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皆さんおはようございます。 今日もいい天気の中で、また皆さんも
お元気そうな様子で、このように大勢の方が集まっていただいて、共に礼拝できますこと、本当に嬉しく感謝しております。
本当に日々皆さんに祈っていただいて、私の体調といいますかね、それも支えられてですね、過ごしております。
先週の金曜日は、半年ぶりの脳のMRI検査をしました。
結果はですね、今週の金曜日に出ますけれども、
1月に最初診断を受けるときに取りまして、異常なかったんですね。
そして5月末頃、もう1回取って、その時も無事でした。
この5月末からですね、ずっと抗がん治療をストップしているのでですね、
腹部の方は幸いに転移はなかったんですけれども、
私も病気になって初めて分かりましたが、がんの中でですね、肺がんが脳転移が一番多く発生するそうなんです。
その症状があったりなかったりするので、実際に転移があっても症状がない場合もありますし、
ひどい症状が出る場合もあって、ひとさまざまだそうです。
皆さんが見てもですね、私が変な様子はないんじゃないですか。
その動きがちょっとおかしくなったり、ものすごく忘れてしまったり、
運動神経が悪くなったりすることもあるんですけど、実際に微妙に小さく転移があったら、
症状はないこともあるらしいんです。それで、手に委ねてですね、検査してあまり心配しないで、
忘れて元気に過ごしておりますので、またいい結果が出てですね、
肺炎の治療もうまく進んでですね、また早めに治療が、抗がん治療が始まってですね、
手にあって完全に癒されて、手の働きのためにですね、奉仕させていただきたいと願っておりますので、
本当に見えるところ、見えないところで、本当に皆さんが祈ってくださっていることを本当に感謝しております。
一言短くお祈りします。神様感謝します。今日もこのようにして、本当に主が私たち一人一人を愛して守ってくださって、
この礼拝に集めてくださって感謝します。あなたに賛美を捧げました。祈りを捧げました。
また、今から主御自身が私たち一人一人にお言葉をお与えくださいますように、
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その御言葉を命の糧として受け止めて、信じて委ねて御言葉通りに歩むことができるように、
主をどうぞ、うちなる人を清め強めてくださいますように、喜びと感謝で満たしてくださいますように、お願いいたします。
イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
漱石の36回目です。今日は28章に入りました。
ヤコブに会ってくださる神というタイトルです。
ヤコブの話が続いています。ところでですね、漱石の中にヤコブのストーリーも結構長いんですね。
でも、今学んでいますけれども、最初から最後までですね、ヤコブのお話はそんなに美しい話だとは考えにくいんですね。
もしこのヤコブのストーリーがですね、私たち自分の話だったら、多分隠したいんですよね。
みんなに知らして、真似してね、すごい模範でしょうとは言えないと思うんですね。
しかし皆さん、ここで一つ短く話をまずしますと、聖書はこのように、ヤコブだけでありませんが、ヤコブのように綺麗ではない話、
隠したい話、恥だらけの話、過ちばかりの話を隠していないんです。
事実を事実のままに書いているということなんですね。それが聖書なんです。
これだけ見ても、聖書は信頼できるものですし、信頼すべきものなんです。
もしですね、この聖書が、架空の空想の作り話だったら、あるいはいろんな人々、神の話とか、そこに出る人物の偉人伝みたいな話として書くんだったらですね、
こんな恥ずかしい、恥だらけの話は多分書かないと思うんです。
立派な話、素晴らしい、成功した、そんな話ばかり書くんじゃないですか。
でもね、聖書は事実を事実として書いて、実際に実話であって、本当に歴史上に起きたことが書かれているんです。
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だからね、これだけ見ても、聖書は本物であり、信頼しなければならないものなんです。
さあ、ヤコブの話に入っていきたいと思うんですけれども、前回、前々回学んだように、母リベカとヤコブは企んで、父イサクをだまして、
長男が受けるべき祝福を、お父さんからの祝福の祈りを奪い取ってしまいました。
これはどう見ても正しいやり方ではありません。その後、このヤコブを待っているのは何でしょうか。
それは兄エサウの行き通りと殺意でした。
だからね、このままでは一緒に暮らせないんですよ。
だから今日の話に書かれているように、ヤコブは生きるために兄から逃げるしかなかったんですね。
そしてですね、もう母もそれわかっているから、母リベカはヤコブを自分の兄のところ、ハランという場所に住んでいますが、そこに逃がせるんですね。
そして兄エサウの行き通りが収まるまで、叔父ラバンのところに留まっているようにヤコブを避難させるんです。
これでこのヤコブの逃亡生活が始まる。悲しい、彷徨いの人生がここから始まろうとしているんですね。
さあ、ここで皆さんに一つ突然ですが、クイズを一つ出したいと思います。皆さん考えて当ててみてください。
さあ、聖書にはその年齢年が書かれていないからですけれども、ヤコブが今日のこの逃亡をし始めたときは、彼は何歳だったと思いますか、皆さん。
1番、20歳。2番、30歳。3番、50歳。4番、76歳。何歳だと思いますか、皆さん。
さあ、今から話をしますよ。ちょっと一緒に考えてみたいと思うんです。これが非常に重要なことではありませんが、ちょっと考えたらまたヤコブの話が深くピンとくると思うんです。
まず、26章の34節を見ると、エサウは40歳になっているんです。
そしたら当然ヤコブも40歳でしょう。双子ですから。
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さあ、それから27章に移るんですけれども、26章と27章の間は、たぶん結構の年が経っていると思われるんです。
27章の1節を見たら、イサクが年をとり、目がかすんでよく見えなくなったとあるんですね。
だから、だいぶ時間が経っているんです。どれくらい経っているのか、ここからはわからないんですけれども、他の箇所から見て、逆算して遡って見ていきたいと思うんです。
さあ、後々ヤコブが妻が2人いて、子供が12人生まれるんです。そこにヨセフがいるでしょう、皆さん。聞いたことありますね、ヨセフ。
このヨセフのおかげで、イスラエルにもエジプトにも大きな基金があって、そしてヤコブの家族みんながエジプトに移住するんですね。
そして初めてこのヤコブが、エジプトの王様、ファラオに初めて出会ったときに、ヤコブが自分の年が130歳だと言っているんです。
さあ、字幕を出しますので見ていきましょう。47章9節ですが、ヤコブはファラオに答えた。私が辿ってきた年月は130年です。
このときヤコブが130歳なんです。
さあ、そうするとですね、それからもう1節、次、41章46節を見ていきましょう。
エジプトのファラオに仕えるようになったとき、ヨセフは何歳ですか、30歳であった。
ヨセフはファラオのもとから出発して、エジプト全土をめぐった。
この41章の46節にヨセフは30歳でした。
それから9年間の寄金があって、さっきの47章9節のときになったわけです。
そうすると、さっきの47章の9節のときはヨセフが39歳頃なんですね。いいですか。39歳です。
さあ、そうすると130のヤコブの年からヨセフの39歳を引くと何歳になりますか。
130-39したら91。素晴らしい。91歳になるんです。
ヤコブがファラオに出会ったときは、ヤコブが91歳なんですね。結構なおじちゃんですよ。
さあ、ここからもう一つ考えていきたいと思います。
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そうすると、91歳にヤコブがヨセフを産んだということになりますね。そうでしょう。
39を引いたからね。皆さんの子供の年を皆さんの年から引いたら、皆さんの年にその子が生まれたということになりますね。
さあ、もう一つ見ていきましょう。
31章の41節を見ていきますね。
さあ、このときはヤコブが今日始まるラバンの、おじラバンのところに避難して、そこで20年がたった後の話です。
今、遡っていますよ。私はこの20年間あなたの家で過ごし、その次ですね。
14年間はあなたの二人の娘たちのために、この二人の娘の一人、ラケル。姉の方ですけどね。ラケルがヨセフのお母さんなんですよ。いいですか。
二人の娘たちのために、6年間はあなたの群れのためにあなたに仕えてきました。しかもあなたは何度も私の報酬を買いましたとあります。
さあ、そうするとヨセフが今日逃亡するんですね。逃亡して、おじラバンのところに行って、そこで14年間働くんですね。
で、2番目の奥さんになったのがラケルなんです。そのラケルから生まれた子がヨセフなんですね。
そうすると、だいたい14年、15年ぐらいにヨセフが生まれたということになります。
さあ、そうすると、先、91歳にヨセフが生まれたと言ったでしょう。そうすると、91から15を引くと、いくつになりますか。
さあ、字幕を出してください。その次。計算して出しますね。はい、その次。その次。いやいや、前、前。あの計算の白いやつ。あれ、なかった。
すみません。一つ画面がないですけどね。91から15を引くと、だいたい76になるんです。これね。
ヤコブが逃げたときだから、だいたいですよ。76歳、77歳、若くても74、5ぐらいなんです。いいですか。
青年じゃないんですよ。だいたい皆さん、青年だと思ってですね、たまにCSの絵にですね、この時のヤコブをめちゃくちゃ若い青年に描いたりするんですけど、青年じゃないんですよ。
すみませんが、水上さんぐらいの年なんです。すみませんね。でしょ。だいたいそのくらいなんですよ。
今、ヤコブが逃亡しているこの時が、75、6、7ぐらいのおじいちゃん。いいですか。
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お話ししたいのは、ヤコブはこの年になって、まだ結婚していないこともちょっとあれですけれども、
この高齢になって、彼は悲しい人生が始まってしまった。逃亡が始まったわけなんです。
さっき見たように、20年間も親から離れてしまった。しかもですね、この決して若くないこの年に逃亡が始まったんですけど、
今、ヤコブが行こうとしている、おじいラバンが住んでいるハランという町はですね、このベールシェバからおおよそ900キロメートル離れているんですよ。
だから遠いんですよ、皆さん。今このヤコブの話は、紀元前だいたい1930年頃の話だから、今から3950年前の話なんです。
みどこないんですね。3900、だいたい4000年前の話なんです。
だからね、一人旅でしょ。900キロメートルだから、もう1か月以上かかる距離を彼はアラノを通って、ヤマを通って、ノアラを通って、一人旅をして行くわけなんです。
これはね、そんなに美しい別れではないんですね。
ヤコブがだいぶ大人になって立派になって、自立できてですね、ようやく親の元を離れるようになった、そんなに麗しい話ではないんです。
悲しいんです。起きてほしくない話です。逃亡なんです。避難なんです。
後ろはね、兄の餌尾の行き通りと殺意が燃えているんです。
そんなヤコブの人生が今日ここに、とてもセキナラにリアルに描かれているんですね。
我が家のことですけれども、いよいよ来年の春にはですね、長女が親の元を離れるようになりますね。
学生としての勉強も終わって、就職先も決まってまして、いずれにもいずれにしても神戸を離れることになります。
東京か大阪になるかなと思いますけどね。
小学生、5年生、小さい女の子が選挙主の親に連れられて、わけもよくわからないままですね、日本に来て
13年が経ちました。そのうち9年間、本当に明太に教会の皆さんに支えられて、祈られてここまで
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来ることができたなと思うところですね。本当に神様にも皆さんにも心から本当に感謝しております。
我が家の場合は、まあまあ麗しい別れに、まあ寂しいんですけどね。
別れになりますが、このヤコブの離れ、別れは、
麗しい美しい話ではありません。逃亡なんです。
兄の生きどりが収まるまで、しばらくもう殺されないように逃げるしかないんです。
75、6歳の高齢の人が、まあ今風に言いますとですね、その年になったらですね、安定して
子供や孫に囲まれてですね、丁寧に退職して
どこかのシルバーカレッジに通いながら、あるいは
赤城海峡大橋を眺めながら、エデンを描きながらですね、老後を安らかに過ごす年じゃないですか。
そんな年にヤコブは今、逃げてるんですよ。
悲しいんです。真似したくないんです。
そして、そこをどこを見てもですね、このヤコブは正しい、素晴らしい、清い
という要素は見えないんじゃないですか。見えないんですよ。
この時のヤコブの様子を皆さん、モアにして真似したい方、誰もいないんです。
真似したくないんです。
しかしですね、このような悲しくて隠したいことは、たまたまヤコブの運が悪くて
事故で起きてしまった出来事ではないんです、実は。
ヤコブ自身の肉の欲望によって出来てしまった事件なんです。
ヤコブ自分で真似した結果なんです。
人のせいではないんです。自分のせいなんです。
ヤコブ自分自身の罪が招いた報酬なんです。
長男の祝福を、神のやり方ではなく自分のやり方でですね、無理やりにもう奪い取った罪の結果が
今から始まるとしているんですね。
ところで、今日の28章の11節を見ると不思議なことが、このような惨めで美しくない、モアにしたくないヤコブの人生に
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一方的なことが始まるんですよ。ここに注目したいんです。
ヤコブはある場所にたどり着きました。野原でしょう。荒野かもしれません。
一夜遅くでも明かすことになります。いわゆる盲熟をするわけなんですね。
枕をね、舞枕を持っているわけじゃないですからね、石を取って枕にして、横になって寝るわけなんです。
すると彼は夢を見ました。不思議なんです。
一つの梯子がですね、この天と地に立てられていて、その上の梯子は天に届いているんですね。
そして、なんと空っぽの梯子ではなく、その梯子の上に神の使いたちが、その梯子を上り下りしているんですね。
不思議な光景を見たわけなんです。
そして、そこには見つかりだけではありません。その梯子の上には、なんと神様が立っておられるんです。
そして、神様がそこでこのヤコブに語りかけてくださったということなんです。
実はですね、今日の13、14、15節は本当に不思議な神の愛、恵み、それから後から話をしますけど、
福音というものはどういうものなのかを教える、とてもありがたい感謝のお言葉がね、13、14、15節に書かれているんです。
そこをもう一度ですね、一緒に見てみたいと思います。
ちょっと聖書も出してくださいね。あるいは皆さん、聖書を開いてください。
28章の13から15節ね。恥ずかしいことをしてしまって、過ちをしてしまって、罪を犯してしまって、
その自分が招いた、巻いたその種の本当に苦労を彼は今、味わわせられているそのヤコブなんですよ。
とっても素晴らしいことをしたヤコブじゃないんですよ、皆さん。そこを忘れないでくださいね。
そんな失敗、人生のどん底に落とされているそんなヤコブ、この人間の社会だったらもうね、見たくない、関わりしたくない、もう友達いよいよにしたくないようなヤコブなんです。
そんなヤコブのところに神様が来てくださった。近づいてくださった。そしてこんなお言葉をくださった。
ご覧ください。13節。そして三代主がその上に立って、こう言われた。
私はあなたの父アブラハムの神イサックの神主である。私はあなたが横たわっているこの地をあなたとあなたの子孫に与える。
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14、あなたの子孫は地の地理のように多くなり、あなたは西へ東へ北へ南へと広がり、
地のすべての部族はあなたによって、またあなたの子孫によって祝福される。
見よ、私はあなたとともにいて、あなたがどこへ行ってもあなたを守り、あなたをこの地に連れ帰る。
私はあなたに約束したことを成し遂げるまで決してあなたを捨てない。決してあなたを捨てない。
どうでしょうか、皆さん。ここには、この地をあなたとあなたの子孫に与えるという地に対する祝福。
それから、あなたの子孫が多くなるという子孫の祝福、子孫の繁栄の祝福。
それから、そのあなたとあなたの子孫によって周りの人々が祝福される約束。
その次はどうですか。私はあなたとともにいる。あなたを必ずこの地に連れ帰る。私はこの約束を必ず成し遂げる。
そして最後に、あなたを決して、どうしますか、捨てない。
アーメンでしょう、皆さん。あまりピンとこきません。
あまり感動しないんですか。
皆さん、感情がちょっと枯れていますね。
皆さんの心の感情に水やりをしてください。
潤してください。枯れていないんです。
皆さん、ヤコブはこんなとんでもないような祝福の約束を受けられる身分じゃないんですよ。
そんないいことをしていないんですよ。
悪いことをしていて、騙して、奪い取って、逃亡している彼なんです。逃亡中なんですよ、皆さん。
義徒、正しい、清いというところは、天国にいるヤコブさん、ごめんなさいね。一切ないんですよ。
そんな彼のところに神様が先に近づいてきてくださって、こんなどん底に落ちているヤコブに会ってくださった。
そして、こんなに豊かな祝福のいくつもある約束をしてくださった。
しかもその約束を必ず成し遂げると、そこまで保証して約束してくださったんですよ。
何と素晴らしいんでしょうか。
これだけ見たらヤコブがどれだけ幸せな人なんでしょうか。もう羨ましくらいなんですよ、皆さん。
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ところで、このところからヤコブの話は、私たちに神の恵み、つまり福音とはどういうものなのかを教えている、とても良い話なんですよ、実はね。
今ヤコブは人生のどん底まで落ちてしまっています。
高齢の人が親と家族を離れて、遠いところまで逃げていかなければなりません。
兄の生きどりは燃えています。
お家のところに、波瀾にどれくらい留まればいいかわからないんですよ。
もう20年になったわけですけれどもね、長いでしょう。
75歳の人が20年間そこにいたわけですからね。
しかも20年間、もうほねおる労働をさせられたわけなんですよ。
不安と恐れが押し寄せてくるでしょう。
未来は何も確定されていないんです。
何も保証されていない境遇なんですよ。
しかもですね、彼がいいことをしたのに誤解されたり迫害されたりしているわけでもないんです。
自分がしてしまったあの肉の欲望の仕業のために、このように逃亡するしかない身になっているんです。
決して美しくもないし、信仰的に模範にもなれないこのヤコブなんですよ、実は。
だからね、どうですか。
このままだったらですね、このヤコブの様子は神様に祝福されるどころか、褒められるところも認められるところもないんです。
こんなに素晴らしい主曲の約束のお言葉をいただける素晴らしいことは何にもしていないんです。
しかしどうですか。
こんなヤコブでさえも、主はこんな過ちだらけの彼、肉の欲に従ってしまった彼、騙し取った彼、彼を神様は先に近づいてくださった。
そしてこんなにもこの地を、子孫を共にいて連れ帰る、決して捨てないという素晴らしい約束のお言葉を神様が先に一方的に語りかけてくださったんですね。
不思議にも彼を責めるところもないんです。
お前はなんでそんなひどいことをしたのか、とも言われない。
彼を帰りみてくださるし、本当に不思議ですね。
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わからないくらいなんです。
皆さん、今から皆さんに答えてほしいんですけれども、矛盾している彼に先に近づいてくださったのは誰ですか。
神様です。
どん底に落ちている彼に先に近づいて祝福してくださったのは誰ですか。
神様です。
過ちだらけ肉の欲に従っている彼を祝福してくださったのは誰ですか。
神様です。
答えていいんですよ、皆さん。
すべては神様が先になさったんですよ。
実はヤコブは、彼がしたことは何もないんですよ。
彼が立派な人だから、今日のこの13から15の素晴らしい祝福のお言葉を受け入れられたわけではありません。
彼がとっても頑張ったから受け入れられたのでもありません。
彼がとっても良いことをしたから、とても気良いことをたくさんしたから、こんなお言葉をいただけたわけでもありません。
あるいは彼がのずくするときに、夜通し祈ったから受けたわけでもないんです。
不思議だとしか考えられないんですね。
ただ神様が一方的にしてくださった、それをヤコブはただ受けただけなんです。
そうでしょ、皆さん。
ただ受けただけなんですよ。
いただいただけなんですよ。
彼が何かをしたから、その報いとして神様がこのお言葉をくださったわけではないんです。
いいですか。
これが皆さん、実は福音なんです。
福音とは、よきしらせ、日本語で言うとよきしらせと訳されて、それ良いことだと思うんです。
だから皆さん、ちゃんと聞いてくださいね。
福音、よきしらせとは本当の意味はね、
ただ神様がイエス・キリストにやって、私たちにしてくださったこと、それが福音、よきしらせなんです。
まるでヤコブは何もしていないし、受ける何の値打ちもないのに、神様がヤコブを一方的にこんなお言葉をくださったでしょう。
その通りなんです。
福音、つまりよきしらせはですね、私たちが何かをしたからいただけるものではないんです。
もう一人言いますよ。
私たちが何かをしたから、神様からいただけるものではないんです。
それは福音じゃない。それはもう一つの宗教ですし、もう一つの道徳になります。
もはやそれは福音でなくなってしまいます。
福音はなぜ、それがよきしらせなんでしょうか。
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それは神様がイエス様を通して、私たちのために、私たちに、ただ神の行為によって、与えなしに、喜んで無限に与えてくださったもの、それが福音、よきしらせなんです。
それを私たちは、ただ信仰によって、それを受けただけなんです。
しかもどうですか。信仰さえも私から出たものではないでしょう。神の賜物なんです。
だからね、もうどこからどこまで、全部神様から、神様がくださったものを受けただけなんですよ、私たちは。
信仰さえも神様からの賜物だから。
だからね、皆さん、なぜ福音なんでしょうか。なぜよきしらせなんでしょうか。なぜキリスト教が、私は宗教とは言わない。
福音なんです。なぜ福音なんでしょうか。信じさえすればいいからなんです。信仰さえあればいいからなんですよ。
神の恵みを受けるために、私たちに頑張ることや奉仕や努力や善行などを求めることは神様なさいません。
そんなことをしたとしても、神様を満足させることはできないからなんです。
よくですね、キリスト教をもう一つの宗教みたいに、何かのアクセサリーみたいに、何かをまたしなくてはいいこと、綺麗なことをしなくてはならない一つの道徳主義、宗教として身につけたりする
クリーチャーが、あるいはそういうふうに考える求道者やミシンジャーがいたりしますけど、それは違いますね。違います。
皆さん、私のことについて考えてみたいと思いますが、他の国も多分そうだと思いますけれども、この日本では小さい時からルールが多いんですね。
何かをしなければならない、してはいけない、数多くのルールの中で生きてきました。今はもうそうかもしれません。
迷惑をかけてはいけない、うるさくしてはいけない、騒いではいけない、暴れてはいけない、学校に遅刻してはいけない、宿題をしなければならない、学校に行かなくてはならない。
小さい時から大人になっても、いやもう亡くなるまでですね、ルールばかり社会の中で暮らしています。
しなければならない、してはいけないことが、もう山ほど数え切れがたくさんあります。
しかもその中で、もう頑張らなくちゃ、これをしなくちゃ、みたいな頑張る社会の中に我々は過ごしているわけです。
何十年も、五十年、六十年、七十年、八十年、その土台の上で家様に出会って信仰を持っているんですけれども、
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その土台の上に立っているわけですから、少なくないクリスチャンが神様を信じても、本当に自由にする福音を肌で受けたのにも、
本当の自由や福音の恵みを味わい切っていないんじゃないかなと思います。
こういうふうに思いながら信仰を持っているからだと思います。
やはり神様ために頑張らなくちゃ、良いことをしなくちゃ、人々のために良いことをしなくちゃ、
世話をしたり面倒を見たりしなければならないでしょう。
礼拝しなくてはならないでしょう。奉仕もしなくてはならないでしょう。研究もしなくちゃ。
もうユン先生に目を開けちゃいけないでしょう。伝道しなければならない。神様に怒られる。
良いことをしなければ、もう神様に認められない。人に褒められない。
教会のために役に立つことをしなくてはならない、しなくてはならない、みたいな。
そういう何かしなくてはならない、してはいけない、そのもう一つのルール。
立法主義のような縛りで自分を縛って、縛って信仰生活をする人が実は少なくない。
皆さん自分自身どう思われますか。
このようなもう一つの鎖で、社会にも縛りがたくさんあるのに、
教会に来てもう一つのキリスト教という縛りをもう一つつけて、自分をまた閉めたら、皆さんは本当に不幸なんですよ。
社会の縛りにもう一つ、一般の人は持っていないキリスト教の縛りをもう一つ持って、自分を閉めているわけですから。
そうすると本当に二重の苦しみになるわけなんです。
しかし福音はそうではないんです。
だから奉仕をする目的か、今日礼拝する目的か、神の恵みに本当に感謝して、感謝にあふれて奉仕をしていきたいんです。
逆じゃなくて、人の目を気にしたり、良いことをしなくてはならない義務感に縛られたり、
人にも神様に認められたくて、褒められたくて、そしてそうしたら自分の価値が上がる、そうしないと自分の価値が悪くなる、
そんなことに左右されている限りは、本当の福音を味わっていないんです。
皆さん、奉仕と申しますが、ヤコブはこの時に良いことをしていないんじゃないですか。
悪いことをして逃げているものなんです。
そんな彼に神様が先に近づいてくださって、こんなにも素晴らしい土地も子孫も共にいてくださる、
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連れ帰る、この約束を成し遂げる、あなたを決して捨てない、こんなに素晴らしい約束の言葉をくださった。
だからこれが福音であり恵みなんです。判明ですか、皆さん。
皆さん、私たちが良いことをしたから救われましたか。
そんなことはありません。
素晴らしい、清いことをしたから礼拝できていますか。
恵まれているわけではないんです。
私たちが何にもする前に、良いことをする前に、神様は私たちを祝福することを定められた。
私たちが生まれる前、世の始めから、私たちを神の子供にすることを定められたということなんです。
私たちがまだ弱かったとき、不経験なもののとき、神の敵であったときに、私たちを選んで召して救ってくださったんです。
だからそれが福音であり恵みなんです。
ただ私たちは信じさえすればいいんです。
神様の恵みや祝福を受けさえすればいいんです。
そして受けて喜んで楽しんで、その恵みを、福音をよく知らせながら味わえばいいんです。
私たちを何かをしなければならないとか、してはいけないとか、そういう縛りから解放するのが福音なんです。
自由にするのが福音なんです。
ガラテアの御言葉をちょっと見ていきましょう。
字幕を出してくださいね。
ガラテア御書一節です。
そこに自由が何なのか書かれています。
ガラテア御書一節。
キリストは自由を得させるために私たちを解放してくださいました。
皆さんこれを覚えてください。
自由を得させるために解放してくださったんです。
ですからあなた方は固く立って、再び奴隷の首輝を負わされないようにしなさい。
いいですか。
もう一箇所、同じガラテア御書十三節。
兄弟たち、あなた方は自由を与えられるために召されたのです。
ただその自由を肉の働く機械としないで、愛をもって互いに誓い合いなさい。
それからもう一節、御書二十五節。
私たちは見たまによって生きているのなら、見たまによって進もうではありませんか。
自由だから何もしてもいいんですよ、あるいは恋愛しなくていいんですよ、そんな話ではないんですね。
見たまによって生きているんだから、見たまによって進みましょう。
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この自由を肉の罪を犯す、そういう機械とするんじゃなくて、愛をもって互いに使い合いましょうという話なんです。
さあ、戻りましてメッセージを終わりたいと思います。
ヤコブは本当に人生どん底に落ちています。
失敗だらけ、過ちだらけ、罪のど真ん中にいるヤコブです。
不安と恐れでもいっぱいです。
彼の行いや品性は決して神様に受け入れられるような美しい正しいものではありません。
しかし、そんな彼をも、神様は受け入れてくださって、帰りみてくださって、祝福してくださいました。
彼にあなたと共にいる、あなたを守る、あなたを連れ帰る、あなたを捨てない、この約束を必ず成し遂げるという素晴らしいお約束の言葉をくださいました。
これが神の福音であり、恵みであり、私たちにも与えられている、自由にする良き知らせなんです。
皆さん、愛する皆さん、この福音の恵みに預かっているものとして、自由にしてくださった主のお礼に従って、喜んで、
主に仕え、教会に仕え、兄弟姉妹に仕えて歩んでいこうではないでしょうか。
お祈りしましょう。
一言お祈りしますよ。
神様、感謝します。