00:02
それでは一言お祈りいたします。神様、感謝します。
今日も神様御自身が、私たち一人一人に、御言葉を持って、私たちを養って下さいますように。
聞く者、心を無にして、謙虚にして、または目を覚ましていて、その霊が開かれていて、
あなたに会い、またあなたの御言葉に聞き従う時と指して下さい。導いて下さい。
天からの悟りを、知恵を、主の霊を、御与え下さいますように。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、創世記の45回目になります。
創世記の、先週思ってだいたい50章まで行きましたけれども、
創世記、全部50章ありますが、その中で触れていない部分がありますけれども、
その中でですね、最後までですね、触れていない部分、あるいはもう一度深い意味を学べたり、
そういうところをですね、触れながら、主の御言葉を共にいただきたいと願います。
今日はその中で、この32章、いわゆるペヌエルの出来事も、そこでのヤコブの話になります。
ヤコブの話もだいぶしましたけれども、それを皆さん思い起こしずつ聞いていただけたらと思います。
ヤコブは遠い国へ逃げて、多くの困難がありました。
しかし、それにもかかわらず彼はそこで大勢しました。
しかし、おじいラバンといとこたちはヤコブに対してとても否定的でした。
またヤコブは彼らに嫉妬を感じていたわけです。
だからヤコブはですね、そこを立ち去るか、あるいは争うか、どっちかを選ぶしかないというところでした。
そして彼はついに自分の家族、家畜を全部連れて、父のいる故郷に帰ることにしたんですね。
そして実際に旅立ちました。
どんどんその故郷が近づいたころ、お兄さんの絵像が自分を迎えに来ていると、迎えていると、そのお知らせがヤコブの耳に入りましたね。
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32章の6節を見ますとですね、
死者はヤコブのもとに帰ってきていった。
兄上エサオ様のもとに行って参りました。
あの方もあなたを迎えにやって来られました。
400人があの方と一緒にいます。
これはですね、久しぶりにいい関係の兄弟であったらとても嬉しいことですね。
いや、400人も連れて私に迎えてお兄さんが来てくれるんだ。
嬉しいと思うわけですけれども、でもこれは嬉しいお知らせではない。
400人だったらですね、大きな一つの部隊ぐらいですね、現代に言うと。
それぐらいの士兵たち、奴隷たちを連れてきて、ヤコブに立ち向かう最悪の事態が起ころうとしているんですね。
だからヤコブはですね、ここに来て、自分の人生のクライマックスというか、緊急事態が今日から明日に起こるだろうと、彼は察知していたことでしょう。
彼は今までの人生どんなものだったんでしょうか。
彼の人生は一言で言うならば、競い合いの人生だったんですね。競い合ってきたわけです。
お兄さんの餌をと競い合ってきました。
母の体内から双子の餌をとヤコブはぶつかり合うというくらい、そういう状態でした。
そしてヤコブは餌をと父の愛と家族内での権威あるいは主導権をめぐって戦いました。
人はですね、三つのことを一生探し求め追い求めるということなんですね。
それが一つは愛ですね。一つは金、金銭。
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三つ目は権力というものです。これは人には一生大きな一番最大の誘惑です。
愛というは性のセクスの問題。
二番目、金は金銭ですね。贅沢、裕福。
それが給料であろうが財産であろうが家であろうが車であろうが何であろうがお金と関わろうが。
三番目は権力。それは政治家だけのものじゃないです。
例えば夫婦二人だっていてもそこに主導権のあるいは権威にもって決定権をめぐってですね争いが起こりうるということです。
組織の中にもそうです。教会の中でもそうです。主導権をめぐって戦いが争いが起こったりします。
国の中でもそうですね。政治というものもそういうものでしょう。
国家間もそうなんです。主導権を持ちたい。
詳しく分かりませんが、今はロシアとウクライナの戦争がありますが、
ロシアは主導権を持ってウクライナをもう自分の属国にしたわけなんです。
自分のロシアの元々ロシアの昔の領土だったから自分の支配下に入れたわけなんですね。
権力ですよ。結局ね。主導権です。
だから結構昔の本ですけれども、アメリカのリサード・ポスター先生は、
この三つ、権力、金、性、この三つが人間には最大の偶像だ。
それにどうやって私たちは勝利するかという課題を投げつけた本がありました。
多分日本語にも翻訳されていると思うんですけれども、
ぜひ皆さんチャンスがあれば読んでほしいなと思っております。
ヤコブもそうなんです。主導権を持ちたかった。
父の愛を持ちたかったというわけですね。
で、競い合ったわけなんです。
父親はいつでもヤコブより餌を可愛がっていたんですね。
その父親の気持ちが変わらないんです。
ついに遺作が餌をに祝福の儀式をする日になっていたところでした。
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生まれながらの長子の権利、財産の一番多い部分を創得するという日が近づいてきていたわけです。
しかしヤコブは餌をに成りすまして、
ほとんど視力を失って前が見えない父親遺作をだまして、
長子の権利を受ける祝福に預かりました。
奪い取ったわけです。
競い合いから、権力欲から来たわけですね。
そして逃げまして、何が起こったか知った餌をヤコブ殺すと誓ったんですね。
こうしてヤコブは一生追われる、逃げる身となりました。
そこでもう少し掘り下げて一緒に考えていきたいと思います。
皆さん、なぜヤコブはそこまでお兄さんお父さんをだましてまで、
長子の祝福、権利、権力、指導権を結んだのでしょうか。
奪い取ったのでしょうか。
なぜそこまで彼はしたのでしょうか。
現代の我々の読者にとっては、
彼の動機は理解し難い部分もありますが、
少し考えてみるならば、わからないわけでもないと思うんですね。
ヤコブは自分がついた嘘がすぐばれることを知っていたでしょう。
実際に遺作の財産が自分に与えられたわけでもないんです。
ヤコブが得たのは単なる、ある意味でその儀式的なお父さんの承認だけなんです。
だったそれだけなのに、なぜヤコブはそこまでしたのでしょうか。
皆さんはどう思われますか。
考えられたことはありますでしょうか。
今しばらく一緒に考えていきたいと思います。
それはヤコブが、たとえ嘘であったとしても、嘘をついて、
でもお父さんからきっと、
この世界中で何よりもお前を喜んでいるよ、
俺はお前を愛しているよ、という言葉を聞きたかったからではないでしょうか。
12:10
ヤコブから見れば、彼はずっと父親の愛を受けていなかったんです。
お父さん遺作はいつも餌を餌を餌をばかりでした。
そこで愛の欠乏、愛情の欠乏がヤコブをこういうふうに作ってしまったのではないでしょうか。
だから人は自分でいい人になったり、自分で一人で悪い人になったりするわけではないんですね。
今の時代に少年、未成年の犯罪が増えているわけですけれども、
その原因というか理由というか、彼らだけが悪いからでもないんです。
特に親との関係、あるいは友達との関係の中で何かがあるから、
多くの場合には親からの愛を受けていない。
愛の欠乏、無関心、ほったらかし、傍観。
あるいはもう傍観のどころか、あるいは暴力、ビリビリと言われるね。
その中でそういう少年たちはもうそこから逃げて生きるために、
そういう犯罪に染まるしかなかったということなんですね、今の時代。
もちろん複雑ですけれども。
だからヤコブはですね、そういうところの欠乏があったわけなんです。
人は誰しも祝福を、愛情を必要としているのではないでしょうか。
私たちは自分以外の誰かから自分の価値を、その価値がたとえ小さな価値であったとしてもですよね。
誰だったら認めてもらう必要があるんです。
父も母も子どもも、神道も福祉も、
お年寄りの方も小さな子どもも青少年も、誰だって人は皆、
自分の小さな価値であっても、それを尊重してもらいたい、認めてもらいたい、
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愛が欲しいという、それがね、そういうふうに人は作られたわけなんですね。
皆さんが、私たちが最も愛する人からの愛と称賛、それに勝る報いはあるでしょうか。
ないんです。
いくら外に出て、会社に行って、学校に行って、社会でいくら称賛を浴びて浴びてもね、
最高と認められていても、もしそのお父さんが家に帰ってですね、
家にいるワンちゃんしか目を向いてくれないとしたら、それは悲しいことなんですね。
私たちは皆、この深い愛情、あるいは称賛を、両親から、伴侶から、仲間から求めているわけなんです。
もちろんですね、信仰的に言えば、神様にしかもらえないといってですね、
人からの認めてもらうことや、愛情や称賛なんて、そんなのはもういらないんだと。
神様だけで十分だと、もちろん、ある意味でそれがあっている話になりますが、
ある意味で言えば、あっていない話にもなります。
なぜなら、神様は私たちを家庭を作ってくださった。家族の中に置いてくださった。
教会の兄弟姉妹の、その関係の中に置いてくださったわけなんです。
一緒に生きるようにしてくださった。
だから、一緒に生きる家族、あるいは神の家族の中でですね、
お互いを支え合って、愛し合って、認め合って、助け合って、
そういうことが、神の国をここで私たちは見る、実現するというわけなんですね。
だから信仰が極端的に流れていっては、危険だと思うんです。
ヤコブの人生は、この祝福を得るための長い格闘でした。
父の口から祝福の言葉をもらうために、エサと格闘をしました。
ラケルの表情に愛を見ようと、ラバンと戦いました。
しかし、どれもうまくいきませんでしたね。
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すでにね、この部分はもう以前もね、触れた部分ですけれども、
どんなに頑張っても、彼の心のどこかにぽっかりと大きな穴が開いたままでした。
自分自身の親族との関係でさえ、こんなにもう波乱万丈だったんですね。
つらかったでしょうね。
誰とも平穏無事な関係は、ヤコブの人生になかったんですよね。
ヨセオのストリもいましたが、もう最後までヤコブの人生は、恩和で平穏無事ではなかったんですね。
本当に波乱万丈が、もう絶えない人生だったんです。
そして今、エサはこちらに向かっている。
父の愛を、運命を、幸福を自分から奪った男、しかももう一方、軍隊を携えて向かっています。
明日はいよいよ最後の戦いになるだろうと。
そしてですね、ヤコブが最後の夜を、人生の精査のために一人で過ごしていますね。
それが今日の聖書箇所になります。
その晩でした。深い暗闇の中で、彼は思いがけず一人の人に戦いを挑まれました。
今度は、今までは自分が何かを得るために欲しくて、格闘をするために、自分で戦いを挑んだわけなんです。
しかし今回は、知らない誰かに挑まれました。何時間にも及ぶ長い格闘でした。
日本語は格闘と訳されていますが、レスリングなんですね。相撲のようなレスリングなんです。
今日の聖書箇所、32章の24から31節までになりますが、
そこはですね、もう本当にドラマチックな展開がですね、簡潔に書かれています。
この見知らぬ不思議な人は、ヤコブと戦っている人は一体誰なんでしょうか。
この聖書はナレーターというならば、ナレーターはわざと読者には明らかにしていないんですね。
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神だ、見使いだと書かれていないんです。でもいくつかのヒントを残していました。
そのヒントの中に一つ、32章の25節を読むと、
その人ヤコブに勝てないのを見てとって、彼の桃の間接を打ったとありますね。
この打った、ヘボル語の言語の意味は軽く接触くらいなんですよ。軽く叩くくらいの意味なんです。
この場合ですね、ヤコブの桃をその指で軽く叩いたにも関わらず、間接が外れてしまったんです。
一生治らない傷になりました。ヤコブは一生足を引きずる者にされたんです。
今はこの相手がヤコブを殺さないように、手加減しているということが見てとれました。
だから、スッと接触、触れるだけで、この間接が外れてしまったわけですから、
この相手は、今ヤコブが戦っている相手は、もう驚異的で超人的な力を持った存在だということがわかりました。
そしてもう一つのことは、この人はもう言い訳前に去らないといけないと言っています。なぜでしょうか。
ヤコブは神の顔を見て、なおも生き続けられる者はいないと彼は知っていました。
それがこの人が言い訳前に去りたかった理由なのだと、後でヤコブは悟るのです。
しかしそれはですね、この人はもう神様そのものですけれども、神様から言えばヤコブを守るためなんです。
もし自分がずっと夜明けの昼間まで残っていたら、ヤコブが神の顔を見てしまう。
そしてヤコブはもう死ぬわけですから、ヤコブを守るために、言い訳前には去ろうとしたわけなんです。
たぶん、夜が明け始める薄暗さの中で、神がその姿を消す直前、
ヤコブには神のその人の輪郭をかろうじて伺うことができたかもしれない。
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だから彼はですね、今日の聖職課長に、神を見たのに私の命は救われたとね、それでその地名がペヌエルとなったでしょう。
もう面と向かって見たわけではないと思う。
そうしたら彼は死んでいるはずなんです。
死んでいない。
うっすら輪郭を、あるいは横顔を見たかもしれない。
それでヤコブは、自分が今誰と格闘していたのかわかりました。
神様そのものでした。
それを知った時、太陽が昇って来ようとしていたあの時、
彼は今までしたこともないような驚くべきことをしたのです。
ヤコブはこの人に、私を逃がしてくれ、お願いだ、死にたくないからと言っていないのです。
むしろもう逆の行動に出ました。
この神様に、この人にしがみついて、祝福してくれるまで離しませんと言っているのです。
皆さんよく考えて下さい。
この場面はですね、ヤコブが、彼はまだ変わらなくて、
もうここに来てはまた神様の祝福を何とかこんなに貪欲しているんだろうかと、
解釈することもあり得るかと思いますが、私はそう思わないのです。
彼はここに来て、変わったわけなんです。
彼は今まで、親の祝福を、その主導権を、財産を、あるいはラケルの愛を追い求めて続けてきた。
しかしどれもうまくいかなかった。
そして、何者によっても自分はもう足りると感じたことがなかった。
結果は、さまよい、植かわき、争い、波乱万丈、つらい、疲れ、嫉妬、不和ばっかりだったんですね。
彼はそれを、ここに来てようやく、この格闘をしているうちに、彼は悟ったに違いないと思います。
私はなんて愚かな者だったんだ。
27:00
今までずっと探し求めていたものが、ここにあるじゃないか。
神の祝福なんだ。他にはない、ということなんですね。
父から認めてもらえば、美しいラケルに愛してもらえば、満足できるところと思っていた。
でもそれは、役のほかですよ、神様に。
あなたからしかもらえない。だから、あなたが祝福してくれるまで、絶対話しません。
他のことはもう、どうでもいい。
ここで死んだってかまわない。
神の祝福がなければ、私には何もない。
私自身でさえない、神の祝福がなければ。
と、彼は変わったんですよ、皆さん。
ヤコブは、このように叫んでいたのではないでしょうか。
祝福、それはあなたからしかもらえない。
平安、それはあなたからしかもらえない。
重足感、それはあなたからしかもらえない。
結果、神様は、その場で不思議に彼を祝福されたんですね。
ヤコブが勝ったんですよ。
神様は言いました。
あなたは、神と戦い、勝ったからだ、とですね。
彼が勝利を得たのは、この謎に満ちた格闘家の神聖に気づきながらも、逃げずにしがみついていたからです。
もちろんここでですね、これをしがみつくの重要性を言っているわけではないんですよ。
今までずっとずっと追い求めてきた祝福。
それはもう神様にあるんだ。
ついに、ある意味でもようやく彼はここに来て分かったんですね。
しかし、その代価は、彼は足を引きずる者になることです。
そして、二十年以上、彼の人生はつらい日々の代価が実はあったわけですね。
人から、物から、それを追い求めてきた結果は、
さっきも申しましたように、不は様より虚有ものばかりだったんですね。
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不思議にもですね、エサウはヤコブを殺しに来たわけなんだけれども、
まだ会っていないんだけれども、
ヤコブは神様に出会って、
ここでやっと彼が、本当の祝福は権力に、指導権に、金にあるんじゃない?
神様にしかないんだと分かって、神様に祝福された後、
不思議にもですね、お兄さんのエサウは喜んで彼を迎えてくれたんです。
ほっとしましたね。
こうして長きに渡った家族間の不和が、もう一瞬で和解を迎えたんですよ。
不思議と思いませんか?不思議なんですよ。
最後にこの部分に来てですね、神の弱さということについてお話ししたいと思います。
皆さん、薬物人生をここまで見てですね、私たちは全部分かっていますから、
読むとちょっと困惑する部分があるかなと思います。
それは、薬物の人生を通してずっと彼はね、
すごい、見習いたい、鏡になる、美徳の鏡になる、信仰の師のような、
そう言って彼は歩んだ、振る舞ったことは、実は一度もなかったんじゃないですか?
常に愚かで、常に悪賢くて、常に競い合う、
もうそんな悪意のある行動を繰り返してきたわけなんですよ。ここまでですね。
だからですね、そこだけ見るならば、
もう神様からの祝福を受けるには到底値しないような人物が薬物でしょう。そう思えるんですよ。
それは間違いではない。本当にその通りです。
で、ここで一つ疑問が生じるわけです。
神様は聖であられ、義であられる方なのに、
なぜこんな悪賢く、悪意のある行動を繰り返している、こんな薬物をこれまで
恵み深く扱って、待遇して、ここに来て祝福までしてくださるんだろうか、ということなんです。
なぜでしょう、皆さん。
神様はこの格闘の時にですね、彼を十分ね、振れるだけで関節が外れるわけですから、
33:01
もう少し力を入れたら、そこでですね、ここが少しできるわけなんです。
しかしですね、この人神様は負けてあげたんですよ。
弱い格闘家を演じたわけなんです。
そして彼が死なないくらい、一生このことを覚えるくらいの傷というか跡というか、それを残したわけなんです。
さっきも言いましたように彼側で必死にしがみついたから、もう仕方がなく祝福したわけじゃないんですよ。
そう理解したらそれは間違いです。
それは、神様が人のために弱い者になられたことです。
人を祝福するために神様が癒やし者になられたことです。
弱い者に、愚かな者に、みすぼらしい姿になられたわけなんです。
どういう話でしょうか。
それはここに来て、ここで私たちは、イエス・キリストが人間になられたこと、呪われたこと、十字架で死なれたこと、
その弱い者になられたこと、癒やし者になられたこと、みすぼらしい姿をとられたことが、
ここに来て、このペヌエルのこの32章に来て、私たちはこれを見てとれるわけなんです。
神様はこの32章に来て、ヤクブの命を救うために、神様はわざと弱いふりをしたわけなんです。
彼を殺すこともできたはずです。
一生歩けない者にすることもできたはずですね。
しかし神様は、わざと弱い者になられたんです。
負けてあげたんです。
勝てるんだけど、勝たなかった。
負けてあげた。
この人のため、ヤクブのために、私たちのために、弱い者となられた大事件、それがイエス様の十字架と死なんですね。
あのカルバリの丘の暗闇で、神は人として現れ、最も弱い者になって下さいました。
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私たちを救うためでした。
本当の意味で弱さを軽減するためでした。
皆さん、本当の意味で強い人は誰なのか分かりますか?
それは十分勝てるんだけど、愛をもって、愛によって負ける人、負けてあげる人なんです。
何でもかんでもできるんだけれども、愛をもって、謙遜をもって譲る人が最も強い人なんです。
神様がそうでした。
イエス様は避けることもできた十字架を前にして、イエス様は命を懸けて神様に従いました。
それはイエス様自身が祝福を受けるためではないんですね。
私たちがその祝福を受けるためなんです。
弱い者になりました。
負けて下さいました。
癒やし者になって下さいました。
皆さんはどうでしょうか?
愛によって、憐れみによって負けてあげていますか?
実は強い者ですけれども、謙遜に謙遜に歩んでいるでしょうか?
そこに平和があります。
皆さんにお尋ねしたいと思います。
皆さんは神様の祝福、それが皆さんの心の奥底で実感できているでしょうか?
この愛が、あなたは私の愛する子、私はこれを喜ぶという神の言葉が
尽きることのない喜びと力の源になっているでしょうか?
本当に神様に会っているでしょうか?
似た枠は、古部が三十二章の三十節で言ったように、
私は顔と顔を合わせて神を見たのにと言ったように、
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そう言える信者で会いたいと願います。
神様は他に究極的な喜びや安心や平安はないんです。
もし私たちがどこかで何かの充足感、何かの自分の認定感や平安を求めるならば、
役部がそれを先に見せてくれます。
私のようにこんなに他の所でそれらを追い求めるならば、
そのあるものはさまよいと不安と足を引きずることしかないんですよ、皆さん。
注意してくださいね、と彼は何千年前も明かしをしているわけなんです。
神の他に喜び、平安、究極的な喜びはありません。
私たちが神様を求めるならば、神様は必ず会ってくださるんです。
お祈りしましょう。