00:03
おはようございます。
今日も、主に守られて、支えられて、一緒に出会えてきますことを感謝します。
創世記、39回目になります。
本当の故郷、あるいは、本当の家、ホームという題でございます。
年末年始になりますとですね、
日本とか近くの韓国、中国とか、西洋まではまだ分かりませんけれども、
年末年始になったら、実家に戻る寄生という文化が、アジア圏の国々にありますね。
就職とか結婚した子どもさんが、お正月になってですね、
親の家の実家に帰ってきて、しばらく一緒に過ごしました。
実家に帰ってきたら、何故かホッとしますよね。
そして、みんな心の中にですね、やっぱり家がいいな、みたいに感じると思います。
今日のテーマは、さあ、家に帰ろう、ホームに帰ろうというテーマです。
ヤコブの話を続けてお話をしたいと思います。
今まで学んできたように、ヤコブは父イサクと兄エサを黙って、
長子の権利や宿屋を奪い取ってしまいました。
そして、その時から彼は逃げる人、逃亡の人生、さすらいの人生が始まりました。
そして彼は、叔父ラバンの下に留まって、執事会とかいろんな労働をして、
何と20年が経ちました。かなり長い時間ですね、20年間。
そこで奥さん達も子供も生まれて、家畜の群れも多く持てるようになりました。
しかし、どうですか皆さん、そこもハランという町ですが、そこも彼にとっては本当の家ではないんですよね。
そして、この30章、31章の内容になりますが、
彼はやがてこの20年の労働の時を、逃亡の時を終えてですね、家に帰ろうとするんです。
03:04
でも、この20年間もさすらいの時だったと思います。
そして今日、短い17節から22節まで朗読していただきましたが、
ここにもですね、逃げた、逃げた、逃げる、3回も出てくるんですよ。
20節、自分が逃げるのを、21節、持って逃げた。
22節、ヤコブが逃げたことが、逃げた、逃げた、逃げた。
彼の人生は20年前もどうでしたか、逃げる人生でした。
さすらいの人生が20年間続いていて、やっと終わるかなと思ったら終わるところか、また逃げるものになっている。
この漱石はヤコブの人生を特に逃亡、流浪という、さすらい、さまよいというキーワードでヤコブの人生を描写していることに皆さん注目してほしいです。
この18節を見ますと、また全ての家畜と彼が得た全ての財産、彼がパダンアラムで自分のものとした家畜を連れて、その次ですね、
カナンの地にいる父イサクのところへ向かった、
カナンの地にいる父イサクのところへ向かった、まるで寄生するような気持ちだったでしょう。
いや、やっと父の家に帰るんだ、そういうヤコブの気持ちだったでしょう。
でもどうですか、彼のこの先のことは嬉しいことばかりでしょうか。
そうではないです。彼を待っているのは大歓迎ではなく、兄エサウなんですね。
あの20年前、ヤコブを殺すと誓った兄はまだ生きていて、彼も帰ってくるのをですね、怒りを持って待っているんです。
そしてこの31章、32章を読みますとですね、なんとエサウは400人も連れてヤコブを待っているんですね。
歓迎ではありません。きっとエサウはヤコブと戦ってですね、何とかしようとするつもりだったでしょう。
06:03
引き一発の瞬間でした。ところがここでまたヤコブのこのズル賢さが発揮されますね。
お兄さんにたくさんの贈り物を差し上げる手腕によって、なんとかですね、エサウの怒りを和らげることができました。
そしてこの後、彼は父の住んでいる家、ヘブロンという町にやっと20年がたって帰ってくることができました。
その間すでにですね、彼のお母さんリベカは亡くなっていました。
あの20年前、家を離れてからお母さんに二度と会うことはできませんでした。
ところが35章になりますが、そこを見るとですね、間もなくヤコブがやっと家に帰ってきたなと思ったきや、
間もなく父イサクも死にますね。その後年月がたってヤコブの子供さんも成人になります。
そして私たちがよく知っているヨセフのストーリーが続いて始まるわけですね。
ヨセフは他の兄弟から恨まれて憎まれて、そして奴隷としてエジプトに売られてしまう事件が起きました。
ヤコブがレアよりも愛しているラケルの子供の一人がヨセフなんですね。
だからそれを見るとですね、人生には本当に理解不可解なことがたくさんあるんだなという気がします。
そしてそのだいぶ先の話になりますけれども、ヨセフはエジプトに奴隷として売られましたが、
エジプトの総理大臣になっている間、エジプトにもカナンの地にもひどい貴賃がありました。
それでヤコブの子供たちは食料を得るためにエジプトに行きました。
ヤコブはもう年老きです。
そこで実はヨセフの深い考えによるものですけれども、
結局的にヤコブの家族はみんなエジプトにまた移住することになったんです。
そうするとですね、ヤコブは老年になってもまた家を離れて、故郷を離れて他国のエジプトに移ったわけです。
09:04
そして彼はそこで死んで、彼の骨とかがカナンの地に葬られました。
皆さん、ヤコブの人生どう思いますか?
ずっと次世代が続くんですよね。
彼は本当のホームに帰られていないんです。
若い時からずっとルローの人生でした。
本当のホームに帰りたいという熱く願いを求め続けていたんですね。
若い時にも老いた時にも、彼はルローの差し代の人だったんです。
彼は本能的に、霊的に、その魂がですね、本当の故郷、ふるさとを憧れていたんですね。
皆さん、このようなヤコブの人生の物語は、実はその物語、かわいそうだな、
それよりもさらに大きな文脈の中にこの物語があります。
聖書全体に流れているテーマ、つまり二つの言葉でそれを表すことができますね。
聖書全体を、もう創世紀からヨハネノムクスル、二つのキーワード。
一つはルロー、それから鬼郷です。
このルローと鬼郷という視点から物語を読み進んでいきますとですね、
これは単純なドラマチックな話かな、じゃなくてですね、そのさまよい差し代以上のものが見えてくるんです。
その話を今日お話をしたいと思います。
ホーム、本当の家とはですね、私たち人間の人生に大きな影響を及ぼします。
さっきも最初にお話ししましたように、日本ではお正月やお盆にみんな実家に帰ったりします。
ある記事を見たらですね、この帰省するために発生する費用は年間数十億円に至るそうなんです。
12:06
アメリカではですね、アメリカに海外から移住している人々が多いじゃないですか、南米とかヨーロッパとかですね、アジア圏も大勢いると思うんですが、
彼らがですね、特にお正月だけではないと思いますが、自分が生まれた、あるいは自分の親とか叔父とか、その里帰りのツアーをよくするらしいですね。
それもですね、毎年数十億ドルの費用をかけられるそうなんです。
法務に帰りたい、そういう本能みたいなものが我々にあるんじゃないですか。
以前ある方に聞いたら、引退したらもうね、ふるさとに帰って、そこで老後を暮らしたい、そこで最後を迎えたい、そういうおっしゃる方をね、その話を聞いたことがありますが、
なぜかそういう気持ちがあるんですよね、皆さん。
年末にですね、私の、韓国の、私にもふるさとがあるわけですが、そこの後輩が、今彼はアメリカに住んでますけれども、
彼の親がちょっと病んでいて、韓国に一時帰国したんですね。
彼の親も、私の仏教会の信者さんでですね、そこに帰ったわけです。
で、彼が、私のふるさとに三百何十メートルの山があるんですよね。
その市の中で一番高い山ですが、私は小さい時にそこにしょっちゅうね、登って遊んだり、忍者ごっこみたいにですね、遊んだりね、木登りしたり、復活したりした山があるんですけど、
そのアメリカから帰ってきた彼が、運動が好きなものだから、その山に登ってですね、たくさんの写真を撮って、見せてくれたんですね。
そしたらですね、その山の風景、大分変わってきますけれども、山の風景とか、町の風景とか、私の仏教会の写真とか、昔の信徒さんの写真もですね、
ネットでですね、見せてくれてですね、見ながらですね、懐かしなぁとね、小さい時あの山でよく遊んでいたなぁとね、そういうね、懐かしい気持ちになって、余計に帰りたいなという気持ちで一般になりました。
皆さん、なぜかですね、私たちの心の中には、誰もが、あの頃、あの人、あの場所で過ごした、懐かしい記憶、ふるさとの記憶、親の、あるいは小さい時、友達と遊んでいた思い出などなど、そういったものをみんな持っているんじゃないでしょうか。
15:27
このように法務といったら、私たちにとって影響の強いものですが、けれどもですね、何ともつかみにくい概念だろうなぁと思うんです。
そして、その私たちの中には、何かの場所への深い憧れがあるんです。熱望、切望といえる憧れがあるんです。本当のふるさとに帰りたい。法務に帰りたい。
実は、自分がいなきゃならない、あの居場所に帰りたいというね、本能みたいなものがあるんです。なぜなんでしょう、皆さん。
実は、私たちはそこで本当の自分、本当の私を見出すことができるし、また安心したり安堵感を感じたりする、まさに私たちの法務なんです。本当の故郷なんですね。
しかしどうですか、この現実ではどうでしょうか、皆さん。本当の故郷、あの法務、居場所、見つけようとしますが、なかなか難しい時代なんです。憧れはしますけれども、つかみにくいんです。なぜでしょうか。
聖書からその理由や答えを見つけていきたいと思います。聖書全体に流れているテーマを調べるところにその答えがあります。
創跡を読むと、なぜ私たちが旅人のように感じるのか、本当に行こえる法務に出会えないその理由が、実は創跡を読んでいきますと、もう最初でわかりますね。3章、4章、5章でわかります。
それは、私たちは神の園に生きるように作られたんです。そこで生きるように作られた、そこが法務である、本当の故郷である、居場所である、受け入れられ、愛され、平和と愛とすべての究極の幸せを味わえる場所が神の園なんです。
18:26
エデンの園なんです。生きるべき世界、愛に満ちた病も苦しみもない、本当に安全で完璧な法務なんです。神の目の前にあるからです。神様が共に住まわれる場所だからです。だからすべてがですね、完璧なんです。
そこで神の栄光を称えて、神様を礼拝し、神様にお仕えする、それこそ、そここそ、私たちの本当の法務なんです。そして私たちはそこで神の栄光の美しさを反映するものとして暮らすように作られたんです。私たちが目指すべき執着地であって、本当の故郷なんです。
私たちどうですかみなさん?聖人は。神様がその法務の父なのに、私たちがその方の権威に逆らってしまった。もう神様の世話なんてもういらない。ただ自分の力だけで生きていく。まるでですね、ヤコブのようなんです。あるいは法当息子の次男のようなんです。
そしてその父親の神様に背を向けて、神様から独立して、実はそこにいなければならないのに、本当の法務を離れて手放してしまった。その結果、さすらうことになった。逃げる人生になったんです。
みなさん、ヤコブの物語はですね、実はこの象徴のものなんです。聖書を実際にみなさん、創世紀をよく注意してですね、このルローとキキョー、このテーマで創世紀を読んでみてください。照らしてみるとですね、
アダマトエヴァ以来、人はずっとこのルローの民、キキョーの民、そのさまよい続けが始まっているんです。
21:03
つまり、私たちが今住んでいるこの世界は、究極的には私たちの心の奥深くに潜む本当の必要を満たすことができないということなんです。なぜでしょうか。本当の法務に変えられていないから。
いくら皇帝が住むような邸宅を建ててそこに住んでいても、魂は決して主に出会っていない限り、安息を味わえることはできないということなんです。
この世界で、この世でですね、失ってしまった法務を本当のふるさとをもう一回作り出そうと一生懸命働いてお金を稼いで資格を取って有名人になって出世して成功して金持ちになっても、聖書は言いますね。
それでも、神に戻っていない限り、人はたださしらい人に過ぎないということなんです。それを聖書が厳かに語っているんです。
このテーマは、聖書全体を通して何度も繰り返している話です。アダムとエヴァが究極の法務から追放された後、その息子カインがさらに頼みない逃避を強いられるようになりました。
アベルを殺したツイングの故です。そしてこのヤクブも実はそうなんです。そしてそのヤクブの息子ヨシエル、その息子たちもそうなんです。
法務から離れてエシュポトでの避難生活を経験しました。他国での430年も一生の人々はさしらい人だったんですよ。
でもその猛暴戦によって帰ってくることもさまよいだったでしょう。40年間のさまよいでした。
カナーンに来てですね、ダビデの王国が始まりますけれども、その後はどうですか?
北イスラエルが、南ユダが滅亡して、イスラエルの人々はまたバビロンに保守のためになって、またさしらいが始まるんです。
70年間、あのバビロンに、そこに侵されていた。そして70年後に帰ってきたんですけれども、それで全てが終わるんですか?
24:05
終わらないんですよ。またローマによって支配されて、イスラエルの人々はもう全世界に、地中海中心ですけれども、また散らされていくんです。
聖書は実はですね、創世紀から最後まで、他のテーマ、キーワードで描写、説明できますが、このさしらい、ルローとキキョーのテーマで見れば、本当にその通りなんです。
このパターンが繰り返されているんですよ。決してそれは偶然ではないんです、皆さん。
聖書のメッセージはですね、人類がホームに帰ろうとしてさまよう、ルローの民なんだと言っているんです。
調べていたところ、アメリカのロバート・フロストという作家がこういうふうに言いました。
家についてですけど、家とは人が帰らなければならなくなった時に、人々が迎え入れてくれるところでなければならない。
帰らなければならない。その時に迎え入れてくれるところでなければならないんです。
しかしどうですか。帰りたくても、ホームを憧れていても、帰れない理由がありました。
アダムとエヴァにあったもの、カインにあったもの、ヤコブにあったもの、保守のイスラエルの人々にあったもの、今の人々にあるもの、本当のホームに帰れない理由、それは罪なんです。
この罪自体が、ホームと彼らの間に、私たちの人間の間に壁を築いてしまって、その壁をどうしたらなくせるかもわからなくなったからなんです。
その罪自体が、本当のホームの父である神様を離れさせてしまったからです。
父に背を向けたから、ホームから本当の家から逃げるしかありませんでした。
まさにヤコブの物語がそうでした。
だから私たちはみんなですね、霊的に神のもとに帰りたいんです。
ホームに帰りたい。本当のおふるさとに帰りたい。
それがこの世で、この幻性で実家に戻りたい。
27:08
ふるさとに帰りたい。里帰りしたい。老後はふるさとでも行きたい。
実はその根底にはですね、人々はその存在が神のもとに帰らなければならないから、それがこの幻性において里帰りに表されていることなんです。
それを皆さん見抜いて、わきまえて知っていただきたいんです。
しかし、いくら里帰りをしても、帰国しても、あるいは立派なお家を建ててそこに住んでいても、あるいは家族がみんな一緒に暮らしていても、もちろんそこに幸せがあり喜びがあります。
しかしそれが主にあるものでなければ、決してそこでは究極的な幸せを味わうことはできない。安息を味わうことはできないということになります。
そして私たちが目指すべきゴールがあります。
それはこの世界でのふるさとではなくて、この地にあるホームではなくて、あの天にあるふるさとに私たちは目指していくんだという話です。
そしてイエス・キリストは私たちを本当のホームに連れ戻すためにこの世界に来られたということです。
イエス・キリストは人類を罪から、悪から、そして死からも私たちすべてを救うために来られました。
それは人類をすべての人々を帰るべき家にホームに連れ戻すために迎え入れに来られたということです。
だからこそイエス・キリストは権力を持ってではなく弱さの中に現れました。
そして私たちが味わうべき追い出される追放の苦しみを経験しに来られたのです。
だから皆さんイエス・キリストは天の家、父の元を離れてこの世界に来られました。
まさに私たちが経験しているその旅を、差世代をイエス・キリスト様ご自身自らそれを経験なさっておられたということです。
30:15
まさにアダムとエヴァ、カイン、ヤコブ、イスラの人々、今日の私たち世界の人々が経験させられているこの差世代を
イエス・キリスト様ご自身で自らそれを私たちと同じくなるためにイエス・キリスト様は神の父の家を離れてしまったということです。
こういう神が世界どこにあるのでしょうか。
またイエス・キリスト様は父なる神様から拒否される、見捨てられる絶望さえも経験されました。
エリエリラバサマクダイ、主よどうして私をお見捨てになるんですかとあの叫び、実は私たちが感じている拒否、恐怖、不安をもイエス・キリスト様は経験された。
そのためにこの世界に来られたということなんです。
すべて私たちの代わりにそれらを味わうためでした。
人類が示してきたあらゆる犯行、そして実は私たちはこの世界においては永遠のホームレスなんです。
私も皆さんも実はホームレスなんです。
神の家に帰っていっていないから。
もちろんね、信仰ある者はそれをもう既に持っているわけですから、大丈夫ですけれども。
その呪いをイエス・キリスト様は自分の身に負われたということになりました。
それは私たちを本当のホームに、父の家に私たちを迎え入れるため、連れ戻すためなんです。
一緒に行きましょうよ、あなたもね。
それを一番よく表している聖書があります。
そこをですね、一緒に開きたいんですけれども。
新約聖書のヨハネノ福音書14章を開きましょう、皆さん。
新約聖書ヨハネノ福音書14章1節から3節です。
今までの説教の話を覚えながらですね、
その本当の故郷というテーマを考えながら、
この14章の1節から3節を読みたいと思います。
33:07
ヨハネノ福音書第14章、1節、2節、3節。
私が1節と2節を読みますので、3節をみんなで一緒に読みましょう。
1節、あなた方は心を騒がせてはなりません。
神を信じ、また私を信じなさい。
私の父の家には住むところがたくさんあります。
そうでなかったら、あなた方のために場所を用意しに行くと言ったでしょうか。
ご一緒に、私が行ってあなた方に場所を用意したら、
また来てあなた方を私のもとに迎えます。
私がいるところに、あなた方もいるようにするためです。
アーメン。
2節の最初に、私の父の家には住むところが、
この住むところという言葉が実は、家という言葉なんです。
ホームなんです。たくさんあります。
そこにですね、迎え入れるために、連れ戻すためにイエス様が来られた。
これが福音なんです、みなさん。
このためにイエス様が、3日目によみがえられました。
死の力さえ打ち砕くためでした。
罪が、この死が、私たちをですね、この世界において本当の居場所を味わさせないから、
死、老い、恐怖などの大きな力を持って震えている、
私たちをそこから救うために、イエス様がよみがえられていたんです。
そして、このイエス様は、必ずいつか、この世界に戻って来られます。
その勝利を、もう完璧なものにされるため、
そして、私たちを本当のホームに連れ戻すためなんです。
それを描いているのが、聖書全体であって、ユハネの黙示録でありました。
だから、みなさん、どこか田舎に家を買って、そこで野菜を栽培しながら、田舎の暮らしをしたい。
もう結構ね、今、若い世代によくあるみたいなんですよ。
30代、40代みたいね。ブームみたいですね。
あるいは、一生懸命ですね、お金を稼いでですね、賃貸じゃなくて、マイホームを持とう、ね。
まあ、うちは今だに50歳過ぎて、マイホームを持っていないものですけれども。
36:03
でも、どうですか、みなさん。
この世において、神様のもとに、神様のもとに帰っていない限り、
いくら農村の素敵な暮らしをしても、とか、見晴らしがいい、海が見えるね、別荘を持っていても、
素晴らしい家に住んでいても、神の身元に帰っていない限り、
人は本当の安息を、安らぎを、生こえる場所は持てません。
そして私たちは目指すべき、憧れる、それは、やがてイエス様がこの世界にもう一度来られて、
私たちを連れて行ってくださる、その本当の故郷のその光景をね、描いているのが、ヨハネの目視録なんです。
もう一箇所開きましょう。ヨハネの目視録21章です。
これを読んでですね、説教を終わりにしたいと思いますが、
ヨハネの目視録21章、私が1節から3節まで読みたいと思います。
4節をみんなで一緒に読みたいと思います。
新約聖書の516ページですね。
1節、また私は新しい天と新しい地を見た。
以前の天と以前の地は過ぎ去り、もはや海もない。
また私はまた聖なる都、新しいエルサダム、これこそ帰るべき宝物なんですね。
夫のために語られた花嫁のように整えられて、神の御元から天から下ってくるのを見た。
私はまた大きな声がみざかられて、こういうのを聞いた。
見よ、神の幕屋が人々と共にある。
神は人々と共に住み、人々は神の民となる。
神御自身が彼らの神として共におられる。
ご一緒に。
神は彼らの目から涙をことことく拭いとって下さる。
もはや死はなく、悲しみも叫び声も苦しみもない。
39:02
以前のものが過ぎ去ったからである、アーメン。
皆さん、歴史の終わりにこの世界すべてが再び神の園にされるんです。
そこには死も老いも苦しみもありません。
癒して下さる。
そして、ユーハネの目白をまた読んでいきます。
そこに、諸国の民を癒している命の木があると書かれているんです。
まさに、あのエデンの園にあったあの命の木。
イエス様はこの世界に私たちの本当のホームを再びもたらして下さいました。
もはや私たちはいつもさまよい、決して目的地にたどり着けないようなエデンの園の外に住む必要はなくなります。
私たちが向かう先に走り出てくるお父さんがおられて、
私たちを喜んで迎え入れて、抱きしめて、本当のホームに連れて入れて、迎え入れて下さるんです。
イエス・キリストこそ、私たちにこの世でのさせらいを終わらせ、本当のホームに連れ戻して下さる唯一のお方です。
この方をいつまでも信じ、どこまでも従って参りましょう。お祈りします。