1. 名谷教会
  2. 2026/10/26:神への集中
2025-10-26 29:24

2026/10/26:神への集中

2026/10/26 聖日礼拝

加藤満牧師

サムエル記第一 -51


サマリー

このエピソードでは、神への集中と信仰の重要性が語られています。特にダビデとゴリアテの戦いを通じて、困難な状況でも神を信じることの力が強調されており、教会の戦いにおいては神の力に頼ることが必要であるというメッセージが伝えられています。また、サウルとダビデの関係を通じて、神が高ぶる者を退け下る者を守るというテーマが探求されています。さらに、パウロがコリント教会において十字架のキリストに集中する重要性を強調し、信仰における神の力の役割について語られています。

神への集中の重要性
それでは一言お祈りをいたします。
恵みと憐れみに富んでおられる、私たちの父なる神様、今朝も私たちを、あなたの御声によって招いてくださり、共にあなたを仰ぎ、礼拝ができます幸いを感謝をいたします。
祈ってくださったように、私たちはあなたの限りない愛によって包まれています。
その愛は十字架に現されました。
イエス・キリストの十字架の父よにより、私たちの罪を許し、神のことし、それだけではなく、よみがえられた命、永遠の命を私たちに与えてくださり、
永遠なる死と死を超えても斬ることのできない、あなたと結ばれた命を生きることができるようにされていることをありがとうございます。
あなたはもはや自分の足で立つのではない、私の恵みによって生きるのだと、あなたの恵みの世界へと私たちを招き入れてくださいました。
そして共に御国を築こうと、あなたの使命を共に私たちに与えてくださいました。
それへ上にしよう、私たちが本当に何も力がないと思うところにも、あなた御自身の身力がそこに現されることを信じ、心からありがとうございます。
神様、貴公の代わりめの中で様々な弱さが出ています。
またそれだけではなく、体の不調をきたしている者、病を抱えている者、そしてまたここに来たくても来れないお一人一人がいることも覚えています。
どうか主よ、痛むお一人一人を、あなたは御存じでいて下さいますから、
共にいて下さり、お一人一人慰めの声をかけ、お一人一人を主が力強めて下さいますようにお願いを致します。
ここに集う私たちにも重荷があります。
しかし本当に、あなたはそれをすべて御存じの上で、私のところに来なさいと招いて下さって今朝ここにいますから、
主がどうか必要な命の言葉を私たちに語りかけて下さいますように、
それを素直に受け止め、今一度この時にあなたへと方向を定めることができますように、
私たちを導いて下さい、お願いを致します。
語る者は哀れみ、あなたの御言葉をあなたが開いて下さいますように、
これからの時を御手に委ねます。主が導いて下さい。
イエス様のお名前によってお祈りを致します。
ダビデとゴリアテの戦い
先週は幸いなコンサートのひとときを皆さんと共に過ごすことができて感謝でした。
その前の週になりますけれども、私たち夫婦は実は教団の全国牧師研修会というのに参加をさせていただきました。
牧師研修会の中では様々な議論、議題が話されたのですけれども、
その中のひとつには教団改革宣言をどうするかという話し合いが挙がりました。
皆様のお手元にはまだ届いていませんが、今、教団委員会から私たちの教団協会、
様々な面で逼迫する私たちの協会に対して、
私たち日本イエスキリスト教団はこういうふうに進んでいこうという宣言文を出そうと今考えられているのです。
まだそれは試案段階ですけれども、私たち牧師とまた役員会はそれに目を通して一応検討をさせていただきましたが、
その宣言文の中に特徴的にこういう言葉が繰り返されるのです。
それはキリストを中心としてという言葉です。
3回繰り返されるのです。キリストを中心としてという言葉が繰り返される。
このことを受けてだと思います。全国牧師会で双天礼拝というのがあるのですが、
その中である私たちの教団の先生がメッセージをされたときに、こういう話をされたのです。
教会の歴史において、教会が危機に瀕したとき、いつも教会はキリスト中心に立ち返っていきましたという話をされるのです。
教会の歴史において、教会が危機に瀕したとき、いつもキリスト教会はキリスト中心へと立ち返っていきました。
なるほどと思います。
今年の夏に少し取り上げましたけれども、20世紀の初頭、ドイツが発表された教会の宣言、バルメン宣言というものがあります。
あれもドイツの国でナチス政党がドイツの教会をも掌握しようとしたときに、
いやいや、教会の支配者は国家ではない。教会の頭は私たちの唯一の救い主、イエス・キリストだけなんだと告白した宣言文でした。
さらに遡れば、今朝は実は小読み上、宗教改革記念日となりますけれども、
16世紀の宗教改革の始まりもまた、マルチン・ルターという人が聖書からイエス・キリストを新たに発見した、そのことによって始まっていきました。
教会が危機に瀕するとき、いいえ、それはキリストの教会である私たち信仰者一人一人が危機に瀕するときも同じだと思います。
それはいつもキリスト中心、言葉を変えぬらばキリストへの集中に立ち返るタイミングというのがそれぞれにあるんじゃないかなということを思うのです。
今朝読んでいただいたこのサムエル記の歌手においても、そのことがいかに大切であるかということが語られていますので、一緒に少し見ていきたいと思っています。
2つのポイントで今朝お話をいたしますが、1つ目のポイント、これは主の戦いであるということです。これは主の戦いである。
今朝読んでいただいたのは第1サムエル記の17章列。この箇所は有名なダビデ対ゴリアテが描かれている光景です。
ペリシテ人たちはイスラエルの民族を陥落しようと軍隊を招集してきたというのが1節から書いてあることです。
そしてそのペリシテ軍の中には背丈が6キュビト半と4節に書いてますが、1キュビトが44センチと言われますから、かける6で計算すると286センチ。
2メートル、2.8メートルでしょうかね。3メートル近い巨人のゴリアテがそこにいたと言うんです。
イスラエル軍はこのゴリアテの姿を見て、彼らは非常に恐れたということが書いてあります。非常に恐れたのです。
しかしただ一人だけゴリアテを恐れずに戦いに向かおうとする少年がいたわけです。ダビデ、ダビデでした。
このゴリアテの存在というのはまさにイスラエルにとってはわかりやすい危機の象徴みたいな存在ですけれども、しかしダビデは恐れないのですね。
なぜダビデは恐れないのか、そのことを語っているのが34節から37節です。
ちょっとだけお読みしますので目に留めていただきたいと思いますが、17章の34節から37節、ダビデがサウルに語る言葉ですけれども、こういう言葉です。
ダビデはサウルに行った。しもべは父のために羊の群れを飼ってきました。
シシやクマが来て群れの羊をとっていくと、しもべはその跡を追って出て、これを打ち殺し、その口から羊を救い出します。
それがしもべに襲いかかるようなときは、そのヒゲをつかみ、それを打って殺してしまいます。
しもべはシシでもクマでも打ち殺しました。
このムカツレのペリシテ人もこれらの獣の一匹のようになるでしょう。
生ける神の神をそしったのですから。
そしてダビデは言った。
シシやクマの爪からしもべを救い出してくださった主は、このペリシテ人の手からも私を救い出してくださいます。
そういうことをサウルに言いました。
ダビデは神様を信じていた、そう言ってしまえばそこまでなんですが、
しかしその彼の信仰をいわば堅固にしていたものは何かというと、
それはあのときもこのときも主が私を救ってくださったという生きた経験です。
あのときもこのときも主は私を救ってくださったという生きた経験。
シシやクマというのは明らかにダビデより強いわけですね。
しかしおそらくそのようなどうしようもない現実の中で、
ダビデは何度も主に祈った経験があるのでしょう。
そしてその度に主は減り下る者を守られるという経験を何度もする。
何度も確かに主は救ってくださったその経験から、
ダビデがはっきりと握ったことは、勝利というのは自分の強さによるのではないということです。
勝利というのは自分の強さによるのではなくて、
神の強さにかかっているんだという確信を、
彼は堅固にうちに持っていったのではないでしょうか。
これは私たちも、自分自身もそうかもしれませんし、
またそういう人をご覧になられたことがあるかもしれません。
本当に弱さの中で、しかし主を仰ぎながら乗り越えていかれた方というのは、
何か強さがありますよね。
主がいるから大丈夫だということを言える強さを持っている人っていらっしゃると思います。
ですからダビデはゴリアテに対しても言うのです。
先ほど読んでいただきましたが、45節から読みしますと、
ダビデはゴリアテに対してこう言いますね。
ダビデはペリステ人に言った45節、
お前は剣と槍と投げ槍を持って私に向かってくるが、
私はお前を画素知ったイスラエルの先人の神、万軍の主の皆によってお前に立ち向かう。
今日主はお前を私の手に渡される。
私はお前を殺してお前の頭を胴体から放し、
今日ペリステ人の軍勢の屍を空の鳥、地の獣に与えてやる。
すべての国はイスラエルに神がおられることを知るだろう。
ここに集まっているすべての者も剣や槍がなくても、
主が救いをもたらすことを知るだろう。
この戦いは主の戦いだ。
主はお前たちを我々の手に渡されるというのです。
ゴリアテは剣や槍や投げ槍という多くの武器を彼は身に持っていました。
しかし、ダビデは本当の力というのは
万軍の主の皆にのみあるということを彼は握るのですね。
この17章の39節にもありますが、
ダビデはサウルの鎧を身につけようとしないんですよ。
サウルが鎧を貸そうかと言うんですが、彼は身につけようとしません。
身の丈に合わない武器では戦えないということを彼は知っているのです。
この歌詞はよく教会に重ねて語られることがあります。
教会の武器とは何なのか。
教会は身の丈に合わないものを背負って
いろんなものを取り入れてやろうとしても、なかなか戦えないですね。
しかし教会の武器とは何なのか。
教会の戦いと勝利
いろんなものがあってもいいのです。
さまざまな賜物が用いられて、
宣教の武器になればとも思います。
しかし本質的に教会のキリスト社の武器は
万軍の主の皆、
万軍の主の皆ですね。
その場で主の皆を崇め、皆によって祈り、
いける主御自身に戦っていただくというのが、
実はキリスト社の戦い方になるでしょう。
特にそれを彷彿とさせるのは、この47節の言葉です。
この戦いは主の戦いだという言葉です。
この戦いは主の戦いだ。
主の戦いとお聞きになって、
私たちはおととしから新明記から順に旧約を見てきていますが、
思い出されるシーンがあると思います。
主の戦いが一番顕著に表されたのは、
ヨシュワ紀の六章。
ヨシュワがイスラエルを率いてエリコの城壁を砕いた時です。
南高不落の要塞エリコを前に、
ヨシュワに現れたのは主の軍の将でした。
そしてこの将が言ったのは、
あなたの足の履物を脱げ、
あなたの立っているところは聖なる場所であると言われましたね。
ヨシュワ紀の五章の十五節にあります。
イスラエルの戦いの備え、
教会の戦いの備えというのは、
武器を磨くことにあるのではない。
教会の戦いの備えはいつでも、
まず主の見舞いに靴を脱ぐことでした。
危機に立ち向かう、そのような場面は、
私たちにもそれぞれあるでしょう。
ただその時にいつも私たちが互いに問われることは、
どこを見ていますかということです。
あなたはどこを見ていますか。
私たちはよく問題に立ちはだかると、
これを変えよう、誰かを変えようとして、
他人を見てしまうことがあります。
もしくはかけある自分自身を見て、
ああ、だめだなあと思うこともあるでしょう。
危機を見つめてしまいます。
それこそ私の中のゴリアテを見つめてしまって、
足がすくんでしまうということも私たちはあるでしょう。
しかしダビデはここでゴリアテを前にしながら、
ゴリアテを見てはいないんです。
自分の非力さも見てはいません。
ゴリアテを見ているのは万軍の主を見つめていた。
万軍の主を見つめ、彼は靴を脱ぐ。
万軍の主が戦われるということに対してへりくだり、
主を信頼しながらゴリアテに立ち向かっているのです。
この後彼は一死一つでゴリアテを倒します。
しかしそれは偶然だとか運が良かったではない。
神がゴリアテと戦われたのです。
神がゴリアテに勝利をなさったのです。
ここから皆さんよくご存知の通り、
ダビデは八九の勢いで戦火を上げていきます。
ちょっと進んでいきますが、
十八章の七節というところには、
この後何度もサムエル記で繰り返される歌があります。
女たちは笑いながら歌い交わした。
サウルは千を打ち、ダビデは万を打った。
明らかダビデの方が戦火が大きい。
しかしその原因は何なのか聖書ははっきりと語ります。
十八章の十四節。
主が彼と共におられたので、
ダビデは行くところどこでも勝利を収めたということが言われている。
主が彼と共におられたので。
一方サウルは次第にダビデの恐れに取り憑かれていきます。
そして最終的にサウルはダビデに対する殺意を抱きます。
明確に二人の道がこうやって分かれていくんですね。
ただ何がそれを分けたのか、
十八章の十二節というところにこういう言葉があります。
サウルはダビデを恐れた。
それは主がダビデと共におられ、
サウルとダビデの関係
サウルを離れられたからである。
離れ去られたからである。
実に象徴的です。
主はサウルを離れ、ダビデと共に歩んだ。
サメエルキのハンナの祈りの通りですね。
神は高ぶる者を退け、
下り下る者を守られるというテーマがここでも響いてきます。
しかしその原因は神様が一方的に離れた動向の話ではないですね。
本人の中の高ぶりの問題なのです。
二人がこの危機のときに一体何を見ていたかによって、
その二つは分かれてしまったと言ってもよいかもしれません。
さて二つ目のポイントです。
このサウル・ダビデの姿勢は、
これは新訳でも続いていきます。
二つ目のポイント。
十字架のキリスト以外知らない教会。
十字架のキリスト以外知らない教会をパウロは建てようとしました。
ちょっとだけ新訳に話を飛びたいと思います。
危機の中で問われるのは私たちが何を見ているのか。
この原則は旧訳だけではなくて新訳聖書、
そして教会の歴史においても一貫してつながってくるものですね。
コリント教会と十字架のキリスト
新訳聖書においてパウロが殿堂をしておそらく最も苦労した教会は
コリント教会でありましょう。
様々な問題をはらんだこの教会にパウロは少なくとも4回手紙を送るのですけれども、
その手紙の最初の方に教会の危機に対して
パウロは一つのポリシーを掲げて教会に関わります。
ちょっと一緒に読んでいただきたいのですが、
第一コリントの2章の1節から5節というところをお読みしたいと思います。
第一コリントの2章の1節から5節というところ。
新訳聖書の328ページの上の段にあります。
第一コリントの2章の1節から5節というところをお読みいたします。
こういう言葉があります。
兄弟たち、私があなた方のところに行った時、
私は優れた言葉や知恵を用いて神の奥義を述べ伝えることはしませんでした。
なぜなら私はあなた方の間でイエスキリスト、
しかも十字架につけられたキリストのほかには
何も知るまいと決心していたからです。
あなた方のところに行った時の私は弱く恐れおののいていました。
そして私の言葉と私の宣教は説得力のある知恵の言葉によるものではなく、
見たまと見力のあらわれによるものでした。
それはあなた方の信仰が人間の知恵によらず、
神の力によるものとなるためだったのですと語ります。
コリントの教会というのは、
お金持ちと貧しい人が織り混ざった教会だとよく言われます。
会場交通の要所であったコリントには
様々な文化や宗教というものが流入しました。
それゆえにコリントの人たちが一番求めたのは
優れた知恵のある指導者です。
学識、学歴のある人を
彼らは私たちの教会の先生として抱え込む傾向がありました。
それがコリント教会の分裂のもとになったことを私たちは知っています。
いわくコリントの1章の12節にありますが、
私はパウロに就く、私はケファに就く、私はキリストにという具合にですね。
しかしパウロははっきりと言うのです。
私があなた方に神の奥義を伝える上で、
私は優れた言葉と知恵は持ちいない。
私があなた方に対峙するときに、
ただ私が知るのは十字架につけられたキリストだけだとはっきり言うんです。
キリスト以外を私は知らない。
十字架の言葉を惚れる者たちには愚かであっても、
救われる私たちには神の力ですとコリント書は語りますが、
私たちが今しているこの宣教の働きというのは、
人間の知恵の言葉によるのではないんですよ。
神の礼、御霊と神の力、御力ですね。
その現れによって進んでいっている働きではないですか。
全部神様の力によるんじゃないですか。
なのにあなたたちはどの指導者を見ているのか。
十字架につけられたキリストがあなた方の前にいるのになぜこの方を見ないのか。
パウロはこの言葉の通り、教会の問題はこの後コリント書に出てきますが、
十字架につけられたキリストのロゴといわば論理というもので、
次々とこのことに問題を解決を与えていきます。
パウロは教会の危機のとき、十字架のキリストを見なさいと言ったんです。
視線はそこにあるべきですよということを言ったんですね。
今朝は宗教改革記念日ですが、マルチン・ルターは、
実は彼が書いた書物は最初に必ずイエスという言葉から書かれるそうなんですよ。
彼の書いた手紙、文章も全部最初にはイエスと書かれるんです。
彼は自分がこれから書く文章はイエスに目をとめている、
イエスから私はすれないということを宣言するかのように、
イエスと彼は最初に書きます。
私も手元にあったキリスト社の自由という本を見たら確かにそう書いてありました。
そのキリスト社の自由という本の中で、
彼はキリストを仰ぎ、キリストと共に生きる人はこう考えるべきだということを語っている言葉があります。
ちょっと抜粋してお読みしますが、ちょっと長いので気軽に聞いてください。
でもこういう言葉です。
キリスト社はこう考えるべきである。
本当に私の神は何の値打ちもない罰せられるべき人間であるこの私に、
何の偽さをしなくして全く値なしに純粋な憐れみから、
キリストを通じて、またキリストにおいて全ての義と救いの満ち溢れる富を与えてくださった。
だから私は、この後その通りであると信じることのほかは何も必要としない。
ああ、このようにあり余る富を私に溢れるばかりに与えてくださったこのような父に対して、
私もまた自由に、喜んで、何も報いを求めないで、神のお喜びになることをしよう。
そしてキリストが私に対してなってくださったように、私も隣人に対して一人のキリストになろう。
そして隣人に必要であり、その救いに役立つと思うこと以外は何もしないことにしよう。
実際、私は信仰により、キリストにおいて一切のものを十分に持っているのだから、ということを彼は語るのです。
ルターの文章いいなと私は個人的に思いますが、彼の確信が強いのは、救いはすべて神によるという確信です。
神への集中と戦い
救いはすべて神による。100%神である。
私の中に一切の良いものがなくとも、キリストを通し神は私を救い出し、あり余る富を今与えてくださった。
だから私はキリストを見つめる。
キリストが私に対してなってくださったように、私も隣人に対して一人のキリストになろう。
神があなたを見つめ、あなたが神を見つめるときに、救いは起こるんです。
キリストが我が家に生きるということを、私たちはそこで経験するのではないでしょうか。
この後ご一緒に歌います、神は我が矢倉という賛美は、マルチン・ルターが作詞をした歌ですけれども、
実はこの賛美歌は、ナチス政党がドイツを席巻したとき、軍隊後進曲として演用されたという歴史を持っています。
いかに神様を仰いで、いかに神様を褒めたたえて作られたものであったとしても、
この世界に起きることごとは、その色を塗りつぶしてしまうほどの力があるということをつくづく思います。
だからこそ、私たちはそれぞれ目を覚ましたいと思うのです。目を覚ましていたい。
危機の中で、この妙谷教会は、単なる人の集まりなのでしょうか。
いろんなことが昔ほどできなくなった場所でしかないのでしょうか。
ダビデがここにいたらおそらく言うことでしょう。
いいや、ここは生ける神の神だ。ここは生ける神の神である。
そしてこの教会がキリスト社である私たちが戦う戦いは、どこまでも主の戦いである。
ご利益を見るなですよ。
神を仰げ、靴を脱げ、十字架につけられたキリストをどこまでも見つめよう。
主は戦ってくださる。
私たちがいつもしてしまう失敗は、戦い方を間違えるのです。戦い方を間違えてしまう。
今朝ご一緒に、これは私も自戒を込めて問われることですが、覚えたいと思います。
私たちは今どこを見ていますか。どこを見ていますか。
教会の頭はイエス・キリストです。この世界の王は生ける神ご自身です。
その事実を認め、神へと集中する。
跪く姿勢をそれぞれ取り戻していきたいと思います。
一言お祈りをいたします。
29:24

コメント

スクロール