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みなさん、おはようございます。
今日も、礼拝にようこそいらっしゃいました。
それでは、メッセージに入る前に、同じくですね、お隣の方と挨拶をしましょうか。
はい、よくいらっしゃいました。
はい、それでは、ひとつお祈りしますね。
神の御心のことは、神の御様の他には、誰も知りません。
神様、この朝も、私たちが、他のところでなく、住みの場所、楽しみの場所、あるいは、眠る場所ではなく、主の御愛に、主の礼によって引き寄せられて、
共に集まって、共に賛美し、共に礼拝できます、この恵みを心から感謝いたします。
どうかしよう。
今から、神様御自身が、あたさせて一人一人に聞くべきメッセージを、
使って語りのメッセージを、あるいは、希望に満ちたメッセージを、一人一人の魂の中に、主をお語りくださいますように、お願いいたします。
上かがけを持って、神様に伝えて、御言葉を本当にいただく、その神に喜ばれる心の姿勢を、主を、我らに主をお与えくださいますように、お願いいたします。
このものは隠して、主御自身が聞くのも臨在な主の栄光だけが現れますように、お願いいたします。
そして、イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、今日はですね、読んでいただきました、コリドビトイの手紙第1の2章の10節、11節を終身成句にして、
全体的には、6節から、2章の16節が最後ですけれども、16節をまとめてですね、
ともに、「御様によって歩む聖徒、御様によって歩む聖徒」を余大にして、御言葉の恵みをともにお受けしたいと思います。
コリンド教会について、いろいろ続いて学んでおります。
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前回、前々回にも申し上げましたように、そして皆さんが聖書をお読みになってお分かりになるように、
コリンド教会は、イエス・キリストの福音によって讃えられたにも変わらず、いろんな課題を、あるいは問題を持っている教会でした。
その中に、ヒト・パワークがですね、この手紙を書いてですね、もう最初からずばりと彼が伝えているメッセージは、
それはコリンド教会の一番大きな問題だったわけなんですね。それは何だったんでしょうか。
それは、コリンド教会の神徒一人、その人々は、そのギリシアのコリンド町の他の人々と似てて、神の知恵を、福音をイエス・キリストを誇るのではなく、
人間の知恵を、それをあまりにも誇らしく思って頼りにしていた。つまり世の知恵を大事にしていたということです。
つまりですね、それは彼らの間には、このギリシャ・ローマのあの素晴らしい知恵者、あるいは思想、それと比べると、
まあ、イエス・サマを拒むわけではないんだけれども、信じていないわけではないんだけれども、キリストの福音が何かが完璧じゃない、何かが欠けている、ちょっとおかしい、あるいはちょっと愚かなものがあるんじゃないかと、
そういうふうに考えていた、ということであります。つまり、コリンド教会の多くの信徒は、聖徒の御言葉通りに生きることは、なかなか現実的に難しいですよ。
イエス・サマのように生きることは、なかなか難しくて、たまにはバカみたいに思われたかもしれませんね。そういうふうに彼らは考えていたわけです。
皆さん、今度彼ら、ニット・パウルが、いや、神様が彼らに何を教えているでしょうか。いいえ、違う。世の知恵がいくら賢くても、神の知恵が愚かなものでは絶対ありません。
世の知恵では、神の知恵を知ることができないし、世の霊では、神の霊を、神の心を知りません。世の霊をもっては、神の世界を、信仰の世界を、霊の世界を知ることができませんよ。
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それを、この朝、このポリドギスの手紙を通して、神様が、実は日本にいる私たちにしか語っておられません。
そして、その御言葉から、では、名ばかりのクリスタンではなく、本当に見たまによって歩む生徒は、一体どういう人なのか。
その第一は、見たまによって歩む生徒は、福音の真理が世の人々の目には愚かなもののように見えても、そう考えられても、思われても、それを恐れない。恐れないことです。恐れない。
皆さん、ガリーバ・リョコッキーという小説をご存知ですよね。ガリーバ・リョコッキー。ガリーバは普通の人なんです。彼が巨人とか小人とかではない。
ところが、その小説を見たら、彼が持っていた船がナンパされて、ある島に流れていきます。
起きてみたら、小人の国でした。小人の国に行ったから、普通の人間の自分が巨人になってしまった。また逆に、巨人の国に行ったら、自分はもう小人になってしまったわけなんですね。
実は、ガリーバがおかしいのではありません。小人、巨人がおかしいのではありません。この99.5%くらいの神様を信じないこの日本にいる私たちは、まるでガリーバのようなものであるかもしれません。
なぜなら、皆さん、聖書の御言葉を通りに生きるということは、福音通りに歩むということは、聖書の御言葉に従うということは、神を知らない人々には、彼らの目には愚かな者のように見えるからです。
神様を信じない人々には、私たちはおかしい人なんですよ。愚かな人なんですよ。なぜなら、99.5%の日本にいる人々は、私のように歩まないからです。
こんな世界の中で、神の御言葉通りに歩む、御言葉通りに礼拝し、御言葉通りに捧げ、従うということは、また、目に見えない神様を信じるということは、本当に世の人々の目には、アホのように見えるかもしれない。
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おかしいんじゃないと、そう言われるかもしれない。ところが、皆さん、99.5%の人々は神様を信じていなくて、そして、私がいくら言っても叫んでも聞いてくれなくても、99.5%の人が私らが間違ったと言われていても、私たちが間違っているのでしょうか。決して、そんなことはありません。
復讐を持っていただきたいです。私たちが歩んでいるこの道は、正しい道であります。光の道であります。確かに、神の知恵の道を私たちは歩んでいるということを、強く信じて、そして、上に向いて歩んでいこうではありませんか。
どうか、神様を信じる聖者として、堂々とした態度を持っていただきたい。もちろん、それは無礼にしてもいいんですよ、とか、そういう話ではない。礼儀正しく行うべきでありますけれども、この世やこの世の人々の言う言葉とか、その目を恐れる理由は一つもありません。
伝道していること、復讐を伝えること、イエス・キリストが命である、救いである、光であると、イエス・キリストを信じなければなりませんよということを、堂々とした態度を持って伝えていきたい。
そういう確信に満ちて、この信徒の道を歩むこと、それが皆さん、身様によって歩む聖徒の生き方であります。皆さん、聖書をご覧ください。聖書の多くの記事は、そのストーリーは、あるいは神様の命令は、ほとんどの場合にですね、神様を知らない人々の目から見たら、それはおかしい。
あるいは、バカのように見える命令が、実はほとんどなんです。
例えば、今、金曜日のリヴァイオル人会にですね、ヨシヨシを学んでいますけれども、ヨシヨシを見たら、神様がまずヨシヨシに、そのヨルダン川を渡るやり方を教えられます。
ところが、その渡り方はですね、本当に馬鹿げたものでした。船を作りなさい、でもありません。あるいは、大きな橋を作りなさい、でもありません。
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どんなやり方でしたか、皆さん。お存じですよね。祭司たちが、何十キロもある神の契約の箱を貸すいで、年中に一番川の水が水量多くて溢れる川に向かって、もう歩みなさい、ということです。おかしいですよ。
ところが、ヨシヨシはどうしましたんでしょうか。ヨシヨシは、神の命令通りに従いました。そしてその通りに、確信に満ちて、いくら重たい契約の箱じゃなくても、祭司たちが一番先頭に立って、つまり神様が一番先頭に立って進んでいくと、
年中いちばん溢れていても、ヨルダン川はせき止められると、ヨシヨシは確信に満ちて、ワクワクしながら祭司たちに、あるいは司たちにそれを伝えたんですよ。そしたら、司たちはどうしたのでしょうか。
ヨシヨシさん、そういうことおかしいんじゃない。あなた、ちょっと病院にいた方がいいかもしれませんよと。そう言っていないんです。誰も、そのかつぶ祭司たちすらも、みんな、ヨシヨシを見たら、第1、第2、第3章によく出てくる言葉のひとつは、ヨシヨシはも言った通りに従った。
そして、その通りに、なんと、祭司たちもその通りに行いました。従いました。皆さん、もしもそれが神様の御命令であるならば、神様の方法は、神様の知恵が一番賢いものであることを信じる者には、それが力になるのです。
しかし、ちょっとおかしいね、わりと難しいねと思う者には、何もない。皆さん、人の言葉や人の目を恐れないでください。私たちは、私たちを救うこともできる方、滅ぼすこともできる方、その唯一の神様を恐れなければなりません。
これが、精霊によって歩む神との生き方であります。
2番目、精霊によって歩む神と生徒は、ただ精霊様だけが、御霊だけが、神の知恵をわきまえ知るから、精霊の導きを受ける人です。つまり、精霊に導かれる人です。
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さあ、今日の御言葉のですね、10節11節を、もう一度御一緒にお読みしたいと思います。御一緒に。
神はこれを、御様によって、私たちに掲示されたのです。御様は、すべてのことを探り、神の深みにまで及ばれるからです。
一体、人の心のことは、その人の内にある霊の他に、誰が知っているでしょう。同じように、神の御心のことは、神の御様の他には、誰も知りません。アメン。
皆さん、この10節の最後の、神様の御心のことは、誰が知りますか。神の御様の他には、誰も知りませんよ。
そしたら、これを逆に考えると、精霊様によってこそ、神の御心を知ることができる。精霊様に導かれる人こそ、神の御心通りに歩むことができるということです。
それをもう一度逆に言いますと、精霊に満たされていない、精霊に導かれていない人は、神の御心を知らないということです。
いくら熱くなっても、いくら能力があっても、年月が経っていても、精霊の導きがないと、神の御心を知りません。
だから、いくら何かすごいことをやっていても、神の御心でない場合が多くあるかも。
だから皆さん、私たちが恐れるべき、あるいは喜ぶ、あるいは悲しく思うべきのは、私に皆さんに何ができるか、できないか。
他の人のように何ができるか、できないかじゃなくて、私が精霊によって歩んでいるか、いないかが、実は一番大きな問題であります。
ところが、大体私は何かの結果を見てしまいます。そして、エイサのように私にはこれができない、これはできた、これはできなかったと思ってしまう。
しかし、結果じゃなくて、その根本が大事なんです。なぜなら、神の御心のことは、神の御様のほかには誰も知らないからです。
だから、精霊によって歩むことが、いかに大事なことなんでしょうか。
次のページに行きましょうか。3章の一節をご覧ください。
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読みます前に、コリゾ教会には様々な良いこともありましたけれども、良くないこともありました。
特にその中には、立派な大人の信仰を持っている信徒も大勢いたでしょうけれども、まだまだ幼子のような人々が、まだまだ大勢いました。
その人々を、神父が何と言っていますか。一節をもう一度一緒に読みたいと思います。三章の一節。
さて、兄弟たちよ、私はあなた方に向かって、三様に属する人に対するようには話すことができないで、肉に属する人、キリストにあるおさまごに対するように話しました。
つまり、コリゾ教会の中に同じ生徒で、同じ入れ入っている信徒の中に、三様に属している立派な大人の人も信仰の大人ですよ。
そういう人もいる反面、まだまだ体は大人、人数はおばあちゃんおじかなんだけれども、でもまだ肉に属する人がいる、おさまごのクリスタンがいるに対するように語りました。
つまり皆さん、コリゾの中には、これも三方から言いますと、二つの部類の信徒があり得る。一つの部類は三様に属する信徒。もう一つの部類は肉に属する信徒。
なぜ肉に属するキリストにあるおさまごのような信徒があり得るのでしょうか。言葉通りに三様に属していない。三様によって歩んでいない。三様によって行っていない。三様によって入れ入っていない。三様によっていく。
ですから、いくら五十年、百年信じていても、まだまだ肉に属しているだけの信徒があり得ると書いてありました。
もしも私たちが三様に属していないならば、肉に属しているならば、これを悲しく思って、これを悩んで、このために祈らなければなりません。決してこれはどうでもいいことではないんですよ。
皆さん最近何を心配しているでしょうか。何を悩んでいるでしょうか。お金がない。あるいは仕事が多い。体がよくない。子供に問題がない。あるいろいろ問題があるかもしれない。
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そんな我々の悩みの中に、果たして自分は三様に属していないか、そのために悩んじゃう。あるいは祈った。そういうことはどれくらいあるんでしょうか。
もしも私たちの悩みが神様、うちらの人々と全く変わらないものであるならば、まだまだ私たちは三様に属していない。肉に属する。皆さんいかがでしょうか。三様に属するクリスタンでしょうか。肉に属するクリスタンでしょうか。
いつも申し上げますが、ただ教会に通う人になってはいけない。三様に属する信徒、精霊によって歩む信徒にならなければならない。ではどうしたら三様に属する信徒、生徒になれるのでしょうか。
第一、御言葉を愛して御言葉に専念することです。この方法、この道他にはありません。聖書の御言葉は神の霊化によって書かれたものです。
ですから私たちはこの聖書を通して神の霊に、つまり三様に触れることであります。この聖書を通して語られる神様にお愛する、三様にお愛することであります。
霊に属する人のその手には、その唇にはいつも何があるのでしょうか。神の御言葉、生徒の御言葉があります。食事はできなくても、テレビは見れなくても、いつもその手には、その唇には神の御言葉、生徒の御言葉がある。
皆さんいかがでしょうか。この一週間、月曜日から今朝まで。皆様県には、皆様県には、この神の御言葉がどれくらい増えていたのでしょうか。あまり忙しいでしょうか。
ってことが多いですか。宿題が多いですか。課題が多いですか。家事が多いでしょうか。多分そうでしょう。先週、その中、月曜日から木曜日まで長野に行っているうちにですね、子供さんに面倒見るのは大変ですね。
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確かに、家事は多い。やってもやっても、きりじゃない。確かにそうです。しかし、だからといって、この御言葉生活を長野に適当にやってもいいんだろうか。そうではありません。
みたまに属する人、その心の中に、その手には、その目には、神の御言葉、生徒の御言葉がかかっている。だから、礼に属する人はですね、聖書を読むこと、学ぶこと、あるいは聞くことがですね、他の何よりも、他のどんなことよりも楽しくて、うれしくて、わくわくすることであります。
それが、礼に属する人の兵法なんです。皆さんいかがでしょうか。最近、礼に来て、メッセージを聞くこと、聖書を読むこと、学ぶことが、もう超うれしくて楽しいんでしょうか。
そうであれば、皆さんの礼は健康であります。礼に属していることであります。しかし、そうでないならば、皆さんの礼は、魂は今、病気中です。病んでいます。ほったらかってはいけません。なおなお、生徒のこの御言葉を手にしてください。手にしてください。
2番目、祈りに専念することです。祈りに専念し、徹底的に祈ることです。なぜなら、祈れば神の御心を知ることができますし、祈れば精霊に導かれますし、祈れば精霊に満たされるからなんです。
だから、祈ればなおなお、神の御心をもっと深く知ることができます。なぜなら、今日の御言葉にあるように、御様だけが、神の御心をわきまえ知るからです。
だから、祈りを通して祈れば祈るほど、御様に満たされる。そうしたら、神の深い深いところまで知るようになるでしょう。逆にはどうなんでしょうか。祈りをながせのにする。怠けている。なかなか祈っていない。
そしたら、どんどんどんどん神の御心が何であるか、精霊にたまによって、あゆも神徒じゃなくて、自分によって、あゆも人になりがちであるということになります。
神様はですね、祈る生徒、祈る教会、祈る国を神様が必ず祝福して、その人を、その教会を、あるいはその集団を通わす法則を用いてくださるんです。
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能力の問題ではありません。人脈の問題でもありません。お金の問題でもないんです。
神の御心は、御様の御金は知らないから。皆さん、運転できない人には運転を頼みません。そうなんですよね。
同じくですね、霊のことを知らない人に、神様は御自分のことを委ねられない。
精霊によって歩んでください。精霊によって奉仕してください。精霊によって礼拝してください。
そうすると、その奉仕が、礼拝が、感謝で感謝で、祝福に喜びに満たされるでしょう。
そうすると、そういう風に奉仕している人の、そのお顔だけ見てもですね、周りの人々もですね、その恵みに預かって、私も嬉しくなる。祝福に満ちあうれるように。
先週の月曜日に土産に帰った、このもちろん姉妹をですね、月曜日に関西空港まで送って、車の中にいろいろ話をして、何か聞きました。
彼女が妙谷教会に行って感じたこと、感謝なことが多くありますけれども、その中の一つは、妙谷教会の信徒の皆さんは、
もう何をしても、みんな喜んで、感謝で、その奉仕している姿を見て、それはとってもよかったと。
なぜなら、自分がその様子を見て、大きなチャレンジを受けたそうです。
なぜなら、土産の通用の教会で、サンビチームのボーカルもやっている。そして青年部の役員もやっている。
そして聖書の学びも、グループのリーダーもやっている。信頼者部のリーダーもやっている。
いろんな奉仕をしているうちに、いつの間にか自分を振り返ってみたら、事務的に奉仕をしていて、
そして喜びがもう冷めている自分自身を妙谷教会に来て、それが気づいたと言っていました。
そして、僕からこの喜びに満たされて、感謝に満たされて、神を愛するのかどういうものなのか、それをわかったから、
これを持って草に行って、またそういうふうにやっていきたいと彼女が言っていました。
本当にそうなんです。
昨日も、うまその問題がありまして、先月もありましたけれども、
本当に皆さんが何かなぐまで喜んで奉仕して、喜んで使っている、魂に触れている、
それは祈りに専念している証拠ではないでしょうか。
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皆さん、祈りに専念している信徒は、神の心を知り、神のことを楽しみます。
3番目、聖伝によって歩むためには、礼拝生活を徹底にすることです。礼拝生活を徹底にすることです。
礼に属する人は、礼のことをわきまえるから、そして神の御心を知るから、礼拝することが嬉しくて楽しくて、感謝に満ちあふれます。
喜びが満ちあふれます。感謝が満ちあふれます。
その心と唇ですね、唇には賛美にあふれ、感謝があふれている。
そして御言葉を抱く時に、アーメン、アーメンになります。
丸ごと受け入れて、従って、吸い込むように御言葉を抱く。
そしてそれを自分のものにさせてもらって、繰り返して繰り返して、その御言葉を目指して、
そしてその御言葉通りに歩もうとするクリスチャン。実践するクリスチャン。
時には本当に御言葉通りに生きていない自分のことで、もどかしく思って、あるいはもがいてもがいて、御言葉通りに歩もうとする、その姿勢と言いましょうか。
何より、礼拝自由に臨まれる、神の御前に、神の御臨在に満たされて、礼と誠を持って捧げる、礼拝者になります。
皆さん、御丹教会の礼拝がこのような礼拝であったいです。
喜びに満ちあうれ、感謝と賛美に満ちあうれ、そして神の栄光に、神の臨在に満ちあうれる礼。
ですから皆さん、毎週の礼拝に失敗しないことがとても大事なんです。
言い過ぎかもしれませんが、生日の礼拝に失敗したら、一週間の生活は失敗と思っても間違いではないでしょう。
皆さん、礼拝に失敗したら、新婚生活も失敗です。それはもう決まっているんです。
ではどうしたら、礼拝に失敗せずに本当に恵まれる、礼拝に成功する、礼と誠を持って礼拝できるのでしょうか。
それは、一週間も、あるいは特に土曜日を、誠実な礼拝のために祈る人たち。
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法師のために祈ります。特にメッセンジャーのために切に切に祈ります。
神のご臨在に恵みに満たされるために、礼拝のために祈ります。
そして、もうできるだけ土曜日は早く寝ます。
日曜日朝、良いコンディションを持って教会に向かいます。
感謝に満ちあわれて、そして賛美と見言葉と祈りと説教に集中するんです。
何より、神様の恵みに対する期待と上階期待、その人の顔さえ見ればわかりますよ。
煩くて見てわかるのに、神様はどうなんでしょう、皆さん。
心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、礼拝を捧げる。
祝愛する、愛を持って礼拝する、顔さえ見ればわかります。
そういう神様がどれだけ喜んでおられるでしょう。
見言葉、祈り、礼拝に、皆さん、成功してください。
それが、私たちが見たまによって愛の生徒になる道であります。
メッセージを終わりたいと思います。
皆さん、私たちがこのように見言葉と祈りと礼拝に専念するときに、
そして何より身玉に属する人になりたいと、
常にずっとそういうふうに愛を見たいと願いを持って、
死の御前に揺れ伏す人、それを求める人を、
私がそういうふうにして作り変えてくださいました。
そしてその人は、持ち入られ、祝福され、神の人になります。
お祈りしましょう。