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2021-11-14 48:24

2021/11/14:創世記(37)ヤコブと自己中心性

2021/11/14 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 -20


00:03
皆さん、おはようございます。
今日もこうして、みんなで礼拝できますことを感謝いたします。
また、いろいろ、コロナもだいぶ落ち着いていますけれども、
いろんな災いの中で、主が守ってくださって、生かされて、恵まれて、
礼拝できますこと、本当に感謝申し上げます。
メッセージの前にですね、感謝の報告を一つさせていきたいと思います。
先週、半年ぶりに脳の転移があるかどうか、
MRIの検査を金曜日にしたという話をして、
先週の金曜日に結果が出ました。
それでですね、幸いに脳はきれいでした。
本当に一緒に感謝いたします。
肺がんはですね、医者によると、脳転移が一番危ないがんの一つだと言われています。
半年、ほぼ6ヶ月ですね、がんも治療していないわけですから、
その危険性がないわけではないんですけれども、
不思議にですね、本当に転移もなくきれいに守られています。
また肺の方も、肺炎は今のところ表情がなくてですね、
だいぶ落ち着いているところでですね、
本当に皆さんの心からの祈りをですね、本当に感謝申し上げます。
これからも主に守られてですね、
写真はいいです。
この報酬をね、できる限りさせていただきたいなと、
そういうふうに思っております。
一言、短くお祈りします。
神様、感謝します。
本当に私たちが生かされていることは、
すべて神様の恵みです。
キリストの命によって私たちが生かされております。
その命をもってここに集まっております。
一人一人に主の御声を聞かせてくださいますように。
その御声によって私たちが歩むべき方向へ、
我らを導いてくださいますようにお願いいたします。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
創世紀の37回目です。
ヤコブと自己中心性というタイトルです。
その前にですね、
たまに鳴ったりしますけど、
携帯は、電源をオープンにしてくださいね、皆さん。
ヤコブの話が続いています。
ぜひですね、おうちに皆さんお帰りになって、
29章、30章、31章の内容がきょうの話です。
03:06
それを分けてするんだったらあまりにも長くなるので、
まとめての話になりますので、
ぜひですね、物語になっていますから、
読みやすい、難しい内容はないと思いますので、
ぜひですね、おうちに帰られて、
この29、30、31章のところ、
ぜひですね、お読みくださればと思います。
さあ、先週の続きですけれども、
ヤコブは親と兄を離れて、
おじいラバンが住んでいる、
ハランという町に向かいました。
そこで兄の行き通りが収まるまで、
とどまるつもりでした。
だいたいおよそ900キロメートルの離れているところまで、
行くわけですから、その旅が終わって、
やっとハランのおじいの家に着きました。
そこでですね、運命の出会いがありましたね。
おじいラバンには、きょうも書かれて出てくるように、
二人の娘がいました。
姉のほうは、名前は何ですか。レア。
妹のほうは、ラケルでした。
この二人の姿について、聖書にはこのように書かれていますね。
レアは目が弱々しかったが、
ラケルは姿も美しく、顔立ちも美しかったとあります。
ヤコブはこの二人の中、妹のラケルを愛していました。
それでですね、そこにとどまるわけですし、滞在するわけです。
いつまで滞在するかはわからないですね、今のところ。
そこでヤコブは、一番最初に彼が出だした話は、
簡単に言って、ラケルをくださいということですね。
彼は自分から先に言いましたね。
ラケルを得るために、もう私は七年間あなたにお仕えします。
つまりもう働かせてもらいますということです。
自ら言いました。
ラバンが要求したわけじゃないんですよね。
ヤコブは、自分が愛している女性を自分の妻にするために、
七年間を長いと思わず働こうとするヤコブがここにあります。
それでヤコブはラケルのために、実際に七年間労働をしたわけです。
06:03
羊飼い、さまざまなことをしたわけです。
この使えたという言葉を日本語で訳しているんですけど、
原文は奴隷が働くときの言葉なんです。
だから自分はもう下辺のように、奴隷のように、
働きますよという意味として彼は言ったわけです。
ヤコブは彼女をラケルは愛していたので、
それもほんの数日のように思われたと書かれています。
しかしその後ハプニングが起こります。
ラバンはですね、ラケルじゃなくて、
姉のほうレアをヤコブのところに連れて行ってしまったんです。
ヤコブは今から3000年も前ですからね、
暗いからわからないわけなんですね。
で、彼女のところに入った。
朝になってみたら、あれ、ラケルじゃなくて姉のほうレアだったんです。
そのときにですね、ヤコブはラバンにこう言います。
あなたは私に何ということをしたんですか。
私はラケルのためにあなたに仕えたんじゃないですか。
なぜあなたは私をだましたんですかと言います。
皆さんよく考えてみてください。
今まで人をだましてきたヤコブですが、
今回は彼が人にだまされてしまったんです。
それが今起きたんです。
そしたらですね、この叔父ラバンもヤコブに負けないぐらいずる賢い人でした。
不思議なんですよ。
ずる賢い人は自分よりもっと偉いずる賢い人に出会ったりすることが不思議にあるんですね。
ラバンはですね、こう答えたんですよ。
我々のところでは上の娘より先に下の娘をぽつかせるようなことはしない。
この婚礼の1週間を終えたら、そしたらラケルもあなたにあげますからね。
その代わりあなたはもう7年間私に仕えなければなりませんよと、
今度はラバンから7年間働いてねと言われました。
そしたらヤコブはもうどれだけラケルが好きだったんでしょうね。
また7年間叔父ラバンに下部奴隷として働きました。
それで合わせると14年が経った。働いたわけですけれども、働かされたといったほうがいいかもしれません。
09:14
それでもう省略しますけれども、ヤコブは2人の妻、それぞれ妻の女奴隷2人合わせて4人の妻を持つようになりました。
そしてその妻たちからそれぞれの子供が生まれるんですね。
ラケルのほうからヨシエフとベニャミ。
レアのほうはルーベンから始まって、そっちのほうがもっと多くの息子娘が生まれ、
合わせて12名の息子と1人の娘を持ちました。
それからその後の話ですけれども、ヤコブは今度は妻ではなく子供ではなく、自分の財産を増やそうとするんです。
それはもう大昔ですから家畜のことですね。
家畜のことですから、叔父ラバンの家畜、羊とかその中から健康なもの、傷のないもの、
病んでないものを自分のものにするために、彼はまた企んでズル賢いやり方で自分の家畜を増やすんです。
大昔の自然の法則を使ったわけですけれども、
そこにもまた自分が欲しいものをゲットするために必死であるヤコブがそこにいるんです。
その家畜を得るために彼はまた6年間働きます。
合わせると全部で20年間です。
20年間ラバンに仕えたということになります。
ある先生は説教師で、この20年は修年の20年だと言われて、本当にそうだなと。
女性を得るために財産を増やして家畜を得るために、もう20年間修年で働いたということになります。
ところが皆さん、これでこの物語が終わったら、
ヤコブは多くの子供を持った、4人の妻に恵まれた、たくさんの財産があったという話になりますね。
しかし、そこで終わったらいけないと思うんですね。
私たちは今日このヤコブ、そしてこのヤコブから読み取れる人間の本性、
12:05
すなわち今日タイトルがあるように、この人間の自己中心性ということについて一緒に考えていきたい。
そして私たちも、もしも自分自身の中にこのヤコブと似ている自己中心性はないのではないかと、それに向き合って、
そしてこの自己中心性から神中心性、神中心の生き方に変えられるように、
主の御言葉を共にお受けしたいと願っていきたいと祈っていきたいと思います。
ヤコブのこの真理について考えていきたいと思います。
今までのヤコブのストーリーを見ながら、ヤコブはどういう人なのか、
人は複雑な存在だから一言では言いにくいと思いますけれども、
一言でヤコブの人物性を言えるなら、彼は欲しいものがあれば、
それを自分のものにするため何でもやる人と言えるのではないでしょうか。
欲しいものがある、長子の権利、その祝福、美しい女性、子供、家畜を得るためには、
自分の所有にするためには何でもするんですね。
彼のこの真理の底には、自己中心性というものがあると思うんです。
それをわかりやすく言うならば、自己中心性の人の特徴はこういうものです。
ヤコブから読み取れると思うんですけど、他人の気持ちや状況、未来などはあんまり考慮しない。
ただ自分のニーズや満足、欲求のためなら何でもやる。
そして必ず何とかしてそれを獲得する、ゲットするということです。
手にするためなら人を騙すことも意図簡単にやるということです。
なんでですか。
自分のニーズ、自分の楽しみ、自分の満足が最優先に説得されているからなんです。
これがヤコブの様子であって、人の様子でもあるでしょう。
そしてこれがなぜ危険なのかと言いますと、皆さん。
15:01
このような自己中心性の真ん中には神様ではなく、自分がそこにあるわけなんです。
あらゆることの理由や目的が神様に向けているんじゃなくて、自分に向けているんですね。
皆さん、このストーリーを読んでいたら、ぜひこの29章から読んでほしいんですけれども、
ヤコブはレアよりラケルのほうが好きだったんですね。
7年間使えたわけです。
先に自分の妻がいるのに。
だからヤコブはレアが傷つくことがあろうがなかろうが構わないんです。
子供がたくさん生まれましたけれども、ヤコブの眼中にはレアはいないんです。
ラケルが自分の妻になって、自分さえ幸せになればいい。
人のことはどうでもいい。
あとは健康な羊を、丈夫な羊を自分の主婦にするために、
オジを騙すことを意図簡単にやっちゃう。
自分のニーズを満たすことなら何でもやる。
美しい女性を得るために、丈夫な家畜を得るために何でもやったヤコブ。
それこそ自己中心性じゃないでしょうか。
それがヤコブの心の中に潜んでいるか。
それがもう源というか根源なんですね。
皆さんところが、この自己中心性というものは、
現代にとても人気ある生き方、考え方だと思うんです。
みんなから言われることなんです。
例えば、自分のために生きましょう。
自分らしく生きる。
まず自分を考えるべきでしょう。
よく言われるんじゃないですか。
教会の中でもそう言われたりするからね。
まず自分を先に考えてね。
一見見れば、とても自分を大切にする良い考えだと思われるかもしれませんが、
しかしその根底には、実は神なしの、神抜きの生き方が、その危険性が潜んでいるんです。
神抜きの人生観であります。
18:01
神様がいたとしても、信仰生活をしていても、
それは自分の満足や自分のニーズや自分の必要を満たしてもらうために、神様を利用することに過ぎないことなんです。
さあ、ご覧ください。
この自己中心性のために、そこには偽りがありましたね。
騙しがありました。
貪欲がありました。
この自己中心性が根源でなって、そこから嘘をつく、人を騙す、貪欲が噴水のように噴出しているんですよ。
ヤコブの人生にね。
そうでしょ。
それがずっとこのヤコブのストーリーに、ほぼ最初から最後まで描かれているんです。
それだけではないんです。
そこからまたいろんな悪い感情が、悪が派生されてきます。
悲しみでしょ。
生きどおりがあるでしょ。
殺意がある。
また、ラケルは子供を産めなかったから、姉のレアの方がルーヴェンから子供を産まれたから、もう嫉妬をしたと書かれている。
嫉妬などがそこからもう派生していく。
その最初は始まりは何ですか。ヤコブの自己中心性なんです。
イサクやリベカとの別れ。
兄エサオの生きどおりや殺意。
妻レアやラケルの嫉妬。
また悪巧み等々。
この始まりはヤコブの自己中心性なんです。
もうそこから全部始まっているんです。
しかし皆さん、もう自己中心性はもう人間だから仕方がないじゃないですか。
そんな感情は許されるでしょうというふうに思っては皆さんいないでしょうか。
しかし皆さん、今から見ていきますが、
聖書ははっきりという罪のリストの中に、この生きどおり、嫉妬、妬みがリストにアップされているんですよ。
ここで私たちはこの自己中心性というものがどういうふうに罪に悪につながるかについて、今から見ていきたいと思います。
その前に、これはただの人間の感情だとみなしではなりません。
皆さん、私たちは何かが、これが本当に善なのか悪なのか、罪なのかじゃないか、その判断する基準は何ですか。
21:04
聖書なんですよ。
一般の常識じゃないんです。
ある意味で日本の法律でもないんです。
あること柄が、日本では犯罪ではありませんが、他の国にいたら犯罪になることもしばしばあるでしょう。
その国の法律でだいたい、これが犯罪になるかだいたい判別できますが、
しかし最高位の最上位の我々の唯一の標準は、神の御言葉なんです。
まずローマ人への手紙1章28節から30節を見ていきたいと思います。
ここに先ほど言った、自己中心性から派生された人間の様々な感情というものが、
聖書はそれについて何と言っているのかをはっきり今日学びたいと思います。
聖書を開くか、ぜひ前をご覧いただくか、どっちかご覧ください。
また彼らは神を知ることに価値を認めなかったので、神は彼らを無価値な思いに引き渡されました。
それで彼らは、してはならないことを行っているのです。
皆さん、聖書ははっきり、これはしてはなりませんよと言っています。
いいですか、してはならないことです。
してもしょうがないことではありません。
私の話ではありません。
神の御声です。
神の御声を聞いてください。
彼らはあらゆる不義、悪、その次は何ですか。
貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、欺き、悪巧みにまみれています。
また彼らは陰口を言い、人を中傷し、神を憎しみ、人を侮り、高ぶり、大言壮語し、悪事を企み、親に逆らい。
どうですか、皆さん。
私たちの周りに、あるいは私を含めて、私たちは時には何気なく陰口をします。
人を中傷します。
高ぶっています。
大言壮語します。
妬みます。
争います。
貪欲に少しでも触れているかもしれません。
それを私たちは、あの人の身にかけられるから、聞いてあげないと、そして放置してはいないのですか。
24:05
そしたら、私たちは、自分に罪を犯させ、人に罪を犯させている重大な過ちに陥っていることに気づいてほしいです。
聖書は、死ではならないと言っています。
死ではならないことをするのは、罪です。悪です。
神様に喜ばれません。
どういう訳があっても、聖書が死ではならないことは、死ではいけません。
ところが皆さん、何か気づきませんか。
これは、ヤコブの行いを見ているかのように、不思議にね。
シト・パールはローマ書でそれを、まるでヤコブを見て書いているような気がしませんか。
悪を貪欲、悪意に満ち、妬み、殺意、争い、あじゃむき、悪巧み、もう全部ヤコブに当てはまることなんです。
自己中心性が罪の源なんですよ。山火事の紐戸のようなものなんですね、皆さん。
またもう一箇所を見ていきましょう。
殺さい人への手紙3の5節です。
殺さい人への手紙3章5節。
私がお読みします。
ですから、地にある体の部分、すなわち、乱らな行い、けがれ、情欲、悪い欲、そして鈍欲を殺してしまいます。
鈍欲は偶像霊廃ですとあります。
鈍欲はただの感情ではないんですよ、皆さん。
それがもう原因になって火元になって偶像霊廃につながるということです。
しかもこの3章5節は、乱らな行いと鈍欲を平行に扱っていることに注目してほしいんです。
鈍欲は罪です、悪です。
偶像霊廃です。
なぜでしょうか。
鈍欲は自分中心の生き方ですし、それが神様を認めず、もう神様を押しのけてしまうからです。
自分の目的のために生きるからです。
そして自分のニーズや満足、楽しみ、そのために神を利用しているから、それこそ自分を偶像にしているということなんです。
どうですか、皆さん。
自己中心性というものは案外危険なものなんです。
27:02
ここからもうちょっと掘り下げて考えていきたいと思いますけれども、
まず何が罪であるか、その定義について考えていきたいと思います。
我々はだいたい今の現代人は、罪と言ったらまず犯罪を考えます。
法律を違反することをまず考えます。
だからだいたいの、特に社会的には道徳的だと言われている日本の方々も、
特に我々は日本の法律を違反していないから、
評価に言うと罪人、罪人と言われてもう嫌だわと思うかもしれませんが、
聖書は、聖書が言う罪とは、法律を違反することについてももちろん話していますけれども、
しかしそれだけではありません。
法律を違反するかしないかは、ある意味で表面的なことなんですね。
聖書は表面的な、現れた行動だけではなく、
むしろもっと根本的な、人の心、心の動機、心に潜んでいる悪い思いさえも、罪だと言っています。
例えば、イエス様はこう言われました。
マタイの福音書5章28節、聖書あるいは前の字幕をご覧ください。
イエス様が、肝炎について話されましたけれども、どうおっしゃったのかご覧ください。
しかし、私はあなた方に言います。
情欲を抱いて女を見る者は誰でも、心の中ですでに肝炎を犯したのですと言います。
実際に結婚した男性が女性が、他人の女性や男性と寝て、そういう実際の行動をやっていなくても、
法律的に何の違反行為をしていなくても、もし情欲を抱いて女性を見るならば、男性を見るならば、
その人はすでに肝炎を犯しましたよと、イエス様は言われました。
裁かれているのです。
実際に話をしましょうか。
日本は結構大昔、いわゆる、この言葉は言いたくないのですけれども、
貫通罪は日本には廃止されて、日本にはもう存在しません。
法律的に問われません。もう犯罪にならないのです、日本は。
法律にないからしていいのですか。
30:03
そうではないでしょう。
日本の国の、日本だけではないのですけれども、
国家の法律よりとても高い倫理基準を示しているものが聖書であり、神の御言葉なのです。
人間が最も人間らしく生きるために、
とても素晴らしい指針を示している書物が聖書なのです。
だからキリスト教の人間は、人は神の形に似せて作られた尊い存在だから、
それに尊厳があって、それを尊重する、
たとぶ倫理というか、その基準を示しているのが聖書なのです。
次は最も重要な罪の概念があります。
それは、実際に悪いことをしなくても、心の動機ですけれども、
神の御座に神を押し抜けて、自分が登ってそこに座っているのです。
そして神を神として認めないのです。
あるいは認めても、さっき言いましたように、
自分のニーズや自分の満足、自分の必要を満たしてもらうために、
神を宗教も使用する、利用するだけなのです。
実は自分や他のものを神が代わりにしているということなのです。
つまり神中心ではなく、自分中心の生き方、ヤコブのように。
これこそ自分を偶像にする悪ですし、神なしの生き方なのです。
ヤコブの話をまた考えていきましょう、皆さん。
実に自己中心性の生き方だったのではないですか、ヤコブは。
長子の権利を得るために、その祝福を獲得するために何でもやる。
お父さんも騙す。兄も騙す。
ラクヘルを妻にするために、もうレアはどうでもいい。
丈夫な家畜を自分の主にして、もう増やすために何でもやる。
そのために20年も長いと思わなくて働く。
執念があるのです。
その根底には何があるのですか。
俺のために生きよう。思いのままに生きよう。
人のことはどうであろうが、もう気にしなくていい。
私の思いが一番大事だ。自分のために生きようといった
33:03
自己中心性という悪が潜んでいたのです。
皆さんどうですか、この話を聞いて。
もう私とは全然違う、遠い人の話ですね、と思いますか。
それほど私たちが清いものであればありがたいですけどね。
私はこのメッセージを見せながら、まさにこれは私の話だったなと思わされました。
ヤコブは3000年前の人物ですが、今2021年ここにヤコブがいるんだと。
どれだけ自分は自己中心的な生き方で生んできたんだろうかと。
他の人を見ることをしなくていい。
自分こそ自己中心性の塊だと、そう思わされました。
皆さん、自己中心性の生き方は、神様が喜ばれる生き方とはとても遠いものですね。
聖書が言う生き方では、そしてこれは変えられなければなりません。
どうしようもないことではないんです。
変えられ、清められなければないんです。
皆さん、神の前に正直に認めていただきたいんですが、
自然の人間は善を追い求め行うより、
悪を追い求め、自己中心になりがちでそれを行う存在であることを認めたいです。
しかし、今日の話はここで終わりではありません。
こんな私たち、ヤコブのように自己中心の塊のような私たち、
自分のため、自分のため、そういうふうに思ってしまいがちな私たちを主は放置されません。
見捨てられません。私たちには希望がありますよ。
どなたでしょうか。
イエス・キリストこそ、私たちのこのような自己中心性の生き方を変えてくださるお方です。
この方にあって私たちは変えられるからです。
イエス様を見上げて習いたいんですよ、皆さん。
今からイエス様の話をしたいと思いますけれども、
イエス様は完全に神中心の生き方、そして私たち、私中心の生き方で歩まれました。
36:01
その神中心の生き方にぜひ習いたいと思います。
まず二つですね、そのイエス様が神中心であることを二つで話したいと思いますけれども、
第一は、イエス様は神様が喜ばれることを行われました。
自分じゃないんですよ。
神様が喜ばれることを行われました。
さあ、聖書を見ていきましょう。
ヨハネの福音書、8章29節です。
聖書を開くか、あるいは前の字幕をご覧ください。
ヨハネの福音書、8章の29節。
さあ、これは一緒に読みましょうかね、皆さん。一緒に読みますよ。
私を使わせた方は、私と共におられます。
私を一人残されることはありません。
私はその方が喜ばれることをいつも行うからです。
最後にイエス様が言われました。
私は、イエス様はその方、神様ですね。
神様が喜ばれることをいつも行うと言われました。
なぜイエス様の生き方が神中心でしょうか。
自分が喜ばれるんじゃないんですよ。
ヤコブのように自分が喜ばれることを行うんじゃないんですね。
イエス様は神様が喜ばれることをいつも行うお方だから、
神中心の生き方なんです。
自分が喜ぶことを行う自己中心性の生き方とは、もう正反対のものですね。
神様が喜ばれることはどういうものでしょうか。
それは、神様を礼拝することであり、
御国のために生きることであって、
神を愛し人を愛することでしょう。
清く生きることでしょう。
善を行うことでしょう。
あるいは、貪欲ではなく自己犠牲の生き方ではないでしょうか。
皆さん、良い信仰とはどういうものでしょうか。
良い信仰というものは、イエス様のように変えられることなんです。
そうすれば、自分が喜ぶ生き方、
それはこの世が主張して思わせている生き方です。
自分のために、自分が喜べれば、自分に満足すれば、自分に良ければ、
この世の教える生き方ですよ、皆さん。
それに翻弄されてはいけません。
私たちの生き方の標準はイエス・キリストなんです。
自分が喜ぶ生き方を下ろしておいて、
神様が喜ぶことを最優先にしたいんです。
39:04
そのために、イエス・キリストを考えて、思って、目指して、学ぶべきではないでしょうか。
そして日ごろ考えて、実際にこんなことです。
何をしたら神様が喜ばれるんだろうか。
今から自分がしようとしていること、これが果たして神様が喜ばれることなんだろうか。
それを常にいつも考えて行う生きることではないでしょうか、皆さん。
神様が喜ばれることを考えて、それをいつも行う私たちでありたいと願います。
自分自身を変えに来ていただきたいと願います。
2番目、イエス様はなぜ神中心の生き方なんでしょうか。
それは、自分を徹底的に低くしたからです。
自分を虚しくしたからです。
さあ、聖書一箇所を見ていきましょう。
ピリピリ人への手紙、2章、7節、8節です。
ピリピリ人への手紙、第2章、7節、8節。
私からお呼びします。
ご自分を虚しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。
人としての姿をもってあらわれ、
自らを低くして死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
イエス様の謙遜、謙虚を言うときに、開かれる箇所がここですね。
ピリピリ人への手紙、2章、7節、8節。
イエス様は神であられるのに、ご自分を虚しくして、低くして、
我々人間、しもべの姿をとって、人間とまったく同じように、そこまで低くされたんです。
神が人間になられたから、しかも死にまで低くされました。
まさに神中心であり、どこを見ても神中心しか見られませんね。
そして、それは究極的には、私たちのための生き方でした。
だから皆さん、イエス様の生き方は、私のためのものだったんです。
イエス様は、私のために人になられました。
イエス様は、私のために呪われました。
イエス様は、私のために鞭に打たれました。
42:00
イエス様は、私のために口づけられました。
イエス様は、私のために極度の痛みを感じられました。
イエス様は、私のために死なれました。
だから皆さん、イエス様の生き方は、まるで全部私のためのものだと言えるのではないでしょうか。
あなたのため、私のための生き方なんです。
イエス様は、どこを見ても、自分のために自己中心性の生き方はなかったんですね。
イエス様に見習いたいんですよ、皆さん。
どうですか、皆さん。
この世の中では、あなたためにやってね。
自分のためなら、というふうに言われていますが、
この一週間、すぐる一週間、あるいは今年も年末に向かっていますが、
この一年、この頃どうですか、皆さん。
本当に、神中心の生き方で歩んで来られましたか。
どこを見ても、神中心の生き方でしたか。
神様から見られても、イエス様から見られても、
あなたは本当に、神中心の生き方だね、と言われる生き方だったんでしょうか。
あるいは、古墳のように、自己中心性からの生き方があったのではないでしょうか。
こうして、まことにイエス様に出会い、
罪を悔やため、御霊によって清められたクリスチャンは、
イエス様のように、神中心の生き方に変えられていきますよ。
必ずそういうふうに変えられますよ。
そうなりたいですし、また主が変えてくださるからです。
この清い願望が、上から与えられるんですね。
神のように、イエス様のように変わりたいと。
皆さんにもそれがあるんじゃないですか。
イエス・キリストこそ、私たちの希望なんですよ。
イエス様にお会いしたならば、イエス様は私たちの人生の主となられますね。
そして、その方が導き、変えてくださる。
だからね、もうまことにイエス様に出会って、変えられない人はいないんですよ。
変えられていない、あまり変わっていない。
そしてその人は、もうイエス様に出会っていないんです。
45:00
変えられますよ。
イエス様がもう、うちにおられる御霊が、イエス様が必ず変えてくださるんです。
最後に、ジョン・ニュートンの話をして、説教を終わりにしたいと思いますけれども。
アメージングレースのその賛美、驚くばかりの賛美の作詞家として知られています。
ジョン・ニュートン。
かつて彼は、イギリスの前世紀で奴隷商売をしていたわけですね。
あの時、奴隷商売した人は、ものすごくお金を稼げまくって、大富豪になったということ。
ジョン・ニュートンも、そのお金を稼ぐために、黒人を人間と思わない。
もう一人一人が、全部金としてみなしていた。
その黒人たちを捕まえるためには、何でもやる。
アフリカからイギリスまで、もう大昔だから船で運ぶでしょう。
船で病気で、どれだけ多くの黒人が死んだかもしれません。
それも死んだら、もう海に捨てる。
かつてジョン・ニュートンは、もう自己中心性の塊のようだった彼の人生でした。
しかし彼が、実に名ばかりのクリティシャンから本当のクリティシャンになって、人生がひっくり返されました。
これは悪だ、罪だと思って、悔やためて、お金をどれくらい稼いでも、あの奴隷商売を切っ張りやめました。
これこそ本当に悔やためですね。
これが悪だ、罪だと思ったら、もう切っ張りやめるんです。
そこから生まれた歌が、アメージングレスでしょう。
今日はそれじゃなくて、短い他の歌詞を紹介したいと思います。
神中心の生き方の美しさを歌っている、とてもいい歌詞だと思います。
ご覧ください。前の字幕あります。私は読ませていただきます。
私たちの喜びも、動きも、前とは全く違う。
なぜなら、神の美しさを知ったから、そこから決して引き離されないと知ったから。
短いですけれども、皆さん、神の栄光を、神の恵み、その神の愛を知ったから、その美しさを知ったから、そこからもう決して二度と昔に戻らない。
神の見てから、その美しさから私は引き離されないと、味わったから、戻らないということですね。
48:09
メッセージを送りたいと思います。
皆さん、イエス・キリストの謙遜を知ったから、私たちの喜びも動きも、前とは全く変わります。これが信仰です。お祈りしましょう。
48:24

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