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2022-03-13 31:16

2022/03/13:創世記(46)全ては神の栄光のために造られた

2022/03/13 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 -2:3、エペソ人への手紙 1:3-6


00:02
お祈りします。神様、感謝します。
この朝も、あなたの栄光を褒めたたえるため、主の皆を賛美するために、私はここに集っております。
一人一人の礼拝と賛美が、ただ、神様の見ごろに、かなったものでありますように。
主の栄光だけが、褒めた頼られ示されますように、現れますように。
全てをどうか、主が、主御自身の御声を、我々一人一人に、お聞かせください。
神様の皆によって、お祈りいたします。
アーメン。
はい、修法を孤壇になった方は、若手になるかと思いますけれども、
私の宮谷教会への奉仕は、来週をもって終わらせていただきます。
当初は、3月1日まで奉仕をさせていきたい気持ちはありましたけれども、
やむを得ず、3月22日から入院して、新しい孤壇剤の治療を始めるということになっておりまして、
どうしても27日には病院にいるということになりまして、
来週をもって奉仕を終わらせていただきたいと、そういうふうに願っております。
併せたわけではありませんが、創世紀の説教も、今日で最後になります。
50章までいきまして、そしてその後、もう少し触れたい部分が、たくさんありましたけれども、
先週の役部のところ、そして今日の創世紀の最初の部分に触れて、
これは神様の不思議なお導きですけれども、
ある意味では私がこの9年間、短い時間でしたけれども、
国会を通して、メッセージを通して、私たちが生きる目的、礼拝する目的、教会が存在する目的、
この世界の宇宙万物、万象が作られた目的が何なのか、
ある意味では私は9年間、教え続け、叫び続け、語らせていただいたわけであります。
もうその最終編になるかと思います。
そして来週は、創世紀ではなく他のところ、箇所は決まっていますけれども、
03:03
そこをもってですね、静かに去りたいと、そういうふうに願っております。
さあ、今日は46回、2020年10月に始めたと思うんですけれども、
いろいろあってですね、1年以上になりました。
皆さんにも申し訳ないと思いますし、神様にも申し訳ないと、そういうふうに思っております。
でも幸いに最後まで行けたことは、本当に神様の恵みでした。
では、創世紀の最終編を見ていきたいと思います。
今日は最初の内容になります。
創造についてです。
もう最初、結論からポンと申しますと、神様は私たち使徒を含めて、
この宇宙万物、万象、万物、すべてのものを、神ご自身のためにお作りになりました。
それは、言い換えますと、神の栄光のためにお作りになりました。
そして、すべてのものは神のために、神の栄光のために存在し、
導かれ、保たれ、そして最後には神に至るということです。
創世紀の第一章、1節を見ると、初めに神が天土地を創造されたとあります。
よくご存知の箇所です。
この1節は、天土地を創造されたのは、そこに唯一の神だという話をしているわけです。
でも、私たちが知りたい、神様がなぜ天土地を、宇宙万物を、人を、すべてのものを作られたのか、
その理由は、その目的は何であるかは、実は、この創世紀の1章、2章には書かれていないです。
しかし、旧約、新約、聖書を見ますと、私たちは多くの聖書箇所から、
その創造の目的が、もうはっきりと知ることができます。
否定できない。
誤魔化すこともできない。
私は知らなかったんですよ、分かりませんよ、と言い訳できないんです。
だから、まずは、神様が、このすべてのものを、目に見えないものも、
礼拝も教会も、我々も、すべてのものを、含まれていないものはありません。
06:00
すべてのもの、その創造の目的が何であるか、これからいくつかの箇所を開きますが、
まず、ヘブル人への手紙2章10節を見ていきましょう。
新約聖書のヘブル人への手紙2章10節です。
聖書を開いてください。字幕はありませんのでね。
新約の439ページです。
ヘブル人への手紙2章10節。
そこをご覧ください。
多くの子たちを栄光に導くために、彼らの救いの創始者を多くの苦しみを通して、
完全なものとされたのは、その次ですよ。
万物の存在の目的であり、また原因でもある、誰ですか?
神にふさわしいことであったのです。
万物の存在の目的は何ですか?神様です。
万物の存在の原因は何ですか?神様です。
この宇宙万物が、私たちが、この礼拝が、教会が、世界が、地球が、
私たちの命があるのは、全ては神様のためなんです。
つまり神様はですね、万物を、人を、私たちを、神様ご自身のためにお作りになったということです。
だから私たちは、私たちのこの礼拝は、明太に教会は、世界中の教会は、
何のために、誰のためにあるんですか?存在しますか?
神様のために存在します。
神様はご自身のために、第一日は光を、昼と夜を、第二日は空を、第三日は海と地を、植物を、
第四日は太陽、月、星、第五日は鳥、魚、第六日は動物と人を作られたということです。
だから作られたものの中で、神様のために作られていないものは一つもないということになります。
ところが、大に誤解しないでほしいことは、誰々のためにという言葉の意味です。
例えばね、英医さんのために祈りましょうと話をしたとします。
09:05
そしたら、その英医さんに何かの足りないところ、課題、人課題、病気であろうが何かがあるから、
何かの問題があるから、かけているところ、何かの課題があるから、祈りましょうということになりますね。
何かが足りない、十分ではない、問題、課題があるという意味なんですね。誰々のために。
だから、神様のためにこの世界が作られたというのは、神様に何が足りないから、何か問題があるから、
神様がものすごく寂しくてとか、愛が必要だからとか、交わりが欲しいからとか、退屈だからちょっと遊びたくてとか、
そういうふうに理解したらそれは大間違いですね。決してそうではありません。
神様がお腹が空いているから植物や動物を作られたわけでもありません。
神様が寂しいから友達が欲しくて、アダムといえば私たちを作られたわけでもありません。
これは私の質ではありませんよ。聖書の話です。見ていきましょう。
使徒の働き、17章。新約聖書の使徒の働き、17章、24から25です。
新約聖書の使徒の働き、17章、24から25、271ページですね。
さあ、そこをご覧ください。24節。
この世界とその中にあるすべてのものをお作りになった神は、天地の主ですから、手で作られた御屋にお住みにはなりません。25節ですよ。
また、何かが足りないかのように、使徒の手によって使えられる必要もありません。
神ご自身がすべての人に、命と生きと万物を与えておられるのですから。いいですか。
神様がね、何かが足りないかのように、人の手によって使えられる必要もないからです。
神様はすべての面において、完全なお方であります。
12:03
ここでもう一箇所、ローマ人への手紙、11章、36節を開きたいと思います。
ローマ人への手紙、11章、36節。317ページです。
このローマの教会のところに手紙を送りながら、11章の最後に、こういうふうに完結しています。
36節、私が読みます。
すべてのものが、神から発し、神によって成り、神に至るのです。
この神に栄光が常にありますように、アーメンとなります。
ここにまず最初、すべてのものが神から発したとあります。
これは神様が作り主だ、万物万象の根源だという意味ですね。
だから神様の御心のゆえに、すべてのものが発して存在するという意味です。
もう一度申しますと、神御自身が万物の私たちの教会の礼拝の人生の世界のすべての存在理由であり、目的であり、存在の最初であり、最後であるという意味です。
そしてその次を、36節の次を見ると、神によって成り、神によって成りとあります。
つまりすべてのものが神によって成るという意味です。
これは神様がすべての万物を御自身の御心と説理によって保ち、納め、導かれるという意味なんです。
ですから神様によらないで成るものはありません。
すべては神様によって神を通して成ります。
そして最後に、神に至るのです。
この日本語の神にはですね、神から発して神によって成り、神に至るとありますが、
神に至るということは、ちょっと調べたところ、神のために至るという意味もあるそうなんですね。
いずれにしても最後は神に至ります。
すべての万象の万物の私たちが神を礼拝することも、生きることも、あるいは死ぬことも、
15:02
すべてはこの宇宙万物はもうゴールは神様だということですね。
ですからこの11章36節をまとめて申しますと、こういう意味だと思います。
万物は神の栄光を表すために、神によって作られ、神によって存在し、神によって保たれ、神によって導かれる。
もう一度申します。大事な話ですよ。
万物は神の栄光を表すために、神によって作られ、神によって存在し、神によって保たれ、神によって導かれる。
これを最もふさわしく正しく表している御言葉が聖書にはちゃんとあります。
ヨハネの黙示録4章11節です。
497ページです。
さあ、そこをご覧くださいね。
これ大事な箇所ですよ。
主よ私たちの神よ、あなたこそ、栄光と誉れと力を受けるにふさわしい方。
あなたが万物を創造されました。
御心のゆえに、それらは存在し、また創造されたのです。
どういう意味ですか、皆さん。
神様は神様の御心のゆえに、神様御自身のゆえに、それらは存在し、また創造された。
私たちが生かされている目的は、理由は、神のためなんです。
神の御心のゆえなんです。
それを覚えていただきたいですね。忘れないでいただきたいです。
ですから、私たちが生きる目的は、理由は、本源は神様だけなんです。
皆さんは、突然の質問ですけれども、何のために教会に来ているでしょうか。
何のために礼拝を捧げていますか。
何のために妙大な教会に来ていますか。
18:02
何のために神様を信じていますか。
慰めを得るためですか。
ほっとする安らぎのお話を聞きたいですか。
癒しのためですか。
私たちが神様を信じる目的、神を礼拝する目的、信者になった目的は、たった一つしかありません。
それは、神様の栄光のためであり、その栄光を褒めたたえるためであります。
それは、神を喜ぶためです。
神様だけを喜ばせるためです。
自分を喜ばせるため、自分を喜ぶためではありません。
私たちは、神様を褒めたたえるために作られて、褒めたたえて生きていて、褒めたたえて死ぬのです。
教会は神様の皆を、神の栄光を賛美するために作られ、存在し、あるわけです。
これを失ったら、すべてを失ったことになります。
これを、もし私たちが失ったままで集まっていたとしても、何万人が集まっていても、礼拝をしていても、楽しくやっていても、それは目的を失った、ただの人間の集まりに過ぎません。
もう一度申しますが、これは私の主張ではありませんよ。
今日の新約聖書、歌書であるエペストビーという手紙を開きましょう。
一生全部読みたいところですが、いくつかの歌書を見ていきましょう。
このエペストビーという手紙、第一章は、万物が作られた目的、私たちが作られた目的、私たちが救われた目的、イエス様が十字架で死なれた目的が何であるか、明確に、はっきりと示されています。
だから、その目的を否定すること、取り替えることもできません。してもいけません。
さあ、見ていきますね。
四節から六節を見ていきましょう。
私を読みます。
すなわち、神は世界の基が据えられる前から、この方にあって、この方はイエス様ですね。
イエス・キリストにあって、私たちを選び、見舞いに聖なる傷のないものにしようとされた。
つまり、想像の前から、神様の心の中には、私たちが作られること、そして選ばれて救われることも、神のプランの中にあったわけですね。
21:10
それは何のために神様はそれをされたのか、その理由は、目的が何であるかが、五節以降に書かれています。
五節、神は見所の良しとするところに従って、私たちを、あなたを、私を、イエス・キリストによって、ご自身の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。
あらかじめね、愛をもって定めておられたんですよ。
神の子にしようとね、素晴らしい、すごいプランです。
それは何のためなんですか、六節。
それは、それはと言うかね、その後に、何々のためです、という言葉が来ます。
神が、その愛する方にあって、愛する方はイエス様ですね。
イエス・キリストにあって、私たちに与えてくださった恵みの栄光が、つまり神の栄光が、その次ですよ、褒め称えられるためです。
私たちが、創造の前から神の見どころにあって、作られること、選ばれ、救われることの、その目的は何ですか。
神の栄光が、褒め称えられるためです。
これは日本語に、美しいで、受け身方になっていますが、原文はですね、私たちが神の栄光を褒め称えるためです、とあります。
それを、神・巨大役はですね、こういうふうに訳していますね。
私が読みます。神が、その愛する御子によって与えてくださった、輝かしい恵みを、私たちが褒えるためです、とあります。
つまり、私たちが創造の前から、神によって定められ、選ばれて、そして時になって、この日本に生まれて、そして時になって、神を信じて、救われた目的は、神の栄光、輝かしい恵みを、私たちが褒め称えるためなんです。
それが、私たちが生きる教会がある存在の唯一の目的であり、理由なんです。他にはありません。
もう一か所、またありますね。パールはね、これを何度も繰り返しているんです。
7節からご覧下さい。
このキリストにあって、私はその地による贖い、草木の罪の許しを受けています。
もう流れがちょっと来ますか。草木の罪に許された目的が、これからあどかできますよ。
24:00
これは神の豊かな恵みによることだ。
その恵みを、神はあらゆる知恵と修了をもって、私たちの上にあふれさせ、その恵みをね、あふれさせて下さった。
それは何のためなのか、後から来ますよ。9節。
見所の臆病を私たちに知らせて下さいました。
その臆病とは、キリストにあって神があらかじめお盾になった身実に従い、
時が満ちて、計画が実行に移され、天にあるものも地にあるものも一切のものがキリストにあって一つに集められることです。
また、キリストにあって私たちが御国を受け継ぐものとなりました。
私たちがキリストにあって御国を受け継ぐものとされた目的は何なのか、これからできますね。
12節。
それは、さっきの6節と文が一緒でしょう。それは、ね。
前からキリストに望みを置いていた私たちが、私たちが、その時ですよ。
何のためですか?何のためですか?
神の栄光を褒め、称えるためです。
罪許された目的、神の豊かな恵みを得たいという目的、
神の知恵と資料があふれさせるほど与えられている目的、救われた目的が単なる天国に行くためではありません、皆さん。
慰めを、ただ慰めを得るためでもありません。
実は聖書にはどこにもそういうふうに書かれていないんですよ。
皆さんが、私たちが集まって礼拝する目的、
私を信じる目的は、神の栄光を褒め、称えるためのみです。他にはありません。
そうした気持ちがあるかもしれませんが、これが究極的で根本的で唯一の目的でありません。
もしも我々の信仰が右往左往する理由は、最初の設定が間違っているから、
神を信じる最初の設定、礼拝する目的、その設定、それが最初から間違っているから、
ずっと間違ったままに行ってしまって、それで慣れてしまって、
そして、これが目的なんだよと言いたいものになるんですよ、人間は不思議にね。
9年前、神戸に初めて来て、何のためか覚えていないのですが、
車に運転して大阪に行ったことがあるんですね。
27:01
それで道が分からないから、ナビで自宅を押して神戸に行くつもりですが、
なぜか方向が西じゃなくて南の方向に行っている気がするんですね。
後から見たら、なぜか分からないけど、自宅が和歌山の変なところになっていたんですよ。
ふっとしたら和歌山に行っちゃうところでした。何のためなんですか。設定が間違っていたからなんです。
それで直して、車を止めて直して神戸に入ってきたんです。
設定は大事なんですよ、皆さん。目的が何であるか、信じる目的、礼拝する目的、
集まっている目的は、神の栄光を誉め称えるため、主を喜ぶためなんです。
雨ですか、皆さん。これから雨ですかと聞く牧師は多分いないと思うのでね。
何が問題なんでしょうか。最初から神を信じる設定が、その目的の設定が間違っていたのではないでしょうか。
間違った目的を目指して教会に来ていたら、それは信じることではなく、ただ教会に来ているだけに、
私たちがここに集まっている目的は、伝統を守るためではありません。組織を維持するためでもありません。
好みのお話を聞くためでもありません。何かを得るためでもありません。
もしも私たちが病気の癒しのために教会に来るんだったら、癒されたら、もう自分の目的はクリアしたから、神様はさよならになります。
あるいは癒されない、神様はどうしようもないね、献金してもどうしようもないね、他の宗教に移るでしょう。
あるいは耳障りのいい話、好みの安らぎのほっとする話を聞きたくて教会に行ったんだけど、
雲木氏みたいに厳しい話ばかりでしたら、いやもう嫌だ、他の教会に行く。
教会に移るでしょう。あるいは教会に辞めるでしょう。他の楽しい宗教に行くかもしれない。目的が大事です。
聖書ははっきりと教えています。私たちが生きる目的、恋愛する目的、集まる目的、あるいは健康な目的、病む目的、
全ては神の御手によってなるものですから、それは神の栄光を褒め与えるためなんです。
30:05
唯一の目的、神様を喜ぶためです。神様を褒め与えるためです。その栄光のために私たちは生き、また死ぬのです。
栄光を表すためです。それを覚えたら、ある意味で何でも受け止めることができるのです。
これからずっと、いつまでも、この明丹教会、この集まりから、皆さんお一人お一人が唯一の目的、神様を喜ぶため、神様を褒め与えるため、
神の栄光を表すために、集まり、恋愛し、交わる皆さんになっていただきたいです。
そして神様は、私たちが心から喜んで進んで、神を喜ぶ姿を、神を褒め与えるその姿を、
主はご覧になって、神様ご自身も大いにお喜びになります。お祈りしましょう。
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