1. 名谷教会
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2021-12-26 35:14

2021/12/26: おまけの人生

2021/12/26 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨブ記 -22

00:00
みなさん、おはようございます。
こうして、今年の最後の礼拝を、本当に一年間の種の恵み、憐れみ、愛、許しによって、教会が、また皆さんお一人お一人が支えられて守られまして、ここまで来れて、また今日も変わることなく、恵みによって一緒に礼拝できますこと、本当に
主に感謝をいたします。
先週はですね、クリスマス礼拝になりましたが、大勢の方々がお見えになりました。
どうか来られた方々の中で、未信者や救助者の方も十数名いらっしゃいましたけれども、その方々一人一人がですね、本当にキリストによって、キリストにあって、誠の神様に出会いますように。
救われますように、心からお祈りし、またみんなでですね、心を合わせて祈ってまいりたいと願っております。
この1年間も、皆さんお一人お一人が、見えるところで見えないところで、主のため、教会のため、兄弟姉妹のためにご奉仕下さったことを、本当に皆さんお一人お一人に心から感謝のお礼を申し上げます。
本当に皆さん1年間ありがとうございました。お疲れ様でした。本当に感謝をいたします。
それから、明日から2週間、年末年始は平日集会は9回となります。皆さんどうぞ、礼に行くともに、安息の時をおゆっくりお待ちくださればと思っております。
今日の説教タイトルは、ちょっと変わったタイトルですね。おまけの人生。
おまけという言葉の意味をですね、ちょっと調べてみました。
いろいろ意味がありますけれども、こういう意味がありますね。
おまけ、元の値打ちのほかに、ただで付け加えること、またそのものとあります。
確かに皆さんご存じの通りだと思います。
その中でですね、いろいろ調べている中で、不思議にですね、英語の意味は、確かにそこにキリスト教の文化の背景があるからだろうと思うんですが、
英語の意味でおまけと、ある本で読んだ部分ですが、こういう意味があるそうです。
天から与えられた時間、または神から借りた時間と書かれているんです。不思議でしょう。日本語と全然違う意味があるんです。
03:14
天から与えられた時間、または神からお借りした時間という意味が、このおまけというね、バロードタイムといいますが、そこに書かれていました。
これを聖書的に言い換えることができるならば、こういうふうに言えるんじゃないかと思います。
それは、私たちの値打ちよりもっと多くのもの、尊いものを、人生の主である神様が、ただで付け加え、預けてくださったもの。
私たちの値打ちよりもっと多く尊いものを、人生の主である神様が、ただで付け加え、預けてくださったものと言えるのではないでしょうか。
先月、名古屋のGTC協会の礼拝の方針に生かしていただきました。そこで、とても心温まる一つのお話を聞きました。
今日のメッセージにつながる良いお若しさだと思うのですが、その協会の車がかなり古くなって、買い替えしないといけないというところだったそうです。
そんな中で、ちょうどその協会のある若い夫婦の神戸さんから、40万円の車購入の指定献金がとんと捧げられたそうです。
大きな金額でしょう、40万円。少なくないと。でも、もっと驚いたことがありました。
その先生から聞いたことですが、その献金を捧げた方は、若い夫婦の神戸で子供が生まれたんですね。
今、日本は出産日が低いから、いろんな市や県から子供が生まれたら、いわゆる出産お祝い金をもらえる。
そうなんです。もらっていないからわかりませんけど、もらえるのはそうなんですよ。神戸市もくれるんですかね。
わかりませんか、皆さん。周りにいないですか、皆さんのお母さんとかね。
06:00
名古屋市は、なんと40万円をくれるそうなんですよ。
その夫婦は、そこから1円も取らず、そのまま神のために、教会のために捧げたそうなんです。
ところがですね、その話を聞いたら、その夫婦はその先生にこう言ったそうです。
先生、もうこの40万円はそもそも宇宙のものじゃない。そもそもなかったものなんだ。
だから、そのまま神様にお捧げしますということだったんです。
皆さん、素晴らしくありませんか。なんと素晴らしいでしょう。
その若い夫婦は、その考えや信仰にはですね、全ては主のものだ。もともと自分のものは一つもない。
これも、もともとその通りですね、自分のものじゃない。
全ては神様から預けられたものなんだから、全て主にお返しします。
のような信仰があったからだろうと思いました。
この話を聞いてですね、その時もう自分のことのようにですね、私は心が本当に温かくなりました。
私のことですけれども、今年1月、肺がん4期診断されて、その時はこれからどれくらい生きることができるんだろうとかですね、
もしかしたら神様に早く呼ばれるかもしれないとも思いました。
そんな中で、この1年を振り返ってみたら、時には穏やかに、時には健やかに、時にはあややく牛ゴリを、その上を歩くような時間もありました。
そんな中でも主に支えられて、本当に入院期間を除いては、毎週のこの聖日礼拝、この講談に立たせていただいて、説教をお取り継ぎことはできました。
そしてこのように、あと1か月経つとですね、もう1年を生きているということになりました。
私は本当に奇跡だと信じております。
その背後には、この小さな足りない僕氏の癒しのために、涙をもって本当に祈ってくださっている、愛する兄弟姉妹皆さんがおられるからだと、そういうふうに思っております。
09:02
そしてこの1年を生きてきて、歩んできまして、多くのことを主から教えていただきました。
命というものは、もともと私のものではない。
すべては主のものであり、おまけなのだ。
神様が肌で付け加えたから今ある。
だから私のものは一つもない。
ことにこの1年、この病気を通して、魂深くに焼き付けられました。
皆さんには、2021年はどのような1年だったでしょうか。
いろんなことが終わりだったなと思いますね。
そんな中で、私たちの心がさらに主に向けられて、信仰が一歩でも成長して、一歩でも主に近づいて、一歩、二歩、神を愛するように変えられたら、それでうれしいことではないでしょうか。
ここで、今日の聖書箇所の呼ぶのことについて触れたいと思います。
聖書の人物呼ぶは、とてもいい信仰を持っていたものでした。
ところが、突然起きてしまった苦難から、彼はこういうことを悟り語っていました。
それが今日の聖書箇所です。
もう一度、1章の21節だけを一緒に読みましょうか。
前の字幕、あるいは聖書を開いていただきまして、一緒に、小さな声でもいいですから、一緒に読みたいと思います。
そして、言った。私は裸で母の体から出てきた。また裸で賢に帰ろう。主は与え、主は取られる。主の皆は法務べきかな。あえん。
呼ぶは、この苦難があるまでには、こんな信仰が全くなかったわけではないと思うんですね。
神様も彼の信仰を、サタンの前で褒めてくださるくらいでしたから。
呼ぶは、普段もこのような信仰を持っていましたけれども、その信仰が、彼の突然起きた苦難を通して、さらに深く、そして鮮やかになっただろうと思われました。
12:15
主は与え、主は取られる。主は与え、主は取られる。
これを私たちは、頭ではわかっていても、知識的には、言葉としてわかっていても、実際に常に深く鮮やかにこれを考えながら生きているんだろうか。
あるいは、本当に実践しているだろうか。この通り生きているだろうか、などが問われるところではないでしょうか。
ところが皆さん、この世の中の家庭とか社会とか、骨格間の中で起きる様々な事件、事故がありますけれども、
特に人々の心の根底をそこを覗いてみたら、多くの場合にそこに、これは俺のものだ、これは私のものだ、のような、いわゆる主流圏を巡る争いがそこにあるからではないでしょうか。
金銭や土地のトラブル、あるいは遺産相続を巡る揉め事や争い、権力争い、主導権争いなどなど。
そして、これから来る妬みとか怒りとか、もっと恐ろしいこともあったりしますけれども、皆さん、
私たちみんなが、今日のこの呼ぶの告白のように、私は裸で母の体から出てきた、また裸で貸子に帰ろう、主は与え主は取られると言いながら生きていけば、
この世界は、かては本当に美しい世界になるのではないでしょうか。
今日のテーマから、信仰とは何なのか、照らして言えるならば、信仰は、信仰、成熟、成長とは、
いわゆる自己所有権を放棄して、神の所有権を認めることだと話したいです。
15:06
自己所有権を放棄する、そして神の所有権を認めること。
実際に皆さん、子供が小さい時は、自分のことしかわからないんです。
何かおこつかいが入ったら、親のことを考えるよりは、自分のために物を買ったり、食べ物を買ったり、食べたりするんです。
しかし、成長するにつれて、親のことを考え、周りの人のことが見えたりして気づかうように、そういうふうに変わるんですね。
それが成長した証拠だと思うんです。
信仰成長は、まさにここにあると思うんです。
私たちもみんな、信じて間もない時は、信仰的に、子供の時は、自分のものは自分のものだ。
私が頑張って手にしたんだ、自分の努力の結果だ、私が得たものだ、そういう意識が残っているんです。
だから、信仰的に幼い頃は、分け与えることとか、施すこととか、神様に捧げることなどに対して迷ったりするんですね。
したくない気持ちはないんでしょうけれども、だからといって思い切りにすることができるかといったら、そうでもない場合もあります。
まだ信仰的に子供だからでしょう。
まだ、いわゆる自己主義権をギューと握っているからですし、予防の極悪にまではまだ成長していないからだと思います。
しかしどうですか。人が私のように、あるいは他のいろんな苦難を経て、あるいは徐々に信仰が成長して、予防の極悪に成長して、信仰的に大人になったら変わるんですね。
ギューと握っていたもの、手の力が抜いて、自然に喜んで進んで分け与えることも、施すことも、捧げることも、自分のものは自分のものではない。
もう全て本当に神様のものなんだ。もともと私のものは一つもないんだと、そういうふうに不思議に変えられるんです。
皆さん、それも成長の多くの印の中の一つなんですね。
18:02
喜んで分け与えることができる、喜んで施したり捧げたりすることができるということ、そこには神以外のものを神としない信仰があるんです。
例えばお金とか権力とかなんかのものを神の位置に置かないんです。
だから神様のその他には自分にとってはもう大事なものではないから、いくらでも分け与える、いくらでも捧げることが、いくらでも施すことができるように変えられることが、
成果であり信仰成熟の印の一つなんです。
だから皆さん、本当に成熟したクリスチャン、清められたクリスチャンの証の一つは、
全ては主のものだと、自己主張をしない人に変えられたということなんです。
皆さんいかがでしょうか。
この面において、皆さんこの1年間は清められて成熟されたでしょうか。
さらにさらに自己主張をしない、そういうクリスチャンに変えられてきたんでしょうか。
これを実践して生きる私たちでありたいと願います。
先週ですね、不思議で嬉しいことが一つありました。
水曜日でしたけれども、ある韓国人の牧師先生が教会に午後に訪ねてくださったんですね。
私はもう全く初めてお会いした先生でした。
この先生は日本に来て20年ぐらいになっていらっしゃるそうですけれども、
最初大阪に行って、そしてその後は姫路で数年間牧会をしておられて、
その時に私の派遣協会の水曜の協会が、コロナが2020年、2019年までにそこまで3年間ですね、
この関西にですね、30代の青年たちが、5チーム、6チーム、選挙チームがいろんな協会に行ってですね、
選挙活動をさせてもらったんですね。
その一つのチームが水曜日に明太に教会に来られた、その先生の姫路教会に3年連続で行って、一緒に奉仕をしたそうなんです。
そして姫路の教会は開拓教会でしたから、大きな励みになって、その先生もとても信徒さんも喜んでいたそうなんです。
21:00
その縁があった中でですね、この先生はいろいろ事情があって、新神戸近くの2年前ですね、そこに開拓をして、今牧会をしているんですけれども、
その教会は思い切り施しをしましょう、分け与えましょう、それを実践していて、
毎月信者であろうが信者でなかろうが、何かのいわゆる救済活動をし続けているそうなんですね、開拓の始めから。
その中でその先生は私のこと全然知らなかったんですが、この今年の10月に韓国に帰った時に、
その短期選挙チームを送ってくださった先生にお会いしに、武山に行ったそうなんですね。
それでその副牧師に出会った時に、その副牧師が私のこともあるいは病気のことも知っていて、私のことをちらっと言ったそうなんです。
そしてこの先生が帰ってきて、私のことがとても気になってですね、
韓国の選挙士が神戸に来て、牧会をしているんだけれども、もう肺がんで苦しんでいるみたい、何かしてあげたいみたいな気持ちがあったそうなんです。
それでですね、なんとその教会の神戸さんに私のことを言ったそうなんです。全然知らないんですよ、もちろん。
私もその教会を知らないし、その教会の神戸さんも私のことを全然知らない。
そんなことがあったのかも私は知らなかった。
ところがですね、その教会の神戸さんは全然知らない教会の副牧師のために、もう献金をですね、捧げてくださって、
その先生が水曜日にお米10キロ入りを、10個、100キロですよ、それを車に乗せて持ってきてくださったんです。
あまり驚かないんですね。
大体、私の感触で9年、すごいことを言っても大体驚かれない。
皆さんお家になって、はーっと驚かれるのかもしれませんけど、100キロ持ってきてくださった。
初めてなんですよ。私のこともないんですよ。
しかもその教会は私のことを全然知らない教会なのに、大したことではなかろうと思うんですね。
でもこのお金はですね、周りの生活に厳しい方々に、もう全部お渡ししたいと、そういうふうに思っております。
皆さん、私が申し上げたいことは、私の持ち物、全ては種のものです、という信仰にいきたいんです。
そういうふうに私たちが生きている時に、そこに本当の平和や愛や乳和、謙遜の花が満開するんじゃないでしょうか、皆さん。
24:14
このような信仰に生きており、これを神様の前に告白して歩んでいきたいんです。
聖書の人物の中に、まさにその通りに生きていて、告白していた人がいました。
彼はダビデです。
ダビデはですね、もう神様のために宮、神殿を建てたいという夢を持って、祈りを持っていたんですね。
ダビデはですね、本当にイスラエルにそれを布告して、そして死のために神殿を建築しましょうと。
イスラエルの人々は、多くのものを、もう数え切れないほどの捧げ物を捧げたんです。
そしてダビデは、それに対して神様に感謝の祈りを捧げる際に、このように言っていました。
そこをですね、一緒に開いてみたいと思います。
旧約聖書の歴代史第一、29章の14節。
新しい聖書では、753ページです。
聖書をお持ちの方は開いていただきまして、
歴代史第一、29の14節、753ページです。
では、よろしければ一緒にですね、読みたいと思います。
このように、自ら進んで捧げる力を持っているとしても、私は何者なのでしょう。
私の民は何者なのでしょう。
全てはあなたから出たのであり、私たちは見てから出たものを、あなたに捧げたにすぎません。
アーメン。
ここにですね、多くのものは捧げられました。
そしてダビデはですね、それを主の前に持ってきまして、ここにですね、
全てはあなたから出たのであり、私たちは見てから出たものを、あなたに捧げたにすぎません。
この告白に生きる我々でありたいんです。
いつもこのように告白しながら歩んでいきたいんですね。
そうすると、夫婦の間に、家庭に、社会に、本当に平和になるんじゃないですか、皆さん。
27:10
なんと素晴らしい信仰でしょう。
本当に見習いですし、このように生きていきたいと願っております。
私自身まさにこの言葉を実感した一年でした。
自分の命も健康も病気も家族も子供も、あるいはこの仕事も持ち物も賜物も、人生のすべては神様からただで預けられたもの。
主から与えられていないものは一つもないということを、本当にとても深く深く心に焼き付けられた一年でした。
それですね、今日のタイトルがおまけの人生になったわけですけれども、そう申し上げたいんです。
つまらない、くだらない、そういう意味ではありません。
尊いものを主から預けられた、しかしそれは自分のものではない。
すべて主のものであるということなんです。
私たちのことだけではないと思います。
私たちをこの地に生まれさせたのも主であり、生きる命を許したのも主であり、私たちに昨日があり今日があり明日があるのも主の許しのためであり、
お仕事やあるいは収入や働ける能力があるのも主の許しのためではないでしょうか。
本当にこれをいつもいつも心に深く留めて生きていきたいです。
また皆さん、これは深く掘り下げていくならば、とても聖書的な悟りだと思いました。
もう一箇所、新約の聖書を一緒に開きたいと思うんですが、エペソービトエの手紙第2章、1節と2節を開きましょう。
エペソービトエの手紙第2章、1節と2節、新約聖書の385ページです。
エペソービトエの手紙第2章、1節と2節、新約聖書の385ページです。
30:03
私がお読みしますのでご覧ください。
さて、あなた方は自分の背きと罪の中に死んでいたものであり、
かつてはそれらの罪の中にあって、この世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、
すなわち不従順の子らの中に、今も働いている例に従って歩んでいました。
皆さん、私たちはかつてはどのようなものだったのでしょうか。
自分の背きと罪の中に死んでいたものでした。生きていません。
だから皆さん、死んだものに持ち物なんて何もないんじゃないですか。
死んだものにあるとしたら、それは死だけなんです。
そんな死んでいた私、持ち物は何もなかった私を、主は哀れみ愛してくださって、
命を与えてくださり、光をお与えになったんですよ。
だから私たちの人生は、清少的に言ってもおまけなんです。
もともと死んでいたんだから、持ち物は何もなかったからなんです。
そんな私たちを今まで、私だったら52年、皆さんだったら60年、70年、80年以上、
主がただであふれるほど与えて、与えて、与えてくださったんです。
それで今の私たちがあるのではないでしょうか。その進行に歩んでいきたいんですね。
今日、今年の最後の成立礼拝になりますが、来年度、我が家は明太に教会を離れることになります。
それを思うたんびに、とても寂しくなります。
そう思うと、何事も最後だろうな、最後だろうと思って、余計に寂しくなりますね。
あと1年後、私と妻が無駄に教会に帰ってくれるかどうかは、神様だけがご存知でしょう。
私の病気がどうなるかもわかりませんし、あるいは教会は、教団や日本の状況がどういうふうに1年後に変わるかわからないところでありますので、
33:11
主に委ねつつ、一歩一歩、信頼しながら歩んでいきたいと、そういうふうに願っております。
何より、教会はイエス・キリストの体である。その頭はイエス・キリストお一人だけである。
そして、イエス・キリスト様がご自分の体なる教会を守り、納め、支え、導いてくださると、私たちは信じて、委ねつつ歩んでいきたいと願っております。
今年の最後の聖実礼拝を捧げる皆さんにお願い申し上げます。
どうか主が預けてくださったすべてのものを、自己主張せずに、主のため、御国のため、主の体なる教会のため、愛する兄弟姉妹のため、隣人のためにお持ちください。
私が小さい時に教会役をよく歌っていた韓国の子供賛美がありました。
歌詞を一部訳すると、握りしめたら消え、分け与えたら豊かになる。握りしめたら消える、しかし分け与えたら豊かになる。
まさに、予布の告白。私は裸で母の体から出てきた。また裸で賢に帰ろう。主は与え、主は取られる。主の皆は保護べきかな。
この告白が私たちの告白であり、これからの信仰の告白でありますように、お祈り申し上げます。お祈りしましょう。
35:14

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