1. 名谷教会
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2025-11-02 30:17

2025/11/02:今もなお語る声

2025/11/02 召天者記念礼拝

加藤満牧師

サムエル記第一 -19

ヘブル人への手紙 11:4


サマリー

商店舎記念礼拝では、信仰を持って走り抜かれた先人たちの生き様が語られ、死と復活の希望について考察されます。また、サウル王の生涯を通して、神を恐れない姿勢と信仰の重要性が強調されます。このエピソードでは、サウルの悔い改めとそれに続くサムエルとの対話を通じて、信仰が語る声の重要性が示されます。特に、過去の行動が未来にどのように影響するのかを探り、信仰の継承とその存在の意義について考察されています。さらに、内弓氏が復活のイエス・キリストとの出会いを通じて得た信仰の確信についても語られ、信仰や救いの重要性が強調され、後の世代に伝えるべきメッセージが示されています。

商店舎記念礼拝の意義
それでは一言お祈りをいたします。
恵み深い天の父なる神様、
今日も私たち一人一人を主の御前へと招いてくださり、
あなたを仰ぎ、御一緒に礼拝ができます栽培を感謝をいたします。
商店舎記念礼拝を今朝は迎えています。
祈っていただいたように、私たちの先に主を仰ぎ、
信仰を持って走り切られたお一人一人のことを覚え、
その人生の生き様と信仰を通して、
また私たちが語り直されるような、そのようなひと時を持とうとしております。
主よ、あなたは今も私たちを支え、
私たちが倒れ切らないように永遠の懐を持って、
その下で支え続けてくださっています。
それは私たちを確かに主が愛し抜いてくださり、
その十字架の父よによって罪を許し、神のことし、
それだけではなく復活の命、永遠の命を今私たちに与え、
永遠なる主と結びつけられ、決して死をも切り離すことのできないような、
神様との愛の交わりの中に生かし続けてくださっているからです。
どうか主よ、あなたのその救われ、あなたのものとされている豊かさを、
この礼拝のうちにもまた明らかにしてくださり、
あなたの命の言葉によって私たちを強めてくださいますようにお願いをいたします。
世界は本当に混沌を極めておりますけれども、
どうかその世界の中にも誠の王である主御自身が、
その支配を新たにしてくださいますようにお願いをいたします。
ここに来たくても来れないお一人一人がいることも覚えています。
ご自宅で礼拝を守っておられる方、施設でおられる方、
心がここに来たくても来れない方、また今日は商店舎記念礼拝ということで、
各地の教会に行っておられるお一人一人がいることも聞いています。
置かれているところにおいて、主御自身が豊かにお一人一人望んでくださいますように、
あなたの本当に励ましを今日も受けることができますように導いてください。
お願いをいたします。
御言葉に聞こうとしています主御自身が、これからの時を導き、
お一人一人に語ってくださいますように。
期待して、やつ様のお名前によってお祈りをいたします。
アーメン
サウルの失敗
改めて今朝は商店舎記念礼拝をご一緒に迎えております。
信仰をもってこの地上の生涯を走り抜かれた、
そして今は天に還られた兄弟姉妹を覚え、
またなおも癒されない悲しみがあるのであれば、
慰めを祈るために私たちはこの礼拝の時を持っております。
人の死というものを教会では天に召されたと証言をいたします。
商店舎記念礼拝の正に商店という言葉がそのような文字が使われています。
それはキリスト教信仰、キリスト舎というのは死は終わりではないということ。
復活という希望を持っているということ。
そしてその希望とは何か、たとえ私たちの前に死の現実が横たわろうとも、
キリストイエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできない。
そのようなローマ書の8章の39節に約束されている。
そのような約束、そのような希望を持っている。
そのことを今朝またご一緒に確認したいと思います。
キリストの愛は死を持っても切り離すことはできない。
確かに私たちは握られているんだ、神に握られているんだということを覚えていただきたいと思います。
そしてそのような希望を持って歩まれた方々の信仰と生涯というものは、
今なお私たちに語りかけ、私たちを大きく励ますものだろうと思っています。
余談かもしれませんが、私の宝物を一つ今日持ってきました。
北方待望教会の60周年記念詩というものです。
私はこの教会で3年行事をしたんですが、
その中で教会の記念詩が欲しいという願いが出されました。
教会の方には救いの証と哀傷成果、哀傷成果を書いていただいて、
私は60年分の修法に目を通して一応念票を足りないながらにもまとめさせていただきました。
そのような中で一つこだわったというか願ったことは、
昇天会員の方々の証を載せたいということでした。
なぜなら、北方の教会に行ったときに口々に
何々さんはね、という話をよくするんです。
目された方々の何々さんはこうだったね、何々さんがいたらこうするよね、
ということをよくよく多くの方々が話しておられたからです。
それを聞きながら、目されたあの人この人はこの教会の中にまだ生きているんだなということを
私自身も思わされて、ぜひ記念紙の中にはその方々の証、
残存するものだけですけれども載せさせてくださいということで載せました。
これは正解だったと思います。
本当に励まされるような証をいくつも載せさせていただきました。
その記念紙の中で、実は昇天会員の方々の証の前に載せた聖書の言葉が
今朝のヘブル書の御言葉です。
11章の4節
信仰によってアベルは会員よりも優れた生贄を神に捧げ、
その生贄によって彼が正しい人であることが明かしされました。
神が彼の捧げ物を良い捧げ物だと明かししてくださったからです。
彼は死にましたが、その信仰によって今なお語っています。
先に召された方々が、何か礼拝で語るわけではありません。
ただその人たちが残した信仰の生き様です。
その信仰が今なお語っているということをヘブル書は語ります。
そこにおそらくもしかしたら私たちも、
ああ改めて聞きたいと思うそのような信仰が今なお語っているということを
おそらくもしかしたら私たちも、ああ改めて聞きたいと思う
そのような声があるかもしれません。
少なくとも今朝お開きいただいたこのサムエルキのサウルというのは、
まさにその死者の声を求めた人物でした。
少しサムエルキの箇所も見ながら、
今朝のメッセージをご一緒に受け止めさせていただきたいと思います。
二つのポイントでお話をいたしますが、
第一のポイントは、死者の声を求めたサウルです。
死者の声を求めたサウルということです。
私たちは順に第一サムエルキを今まで読んできています。
そこから少し今朝は飛びまして、
前回17章だったんですが、今朝28章に飛んでしまいました。
ただ、これまで読んできた17章までと、
この28章をつなぐ一つの出来事があります。
それは28章の1節にも書いていますが、
テリシテ軍がイスラエルを攻めたタイミング。
テリシテ人がイスラエルを攻めたタイミング。
特にそれは、サウルが王になってから3回あるんですね。
今朝の話はその3回目ですが、
1回目と2回目と3回目を並べて確認をすると、
サウルという人がどういう人生を生きたのかということがよくわかるのです。
そのことを通して少し今朝サウルの人生を振り返りたいと思いますが、
まずサウルが王になってからテリシテ人が攻めてきた最初のタイミングは13章でありました。
13章の5節というところにはテリシテ人が攻めてきて、
その兵隊の数は海の砂のようだったということが書いてあります。
王に任命されたサウルでありましたけれども、
彼の問題は誠の王である、王であっても恐れなければならない、
誠の王である神様を恐れない人間だったということです。
彼が恐れていたのはいつも自分に対する周囲の評価でした。
もしくは自分は小さい人間だという自己憐憫が彼を締め付けました。
その結果彼は大きな失敗を起こします。
思い出していただきたいのは、彼は王であるのに、
祭司サムエルを待つことができずに、祭司がする役割、
前生の生贄を捧げるという、そのことを待ちきれずに自分でやっちゃうんですね。
いわばこれは神様が定めた秩序の中では越権行為でありました。
この彼の行動から一言でサウルはこういう人物だと言えることは、
彼は人を恐れて神を恐れない人物であるということです。
人を恐れて神を恐れない。
祭司サムエルもサウルに呆れてしまいます。
今やあなたの王国は立たないと宣言をされます。
その通りに神様はサウルを王から退けると決定したのが一回目の戦いでした。
さて二つ目の戦いは十七章に出てまいります。
十七章においてもまたセリシテ人がイスラエルに立ち向かおうとするのです。
ただこの時に登場したのはサウルの次に神が王として選ばれたダビデであります。
ダビデは体長3メートル近くある巨人ゴリアテに単身で立ち向かっていくというような実に勇気のある少年でした。
しかし彼の勇気には根拠があったのです。
十七章の三十七節というところを読みますと
サムエル記第一の十七章の三十七節というところ
旧約聖書の510ページの下の段になりますがこういう言葉があります。
そしてダビデは言った
シシやクマの爪からしもべを救い出してくださった主は
このセリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。
最近クマが出てきてちょっと怖いです。
ただシシやクマの爪からもしもべを救い出してくださった主は
ダビデは何度も危機的状況に置かれながらも主により頼み
その度に神が私を助けてくださったという経験を持っている。
それゆえに生ける神は私が戦うんではなくて
生ける神ご自身が巨人ゴリアテとも戦ってくださると彼は信じた。
ダビデはこういう点で見るとサウルと真逆の人間なんです。
ダビデの信仰
彼は人を恐れず神を恐れる人間でした。
それがダビデであります。
その後神様はダビデに数多くの戦火を与え
曰く人々が謳った言葉は
サウルは千を打ち、ダビデは万を打ったという言葉でしたね。
18章の7節にあります。
実に激しい惨めさに襲われたであろうサウルは
ダビデを嫉妬し、そして強い殺意に駆られて
ダビデを殺そうと格殺をし始めます。
親友ヨナタンの協力を得てダビデは命からがら逃げ延びますが
サウルはこの後の話をご存知の方はよくお分かりかと思います。
サウルはずっとダビデを殺そうとします。
しかし今朝の3回目の戦いです。
再びペリシテ人がイスラエルと戦おうとして軍隊を召集いたしました。
ここにはもうダビデはいません。
ダビデはサウルから逃げて逃亡をしていました。
サムエルもいません。
サムエルはすでに召されていました。
このペリシテ人が襲ってくるという時に
サウルは再び一人で危機に立ち向かわなければならなくなったのです。
今こそこれまでの流れを見るならば
今こそサウルは心から自分のこれまでを悔い改めて
私が間違っていました。私は何ということをしたのか
主よどうかお許しくださいと主の見前に出ていくべきであったでしょう。
しかし彼が足を進めた先は主のもとではない
霊媒師とのやりとり
悔い改めに出ていく主のもとではない
霊媒師のもとでありました。
古代から霊媒や口寄せというのは
この地域にも存在していたようです。
デビキの19章の31節というところには
口寄せや霊媒はイスラエルでしちゃダメですよ
ということがはっきりと書かれてあります。
しかし藁にもすがりたいサウルは
この直前に霊媒師を追い出しているのですけれども
しかし藁にもすがりたいサウルは霊媒に頼む。
彼が呼んだのは
彼を自分を藁に任命したサムエルでありました。
あの神の人の声が聞きたい。
自分自身の過ちや罪を悔い改め
主の見前に減り下るよりも
神の人のあの声が聞きたい。
サウルは死者の声を求めます。
今朝読んでいただいた28章の15節から19節というところです。
もう一度さらっと読みますが、こういうやりとりです。
サムエルはサウルに言った。
なぜ私を呼び出して私を煩わすのか。
サウルは言った。
私は困りきっています。
ペリステ人が私を責めてくるのに
神は私から去っておられます。
預言者によっても夢によっても
もう私に答えてくださらないのです。
それで私がどうすればよいか教えていただくために
あなたをお呼びしました。
サムエルは言った。
なぜ私に尋ねるのか。
主はあなたから去り
あなたの敵になられたのに
主は私を通して告げられた通りのことをなさったのだ。
主はあなたの手から王位をはぎ取って
あなたの友ダビデに与えられた。
あなたが主の御声に聞き従わず
主の燃える御怒りを持って
アマレクを罰しなかったからだ。
それゆえ主はきょうこのことをあなたにされたのだ。
主はあなたと一緒に
イスラエルをペリステ人の手に渡される。
あすあなたもあなたの息子たちも
私と一緒になるだろう。
主はイスラエルの陣営をペリステ人の手に渡されるのだ。
信仰の声とその影響
サウルの言葉
私は困りきっています。
もう主の御声も聞こえない。
しかし嘆くサウルに対して
霊媒を通じて出てきたサムエルの言葉は
実に心脱です。
平たく言うならば
全てはあなたの蒔いた種ではないかということです。
そして十七節の言葉
主は私を通して告げられた通りのことをなさったのだというのです。
真新しいことでは何もない。
私が生きている間にあなたに全部話してきたのです。
全部伝えていた。
聞かなかったのはあなたの責任だと言わんばかりの言葉です。
神が既にサウルから王位を剥奪していることも
その原因があまりこう罰しきれなかったことも
私は全部あなたにはもう言っている。
私が生きている間に聞かなかったのはあなただ。
どうして今さら私に聞くのか。
しかしもう手遅れだ。
明日あなたは死ぬとここでサムエルは言うのです。
今日は十九章まで読んでいただきましたが
二十節の言葉を見ると
するとサウルは直ちに地面に倒れて棒のようになり
サムエルの言葉に怯えたとあります。
私が生きていたときに全てあなたに言っていたんだと。
そのサムエルの言葉に彼自身何一つ言い逃れができない。
そういう自分であることを悟ったからでありましょう。
しかしサウルの場合はもう手遅れでありました。
主は私を通して告げられた通りのことをなさったのだ。
主はその通りになさったに過ぎない。
そういうことを言われるときに
サウルの心に拒愛し
もしかしたら私たち自身にも拒愛するそのような思いは
あの人の言葉を、あの人の生き様を
あの人が示された信仰の姿を
もっと私は受け止めておくべきだった。
そのような後悔ではないでしょうか。
サウルは手遅れでした。
しかし私たちは今なおもその言葉に聞くことができます。
そのことを二つ目のポイントを覚えたいと思います。
信仰を通してなおも語られる声が
私たちにはあるということであります。
今朝読んでいただいたこのヘブル書の11章の4節
彼は死にましたがその信仰によって
今なお語っていますという言葉
教会は礼拝をいたしません。
教会は礼拝をしません。
もしくは死者の声を聞こうとはしません。
その人が語るのはその人の信仰によって語っているというのです。
信仰によってです。
その人の生き様、その人の存在
その人がこの地上で生きて働いたあの姿
あの神を仰いだあの姿
それを通してなお神が今私たちに語り直すものが
あるということであります。
そして今のあなたに語りかけるものを聞くようにと
招かれているのです。
教会の中で私は時々聞きます
あの人は素晴らしかった
あの人は本当にお世話になったという話
それは目立つ人もいますし
かげながら宗を忠実に仰いできた方々もいらっしゃいます。
私はそういう話を聞くのが本当に好きです。
そのような一人一人の生きた信仰が
教会の礎を築いてきたのだという事実があります。
そのような生徒の方々もそうでしょう。
もしくは東北の北方にいたら
森山先生の話はしょっちゅう聞きます。
北海道にいるときも聞きます。
浴び木野にいるときは
梅原定次郎先生の話をお伺いします。
そのように牧師を深刻化してはいけませんし
牧師も性択がありますから裏も必ずあるのですが
しかし何々さんが生きていれば
何々先生はこのように死を仰いでいたという
そのような姿
まるで生きているかのように
そういう方々の話が出るのを見ると
本当にその信仰によって
今もなお語っているという言葉は
教会の現実であるなということをつくづく思わされます。
そのような例を一つお話しして
今日は終わりたいと思います。
一人の方をご紹介しても終わりますが
北方の60周年の記念詞に
一人お載せさせていただいた
北方の教会の内海浩さんという方がいらっしゃいます。
この方は2013年に天に召された方でして
私が赴任する前の月に脳骨式が終わったという
私は直接お会いできなかった方なんですけれども
この方が京区の婦人部の証会に提出された証を
改めて掲載したのですが
このようなことが書いてありました。
この方は森山先生の合図伝道の初期に救われた方です。
そして救われて10年ぐらいは
教会生活やまさに万歳生会の
様々な先生のお取り扱いの中で
養われてきた方です。
しかし結婚を機に教会から離れてしまいます。
ご主人が違う信仰を持っておられる方のご主人で
教会から離れてしまいました。
そのような中でこの内海さんには
人生の苦難が訪れてまいります。
ご主人の経営していた会社が倒産をします。
2年後にご主人とは離婚をし
残されたのは3人の子供と莫大な借金であった。
この方は教授をされていましたが
証の中に書いていたのは
給料のほとんどは裁判費用
ボーナスも退職金も全て不済へと回っていきましたと書いてあります。
証の中を抜粋しますと
こういう言葉が書かれていました。
人間は弱いものです。
神様、いつ助けてくださるのですかと
勝手なことばかり祈っておりました。
この時期は神様を第二にして
宗教画や宗教音楽、釈迦や信頼の教えを読み
さまよい歩いていたような気がします。
逆境の中で心はねじれていました。
若い頃の素直さは消えていました。
精神も物質的にもメタメタになっている時に
私を助けてくださったのは
私の兄嫁である渡辺隅子さんですということを明かされました。
渡辺さんは私が赴任したときに
内弓さんの信仰の確信
まだ御存命で施設におられた方ですけれども
本当に素晴らしいキリスト者でした。
この義理のお姉さんの関わり方、証の中にはまさに
お姉さんはキリストのように無償の愛で
私に関わってくれたということを語っておりますが
その渡辺隅子さんを通し
この内弓さんはイエス様の愛を思い出す。
そして2000年のイースターの時に
教会へ帰って来られます。
実に長い放浪生活でしたが帰って来られます。
そこからすごいのは
内弓さんはそこから
貪るように聖書を読むんですよ。
貪るように聖書を読みます。
誰かから言われた言葉ではない。
誰かから言われたことを自分にまんま受け止めるのではなくて
私は神の前に自分自身で確信を得たい。
そのような渇きを持って
この方は貪るように
十字架の救いに納得をするために
自分で聖書に向き合い続けるのです。
そして長い間
聖書をご自身で読みながら
得た確信が二つあると証の中で言われます。
一つは
キリストの十字架は
全ての人の罪のためである。
この十字架を信じれば罪許され
新しく生まれ
生まれることが必ずできるのだ。
なぜなら神の愛は無償だから。
もう二つ目
イエス様を裏切り逃げた弟子たち
自分に重ねてでしょうね。
イエス様を裏切り逃げた弟子たちは
なぜ後に強い弟子となれたのかがわからなかった。
しかし答えは
それは復活のイエス・キリストに彼らが出会ったからだ。
それしかない。
でも
今私にも
イエス様は出会ってくださっている。
そのことがあるから
神が私の家にあって
平安に今は暮らしていますという証で
この証は閉じられます。
信仰を次世代に伝える
私がこの証を読みながら感動をしたのは
私にとって自分にとって
神とは
救いとは何なのか
それを誰かに任せない。
自分自身で向き合う
聖書に貪りつく
貪りつく
でもそこで神様ご自身と私が向き合って
ああこれなんだと私に確信を握る。
そしてそういう姿勢は
私が赴任した時の北方の教会にありましたよ。
みんな熱心に聖書を読みますね。
私が何か説教で英会のことを言ったら後で注意されました。
でもそういう教会でしたね。
ああ貴重な財産を残してくれたなと思います。
私らは明太に教会もそうだと思います。
私はお会いできませんでしたが
足立さんのご両親ね。
どういう方だったかなと思います。
村上さんはどういう人だったかなと思います。
その他にもこの教会を支えてこられた
お一人一人が天に還られた
お一人一人がいらっしゃる。
その人たちが祈り、信じ
教会を建て上げてきた石杖になっている。
私たちは神格化しながら
忘れてはならないものがある。
そのことを覚えるのです。
ぜひ皆さんの救いの証残してくださいね。
神媒体でもデータでもいいので
ぜひ残していただきたいと思います。
きれいな信仰生活はなかなか遅れません。
ただ私たちはこの地上で埋めきつつ
苦闘をしながら
きれいではない現実を生きながら
そのままで死を仰ぎ
死の哀れみを経験し
支えられながら生きている。
そのような信仰の生活、生き様が
それだけでどれほど尊いかということに
気づかなければなりませんよ。
そしてそれは
後の人たちに語る声になるんです。
ぜひ残してください。
ヘブル賞は語ります。
信仰の創始者であり完成者であるイエスから
目を離さないでいなさい。
そのような声が私たちに
差し示すのはそこでしょう。
信仰の創始者であり完成者である
イエスから目を離すな。
そこを見なさい。
全ての証は
イエス様に私たちを目に向けさせますね。
今朝は私たちの先輩の信仰が語る
声を聞こうというお話をいたしました。
その生き様を通して
その語った言葉を通して
死を仰いだ姿を通して
商店舎のお一人一人の信仰から
皆さんに語り直される言葉は何でしょうか。
その人を神格化するのではない。
その人をこのように生かした神は
私をもそのように生かし得る神なのだという
信仰へと私たちを導く。
そのような信仰の励ましにしていただきたいと思います。
彼は死にましたが
その信仰によって
今なお語っています。
お祈りをいたします。
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