00:02
ぜひとお祈りします。神様、感謝します。
今から主こ自身が、私たち一人一人に、主、どうぞお語りくださいますように。
心を低くして、ただ、あなたの御顔を見上げて、主の栄光を拝見したいと願っている、この群れの上に、
主、どうぞ、あなたの御顔の光を、栄光の光を照らして下さいますように。
あなたの御声によって、その教えによって、私たちが一歩一歩、謙遜に謙虚に、愛も物とさせて下さい。
聞く者は多いが、悟る者は少ない。また、清められ変えられる人は少ない、我々の弱い者ですが、
主をどうぞ、あなたの御声を聞いて悟り、また行う御言葉通りに生きる者とさせて下さい。
主をどうぞ、お助け下さい。弱っている方の体を強くして、目を覚まして、主の御声を最後まで聞くことができますように、
聖霊様どうぞ、我らを強めて下さい。
イエス様の皆によって、お祈りいたします。
アーメン。
はい、ありがとうございます。
漱石の40回目です。
先週は斎藤先生により、新年正解の御言葉をいただきました。ありがとうございました。
また来週は予定している通りに、私は京都の方に奉仕に行かせていただきます。
また斎藤先生に説教をしていただきますが、お祈りくださればと思います。
3月の最後までさせていきます。大体これから、今日除いて7回くらい、聖地霊会の説教ができるかなと思っております。
漱石最後まで生きるかどうかはまだ分かりませんね。大雑把にするわけにはいけませんし、あまり細かくすると進まないこともありますので、祈りながらさせていきたいと思います。
ヤコブの物語が続いています。
今日のお話の中は、ヤコブの人生において、実はクライマックスのような場面です。
03:05
ヤコブはすでにハランから帰ってきて、カナンの地に定着して住んでいたところです。
彼は大家族、大富豪になっていました。
ある日のことでした。いつもそういうことですけれども、神様御自身が先にヤコブに現れて、仰せられました。
まずここを注目したいのですが、アブラハムにもニサクにも、そしてこのヤコブにも、そうして同じくしてくださった神ですけれども、神様から先に人に会いに来てくださったということです。
まだ求めもしていないうちにです。
彼らの必要のすべてを知っておられるしは、先に神様から人間のところに会いに来てくださるということを、今日まず注目したいのです。
アブラハムの時もそうでした。ニサクにもそうでした。
今日の箇所も一緒、同じです。
神様が先にヤコブに会いに来てくださった。
しかし皆さん、よく考えてみてください。
神様がヤコブに現れなければならない、神の御自身がなければならない、神様がそうしなければならない、神様の代わりで義務が、責任があるわけではないのです。
実は神様は現れなくても大せがなくても、神様には何の問題も混乱もありません。
ヤコブの人生に神様が介入しなければならない、それくらいの誠意や義がヤコブにあるからでもないのです。
あるいはヤコブ彼に神様をとても満足させるくらいの立派さが実はあるわけでもありません。
彼は今まで見てきたように、神の前に立つことすらできないほど、実はひどい罪人なんです。
06:14
神の誠意も義という基準と言いましょうか、それにふさわしいものではないのです。
しかしそんなヤコブですけれども、哀れみ豊かな神様、いつまでも絶えしのばれる神様、
その神様が人間に何かの従属条件があるからではなく、ただただ愛するから、哀れむから、
愛に来てくださる神様なんですね。
そしてアブラムが変えられたように、イサクが変えられたように、ヤコブが変えられたように、
あるいはペテロたちが、ユワネが、パオルが、そして私たちが変えられたように、
ただただ愛するから、哀れみの神様が愛に来てくださったんです。
私たちにも同じくしてくださる神様です。
私たちも神の前に立つことすらできないくらい罪の多いものです。
偽りも多く、けかれも多く、罪とかも多いものです。
清掃にかかわれているように、自分の罪ととかのゆえに死んでいたものでした。
しかし神様の一方的な哀れみによって、神様が先に手を伸ばしてくださって、
神様が先に私たちのところに人生の中に入ってくださった、来てくださったんですよ。
実はこれが福音の一番重要な部分なんです。
神様が先に動いてくださった、神様が先に来てくださった、私の人生の真ん中に主が入ってくださった。
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それを私が求めもしていないうちに、神様の身むねに従って主が先に動いて動き出してくださったんですね。
これが実は福音なんです。
他の宗教はですね、人に頑張りなさい、そうしたら天に届くよとか、道徳的な人になりなさい、
そうしたら神に近づくことができるよと言われます。
しかしキリスト教の福音は、神様が先に私たちのところに天から降りてきてくださったんです。
そして神ご自身を表してくださった、それがイエス・キリストなんです。
そして神なるイエス・キリストが十字架に架かられて死んでくださったことによって、
信じる者が誰でも罪許され、義徒を認められ、神のことをされるのです。
私たちが何かをする前に、立派なものになっていないうちに、
罪ぶりとであった時に、不経験なものであった時に、
ヤコボのようなものであった時に、神様が先にですね、動き出して降りてきて現れてくださった。
神様が私たちのためにすでになさったこと、それが実は福音なんです。
だから皆さん、よく考えてみてください。
全ては神様の憐れみと恵みではないでしょうか。
神様が私たちにこのようによくしてくださらなければならない、
そうすべき神様側には何の責務もないんですよ。義務もありません。責任もありません。
神様が私たちに借金があるから返済したくて、
そうよくしてくださるわけではないのではないでしょうか。
なのに、皆さんの人生の分、
私だったら52年間主はよくしてくださった。ずっと耐えしのんでくださった。
12:07
時に時に主は満たしてくださった。助けてくださった。よくしてくださったんですよ。
ですから、今日の箇所でのこのヤコボはですね、
彼は旧約時代の人ですが、彼は実はここでですね、福音に触れているわけなんですよ。
主の憐れみと恵みと、そして人を変えてくださる。
神様が先に降りてきてくださる。神様が先になさってくださる。
この福音の本質に素晴らしさにヤコボはここに触れて、
その福音の素晴らしさを彼は今味わっているところなんですね。
皆さん、福音が伝えるところはこれです。
神様が先にあなたのためになさった恵みを楽しみ味わってください、ということなんです。
イエス・キリストがすでにあなたのためになさった祝福を受け取ってください。
そしてそれを楽しんで味わってください、ということなんです。
だからそこに自由があるんですね。福音による自由なんですよ。
だからね、信仰の成熟の段階が、成熟が書かれているわけではありませんが、
もしその段階がステップがあるとしたら、最初の段階ですね、
あ、しなければならない、みたいな感じの信仰になりますね。
あ、今日日曜日だから教会に行かなくちゃならない。もう行かないとちょっとまずいなぁと思う。
あ、報酬をしないといけない。いや、人に迷惑になるし、
いやちょっとね、みんなやっているのに自分だけやらないとちょっと気まずいなぁ、みたいな感じで報酬をするかもしれない。
いや、研究をしないといけないなぁ、と。
そんな風にしなければならないという風な段階があるかもしれません。
私にも昔はありました。しかし、そこから成熟して、変えられて、
本当に神の福音という恵み、憐れみを、その本質を味わって知っている人は、
それを乗り越えてですね、喜んで主に仕える。喜んで礼拝をする。喜んで報酬をする。喜んでお捧げするんです。
しなければならない段階を乗り越えて、したくなる段階に進んでいこうではないでしょうか。
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そういう風に変えられる時に、本当の自由が与えられるんですよ、皆さん。
おうちでもそうじゃないですか、皆さん。
例えばですね、家の旦那がね、私が掃除をする。
あんまりしたくないんだけど、妻に掃除してくれ、掃除してくれ、毎日言われてる。
いや、もうしたくないんだけどな。
そしたらね、あんまり喜びがないんです。自由がないんですよ。
しんどさしかないかもしれない。めんどくささしかないかもしれませんね。
でもね、家族を愛して喜んで自分が先にしたらですね、そこに自由があるんですよ。自由があるんですよ。
神様が先に降りてきてくださった。神様が先にご自身をあらわしてくださった。
これが福音の本質であって、恵みの本質であります。
そして神様はヤコブに何と仰せられたのかを見ていきたいと思います。
神様は彼の名前を変えてくださいました。
彼の名前はヤコブですね。
ヤコブという名前の意味は、かかとをつかむ者、つまり人を出し抜く者というものであります。
実際に彼の今までの人生を、もう名前がですね、もう端的にあらわしてくれるんですね。
かかとをつかむ者、人を出し抜く者だったんです。
今までの彼の人生は人を出し抜こうとしてもがいてきた人生だったと言っても過言ではないでしょう。
兄を出し抜いた者、おじいラバンを出し抜いた者でした。
それが20年以上続いたんですね。
つまりそれは、彼はですね、自分の人生を自分でコントロールしようとしてきたんです。
自分で自分の人生を操る。
何か必要なもの、欲しいものがあれば自分でも頑張って努力して、あるいは騙してでもそれを勝ち取ろうとしてきた。
実際に勝ち取ったということです。
多くの家族を、妻を、多くの財産を、もう自分の力でかかとをつかむみたいにですね、
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もう握りしめて出し抜いて勝ち取ってもがいてきた人生がヤコブという名前通りの人生でした。
どうですか皆さん、こんなヤコブの今までの人生を見てですね、
うわぁ羨ましい、私もヤコブのようになりたいと思われ方いないでしょう。
いませんよね、いないと思うんですよ。
ヤコブのようになりたくありません。
流浪の人生になりたくありません。
さまよりたくはありません。
もがきをしなければならない、そういう人生になりたくないんですね。
そんなヤコブ、今までは自分の力で出し抜こうとしてもがいて頑張ってきた彼の人生でした。
だから今まではですね、彼の人生には神様が入れる隙がないんですよ。
一センチもないんです。
もう自分が主になって、自分が自分の人生のもうね、指揮官になって、何もかも自分で自分で自分でやってきた。
そして自分の力にできない時には人を騙す、操る、へつらう、それがヤコブの人生なんです。
しかし不思議ですね、一番最初に話したその話とつなぐんですけれども、
そんな彼の前に再び神様が現れたんですよ、皆さん。
そして彼の名前をなんと神様が先に提案して書いてくださったんですね。
今さ、聖書の中よく読んでみてくださいね、ヤコブが。
こんな人生、神様は疲れてもううんざりです。
私の名前を書いてくださいませんか、とお願いして神様がそうしようかね、って書いてくださったわけではありません。
ずっと彼が生まれる前から、母の胎に宿る前から彼の人生を知っておられる神様、
治めておられる神様、彼のへつらいのさまよいの、あの偽りのだましの二十年以上の彼の人生をずっと見ておられた神様は、
神の時に現れてくださって、彼の名前を変えてくださいました。
21:07
ヤコブをイスラエルに変えてくださいました。
だから皆さん、ヤコブの人生は、実は今日の三十五章のこの九節から十五節、
ここから実はヤコブの本当の神の人との、神の人としての人生がここから始まるんですよ。
だからヤコブはここでもう霊才、オギャーとですね、生まれたわけなんです。
今まではカカトを掴む者でした。
人を出し抜く者でした。
へつらう者、だます者、もがく人生でした。
人生はどこを見ても、どこを見ても神様が入ってない人生でした。
神のない人生でした。
ある意味ですね、よくもここまでもがいて、もう頑張って、よくもこれたなと思うんですね。
そんな彼を神様がですね、カカトを掴む者、人を出し抜く者というヤコブから、
イスラエルという光栄な名前に変えてくださいました。
イスラエルという名前の意味はいろいろ役がありますが、
ここにきて申しますと、神様が勝つ、神様が勝利するという意味になります。
神様が勝つ、神様が勝利する、あるいは神様が支配するという意味です。
今までヤコブの人生は、自分で勝ち抜こうとして、もがいて頑張ってきたものでした。
自分で自分の人生を勝利させようとしたんですね。
だからですね、このヤコブはですね、ものすごくストレスが溜まっていたと思うんです。
ずっと緊張の人生が続いていて、肩こりがひどかったと思うんですよ。
頭痛もひどかったと思うんですよ。
でしょ皆さん、人を騙すでしょ。
ヤバノイに行って、また20年間苦労しなくならないでしょ。
羊とかヤギとか、それを上手くですね、ずる賢く自分のものにする。
もう頭を回しですね、また帰ってきて兄とですね、何か上手く交渉しないといけない。
もう頭をフル展開してですね、もうストレスで肩こりで頭痛で。
現代だったら彼はもう大きなひどい病気になったかもしれませんね。
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自分で自分の人生を支配しようと、勝利しようとした彼の人生の結果はどうですか皆さん。
さまよいでしょ、不安でしょ、執着心でしょ、虚しさでしょ、悲惨さでしょ、争いでしょ、嫉妬でしょ。
ストレスなんです。不安でいっぱいなんです。
もう羨ましくないんです。見習いたくないんです。
皆さん、今日も同じなんです。
もしも私たちがヤコブと似ていてですね、自分の人生を自分で勝ち抜こうとするなら、
自分の人生を自分で何とかコントロールしようとするなら、主人公になろうとするんだったら、
自分が大統領を浴びようとするなら、どうでしょう皆さん。
その結果をヤコブの人生が何千年前に私たち、今日の私たちに物語っているんですよ。
皆さん、自分の人生をあなたの人生をあなたが主張したら私のようになるからね。
反面教師として悪い例を彼が、もう相手ではないんですが、ここで示しているんですよ。
ちゃんと学んでね、そしてこのようになってはいけませんよと語っているんですよ。
どうですか皆さん。
もしも自分の人生を自分でコントロールしようとしていないんでしょうか。
自分が主人公になろうとはしていないんでしょうか。
自分が大統領を浴びようとはしていないんでしょうか。
勝ち抜こうともがいてはいないんでしょうか。
神様が入れる余地なんて、もう隙を全部防いではいないんでしょうか。
その至る所、その結局の所にあるものは、ヤコブの人生が表している通りのものなんです。
不安、ストレス、鬱、虚しさ、争い、彷徨い、疲れ、心と体の疲れ果ててしまう事なのです。
27:03
そこにはですね、ほっとする安らぎ、安息、平安、喜びはありません。
自分の人生がこの朝、私たちがそれを物語っているんですね。
私の事ですけれども、去年の1月末、私的にはその日を覚えていました。
1月29日、病院で診断された診断日です。
もう間もなく1年になりますね。
本当に不思議な神様の恵みだと思います。
長生きできるかな、どれくらい生きられるかな、
肺がんになって状態が悪くなったら、どんな痛みとか辛さがあるんだろうな、
みたいなですね、不安があったわけです。
でも不思議に、本当に嘘みたいに神様は癒し続けてくださって。
まずは福祉として、入院した時もありましたけれども、
まずはこの礼拝の説教の合宿をさせていただいていること。
そして、死んでなくて生きていること。
生きていてもですね、植物、人間みたいに横になって寝たきりの状態でないこと。
本当に普通に話せていること、歩いていること。
神様の本当に恵みだなと思うんですね。
その背後に本当に、まず第一番、明太に教会の皆さんの切実な愛の祈りによって、
主がその祈りを聞いてくださって、憐んでくださっている。
神様は私の人生にこの病気を持って入り込んでくださったと言いたいですね。
30:08
そして自分で自分の人生の主になろうとしたこの私を主は叩いて、
私があなたの主なのだと教えてくださいました。
本当にたくさんのことを神様から教えられました。
今も教えられ続けていること。
本当に感謝なことであります。
そんな中で、ヤコブがイスラエルに変えられたように、
かかとを掴む者、人を出し抜く者が、
神様が勝利する者、神様が支配する者に
変えられたヤコブの人生を見て、
自分も自分の人生を振り返ってみたんですね。
皆さんも今から私の話を聞きながら、
皆さんの人生を振り返ってみていただきたいなと思うんですね。
私は神学を卒業して20年になります。
20年間僕からさせていただいていますけれども、
僕がよすればするほど、
私には神のしもべとしての
ふさわしいところなんて何もないこと。
時間が経つにすれて、もっともっと深く感じて、
神様にも神徒の皆さんにも本当に申し訳ないと思います。
また、結婚して25年が経ちましたけれども、
行けば行くほど良い家庭を築くにはとても足らないものであって、
妻にとても済まないし、またありがたいと思っておるところです。
また、長女が生まれて24年になって、
だから父に父親になって24年ですけれども、
相変わらずお父さんとしての資格や資質なんてないものが、
父親になっていること。
3人の子供には本当にいつも済まない。
でもお父さんと呼んでくれるから、ありがたいなと思うんですね。
33:00
また、1年間このがんの患者として生きてきてですね、
その前まで何気なくやってこれたことすべてが、
今や懐かしく思うし、感謝しかないんですね。
最後に受鮮士で私34年になっていると思うんですが、
相変わらずまだまだ変えられていないところの多い自分、
神の子という名前にふさわしくないところのたくさん与えている自分、
自分自身を見るたびに、
本当に神様の前に本当に申し訳ないなと、
そういう思うんですね。
こんなものでいいんだろうかと思うんですね。
そんな時に、今日のこのヤコブの物語から、
とても大きな神のメッセージが語られるわけです。
ヤコブのような人生、いやヤコブよりもっとひどい私の人生、
自分の力で勝ち抜こうとしてきたもの、
神様はあらゆる手段方法を通して悟るように悟るように促しているんだけれども、
それでも悟っていない自分自身、鈍い鈍感な自分自身、
まるで神のないような人生を歩んできたもの、ヤコブ、それと私。
そんな我らに神様は変わらない愛と憐れみと忍耐をもって、
ヤコブに会ってくださった。
そしておこんな私にも会ってくださったんですね。
それはヤコブに、ヤコブよ、もうヤコブの人生はこれで終わりにしよう。
これからはイスラエルとして歩んでいこうというメッセージなんですよ。
皆さん、勘違いしないでほしいことは、
憐れんで許して耐えしのんでくださることは、
ずっとヤコブのままでいいんだよ、だからじゃないんですよ。
よく勘違いしている方がおられるようですけれども、
36:00
ずっと今までも今まででいいんだよ、じゃないんですよ。
そんな意味だったらヤコブの名前を変える必要はないでしょう。
もうヤコブそのままでいいんだよ。
もう博多をつかもうが、出し抜こうが、だまそうが、そのままでいいんじゃないんですよ。
聖書にはどこもそういうメッセージは書かれていないんです。
今まであなたの人生はヤコブでしたか?
そしたらこれからはイスラエルとして生きていきなさいね、
というメッセージを心に留めていただきたいんです。
イスラエル、神が勝利する、神が支配する、そうなんです。
私たちの人生は、私が勝利するものではありません。
神様が勝利するものです。
それが私たちの勝利になるわけです。
私たちの人生は、自分自身で支配するものではありません。
神様に支配していただくものです。
そうしなければなりません。
しかし、神様に支配していただくときに、そこに私たちは奴隷になるんじゃなくて、
本当の意味での自由人になるんです。
本当の意味での喜びが、安息が、平安があります。
メッセージを終わりましょう。
神様は、私たちもヤコブからイスラエルに還ようとしておられます。
皆さん、ヤコブのままでいいでしょうか?
イスラエルに差していただきましょう。
ヤコブのような人生すべてを、神様にあけ渡して、生産して、
そして、主を私もヤコブじゃなくて、イスラエルにしてください。
変えてください。
あなたが勝利してください。あなたが支配してください。
そういうふうに、主にあけ渡して、委ねて歩んでまいりましょう。
お祈りします。