1. 名谷教会 podcast
  2. 2023/07/09:恵みから恵みへ
2023-07-09 43:41

2023/07/09:恵みから恵みへ


2023/07/09 聖日礼拝

斎藤亘師

エペソ人への手紙 2:4-10


00:02
おはようございます。
先週は早めの誕生日のお祝いを、そしてお祈りをしていただきまして、大変ありがとうございました。
無事に86歳を迎えて、こうして、こういう機会があとどれほどあるかと思いながら、
先生から依頼を受けたその時から、今朝の礼拝のために心備えをしてまいりました。
私は、先週、礼拝を終えて帰りましたら、テレビで時々見るのですが、
たけしのTVタックルというのがあるんですね。
皆さん方も見ているかもしれませんが。
その中で、若いコメンテーターの娘さんが、
お年寄りには二つが必要なんだ、教養と教育です。
教育かと思って、そう思っていましたら、
今日行くところがあることが大切なんですね。
それならいいわと思って。
中には、今日行くところはどこに行ったらいいだろうかとか、
公園に行ってゆっくりしようかとか、そういう方もおられるように聞いております。
肝心のこの教養ですけどね、
これ今から身につけるのは難しいなと思ったら、
そうしたらね、今日用事があるということ、
これが大切なんだということをそこで言ってくれたので、
ああ、今日用事があるな、なるほどな、
用事があるのとないのとまた違うしな、
買い物でも何でも言われたものを買いに行って、
何回かまた電話して、何を買うんだったかなとかね、
これとこれ買ったけど、あと何だったかなと言って、
時にはですね、もう電話せんといてって言われることもあるんですけども、
そんな上司でも、やっぱり今日用事があったり、
行くところがあったりすると、それなりに年がいっても、
少しは役に立つところもあるのかなと思いながら、
こんなくだらないことに申し上げましたけども、
本当にこうして守られてまいりました。
で、この間身の回りを特に心して整理しておったんじゃないんですけども、
古い記録手帳が出てまいりましてね、
それで見ましたら、1969年大原教会役員会とかね、
あるいはそこでの家庭集会、そういったのがメモ書きに書いてあって、
03:01
ああ、こんな時代があったな、
大原というところは宮本武蔵のね、生まれたところでありましてね、
その宮本というところにも向こうに行ってから依頼を受けて、
そして家庭集会ができたりする。
伝説的に残っております二刀流のね、
それを見出したのがあそこの神社のこういう太鼓を叩く、
それを見て泣かそうだっていう説もあるようですけども、
ただ吉川英二さんがね、よく大原に来て、
そして資料を集めて、そしてまとめたのが三感にわたる大作で、
私が大原に行った時にすぐにですね、
当時はまだ救護者でしたけどもおじいさんから、
先生、これはぜひ大原で伝道するなよ、
呼んでもらわないといけないよってね、
ここで何の巻き、何の巻き、何の巻きってこうあるんですけどね、
それを一生懸命読みました。
今でも出てくる地名は今も同じなんですよね。
ですから非常に身近に感じたりしとったんですが、
そこで5年間ほど奉仕しました。
ですから何年から何年までだったのか、
とにかく小さいノートのそこに書いてあるのでは1969年、
私が新学校に出ましたのが1961年でしたから、
そこそこ直立の教会とかそういうところもありましたけども、
そこでの奉仕だったんだなと。
そしてあとは主には平方での30年余りの
そういう奉仕の記録も残っておりましてね、
出席者の名前がずっと家庭集会に書いてあるんですけどね、
半分以上が埋めされちゃって、
本当私もこの中に入るんだったんだろうなと思いながらね、
しかし今日あるということはどんなに恵みかなと思います。
一言感謝の祈りを告げております。
恵み深い主よ、
こうしてあなたからお渡しいただきましたこの礼拝の中で
いただきましたお言葉を通して主よあなたの証と、
またそこに伴う恵みの一つ一つを思い返しながら
この御言葉に今立とうとしております。
どうぞ主がこの者を助け、
また過ちることのないようにお守りください。
主耶穌様の御名によってお祈り致します。
アーメン。
私はそういうことを記録の小さい、
このぐらいの手帳なんですけどね、
手帳を言っても日本基地の教団のほうが出ているそういうものですが、
06:03
そこにずっとこう書いてあるのを見ながら、
しかしこういう時もあった。
ある時の役員会のそれを見ましたらね、
吹きのつく谷と書いてあるんですね。
それはね、だいたい5月ぐらいから、
主耶生会が終わった頃から山へ行って、
そして吹きを取ってきてね、
それでそれを焚いて、
それを阪神館大阪、岡山の教会とか、
そこへ降りに行くわけですよ。
だから行書もしたんですね。
まあそういう中でね、
私は吹き取りに行った時に、
音がね、たくさんしげっているもんでね、
できるだけ大きいやつを取っていこうと思ってね、
選んでそれで降りてきたんですよ。
かなり傾斜が上っているんですが、
それで戻ってきて、
あら、そこはいいうどがあるわと言ってね、
私は本来うどはダメなんですよ、食べられなくてね。
そして持ってきてみせたら、
先生、これがうどの大牧じゃんと言われて、
その時まではわからなかった。
そうしたら大きいのが、
それはもう使い道にならない、
食べることもできない、
もうちょっとこの30センチくらいの、
あるいはもうちょっと小ぶりの、
そういうのをとってもでかいわと言われてですね、
何回か行きますからね、
じゃあその時は足りますわと言って、
その時の印象もそういうようなことに残っておりますが、
そういう役員会の記録も残っているんですよね。
うどの大牧じゃありませんけども、
本当に周りが遅いなあと思いながら、
気の早いところもあるんですけどね、
役員会で喧嘩しちゃったりして、
そしたらその役員さんが後でね、
私が助けられたんですけどね、
もう役員会が開けて、
早めに終わっちゃったんですね。
そしたらその役員さんが、
先生をお祈りしようと言って、
ここで母子室に私を連れて行ってくれて、
そこでお祈りした。
お祈りできたから良かった。
もしあれができなかったらね、
この役員さんは私はもう会計辞める。
こっちも売り言葉に買い言葉みたいに言うんですか、
だったら私も募金辞めるわって言って、
こうやっちゃったんですよね。
だからもうしらけちゃって、
で終わったんです。
ところがその役員さんがね、
やってきて先生にお祈りしようと言って、
本当に私は今もそれを忘れない。
救われたと思ったんですよ。
あんなも言ってしまったことも返ってきてませんからね。
もうやめんとならんのかと思いながら、
そしたらそういう祈りの時が与えられて、
そういう失敗もあげればたくさん出てくるんですけども、
だから余計、今朝のタイトルは
恵みから恵みへという台を付けたんですけども、
私の法師の障害もクリスチャン障害も、
本当にこの恵みがなければ、
09:02
今の私はないんだなっていう、
パウロが後に語っておりますけども、
そのことを思います。
今開いております、
この中には、
特にこのコリン島第一の手紙の15章ですね、
復活の章のところの最後に書いておりますが、
このパウロもこれは証です。
パウロと私が同じ心境というのではなくて、
パウロもこういう思い出を持って、
私はその恵みの障害を全うしたんだなと、
そう思いながら、
大変心強く感じたお言葉の一つです。
この15章の10節ですね、
15章の10節に、
ところが、
神の恵みによって、
私は今の私になりました。
そして私に対する、
この神の恵みは無駄にならず、
私は他の全ての人たちよりも多く働きました。
働いたのは私ではなく、
私と共にあった神の恵みです、
ということをそこに綴っておりますが、
神の恵みによって、今の私になりました。
私は本当にこのお言葉を実感として、
今もこのお言葉を大切にしております。
もし恵みがなかったならば、
どういう人生を、
どういう日々を歩んだだろうかな、
ということを思います。
ここに至るまでのそこには、
私はいつも思うんですけれども、
確かにこれは神様からの卵だということを、
この今読んでいただきました、
このエペソビテの手紙の2章ですね、
この2章の4節以下、
2章の4節以下に、
12:02
しかし、哀れみ豊かな神は、
私を愛してくださった、
その大きな愛の上に、
園木の中に死んでいた私たちを、
キリストと共に生かしてくださいました。
あなた方が救われたのは、
恵みによるのです。
こう書いています。
実感ですね。
死んでいたものが、
今生きることができるということは、
それは、私が何かいいことをしたとか、
見どころがあったとか、
そんなことは何にもない。
ただ、神様の恵みによって、
それこそパールが言うように、
今の私に、この恵みは私を変えてくれた。
そして今、私をこうして生きるようにしてくださった。
ここにも一度、
賛美の奉仕のために来ました、
小林幸子という、
彼女は2回肝臓の整体移植をしているんですね。
2回目のとき、
その知らせを受けたのを今でも忘れませんが、
彼女はよく大阪の経営コンベンションでも、
読書者の一人として奉仕しておりました。
それが電話がかかってきまして、
先生、私は今年は景色区には行けませんし、
もうこの春の桜を見ることができないと思うんですって、
いうことをこう言うもんですから、
どうしたのって聞いたら、
もう今、肝臓の機能が全く停止してしまって、
もうどうしていくかわかんないんです。
で、前にお母さんから移植してもらっただろうって言ったけども、
まあそれはそれで終わっちゃってね。
そしてもう肝臓は悪化の道をたどって、
すぐに私は考えて一緒に、
もうそのときは宇治の方に住んでいました。
今でもそうですが、そこへ行ったんですね。
そうしたら、もうおばあさんのようになってしまってね。
そこでヨロヨロと出てきたんです。
もう目は白いところがないくらい黄色く、
横断肖像が出ておりましたし、
お腹がポンと出ているし。
そして彼女は来て、私にも寄ってきて、
今私は座ることもできないし、
横になることもできない。
もうどうしていいかわかんないくらいです。
そういうことでした。
それで私は、もう最後のお祈りというわけではないんですけどね、
そんな思いを持ちながら、
しろよみんぐれならばね、
彼女に与えてくださったせっかくの命を、
彼女のために、そして私たちのために、
立ってくださいと言って、お祈りして別れたんですよ。
15:02
それから半月ほどしましたかね、電話があってね。
前のときの電話は、本当に力のないそういう電話でしたから、
電話を取ったときにすぐわかったんですけども、
今度の電話はちょっと違ったんです。
何が起こったんだろうか。
そして聞いたらね、
1回目のときは、ご主人の肝臓は適合しなかった。
で、お母さんの肝臓を入れた。
ところが、今度、ご主人の肝臓が移植できるということがわかった。
だけど彼女は、向こうのご主人の両親にも悪いからということで、
最初は拒否しとったらそうですよ。
このまま産みされたらいい、天国行けるんだし、
そういうものを思ったんですけども、
しかし、ご主人も娘も、とにかく生きて、と言ってね。
そして、彼女を解いて、
それから2度目の移植をしたんです。
兄弟ですけども、そこでやった。
で、私は、まさに最初の知らせを受けていったときの彼女の様子は、
死んだも同然という、死を前にしてという、そんな感じがした。
ところが、次知らせを受けて会いましたときにはね、
本当にこの聖書の子供がそういう形でも成就したんだなと思いましたけども、
めくみによって、新しい命をもらったという、
ご主人からの肝臓移植ですけども、
しかし、彼女にとっては、ご主人から新しい命をもらった、
そういう証をしたんですけども、
それからね、賛美する、そういうこの一生懸命練習もしたりして、
そして今のあのような姿になれた。
けれども、いつも抱えている問題はあるわけです。
だから彼女は、淀川吉祥寺病院というのがあるんですけども、
そこへ毎月1回ね、その顔病棟の方に行って、
そして賛美の奉仕をしているんです。
今、もう多分していると思うんですね。
で、彼女は、もう自分もそうだけれどもね、
今、賛美を聴いてくれているこの人たちは、来月会えるだろうか、
来月が約束されているわけではない。
そう思うと、本当に一曲一曲、私は歌手をかみしめながら、
そこで奉仕し、またそれが本当に私にとっては新しい力になったんです、
ということを言っておりました。
私の友人、新学校時代の友人も、あそこでね、
その顔病棟の方で亡くなったり、
私の知り合いの母親も、あそこで亡くなったりしましたけれども、
しかし、そういう中で、自分も死に向かうのに、
18:01
けれども、しかし、生かされた自分は、この人たちのために、
今日、イエス様の賛美を皆さんにお分かちしたいという気持ちでなさっておられた。
まさに、死から恵みによって命に移された、
その生き様をそのままそこで持って、
彼女は現し、またそういう奉仕に自分の生き方を感じて、
そして奉仕をしている。
もし恵みがなかったならば、その命というものに至らない。
ですから、先ほども読みましたこの2章の8節に、
まさにこれは神様からの恵みというのは、
神様からの賜物と書いてありますけれども、
私たちにとっても、この8節に言われているこの恵みのゆえに、
あなた方は信仰によって救われた。
それはあなた方から出たことではなく、神の賜物という、
本当にこの賜物として恵みが自分に向けられたということは、
なんと大きな、それこそ、この恵みなくして私は今あることはできないんだ。
そして、この2章の、私はいつも思うんですが、10節に、
実に私たちは神の作品であって、
良い行いをするためにキリストイエスになって作られた。
神は私たちが良い行いを歩むように、その良い行いをあらかじめ備えて下さいました。
漢字、神様の方で、師の方で、私が賜物としていただいたこの恵みのゆえに、
そこから私の新しい生き方がそこに綴られていく。
私は、実に私たちは神の作品という、
私たちのそれこその傷がささるところにまでも、神様の行き届いたそれがあって、
今を生きているように、生きるようにされている。
で、私は、特殊電脳科でもここの言葉を開くんですけれども、
主語を間違えちゃうとですね、全然違っちゃうんですね。
私たちは神様の作品だ。
ところが私たちは、周りにあるのはね、神は私たちの作品だ。
さ、京都に行ったら、有名な神社、仏閣があり、掘り物がある、
21:00
そういった私たちは環境の中におります。
それこそ日本文化としての、あるいは日本の宗教の一つとしての、こうなしているでしょうが、
しかし、主語を間違うと、もし私が神を作ってね、これが私の作品ですとなったら、
私の人生は一体何なんだろうか。
けれども、神が私を作ってくださったという、
この創世紀以来の神の作品としての、自分のこの存在というものをそこに見出しますとね、
神様は、自分の作品として私を作り、
しかもそこに大きな大きな恵みを添えてくださって、生きるようにしてくださって、
そしてその賜物もお与えくださって、今、生きるように、
これから何年与えられたそれがあるのか分かりませんけれども、
しかし、本当に生かされている日々、
100歳以上まで生きた先生、西浦科の病院長になさっていた、
日野原先生ね、日野原先生。
あの人が日野原先生の予定を見ましたので、
ご自分の年のさらに10年先ぐらいまでずっと予定が空いているんですって、
どこどこの講演、どこどこの。
で、私もそれを読んで、ほーっと思いましたね。
自分にはそこで終わるのではない、そこからまたっていう。
で、あの方のお父さんは長く、神戸教会ですね、
日本基督徒教団の栄光教会の近くにありますけれども、
あそこの方が栄光教会よりも古いんですかね。
で、100年以上たっているような教会ですが、
そこで先生はお父さんが牧師をなさっておった、
その少年時代を神戸教会で過ごされたということも何かで読みましたけれども、
しかし非常に病弱な体質で、そのお父さんも、
まあこの子は長生きしないなというふうに見ておられたそうですけれども、
しかしなんと100年以上もう生きて、そして今日まで、
だから命っていうのはね、生かされている間は神様のものですからね。
それは神様がお決めになさるんでしょう。
小島一介っていう先生が前国に住んでおられたときに私は何かあって、
よく訪問いたしました。
で、先生も、私はそのときに教えられたんですけれどもね、
100歳を迎えられるんです。
ところが99歳のときに100歳、白樹のお祝いをされたんですね。
で、それは年がいかれたら、最後の100年目というのがわからない。
24:05
だったら100年を迎える今年、お祝いをするという。
私もそんな感じでこの間86歳の誕生日を皆さんにお祝いしてもらいましたけれども、
年がいったらできるだけ早く前もってするんだよということを、
その小島先生から聞いたことが非常に残っているんですけれども、
本当に生かされている間、しかもそれは神様がこの恵みを
お自分の豊かさの中からお与えくださって、
そして賜物として私を今日まで生かしてくださっている。
私はこの先ほど読んでいただきました二章のこの十一節以下というのは、
確かにここにはね、以前には肉によれば違法人、
その当時はキリシトを知らず、一切の国籍もなく、約束されたいろんな契約にも縁がなく、
世の中で希望もなく、神のないものだった。
ところが、そういう自分を遠く離れていたそれを、今ではキリシトイエスにあって、
キリシトの血によって神に近いものとされたということを証し、そこに記しております。
この場合の以前には遠くあったというのは、別にこれは、
例えば私は日本人ですからイスラエルは遠いですよね。
そういう距離的に遠いから私は神様の恵みには預かれないという、
そんなんじゃなくて、そんな物理的なことじゃなくて、
霊的に私たちは生きていたものが罪を犯して死んだものにされて、
そして神を知っても神としてあがめないというような、神から離れたような生活をしてきた。
ですから、イスラエルにエルサレンに住んでいても、
距離的にはエルサレンの神殿は近いかわかりませんが、
霊的にはパウロは、霊的には神から遠く離れた存在であったということを彼は言う。
ですから、そういう神から離れていたものが、ところが先ほど読んだように、
神の作品としてあらためて再創造してくださった。
そして、シュウエスキリストに会って、生きるものとされたというこの恵みは、
27:01
これが今の私たちの証ですよ。
私は、16歳の時に友達に誘われて教会に行き出して、
そして一年余り経って、17歳のクリスマスではないな、もうちょっと前です。
8月です。ひばら後半で森山さと氏という先生から洗礼を受けたんですね。
もう右も左も何もわからない。
ただ、ザランと水の中に浸されて、
そしてあなたは今からイエスキリストとして生きなさいと言われてね、
そして自分の身を捧げなさいという最後のアピールまでいただいて、
それが17歳の夏です。
それから今日まで本当に恵み以外何もないなと。
その60年70年近い、そういう歳月の中で、
そういう話をしたらもうきりがないんですけれども、
今あるというこの恵みというのはどんなに豊かなものか失敗もしましたし、
もう私もこれはちょっとまずいかなと思って、
それは10ヶ月の子供を引いてしまったという、そんなこともあったんですね。
しかもこの間は剣道式で平方希望教会に行きましたけれども、
前の剣道式で今度日曜日を終えて剣道式のお祝いをするという、
そういう時だったんですけれども。
家の子とそこの子と保育園に送るのが私のその朝当晩で。
それで乗せてそして出た時に、前に10ヶ月の子がね、
後で分かったんですけれども、前で群中していたらしいんですけれどもね、
それも何か踏んで出たかなというそんな思いがありましたけれども、
しかしその時でもそんな、もしあそこでもってその子が亡くなったらね、
剣道式はもう吹っ飛んでしまって、私も交通刑務所か何かに入っただろうなというような、
そういうギリギリのところがありました。
けれども本当にこう守られた。
それだけに神様からの一方的な守りと恵み、
それによって今あることもできるということは、
なんと私の知らされたところまで神様はちゃんと手をこまね、
何か今度用意して、そして守ってくださったんだなということを今改めて思います。
ですから先ほどお読みしましたパーロの、
この古人と大人の手紙の十二章のこの言葉ですけれども、
30:05
私の恵みはあなたに対して十分だ。
私の力は弱いところに完全に現れる。
それから経営者の力の私に宿るよりむしろ、
喜んで自分の良さを誇るということをパーロはそこで証ししております。
恵みがパーロにとって信仰の確信はそこにあるんです。
もっと言うならば、彼は自分を誇ることであるならばいくらでもあったんですよ。
ユダヤ人の中のユダヤ人とか、立法の上ではパリサイ人、
そしてさらに安極の後には教会を迫害するのではトップだったというのは、
そういう肉的な誇りを彼はそこで言っておりますけれども、
しかし自分はそういう中でもって、何が自分を今にまで至らせたか、
それは神様の恵みなんだ。
だから神の恵みは今の私に変えるし、
そしてこの神の恵みは自分が自分の良さを知った、
そこからその恵みを教えてくださった、体験させてくださった。
ですからそれまで自分の誇りとして、それこそ自分がリーダーシップを取って、
そして教会に対する迫害までもしておったようなこのパオロがですね、
私はパオロが救われる一つの大きなきっかけになったのは、
彼がそばにおって、現場の指揮官としてステファノを準拠に追いやった、
そこで彼は何を得たか。
ステファノが召されるその直前のあの輝きというのはね、
彼はどんなに打ち消そうとしても打ち消せなかった、ではなかろうか。
ですからパオロはどんな人の言葉よりも、
自分が直接手をかけたのではないですけれども命令して、
そしてその教会のリーダー的な存在であって、
みんなからも慕われていたあのステファノを指揮に追いやるということにおいて、
それを良しとしたと書いてありますよ。
彼はそういう形で準拠をしていく。
そのステファノの中に弱さではなくて強さを見出したのではなかろうか。
むしろ自分が権力を持ってステファノを死に追いやるぐらいの力を持っていたのか。
しかし本当はそうではない。逆転していた。
33:03
死に追いやられるステファノこそ本当の強さを持ってね、
イエス・キリストを仰ぎながらその準拠をしていくその様の前に、
自分は何と惨めなものか。
これは人の働きの七章の場に書いてありますけれども、
その八章、九章に自分がイエス様と出会うその証を、
彼はそこに書いていますよ。
彼は生涯三度この時の光景を明かししています。
ある時はアグリポーでしたが、そこでもパウロは明かしした時に、
あんたもう違う、こんなことここで言ってくれるなと言われて、
そうして言うことも途中でやめさせられるぐらいに彼は、
そのステファノの準拠に始まる、自分が復活のイエス様と出会った時のその光景というものを、
彼はそこで大胆に明かしをしていく。
その明かし、パウロは本当にステファノの弱さにこそ、
自分のないその強さというものがある。
そうした中でもってパウロは、だから私は自分の強さを今までは考え、
誇りとし、より頼みとして、そしてそれをもって自分は権力立場に立ってやってきたけれども、
しかしなんともろいことをやってきたことがある。
それは私にとって力でもなく、強さでもなく、
だからパウロはそれまで誇りとしてきた考え方というもの、
家柄や実績や、彼が積んだ学問や、
それを誇りとするならば、彼に並ぶものはいないんじゃないかと。
次はパウロがね、大祭司の後を継いで、そして立法の世界において彼はトップを行くだろうと言っていたぐらい、
彼はそういう意味においては成功者ですよ。
将来を職望されたそういう人材ですよ。
彼が持ち合わせてきた、そして誇りとしてきたものは、
そういうことでもって彼を出世させ、そして成功者としての道をあいましたでしょう。
けれども、しかし捨て花の準拠、そこに強さではなく弱さ、
そしてその弱さこそが自分にない強さだ。
だから弱さというのがね、私たちにとってはそれは、確かにこの世の機運から言うと、
弱さを告白するということはね、敗北しちゃう。数えられてしまう。
36:00
しかし弱さは決して私を惨めな中に追いやるのではなくして、
弱さにこそ私がそこからもう一度立ち上がってね、
イエス・キリストを力強くこれをお伝えすることができる強さに変えられるのです。
だから弱さは決して恥ではないのです。
弱さを恥じることが恥なんだということを聞いていますけれども、
私はパウロが行われてその次のペリペリの手紙、
この3章に先ほど申し上げたようなパウロはそれまで誇りとしてきたこともあると書いております。
肉の頼みなら私は亡くはないと言ってですね、今申し上げたような、
私の種族はどこだと書いておりますけれども、
彼はイエス様を知ったときにね、
公語訳ではフンドと書いてあるんですよ。
フンドの訳もそうですし、公語訳ぐらいがそういうことを言いましたかね。
ところが、この間見取りましたその訳、これはグーグルの訳ですけれどもね、
グーグルの翻訳、そこにはね、私はそれこそイエス・キリストを知る知識の絶大な価値の上に、
一切のものを損と思っているというところのこの損をね、
このゴミ、廃棄物という風に訳しているんですね、そのグーグル訳の聖書では。
面白いな、確かにフンドもすごい表現だけどね、
先ほど名前出しました小島先生は、
クソくらいだというようなことをね、講談から言われておおっと思った印象に残っているんですけれども、
パオロはね、みんなが羨むようなそういう経歴は、何の力にもないし、何の魅力もないし、
それこそ廃棄物という今式の訳で言うならば、あるいはゴミという、
そういうことでもって表現しておりますけれども、
パオロはそういうことを通してね、誇りとしてきたものが何とつまらないものか、
そこには自分の強さの根拠があると思っていたところが、
それは強さの根拠ではなくしてね、愚かさの根拠。
イエス様を知ったおかげで、自分はそういうところから本当に帰られたというその証ですよ。
フィルピトの手紙の参照の。
そして最後にもう一つのことを申し上げて終わりたいと思いますが、
39:04
この恵みには、この慈悲というね、それが伴う慈悲心というのでしょうか。
私も恵みというのが優先していいんですけれども、
あまりにもそれを自己流に恵みというものだけをそこで強調してしまいますとですね、
自我流の恵みというんでしょうかね。
そしてそこにはね、何をやっても許されるというみたいな、
これはクリスチャン独特の弱さですけれども、甘えいですけれども、
そこに頼ってしまう。
そういうところがあるんですね。
ですから本当は、その恵みということを知れば知るほど、
自分をコントロールするという、それがそこには必ず伴う。
で、パオロはこのエピソード、失礼しました。
このローマ・ビトエの手紙の十二章、三節。
十二章の三節。
私は自分に与えられた恵みによって、あなた方一人ひとりに言います。
思うべき言動を超えて思い上がってはいけません。
むしろ神が各自に分け与えてくださった信仰の計りに従って、
計りに応じて、慎深く考えなさい。
一つの体に多くの器官があり、しかも全ての器官が同じ働きをしていないように、
大勢いる私たちもキリストにあって一つの体であり、
一人一人は互いに器官なんだということをそこに述べていますが、
パオロはここでね、私は自分に与えられた恵みによって、
あなた方一人ひとりに言います。
パオロは恵みによって、思うべき言動を超えて思い上がってはいけませんという、
私はパオロの謙虚さというのをそこに感じる。
人に勧めながら、しかし同時に彼は勧めると同時に、
そういうふうに自分は恵みの世界の中でもって生かされ、
そしてほとんど自分自身の持ち場、立場、そういったものを脇前知りながら来た。
確かに人の働きを得てきますとね、ええと思うような場面がありますよ。
42:00
先輩のペトロを相手にしてなじっているところがありますしね、
もうちょっとパオロはその辺り遠慮した方がいいんじゃないかなと思うような場面もあるんですけれども、
しかしこの福音の真実のためには、たとえ相手がペトロでやってもね、
いやその生き方は間違いだって言って指摘するくらいの気骨さがあった。
しかし同時に彼は自精神、自分をコントロールする、
そういうことにおいても彼はその恵みに生きた人だったんだなということを教えられます。
最後にヘブル・ヴィトの手紙の4章の16節を読んで終わりたいと思います。
ヘブル・ヴィトの手紙の4章の16節。
ですから私たちは哀れみを受け、また恵みをいただいて、
おりにかなった助けを受けるために大胆に恵みの溝に近づこうではありませんか。
恵みになれることではなくて、いつも新鮮な思いで主の恵みの溝に近づくというのが
私たちの大切な恵みに生かされているものの心得、
またそこにこそ本当の恵みがいつも変わらずに育てていく。
お祈りいたします。
43:41

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