとしても出せない。そういう色を神様がその花に色付けしてくださっている。本当にびっくりするようなそういう色鮮やかな花が咲いている。
あるいは熱帯魚もそうですね。あんな色をどうして着けているんだろうか。そんなことを思うときに決して魚自身が着けたのでもない。人が色付けしたのでもない。神様が天と地をそしてあらゆるものを作られたときにその色付けをなさった。
ソロモンが映画を極めたときでさえもこのような花の一つほどにも着飾っていなかった。それほどまでに神様は私たちの周りに美しいもの、そして感動するもの、そして私たちが恵みを覚えるものをいっぱい私たちの周りに備えていてくださる。
なのに私たちはどうして何を食べようか、何を着ようか、明日はどうしようか、これでいいんだろうかと悩み思い煩うのか。そんなことを心配するのはやめなさい。
神様は私に委ねよ、私に任せなさい。全てのものを私が作ったのだ。人間も私が作ったのだ。お前たちは置かれているこの地で、この地球で自然を謳歌しなさい。
あなたが見るもの、あなたが聞くもの、それらは全て良きものとして、そして私たちがそこに感動を覚える、そして恵みをいただく、そして喜びと、そして楽しむということを神様は助手としてくださって、そして生きる力を与えられ、そして出ていくことができる。
もちろん世にあっては私たちは多くの苦しみ、困難、そして悩み事、悲しみ事が起こりますし、そういうものは当然のごとくなくなるということはありません。そういうものは誰もが知っていることです。
ただ、それで全てを私たちが満たしてしまわないように、願わくは私たちの心を占めるものが、より多く喜びであり、感動であり、感謝であり、楽しむことであると、そう神様は願っておられるわけです。
39:10
それさえあれば、どんな悲しいこと、苦しいこと、困難にあっても、生きていく力が与えられるのだ。またやれる、そういう力が与えられる。
私たちがこうして教会に出会ったこと、教会に出会うということは神様に出会うということですね。御言葉に出会う、祈ることを教えられ、そして御言葉を通して神様の恵みをいただく。
そういうことを知ったということ、これも導きでありますが、その教会を通し、または交わりを通して、そこに喜びや感動や、あるいは楽しむということを教えられた。
お明かしにもありました。教会にもしつながっていないとするならば、私もそうです。いまだにこれでいいんだろうか。私はこれからどこどう生きていくんだろうか。ああでもない、こうでもない、そういう生き方をずっとしていたことでしょう。
しかし、神様との出会い、そして御言葉に触れて、あるいは教会を通してのたくさんの人との交わりを通して、自分は生きていてよかった、これでいいんだ、どんな困難があっても祈ることを教えられて、
そして御言葉を通してまた励ましをいただき、そこに集う皆さんと祈り合い、また励まし合い、支え合っていける。これがあるからこそ私たちはまた今日も明日も生きていくことができる。
慰められ、また励まされ。
イエス様との出会いがなかったらと思うとき、もう本当にゾッとします。
もし自分に救いが与えられていなかったとするならば、私の前に広がっているのはただ暗闇と滅びしかない。
でも今はそうじゃない。
イエス様を知って、神様を知って、そしてどんな時にも祈ることを教えられ、そして御言葉に真理があるんだ。
これさえあれば生きていける。
ましてや多くの人々が困っている、助けを求めている、そういう人にもこんなものでも何かの役に立てる。
その人たちに救いの手、助けの手を伸ばすことができる、その特権を与えられている。
こんなものをも神様は用いていてくださる。
42:00
ここに生きる喜びと、そしてやりがい、生きがいというものが私たちに与えられたわけですね。
これを私たちは生涯失うことのない、そういう力を神様は与えられている。
そう思うわけであります。御言葉は語ります。
だから神の国とその人をまず第一に求めなさい。そうすればそれに加えてこれらのものは全て与えられます。
私たちにはあれもこれも必要です、あれがないと困ります、これがないと困りますと私たちは祈るわけです。
しかしそんなものは全て神様は御存じである。
私たちはただただ祈りを通してそれを神様に委ねて、そしてそれを神様に申し上げさえすればいいのです。
神の国とその人をまず第一に求めなさい。なぜですか。
それはこれが最も大切なことだからです。
生きていく上でこれがなければ私たちは力が与えられない、希望もない。
だから神の国とその人をまず第一に求めなさい。そうすれば全て与えられます。
だから明日のための心配は無用です。
心配しやすい私たちの心を知っておられる主はこのように言われるわけです。
明日のための心配は無用です。
明日のことは明日が心配します。
労苦はその日その日に十分あります。
明日のための心配は無用です。
この言葉は単なる楽観主義者が言った言葉ではありません。
私たち人間がこの世で生きていく上で味わう苦しみ悲しみ困難試練そのすべてを味わわれた主イエス様のお言葉
その主がこのように言うわけです。
明日のための心配は無用です。
明日のことは明日が心配します。
労苦はその日その日に十分あります。
明日のことは神に委ねなさい。
あなた方の成すべきことは今日というこの一日この日を精一杯生きていきなさい。
この日に目にするものに感動を覚えなさい。
耳にするものに感動を覚え喜びを覚えそして接する人々に愛を与え
そしてまたその人から慰め励ましをいただきなさい。
45:02
そして与えられているすべてのものを謳歌しなさい。楽しみなさい。
そして喜び感謝して生きていきなさい。
今日を感謝しそして今日を精一杯この主に仕えていきなさい。
明日が来ればまた明日は明日でその日を精一杯生きていきなさい。
それが私たちが永遠に生きるということの秘訣であります。
今日は御言葉を通して主が私たちに喜びとそして感動と感謝とそして楽しむことを教えてくださっている。
そうでなければ私たちがこの世に生まれてきた意味がないのだ。
そうしなければ私たちにやがて来るであろう今抱えているであろう困難
苦しみそれは乗り切ることはできないんだ。
しかしそれがすべてではない。
空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。
心地よい風を感じなさい。夜空の月を見なさい。
そして今日も生きていてよかった。
そして静かに感謝をもってこの一日を閉じる。
そういう毎日でありますようにお祈りいたします。
空の鳥を見なさい。野の花を見なさい。
神の国とその人をまず第一に求めなさい。
明日のための心配は無用です。
明日のことは明日が心配します。
天の神様ありがとうございます。
イエス・キリストが語ってくださったお言葉をもう一度
今日改めて覚えたことであります。
私たちが何のために生まれまた何のために生きているのか
そのことを今日も覚えることができてありがとうございます。
神様は私たちに楽しむことを覚えさせ
また生きることのその生き甲斐を与え
そしてお互いが支え合い励まし合って
この与えられた生涯を精一杯生きていくことができるように
してくださっていることを感謝をいたします。
天地創造の神、生きたもうまことの神
そして恵みの神を今日もまた私たちの神として
神としてあがめて賛美礼拝を捧げて
そしてまた力をいただき恵みに満たされ
ここからお使わしくださるよう
委ねて主キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン
48:04

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