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2017-07-30 31:36

2017/07/30:ヨハネの福音書講解説教(7)ニコデモの信仰、私の信仰

 2017/07/30 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 3:1~7

00:01
皆さん、おはようございます。
暑い中、ごいらっしゃいました。
今日も、恋愛の上に、神様の豊かな恵みが注がれますように、お祈り申し上げます。
それでは、メッセージの前に、隣の方と挨拶しましょうか、皆さん。
それでは、一言お祈りします。
誠に誠に、あなたに告げます。
人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。
主よ、世の始めから、私たち一人一人を、主は覚えておられ、
時に満ちて、そして名を呼んでくださって、召してくださって、救ってくださった神の恵みを心から感謝いたします。
今、主の御前に礼拝をお捧げいたします。
どうか、今日のこの御言葉から、神様御自身が、私たち一人一人に、今日聞かなければならない主の御言葉を、どうかしよう。
我らの心の中に、命の中に、主が語ってください。
刻みつけてください。悟りを与えてください。
目を開かしてくださいまして、あなたにお出会いする時となりますように、神様、祝福してください。
どうか、お願いいたします。
この物を隠して、神様御自身が、どうか御自身を一人一人に表してくださいますように、お願いいたします。
イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
はい、ヨハネの福音書の公開説教、7回目です。
今日は、ニコデモの信仰、私の信仰という題にして、御言葉の恵みを共にお受けしたいと思います。
さあ、皆さんは、今まで皆さんが会った人の中で、皆さんの人生に、あるいは皆さんの信仰に、一番大きな影響をもらった人は誰でしょうか。
まさか私ではないでしょうね。
もし、「ユンセレですよ。」とおっしゃる方がおられれば、お礼で素敵でも差し上げますので。
03:02
私の場合はですね、私の母、それと、軍隊終わって帰ってきて、青年の時の僕先生でした。
その先生は今、中国で選挙しておられますけれども。
人は誰に出会って、どういう出会いを持つかによって、その人の人生のストーリーが全く変わると思うんですね。
今日私たちは、イエス様に出会った一人の、その人のストーリーを、物語を見てみようとしております。
ヨハネの訓示書を始めた時にですね、このヨハネの訓示書は、もう第一章から、イエス様に出会った人々の物語だと申し上げました。
ですから、皆さんがこれからですね、ヨハネの訓示書を一緒に学んで、恵みを受けていきますけれども。
このヨハネの訓示書の中に、イエス様にお会いした人々が、どのようにして帰られていくのか、そこに注目してください。
そしてぜひ見習っていただきたい。そして主よ、私もこの人のように帰られますようにと願って、祈っていただきたいんですね。
以前も見てきたように、ヨハネの訓示書、第一章、第二章に出てくるパプテスマのヨハネ、アンデレ、ペテロ、ピリッポ、マタナエル、
彼らはみんなイエス様に出会って、その人生が全く変えられた人々でした。
イエス様に人格的に出会って、彼の人生最大のターニングポイントでした。人生最大の祝福をいただいたんですね。
なぜなら、彼らはマコトの神にお会いしたからです。そして救い主イエスキリストにお会いしたからです。
そして彼らは新しく生まれたから、彼らの人生は全く変えられました。
皆さん、神様は、全ての人が新しく生まれることを、主は、神様は願っておられます。
全ての人は、イエスキリストにお会いしなければなりません。
マコトの神なるイエスにお会いしなければなりません。
他の人には出会っていなくても関係ないかもしれません。
しかし、人は必ず、マコトの神であって、唯一の救い主であるイエスキリストに必ずお会いしなければならないのです。
この司徒ヨハネは、それを意図的に、ヨハネの救い主の最初から、
06:03
バプテスのヨハネ、アンデレ、ピリッポ、ナタナヨイロ、キョウワ、ミコデモ、それから4章に行きますと、
サマリアのスカルのあの女性、それからまた出てくるのですが、多くの人物が出てくる。
そしてヨハネは、それらを通して、最初から力強く、私たちにメッセージを語っているのです。
皆さん、この人々もイエス様に出会って、新しく生まれました。こんなふうに変えられました。
あなたもイエスキリストに出会って、生まれなければなりませんよ。新しく生まれなければなりませんよ。と、
この司徒ヨハネは、もうヨハネの福音書、第一章からポーンと、我らに語っているのです。
今日イエス様に出会った人は、皆さんよくご存知の、ミコデモという人でした。
ミコデモはどんな人なんでしょうか。彼は当時のユダヤにあった議会の議員でした。
その議会をサンヘイドリンと言いますが、議員でした。
当時、50人あったそうです。だからですね、日本的に言うならば、大臣と参議院、中間ぐらいのこういう公務員です。
彼らは宗教的に社会的にですね、そのユダヤの人々から尊敬を受けていて、また高い地位を彼らは享受していたことでしょう。
またイスラエルという国、社会はですね、政治と宗教はもう一致して、もう合体しているような社会でしたから、
彼らは政治的だけではなく宗教的にも認められる人たちでした。
ところが今日のストーリー、ご存知の方、また今日初めての方もおられるかもしれませんが、
イエス様とこの政治的、宗教的に認められて尊敬されるミコデモという議員のイエス様のお話を見てみるとですね、
かなりずれている、衝撃的なストーリーが展開しているんです。
つまりミコデモという人は、イエス様が三節のように、
人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできませんと何度も言ってもですね、もう理解できないんですね。
宗教的に社会的にありほどですね、尊敬される議員様が、
なんでイエス様のこの話を理解できないんでしょうか。なぜなんでしょうか。
それはこのように言えると思うんですね。
彼にはユダヤ人としての信仰の形は持っていたかもしれませんが、
09:02
中身のない空っぽの信仰、空のような信仰だったと言えるのではないでしょうか。
イエス様は彼に二回も、人は新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。
水と水玉によって生まれなければ神の国に入ることはできませんと二回も語られました。
しかしニコデモは実際に新しく生まれていないから、新しく生まれること自体が何なのかわからないのです。
だから彼は老年になってもう一度母の体に入るんですか。そんなことありえないでしょうという対話になっているんです。
なんでこんな話になっているんでしょうか。
ニコデモは新しく生まれていないからでしょう。
人格的に救い主イエスキリストに、まことの神にお会いしていないからなんですね。
実はショックなんです。
政治的に宗教的に尊敬されて、政治のことだけではなく宗教的に関わっているあの議員様が、
イエス様がもっとも基本的な根本的な話をしてもわからない信仰の形があったかもしれません。
しかし中身のない空っぽの信仰だったんですね。
今日はこのニコデモの、後彼も変えられますけどね、この時のニコデモの信仰を我々は反面教師としていただいて、
それぞれ我々自分自身の信仰を点検していただきたい。
そういう風になっております。
さあ、2節を見ますと、ニコデモというユダヤ人の指導者が、ある日夜、イエス様のもとに来ました。
そしてイエス様に色々お尋ねしました。
最初の彼の話は、要点は奇跡を見ていると、白紙の話をしているんですね。
ところが彼は、夜訪ねて来たと言うんです。
なぜ夜に来たのか、昼に来たらよかったのにと言ってですね、ある本人はですね、イエス様は昼間は仕事が多くて忙しいから迷惑にならないために夜に来たと言われる本を読んでですね、どうなんだろうと思いましたけれども。
実はそれよりですね、彼はこういう公務員として、田舎の若者、イエスという人が来て、神の国のことを語っている。
12:07
多くの人々に注目を浴びている。
その偉い議員さんが、名の知らぬ者に尋ねていてですね、何かを会話をする、質問をすることは、この議員としての対面上問題があるわけなんですね。
そしてまた、自分がそういった者に出会って何か話をした、教えてもらった、そういう話が他の議員に、その耳に入ったら自分が困るかもしれない。
自分の地位や自分の対面を、自分のこのことをですね、守るために、困ることが起こらないために、多分夜にこっそり行ったのではないでしょうか。
もし、ニコデモが本当に新しく生まれた人であれば、
ああ、この人は名知らぬ者なんだとはっきりと分かっていたならば、知るであろうが、相当であろうが、誰から見られるであろうが、関係なくですね、喜んで、
もう走ってですね、イエス様はどこに、イエス様と行ったのではないでしょう。
自分がイエス様に出会うことを恐れることはない。
まあ、あえてですね、夜こっそり尋ねる必要もないでしょう。
昼間でもですね、堂々と正々堂々、イエス様のところに尋ねたことだと思うんですね。
彼は自分の対面を、自分の地位を、人からどう見られるんだろうか。
もしかして困ることが起こったら、議員のこの地位を知られたどうかと、いろんな複雑な思いを持っていたのではないでしょうか。
まだ新しく生まれていなくて、信仰の形だけを持っている人々の特徴は、
信仰に対して、神様に対して、救いに対して、自分がクリスチャンであることに対して、
曖昧な態度、中途半端な態度をとると思います。
私はイエス・キリストを信じるクリスチャンです。あなたもイエス様を信じませんか。
と堂々と言えない、言いにくい。
この前ですね、先週でした。福岡にいるときに、教会の神徒さんですけれども、私くらいの兄弟ですが、
一つのメールをもらいました。彼が最近知り合いになったイスラム国のある姉妹の話です。
15:07
彼女はたぶん仕事でですね、日本に来ているうちにムスリムでしたけれども、
このイエス様に出会って、彼女は洗練を受けて救われたそうです。
ところが、もう仕事がそろそろ終わるので、自分の国に帰らなければならない。
しかし、そこはサウジアラビアだそうなんですね。
そうすると、自分がもしクリスチャンであることをもうやけに表明すると、
サウジアラビの場合は、ひどい場合は、もう処刑されるんですね。
彼女はそのために祈っている。
でもですね、彼女が彼にですね、私の知り合いの彼に、
自分はもし母国に帰って、もし自分が処刑されても、あるいは家から追い出されても、
何か家に大変なことが起こっても、私はこのイエス・キリストを捨てることはしない。
と言ってですね、その巨大が、そしていろいろ祈ってですね、
その巨大が私に、先生、どういうふうに励ましとかアドバイスがいいんですかとですね、
メールが来てですね、私も何日か祈ってですね、返事をしようとしているところなんです。
そういう人々と比べたら、日本はどうでしょうか。
それよりは難しいところではないでしょう。
私はクリチャンです。私は神様を信じます。私は変えられました。
と、正々堂々言えない理由は何があるんでしょうか。
人間関係なんでしょうか。今の自分の地位でしょうか。人々からの何かのことなんでしょうか。
それよりイエス・キリストを信じる信仰が最も大事なことではないでしょうか。
イエス・キリストは我々の体面や地位や持っているものや人間関係より安っぽいものではないのです。
最近私が読んでいる福音の再発見という本がありますけれども、そこは福音とは何なのかといろいろ語っている中でですね、
その中で一つの項目にこういう話がありました。
福音はただの救いの話だけではなく、もちろん救いも含めますけれども、その救いを宣言すること、
18:03
布告すること、表明することまで含めて福音ですよという教えでした。確かに皆さんそうなんです。
弱音の福音書をこれから見ていきますか。
みんなイエス様に出会った人は、キリストに救い主に出会った人は、みんなその光を、救いを、恵みを表します。
言い告げます。言いまわります。
自分の信仰の光を隠さずに、天下にそれを表にするんですね。
ところがニコデモのように、新しく生まれていない人、形ばかりの信仰を持った人は、
イエス様が新しく生まれなければなりませんよ、そうしないと神の国を見ることができませんよ、入ることができませんよと言っても、
そういった人々にイエス様は今日のこの御言葉を通して、
あなたも新しく生まれなければ神の国を見ることはできませんと語っているのです。
この御言葉に耳を傾けるべきではないでしょうか。
ここで新しく生まれるということの意味を簡単に申しますと、
上から生まれる、あるいは再び生まれるという意味であります。
これは当然、この体が体内から生まれてくることを指すのではなく、
霊が再び天の神の恵みによって新しく生まれることです。
この世に生まれるときは、体を持って生まれます。
しかしその人が神の国に入るときには、必ずその霊が新しく生まれなければなりません。
だから人間は二度生まれるのです。
ただの体だけを持っては神の国を見ることはできませんし、入ることはできません。
イエスを救い主として信じる信仰によって、新しく生まれて神の国に入るのです。
二番目、ニコデムの信仰は、今日の二節からわかるように、彼は目に見える印、奇跡だけをつかむ信仰でした。
二節を私は読みます。ご覧ください。
この人が夜イエスのもとに来て言った。
先生、私たちはあなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。
イエス様がメッシャーであることは認めていないのです。教師であると。
21:01
神が共におられなければ、あなたがなさるこのような印は誰も行うことはできません。
彼はまず印に病気を癒したり、盲人を見えるようにする印に関心がありました。
印じゃなくてイエスを見るべきなのに、イエスを見ていなくて印を見ていました。
だから彼の信仰は形だけの信仰、中身のない空っぽの信仰だったと言えるでしょう。
もちろん皆さん、印というものは信仰の門を、扉を開くのには確かに役立つものであります。
ヨハネノ福音書10章をちょっと開きましょうか。
ヨハネノ福音書の10章の38節。
ヨハネノ福音書10章38節。200ページです。
それではご一緒にお読みしましょう。
しかしもし行っているなら、たとい私の言うことが信じられなくても、業を信用しなさい。
それは父が私におられ、私が父にいることをあなた方が悟り、また知るためです。
ここにイエス様が、もし私が伝えるこの言葉を聞いて信じにくいならば、信じられなかったならば、私が行う業を見て信用しなさい、信じなさいと語っているんですね。
このように印というものは、業というものは、信仰のない人が信仰を持つときに、その信仰を起こすための良い道具にはなるでしょう。
しかし皆さん、印とか癒しとか奇跡とかそういうものは、信仰のないようでもなく対象でもありません。
私たちは印、癒しを信じるんじゃなくて、それをなさるキリスト、神様を信じるのです。
だから神様、イエス・キリストを求めるんじゃなくて、癒しばかり、あるいは何かの印ばかり求める人は、神に近づくことはできない。
そういった信仰の問題点は何なのかと言いますと、何かの奇跡が起こる。印が起こる、癒しが起こる。
そしたら、「ああ、神様、生きておられは、晴れ癒しを感謝します。」と、ものすごく燃える。
しかしですね、祈っても、神の答えはもうだった。で、癒されていない。
24:00
そしたらですね、やっぱり神様もいないかもしれないね。もう神様も仕方がないねと、何でそういうふうに思うんでしょうか。
神様を掴むんじゃなくて、キリストを掴むんじゃなくて、その現れる物事にとらわれているから。
このような人々にイエス様は語っておられます。
あなたも新しく生まれなければ、神の国を見ることはできない。入ることはできない。
水と水玉によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。
だから私たちは、印ばかり求める信仰じゃなくて、神を求め、キリストを求める信仰を持っていなければなりません。
そうすると、たとえそうでなくても、あのね、ダニエルの友達が言ったようにですね、
もしそうでなくても、たとえそうしてくださらなくても、私は神を捨てません。
その信仰が必要なんです。
三つ目。ニコデモは新しく生まれていないから、イエス様の霊的な言葉を理解できなかったことでしょう。
新しく生まれなければなりませんよ。
水と水玉によって生まれなければ、神の国に入ることができませんよと言ってもですね、
彼はどうやってそんなことが起こるのでしょうか。
理解できない。
信仰の形は持っていたかもしれませんが、霊が開かれていないから、霊の言葉を理解できないのです。
神の御言葉の力、恵みを経験していない人、イエスの十字架を経験していない人、
イエスキリストに人格的に出会っていない人は、このニコデモのようなものになっているかもしれない。
しかし、新しく生まれた人、イエス様に人格的に出会った人は、救いが何なのか、新しく生まれるものが何なのかはっきりと分かっています。
誰から聞かれてもそれを、いつでもどこでもそれを話すことができる。
皆さん、今日ここで立ち止まって、皆さん自分自身に聞いてみてください。
あなたは新しく生まれましたか。
もしも新しく生まれていないならば、必ず新しく生まれなければならないのです。
27:02
なぜなら、神の国に入ることができないからです。
一時、アメリカで日本語で言うならば、
あなたは新しく生まれましたか。
Are you born again? というクリスチャンが流行っていました。
アメリカ人は、例えば何かの紹介書とか履歴書の宗教欄に、
ほとんどの人が、最近はちょっと変わっていますけれども、
キリスト教とチェックする名掛けのクリスチャンが多かったですね。
今もそうでしょうけれども。
だから、Are you born again?
Are you real Christian? というクリスチャンが流行っていました。
ジョン・ライルという先生が説教をした、
あなたは新しく生まれましたか。
Are you born again? という有名な説教があります。
100年前の説教ですけれども、
その先生はこのようにその説教で語っています。
教会ですよ。教会で神道の皆さんにするメッセージですよ。
あの、電路集会じゃないです。
クリスチャンが座っている教会で、
最初の一声が、あなたは新しく生まれましたか。
これは我々の人生にとって最も重要なクッションです。
イエス様も、ヨハネの訓書三章三説で、
まことにまことにあなたにつけます。
人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできませんとおっしゃいました。
あなたは新しく生まれましたか。この質問に対して、
私はどことこの教会の教会員ですとか、
私はクリスチャンだと思いますとか、という答えでは十分ではありません。
リアルにあなたは新しく生まれなければなりませんという説教なんです。
新しく生まれることは、実は奉仕より大事です。
新しく生まれることは、経験より経歴より大事なものであります。
新しく生まれるものは、どんな知識より、どんな地位より、お金よりもっとも大事なことであります。
なぜなら、新しく生まれていないと、神の国に入ることができないからです。
新しく生まれるのは、奉仕より知識より、何よりも一番大事なことであります。
いくら知識があっても、これはあっている、これは間違っている、いくら知識があっても、その知識は自分自身を救えません。
お金もそうでしょう。地位もそうです。
皆さんいかがでしょうか。皆さんの唇は、何を誰を誇っているでしょうか。
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新しく生まれたクリスチャンの唇は、イエス・キリストを誇ります。
私はクリスチャンであることを誇ります。
皆さんいかがでしょうか。家庭の中で、街の中で、皆さんがクリスチャンであることを誇ってますか。誇らしく思ってますか。
語っているでしょうか。
イエス・キリストの救いは、新しく生まれることは、隠してもいいような、そんなつまらないものではないのです。
もしかしたら、私は隠しているかもしれない。
そんなにせいせいどどと語っていないかもしれない。
私たちに向かう神様の最も大切な思いは、私たちが新しく生まれなければなりません。
そして、新しく生まれたクリスチャンは、その名にふさわしく生きなければなりません。
新しく生まれたクリスチャンは、イエス・キリストを誇らしく思います。誇っています。
その唇にイエス・キリストがあります。
新しく生まれた人は、神の国に入ります。
あなたは新しく生まれましたか。お祈りしましょう。
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