先週は幸いなコンサートのひとときを皆さんと共に過ごすことができて感謝でした。
その前の週になりますけれども、私たち夫婦は実は教団の全国牧師研修会というのに参加をさせていただきました。
牧師研修会の中では様々な議論、議題が話されたのですけれども、
その中のひとつには教団改革宣言をどうするかという話し合いが挙がりました。
皆様のお手元にはまだ届いていませんが、今、教団委員会から私たちの教団協会、
様々な面で逼迫する私たちの協会に対して、
私たち日本イエスキリスト教団はこういうふうに進んでいこうという宣言文を出そうと今考えられているのです。
まだそれは試案段階ですけれども、私たち牧師とまた役員会はそれに目を通して一応検討をさせていただきましたが、
その宣言文の中に特徴的にこういう言葉が繰り返されるのです。
それはキリストを中心としてという言葉です。
3回繰り返されるのです。キリストを中心としてという言葉が繰り返される。
このことを受けてだと思います。全国牧師会で双天礼拝というのがあるのですが、
その中である私たちの教団の先生がメッセージをされたときに、こういう話をされたのです。
教会の歴史において、教会が危機に瀕したとき、いつも教会はキリスト中心に立ち返っていきましたという話をされるのです。
教会の歴史において、教会が危機に瀕したとき、いつもキリスト教会はキリスト中心へと立ち返っていきました。
なるほどと思います。
今年の夏に少し取り上げましたけれども、20世紀の初頭、ドイツが発表された教会の宣言、バルメン宣言というものがあります。
あれもドイツの国でナチス政党がドイツの教会をも掌握しようとしたときに、
いやいや、教会の支配者は国家ではない。教会の頭は私たちの唯一の救い主、イエス・キリストだけなんだと告白した宣言文でした。
さらに遡れば、今朝は実は小読み上、宗教改革記念日となりますけれども、
16世紀の宗教改革の始まりもまた、マルチン・ルターという人が聖書からイエス・キリストを新たに発見した、そのことによって始まっていきました。
教会が危機に瀕するとき、いいえ、それはキリストの教会である私たち信仰者一人一人が危機に瀕するときも同じだと思います。
それはいつもキリスト中心、言葉を変えぬらばキリストへの集中に立ち返るタイミングというのがそれぞれにあるんじゃないかなということを思うのです。
今朝読んでいただいたこのサムエル記の歌手においても、そのことがいかに大切であるかということが語られていますので、一緒に少し見ていきたいと思っています。
2つのポイントで今朝お話をいたしますが、1つ目のポイント、これは主の戦いであるということです。これは主の戦いである。
今朝読んでいただいたのは第1サムエル記の17章列。この箇所は有名なダビデ対ゴリアテが描かれている光景です。
ペリシテ人たちはイスラエルの民族を陥落しようと軍隊を招集してきたというのが1節から書いてあることです。
そしてそのペリシテ軍の中には背丈が6キュビト半と4節に書いてますが、1キュビトが44センチと言われますから、かける6で計算すると286センチ。
2メートル、2.8メートルでしょうかね。3メートル近い巨人のゴリアテがそこにいたと言うんです。
イスラエル軍はこのゴリアテの姿を見て、彼らは非常に恐れたということが書いてあります。非常に恐れたのです。
しかしただ一人だけゴリアテを恐れずに戦いに向かおうとする少年がいたわけです。ダビデ、ダビデでした。
このゴリアテの存在というのはまさにイスラエルにとってはわかりやすい危機の象徴みたいな存在ですけれども、しかしダビデは恐れないのですね。
なぜダビデは恐れないのか、そのことを語っているのが34節から37節です。
ちょっとだけお読みしますので目に留めていただきたいと思いますが、17章の34節から37節、ダビデがサウルに語る言葉ですけれども、こういう言葉です。
ダビデはサウルに行った。しもべは父のために羊の群れを飼ってきました。
シシやクマが来て群れの羊をとっていくと、しもべはその跡を追って出て、これを打ち殺し、その口から羊を救い出します。
それがしもべに襲いかかるようなときは、そのヒゲをつかみ、それを打って殺してしまいます。
しもべはシシでもクマでも打ち殺しました。
このムカツレのペリシテ人もこれらの獣の一匹のようになるでしょう。
生ける神の神をそしったのですから。
そしてダビデは言った。
シシやクマの爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。
そういうことをサウルに言いました。
ダビデは神様を信じていた、そう言ってしまえばそこまでなんですが、
しかしその彼の信仰をいわば堅固にしていたものは何かというと、
それはあのときもこのときも主が私を救ってくださったという生きた経験です。
あのときもこのときも主は私を救ってくださったという生きた経験。
シシやクマというのは明らかにダビデより強いわけですね。
しかしおそらくそのようなどうしようもない現実の中で、
ダビデは何度も主に祈った経験があるのでしょう。
そしてその度に主は減り下る者を守られるという経験を何度もする。
何度も確かに主は救ってくださったその経験から、
ダビデがはっきりと握ったことは、勝利というのは自分の強さによるのではないということです。
勝利というのは自分の強さによるのではなくて、
神の強さにかかっているんだという確信を、
彼は堅固にうちに持っていったのではないでしょうか。
これは私たちも、自分自身もそうかもしれませんし、
またそういう人をご覧になられたことがあるかもしれません。
本当に弱さの中で、しかし主を仰ぎながら乗り越えていかれた方というのは、
何か強さがありますよね。
主がいるから大丈夫だということを言える強さを持っている人っていらっしゃると思います。
ですからダビデはゴリアテに対しても言うのです。
先ほど読んでいただきましたが、45節から読みしますと、
ダビデはゴリアテに対してこう言いますね。
ダビデはペリステ人に言った45節、
お前は剣と槍と投げ槍を持って私に向かってくるが、
私はお前を画素知ったイスラエルの先人の神、万軍の主の皆によってお前に立ち向かう。
今日主はお前を私の手に渡される。
私はお前を殺してお前の頭を胴体から放し、
今日ペリステ人の軍勢の屍を空の鳥、地の獣に与えてやる。
すべての国はイスラエルに神がおられることを知るだろう。
ここに集まっているすべての者も剣や槍がなくても、
主が救いをもたらすことを知るだろう。
この戦いは主の戦いだ。
主はお前たちを我々の手に渡されるというのです。
ゴリアテは剣や槍や投げ槍という多くの武器を彼は身に持っていました。
しかし、ダビデは本当の力というのは
万軍の主の皆にのみあるということを彼は握るのですね。
この17章の39節にもありますが、
ダビデはサウルの鎧を身につけようとしないんですよ。
サウルが鎧を貸そうかと言うんですが、彼は身につけようとしません。
身の丈に合わない武器では戦えないということを彼は知っているのです。
この歌詞はよく教会に重ねて語られることがあります。
教会の武器とは何なのか。
教会は身の丈に合わないものを背負って
いろんなものを取り入れてやろうとしても、なかなか戦えないですね。
しかし教会の武器とは何なのか。
新訳聖書においてパウロが殿堂をしておそらく最も苦労した教会は
コリント教会でありましょう。
様々な問題をはらんだこの教会にパウロは少なくとも4回手紙を送るのですけれども、
その手紙の最初の方に教会の危機に対して
パウロは一つのポリシーを掲げて教会に関わります。
ちょっと一緒に読んでいただきたいのですが、
第一コリントの2章の1節から5節というところをお読みしたいと思います。
第一コリントの2章の1節から5節というところ。
新訳聖書の328ページの上の段にあります。
第一コリントの2章の1節から5節というところをお読みいたします。
こういう言葉があります。
兄弟たち、私があなた方のところに行った時、
私は優れた言葉や知恵を用いて神の奥義を述べ伝えることはしませんでした。
なぜなら私はあなた方の間でイエスキリスト、
しかも十字架につけられたキリストのほかには
何も知るまいと決心していたからです。
あなた方のところに行った時の私は弱く恐れおののいていました。
そして私の言葉と私の宣教は説得力のある知恵の言葉によるものではなく、
見たまと見力のあらわれによるものでした。
それはあなた方の信仰が人間の知恵によらず、
神の力によるものとなるためだったのですと語ります。
コリントの教会というのは、
お金持ちと貧しい人が織り混ざった教会だとよく言われます。
会場交通の要所であったコリントには
様々な文化や宗教というものが流入しました。
それゆえにコリントの人たちが一番求めたのは
優れた知恵のある指導者です。
学識、学歴のある人を
彼らは私たちの教会の先生として抱え込む傾向がありました。
それがコリント教会の分裂のもとになったことを私たちは知っています。
いわくコリントの1章の12節にありますが、
私はパウロに就く、私はケファに就く、私はキリストにという具合にですね。
しかしパウロははっきりと言うのです。
私があなた方に神の奥義を伝える上で、
私は優れた言葉と知恵は持ちいない。
私があなた方に対峙するときに、
ただ私が知るのは十字架につけられたキリストだけだとはっきり言うんです。
キリスト以外を私は知らない。
十字架の言葉を惚れる者たちには愚かであっても、
救われる私たちには神の力ですとコリント書は語りますが、
私たちが今しているこの宣教の働きというのは、
人間の知恵の言葉によるのではないんですよ。
神の礼、御霊と神の力、御力ですね。
その現れによって進んでいっている働きではないですか。
全部神様の力によるんじゃないですか。
なのにあなたたちはどの指導者を見ているのか。
十字架につけられたキリストがあなた方の前にいるのになぜこの方を見ないのか。
パウロはこの言葉の通り、教会の問題はこの後コリント書に出てきますが、
十字架につけられたキリストのロゴといわば論理というもので、
次々とこのことに問題を解決を与えていきます。
パウロは教会の危機のとき、十字架のキリストを見なさいと言ったんです。
視線はそこにあるべきですよということを言ったんですね。
今朝は宗教改革記念日ですが、マルチン・ルターは、
実は彼が書いた書物は最初に必ずイエスという言葉から書かれるそうなんですよ。
彼の書いた手紙、文章も全部最初にはイエスと書かれるんです。
彼は自分がこれから書く文章はイエスに目をとめている、
イエスから私はすれないということを宣言するかのように、
イエスと彼は最初に書きます。
私も手元にあったキリスト社の自由という本を見たら確かにそう書いてありました。
そのキリスト社の自由という本の中で、
彼はキリストを仰ぎ、キリストと共に生きる人はこう考えるべきだということを語っている言葉があります。
ちょっと抜粋してお読みしますが、ちょっと長いので気軽に聞いてください。
でもこういう言葉です。
キリスト社はこう考えるべきである。
本当に私の神は何の値打ちもない罰せられるべき人間であるこの私に、
何の偽さをしなくして全く値なしに純粋な憐れみから、
キリストを通じて、またキリストにおいて全ての義と救いの満ち溢れる富を与えてくださった。
だから私は、この後その通りであると信じることのほかは何も必要としない。
ああ、このようにあり余る富を私に溢れるばかりに与えてくださったこのような父に対して、
私もまた自由に、喜んで、何も報いを求めないで、神のお喜びになることをしよう。
そしてキリストが私に対してなってくださったように、私も隣人に対して一人のキリストになろう。
そして隣人に必要であり、その救いに役立つと思うこと以外は何もしないことにしよう。
実際、私は信仰により、キリストにおいて一切のものを十分に持っているのだから、ということを彼は語るのです。
ルターの文章いいなと私は個人的に思いますが、彼の確信が強いのは、救いはすべて神によるという確信です。