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2022-01-02 53:14

2022/01/02:創世記(38)本当の花婿

2022/01/02 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 -35


00:02
みなさん、新年あけましておめでとうございます。
今日も多くの方が、このように一緒に集まっていただいて礼拝できますこと、本当に感謝いたします。
久しぶりの方、遠くからのお目になったご家族の皆さん、本当に感謝いたします。
今日はまた、説教の後は、久しぶりになりますが、生産式が行われます。
一緒に最後まで師匠を礼拝して、また生産の恵みにも共に預かりたいと思います。
今日は、大体1ヶ月ぶりですが、創世記の聖書本部に戻ってきました。
38回目であります。29章まで来ております。
今日は、本当の花婿というタイトルでございます。
どうしても、このヤコブの話とラクヘルの話を結びつけて、話を進めていきたいと思います。
最後まで、主の御声に耳を傾けて配属していただけたらというふうに願っております。
最初に色々な物語が出てきましたが、
愛を追い求める、あまり奴隷のようになってしまった人物の話がありました。
それが、この創世記29章のヤコブとレアの物語です。
昔の話でありますが、本当にこれほど現代に当てはまるものはなかろうと思うくらいです。
今の時代は、愛、恋という感情そのものが、まさか神になりかわることができるようになっているような気がします。
飲まれて、すべての幸せの源を、その愛、恋に、あるいはその相手に見出そうとしている時代ではあろうと思います。
創世記の話を少し29章から遡ってお話をしますと、
アブラハムはイサクの父親でした。
数年後、イサクの妻リベカは双子を身ごもって、神様は予言を通してこう言われました。
03:00
兄が弟に仕える、つまり双子の弟がやがて現れる、救い主につながる家系を継承するものとして選ばれたということでした。
しかし、そういう予言があったにもかかわらず、父イサクは長男のエサウを次男ヤコブよりも偏愛しました。
この父親イサクの偏愛によって、エサウは高慢で甘やかされて、我が強くて衝動的な面を持って育ちました。
またそれはヤコブを斜めに構えて、兄を恨む面を助長したと思いました。
年が減って、イサクは年をとって一族の後継者に祝福を与えるという習慣がありますが、
その時期になって、それを神様の予言に反して長男のエサウに与えようとしたんですね。
しかしヤコブは変装して、兄エサウになりせまして、ほとんど目が見えなくなった父の元に行って、
僕がエサウですと思い込ませて、父からの祝福を受けたということになります。
それで兄エサウはそれを知った時、ヤコブを殺すと誓って、そこからヤコブの一生を懸けたあらのでの逃避が始まったということです。
もはや取り返しもつかないようなヤコブの人生でした。
家族や財産を失いました。
養子に再会することもできませんでした。
しかたなくヤコブは母方の親戚を頼って、そこでなんとか生き延びようとしたんです。
幸いに親戚の叔父ラバンですが、そこでヤコブは受け入れられました。
そこで叔父ラバンは執事会としてヤコブを雇い入れたんですね。
ところがよく見たらヤコブが管理者としてなかなか有能なんですね。
それで彼にほとんどの管理の仕事も任せるようになりました。
そしてその時に叔父ラバンはヤコブにこう言いました。
06:05
お前は保守として何が欲しいか。
としたらヤコブは即答しました。
ラケルをくださいということでした。
ラケルはラバンの事情ですね。
長女はレア、事情がラケルです。
ところが面白いところはですね。
今日読んでないですが、荘石二十九章の十七節を見ると、
聖書のお持ちの方はご覧くださったらいいかなと思いますけど、
そこに他の聖書人物の様子姿を描写している箇所はそんなに多くないと思いますけれども、
この十七節にはこう書かれています。
レアは目が弱々しかったが、ラケルは姿も美しく顔立ちも美しかったと書かれています。
ヤコブは一目惚れしてラケルを見てすっかり魅了されて、それ以上だったのかもしれません。
中回想を読みましたら、ヤコブがラケルに対する恋愛感情にどれだけ酔って圧倒されていたかという証拠のような箇所が聖書本文に多く見受けられるそうです。
ヤコブは彼女をラケルを妻にしたくて、7年間の労働を約束しました。
調べてみたら、この7年間の賃金を思ったら、これは当時の花嫁一人に対するその代としたら、とんでもなく高い金額になるそうです。
しかし、ヤコブはその7年間の労働をほんの数日のように溺れたとあるのです。それほどラケルに対する恋に溺れていたのです。
そしてヤコブは7年間の労働をして、ラバに言いました。
私の妻をください。期間も満了したのですから、私は彼女のところに入りたいです。
この記事は、感情的にも性的にも満たされず、女性を恋した思いでいっぱいの一人の男性を鮮やかに描いているとある宗会書に書かれていました。
09:08
その通りだなと思いました。なぜでしょうか。
ヤコブは彼の人生はこの時点である意味でもう空っぽでした。
父から愛されず、母からは遠く離れていました。
当然、神様の愛と憐れみを感じることすらなかなかできなかったことでしょう。
ちょうどその時に、今までに会ったことも見たこともない、美貌の超美人の女性に出会ったのです。
それで思わず心の中でヤコブはきっとこう思ったことでしょう。
だけど彼女さえ僕のものになったら、惨めだった僕の人生がやっとまともになれる。
僕のものさえいれば全てが解決するんだと自分に言い聞かせたことでしょう。
生きる意味や認められることを追い求める彼の心は、この女性ラケルに解決を見出したとてっきり思ったのです。
皆さん、今の時代の多くのミュージックやアートや映画やドラマほどにその中に愛や恋を描いているものをよく見たらですね、
その背後に根底に現代社会が発信しているメッセージがあると思うんです。
それは人生の意味をその愛とかロマンスとかに任せようということです。
たった一人の本当にあなたが本当に心から愛せる人を見つけたら、あなたはもう自分の全てが解決できますよという、実は幻想を抱き続けさせているんです。
そのメッセージを音楽とかドラマとか映画が実は発信しているんです。
それを見分ける、識別できる目を持ってほしいんです。
実はヤコブが今そうだったんですね。
12:00
しかしどうですか?皆さん、その期待と望みが頂点に達した時に、その愛の対象、それが恋人であろうが旦那あるいは奥さん、あるいは親から子供ね、
その愛の対象が神様になるんです。
つまりそれは心の偶像、偽りの神になるということなんです。
ヤコブの話に戻りましょう。
ヤコブの心の空虚さは、恋愛という偶像に溺れるのに十分でした。
ラケルのために7年間無償で働くと申し出たのですが、これは当時の、さっき申しましたように通常の腰入れ料の4倍近くの高い金額だったそうです。
こうして悪賢いラバンは、この青年がどれほど恋に目が眩んでいるかを目の当たりにして、またこんなチャンスを見逃す手はないと利用してしまったんです。
それですね、ヤコブがラケルと結婚させてくれと言った時、ラバンはわざと曖昧な答えを実は出したんです。
よし、約束だとはっきり言ったわけではないんです。
ただですね、ラバンはこう答えたんですね。
娘を他人にやるよりはあなたにあげる方がよいとだけ言ったんです。
ヤコブが聞きたかった答えのはいではなかったんですね。
ラバンが言った意味はですね、こうでしょう。
君がラケルと結婚する?悪くないね。そんな感じなんです。
7年が経ちました。ヤコブはラバンにこう言いました。
さあ、約束の期間がもう終了しました。
おじさん、私の妻をください。
それでですね、もう盛大な結婚のお祝いの宿縁が持たれました。
宿縁の最中、ラバンはヤコブにですね、このベールを身にまとった娘を連れてきました。
すでに相当酔っていたことでしょう、ヤコブは。
で、彼女と一夜を共にしました。
しかし朝になってみると、それはレアでした。
朝の明るい光の中でヤコブは、前の晩、結婚主夜を過ごした相手が、地味な様子のラケルの姉、レアだったことにやっと近づきました。
15:17
それでですね、ヤコブはもう怒りに打ち震えて、ラバンの元に行って、こう言ったんです。
おじさん、一体どういうことですか。
ラバンは涼しい顔で、当地では長女を一番にぽつかせるのが習わしだと答えました。
そしてヤコブは、もう七年働くなら、ラケルもぽつかせていいよと提案しました。
騙され傷ついたヤコブは、それでもラケルを妻とするために、また七年間無償で働きました。
皆さんよく考えてみてください。
なぜヤコブはここまで騙されやすかったのでしょうか。不思議だと思いませんか。
しかしヤコブのこの行動は、まさにある種の依存症患者のようなんです。
ロマンチックな恋愛関係がどらくのように、現実逃避として人生に現れたのです。
内面に感じる恐れや不毛が、まるで恋愛を麻酔薬のように、自分を一時の糖水に浸らせたということなんです。
そして依存症患者はいつも愚かで破壊的な選択をしてしまうように、ヤコブもそのような選択をしたということなんです。
それがヤコブに起きてしまったんですね。
だから皆さん、ヤコブにとってラケルは単に妻だっただけではなく、まるで救世主だったんです。もうメシアだった。
あまりにもラケルを欲しがったので、聞きたい見たいと彼が思うものしか耳に目に入りませんでした。
それですね、ヤコブはラバンのごまかしにすっかり騙されたんですね。
ヤコブのラケルを対象として、この偶像礼拝はその子孫に福をもたらすことになりました。
というのもヤコブは礼拝よりラケルによって得た息子を出来合いし、他の子供たちの反感を買ってしまって、家庭に災いを与えてしまったんですね。
18:09
それが後のヨセフと兄弟の物語なんです。
皆さん、このような偶像がヤコブの人生をどれくらい破壊したか見てきたんですけれども、
実は皆さん、この中で最も被害を受けたのは他ではなくレアではないでしょう。
おそらくですね、姉妹の方々はこのレアの境遇にとても共感できるだろうと思うんですね。
彼女は自分が頂上だったということ以外に、彼女についてもう一つの大切な特徴が記されています。
さっきも読んだ箇所ですが、17冊ですね。
レアは目が弱々しかったがとあります。
これはですね、いろいろ調べてみたところ、その通り視力が悪かったのだろうという見方もありますけれども、
このレアは目が弱々しかったが、ラケルは姿も美しく顔立ちも美しかったとありますから、
これを対照的に見ると、ある学者はですね、おそらくレアは写真だったか、
あるいは何かの意味で見劣りがする女性だっただろうというふうに解説していました。
要するにですね、もうはっきりしているのは、レアは取り立てて美しくなく、
その人生は今まで、もうはっとするほど美人の妹の影に隠れて生きてこなければならなかったということなんです。
つまり、お父さんの裏番から見ればですね、
そんな彼女と結婚したいと申し込み、腰入れ料を支払ってくれる男などいないとさえ思っていたのだというふうに思います。
しかしですね、その代わりに事情のラケルは、とても美しい女性だから、かなりの腹入れ料を見込めることがあるんですね。
だから事情のラケルを結婚させる前に、まず何とかして、どうしてもレアを突かせなければならなかったんですね。
処理という言葉を使ったらちょっとまずいですけどね。
この長女をレアを何とか突かせなければならないと頭を抱えて悩ませていたと思うんです。
21:06
そんなときにヤコブが現れてきてくれたということなんです。
もうこれはチャンスだと思ってですね、おじい裏番は飛びついたんです。
しかしレアにとってですね、レアの立場から考えてきました。
レアにとってこれがどんなことを意味したか考えてみてください。
父親にさえも認められなかったレア、今度は求められなかったヤコブの妻になったんです。
父からも夫になったヤコブからも愛されなかった。
求められなかった、もう認められなかった女性がレアなんです。
それで聖書ですね、ヤコブはレアよりも実はダケルを愛していたと書いてあります。
文字通りレアは誰からも欲しがってもらわなかった娘だったんです。
だから皆さん、レアにはその時点でヤコブの心にあるのと同じくらい大きくポッカリと開いた穴があったことです。
しかし今や彼女ですね、ダケルはヤコブと同じようにその心の穴を埋めるために必死になっていくんです。
それはヤコブがダケルにイサクが餌をにしたのと同じことです。
レアはヤコブの愛を勝ち取る、それだけが彼女の全てになりました。
だから今日の31節から35節のこの歌詞はですね、実は聖書の中でも最も哀れな響きを感じさせる節のうちの一つだと思います。
彼女は何をしようとしていたんでしょうか。
伝統的な家族間の中で自分の幸せとかアイデンティティ、母親としての自分の立場と言いましょうか、持ち場。
それを子供、息子、あるいは夫の愛、そこから見出そうとしていたんです。
ことにですね、この宗席から見てきたように、当時の社会の中ではこの男の子を産むことは必修でした。
24:03
しかしどうですか、それもうまくいきませんでした。
レアは、彼女は全ての望みと夢をその夫ヤコブにかけていたんです。
自分の全ての望み、夢は夫の愛を勝ち取る、そして男の子を産む、そこに全部かけてしまったんです。
それはこういうふうに言い換えると思うんですよ。
子供、そして男の子を産みさえすれば、夫は私を愛してくれるだろう。
そうしたらやっとこの不幸な私が報われると思ったんですね、レアは。
でも一人また一人と産むたびに、彼女の孤独はさらに深まっていきました。
来る日も来る日も彼女は、死体を求める男性が違う女性の腕に抱かれるという事実をもう突きつけられていました。
しかも長年の間、妹の影に隠れて生きてこなけれなかった彼女。
おそらくレアは毎日、その毎日が彼女にとっては心にナイフで突き刺されるような日々だったでしょう。
ところが皆さん、ここで一点知っていただきたいことがありますけれども、
私たちが聖書を読む時、あるいは説教を聞く時に気をつけてほしいことがありますが、
大抵の場合、私たちが聖書を一つ一つ、いろんなヤコブの話とかノアの話とかいろんな物語がありますけれども、
それを全部切ってですね、何かの切り離された童話みたいに、昔話、お話として読んでしまって、
あるいはそこで何かの教訓、あるいは模範とか、そういったものを取りたくなるんですね。読みたくなるんです。
しかし、それは聖書全体、旧約、新約、聖書全体、あるいは旧祭祀のこの流れから見れば、ちょっとずれていると思うんです。
それは、聖書はですね、実は一つの壮大な物語を描いています。
どのように人間が今のような状態に陥ったのか。
神様がイエス・キリストを通してこの世界に現れ、将来すべてを正しくするために戻ってくるという内容の物語なんです。
27:02
その中の一部として、今日のヤコブとかレアの話が出てくるということなんです。
だから皆さん、聖書はですね、何かの道徳、モラルの模範者として、聖書が、あるいは神様がトップに立ってですね、
あるいはアブラムみたいな、ダビデみたいな素晴らしい人物が上に立ってですね、
皆さん、力をもう振り絞って、一生懸命頑張って、正しく生きろ。そうすればここまで登ってこれるよ。
そういうふうに、頑張りなさいと叫ぶような物語ではないんです。
逆に、聖書は繰り返し、神様の恵みに値しない、また恵みを求めもせず、恵みが与えられても、なお感謝もしない弱い人間を指し示し続けます。
そのような一つ一つの個人的な物語から見られる聖書のメッセージの数々が連なる壮大なアーチのようなものが、実は聖書の主なメッセージなんです。
では、そこから何を学べるでしょうか。
それは、どのような人生にも共通して、その根底に無限の失望が見られるということです。
ヤコブにも、レアにも、これを理解しなければ、人生を懸命に生き抜くことはできないと思います。
ラケルはこう言いました。ヤコブはこう言いました。
ラケルさえ僕のものになれば、すべてが良くなる。
皆さん、ラケル女性だけなく、今の時代、私たちは何か人であったり、何か物であったり、見えない成功とか、出世とか、お金とか、名誉とか、あるいは健康とか、
これさえ私のものになれば、すべてが良くなる。その思い。実はそれが神になる。そしてそれが偶像になるということなんです。
人に認められたい。褒めてもらいたい。他の人のようになりたい。その欲望。
それも、そういったものさえ私のものになれば、すべてが良くなる。私はこの病気からもう出て行ける。その感情さえも、実は偶像になり得るということなんです。
30:08
ある仲介者は、この古墳のストーリーから、こういうふうに説明していました。まるで、エデンのその追放以来の、我々の幻想の菊図を見ているかのようだ。どういうことでしょうか。
実はですね、私たちがどれだけの希望を持ったとしても、浅になってみたら、それはいつでもレアであり、ラケルではないという事実を指し示しているんです。
これさえあればと思っていたら、それを持っていたとしてもね、頂点に達していても、浅になったら、ラケルではなく、レアなんです。
もし私たちが、ヤコボのように心からの願いと希望を、結婚相手に期待するような結婚をしたら、その期待で相手を潰すことになるでしょう。
あなたと般若の人生のありとあらゆる点を、歪んだ期待で埋め尽くしてしまうからです。
誰も、それが最高の相手だとしても、あなたの心、魂を満たすことができる人はいません。
どんなに立派な夫あるいは妻あるいは親あるいは子供あるいは恋人であっても、あるいは物であっても、心を魂を満たすことのできる人や物はいません。
ラケルと寝室に向かったと思ったのに、翌朝目覚めて、隣にいるのはレアなんですよ。いつもレアなんです。
こんな底知れない絶望感、厳密感がどんな人生もあるんですけれども、というわけでここにこそ、希望を抱いて期待するところで、特に感じさせるところであります。
ここまで気づいたら、私たちはいかの四つの反応が見られるでしょう。
まずは失望させられた相手や物を支難します。もっといいと思われる何かにまた意向をするんです。
これは対象が変わっていくだけで、偶像礼拝と礼的な依存症がもう継続していきます。相手を変える。
33:01
これに満足できなかったらBを選ぶ。Bから満足できなかったらCを選ぶ。そういうのにずっと変え続けるばかりなんです。決して満たされません。
二つ目の反応は、自分自身を責めます。周りはみんなうまくやっているのに、なんで自分はこんな失敗ばかりなんだろう。どうして幸せになれないんだろう。自分に問題があるんだ。
と、自分自身を追い詰めます。それは、いわゆる自己嫌悪と恥のあらわです。
三つ目は、世の中に責任を負わせます。例えば、女性というものはね、まったく男性はね。
異性を一般的に悪いのだと決めつける反応です。
ヤコブは実に、もう終末的な恋を追い求めていたんです。
一方で、レアは伝統的な考え方の女性で、子供を産み育てる妻というものにアイデンティティを見出そうとしました。しかしどうですか。ヤコブもレアもうまくいきませんでした。
調べている中でですね、アーネスト・ベッカという学者がいますが、ヒューリッチャー賞を受賞した方ですが、この荘石の物語からこう言っていました。
ロマンチックな恋は人間の問題に対して解決策になり得ないし、現代人の挫折の多くはおそらくそこから起因する。
いかなる人間関係も神の役割という重さを耐えきれない。
我々がどんなに恋する相手を理想化し偶像化しようとも、相手がいずれか欠点や不完全さを表すことは避けられない。
我々が恋愛の相手を神の地位にまで高める時、そもそも一体何を望んでいるのだろうか。
我々は自分の欠点や自分が無意味だという感情を取り除きたいと思っている。
我々は正当化されたいと思っている。これは償いとも言える。
言うまでもなく、人間の相手にこのようなことはしてもらえない。
36:01
ヤコブは容姿の美しい妻を持つことで人生に価値を見出そうとした。
心がすっかり奪われていたので、この美しい女性のみずくさ、足りなさを見ることができませんでした。
一方でレアは、彼女にとっての偽りの神は肉体関係ではありませんでした。
夫と肉体関係があったことは明らかですが、彼の愛と献身を受けてはいませんでした。
彼女が夫ヤコブに戻ったのは、身体の関係だけではなく心だったのです。
欲しかったのです。しかし、得ることはできませんでした。
レアは彼女の人生は浅く儚く惨めでした。
しかし、その中で唯一霊的に成長を遂げる人物がレアです。
彼女が子供を産んで、その名前の意味をつけるときに、その意味がどんどん成長して変わっていくのです。
皆さん、今日の32節から35節をよくご覧ください。
レアは子供を産んで、
32節を見たら、
主は私の悩みをご覧になった。
主は私が嫌われているのを聞いて。
35節は、私は主を褒めたたえます。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
39:02
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
主は私が嫌われているのを聞いて。
ユダ
ユダ
ユダ
ユダ
ユダ
42:01
ユダ
ユダ
ユダ
ユダ
ユダ
ユダ
ユダ
ユダ
ユダ
ユダ
ユダ
ユダ
ユダ
ユダ
ユダ
神様が働かれてレアのうちにどのような変化を起こったからだけではなく、
神様が彼女のために何をされたかにも注目する必要があるでしょう。
実はですね、荘石の著者はこのユダに注目しているんです。
ユダは彼を通して後に本当の王、ベシアイエス・キリストが現れると、
荘石四十九章であざしされた人物なんです。
誰からも認められない、見てくれない、相手にしてくれない、愛されない、
認められなかった女性レア。
その女性から主をやあえを褒めたたえますと言って生まれた子がユダ。
そのユダから、その子孫から誰が?
イエス・キリストが本当の王、今日のタイトルですが、
本当の花婿なるイエス・キリストがお生まれになるんです。
神様は誰からも求められず、愛されなかった一人の女性のもとに来られて、
彼女をイエス・キリストの先祖としてくださったんですよ、皆さん。
この世界にもたらされた救いは、美しい超美人のだけれではなく、
誰からも愛されず、求められず、そんなレアを通してなんです。
つまり皆さん、神様は勝ち組じゃなくて負け組の味方だったということなんですよね。
いや、むしろこのレアに与えられた素晴らしい贈り物は、はるかに深い意味があります。
今からの話をよく聴いて、注目して聴いてほしいんですが、
45:01
この箇所でレアが嫌われているのを見た神様がレアを愛されたことがわかります。
まるで神様はこういうふうに語っておられるような思いがします。
それはですね、神様が優しい穏やかな声でレアの肩を撫でながら、
私があなたの本当の花婿だよ。
夫にも父にも愛されないものよ。
私があなたの本当の夫だ。
本当の父だと呼びかけておられるかのようです。
皆さん、これこそ恵みにより救いをお与えになる神様の姿そのものではないでしょうか。
道徳的宗教の神々は、成功者や人生の勝ち組に根をかけました。
それですね、何かの道徳的な梯子を一段一段、天国へ頂上へ向かって登っていく人たちです。
しかし聖書の神様はむしろ、自分からこの世界に降りてこられて、救いを実現させてくださいました。
私たち義親では決して得ることのできない恵みを与えるために来られました。
それはレアからわかるストーリーとして、誰にも求められない、愛されない弱い者たちに愛を示すためでした。
神様が夫なら私たちは妻なんです。
他の誰もが気づかないようなもので、神様にとって私たちは愛してやまない伴侶なんです。
ここにこそ、同僧礼拝を乗り越える力があります。
ロマンチックな恋の相手に会えなくて、嘆く多くの人々がいると思います。
結婚を後悔しているカップルが多く、この時代にありません。
傾けて、耳を傾けて聞いてほしいですが、神様がささやかれるこんな言葉です。
君の本当の花婿はこの私だ。
この私の腕だけが君の全てを受け止め、
この私だけが君の心からの願いをいつか必ず叶えられる。
ただ、それには君が私の方に振り向いて、私が君をどんなに愛しているかに気づいてくれないといけないんだ。
48:06
しかし皆さん、これは未婚者だけに語られている言葉ではありません。
結婚なかった方々、皆さん、私も含めてですよ。
神様が究極の伴侶だということは、既婚者にも同じように語られていると思います。
無理な次第によって結婚関係が破綻する前に、結婚生活を守るためにも、この言葉に耳を傾けることが必要なんです。
神様に求めるものを、神様に求めるべき愛を、人間の相手、伴侶に求めて結婚するなら、いつかもう失望させられることは明確なことなんです。
だからといって、奥さんに、旦那さんにあんまり期待しないでね、ほどほど愛していいよ、そんな話ではありません。
むしろ、もっと神様を知り、神様をもっと愛することが大切ですよ、という話です。
息苦しい私たちの期待から、恋人や伴侶を解放することができるほどに、深く神様を愛するにはどうしたらいいでしょう。
それはレアの人生が示している、イエス・キリストを見つめることにあります。
イエス・キリストとして、神様が地上に来られた時のことを考えると、皆さん、文字通り、本当のレアの地を受け継いだことがわかります。
ラテルの子孫ではないんですよ、レアの子孫なんですね。
誰も実際にイエス様を求める者はいませんでした。
イエス様は生まれてすぐ、貝場桶に寝かされました。
誰かでも、お家の部屋にどうぞ、受け入れられませんでした。
王としての栄光は何一つ持ち合わせていませんでした。
自分の国に来たのに、その民から受け入れられませんでした。
最後は誰からも見捨てられてしまいました。
騎士である神様にさえ、どうして私をお見捨てになったのですかと叫びました。
もう一度お尋ねしますが、なぜイエス様はレアをルーツに持ったのでしょうか。
なぜ誰からも見放されるようなものになったのでしょうか。
51:00
それはただただ、あなたのため、私のためでありました。
そろそろメッセージを終わりたいと思いますが、イエス様は私たちの代わりに、私たちの罪を背負い、死なれました。
私たちのためのこの愛を目の当たりにして、深く心を動かされて始めて、
私たちは他の救ってくれるかもしれない、何かの神々にしがみついていた心を手放すことができるのです。
恋愛や結婚で自分の心を満たそうとしていたことをやめることができるのです。
すでに満たされた心があるからです。
他の誰からも何によっても満たされる必要がなくなった心なんです。
救ってくれた、満たしてくれた方が今や見つかったからです。
この方がイエス・キリストです。
皆さん、私たち全てが問うべき質問があります。最後です。
私たちはどのように人生を生きればいいのでしょうか。
全て薄っぺらな偽り、人、物、金、名誉、出世、人からの認め等々、
その薄っぺらな偽りの神々から私たちを引き離すことのできるほどの美しさ、素晴らしさを備えておられる方、
イエス・キリストに向かうことです。他には答えはありません。
十字架のイエス様を見上げるある詩人はこう歌っていました。
あなたこそ私の愛するすべて、私の命、私の光、私にとってこもうえない美しさ。
アーメン。お祈りしましょう。
53:14

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