1. 名谷教会 podcast
  2. 2015/01/04:聖日礼拝(旧音源)
2015-01-04 46:40

2015/01/04:聖日礼拝(旧音源)

2015/01/04 聖日礼拝(旧音源)




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アーメン、感謝します。
みなさん、おはようございます。
それでは、今日も言う言葉をいただく前に、お互いに挨拶しましょう。
それでは、一言お祈りいたします。
神様、祢が私たちを愛してくださったから、命を許してくださったから、ここにいられることを感謝いたします。
どうかしら、神の御言葉に心の耳を傾けまくし、全身全霊であなたの御言葉を聞きます。
どうかしら、お語りくださいまして。御言葉通りに生きる力も上から注いでくださいまして。
本当に人と共に歩むものとしてください。
心を開いて、神様が語ってくださる御言葉であるならば、その通りに行う力を、どうかしら、精霊でいただいてくださいまして。
お願いいたします。
御言葉を聞きたくても、礼拝に行きたくても、お願い、兄弟姉妹の上にも、どうかしら、憐れみの恵みをその上に注いでくださいまして。
精霊様、どうぞこのところにおられまして、ゆきめぐって感激を、感動を、悟りを、豊かにお与えください。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
今日は、今年の御言葉。
どうか、望みの神が、あなた方を信仰によるすべての喜びと平和をもっていたし、精霊の力によって望みにあふれさせてくださいますように。
ローマ人の手紙、十五章、十三節の御言葉なんですけれども、この御言葉に基づいて、共に主に教えていただき、またメッセージをお聞きしたいと思います。
この前、クリスタニティ・トゥデイという雑誌がありますけれども、そこにちょっとシニカルなユーマが書かれていました。
こういうお話でした。
ある大きな教会で、ある中道者が訪われて、訪った人と共に座って礼拝をしていました。
賛美の時でした。
みんな賛美を、懐中賛美をしていました。
03:01
その中道者が非常に深刻な顔をしていたんですね。
そしたらその人を誘った人が、その信者が小さい声で聞きました。
あなた、なんでそんなに深刻な顔をしているんですか?と聞いたら、その中道者がこう答えました。
あのさ、この賛美の歌詞のようには、私には到底できない。この通りにするのなら、もう無理です。と言いまして。
その時、みんな歌っている賛美は、キリストには変えられません。世の宝もまた富も、キリストには変えられません。有名な人になることも、という賛美でした。
そしたら、その隣にいた信者がですね、その急どさに、こう言いました。
もう大丈夫。ここにいるみんなは、この歌詞通りに生きる人にはほとんどいないから、ただ歌は歌だから、もう深刻に考えないでいいんですよ。
と言った現代教会をシニカルに皮肉するユーマーでした。
みなさんは、いかがですか?賛美を歌うときに、世の中のみなさんは毎日賛美を聴いておられますが、あるいは祝福をするときに、メッセージを聞くときに、私は説教させていただくときに、
ああ、この御言葉は神の御言葉だ。ああ、この賛美の歌詞のように生きよう、命を懸けてこの世に歩もう、と決心を持って賛美を捧げ、聖祭をし、奏楽をし、説教を聴き、説教を語っているでしょうか。
それとも他のユーマーの神社のように、歌は歌だから、歌ってそれで大丈夫だと思っているのでしょうか。
願わくは、今年第一聖祭をお迎えしまして、心一心に来ていただきまして、人の働きのベリアーの生徒たちのように、非常に熱心に御言葉を聞き、果たしてその通りかどうかを毎日聖書を調べる生徒になっていただきたい。
また、テサロニゲ教会の生徒たちが神の御言葉を受けるとき、つまりヒトファウルの説教を聞くとき、それをヒトの人間の言葉、つまりヒトファウルの言葉としてではなく、事実通り神の御言葉として受けたように、
私たちも、語るこの者も、皆さんも、人間云々牧師のお話を聞くのではなく、私は今、神の御前にいる、イエス様の御前にいる、神の御言葉を聞くという心の態度をもって御言葉を受ける生徒になりましょう。
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それは、私たち一人一人が恵まれる信仰生活をするためではない。
教会の中には、生徒の皆さんの信仰のお仕方を見ますと、だいたいこの教会も三つの部類の信者さんがいるかと思います。
一つ目は、日々成長する成長型クリスチャン。
二つ目は、二十年前も三十年前も、今と比べてあまり変わっていない渋滞停滞型クリスチャン。
三つ目は、日々バックスライディングして後退する後退型クリスチャンがあると思います。
皆さんはいかがでしょうか。
成長型クリスチャンでしょうか。あるいは停滞渋滞クリスチャンでしょうか。あるいはバックスライディングしているクリスチャンでしょうか。
不思議にもですね、同じ教会で信仰生活をしていても、ある方は日々信仰が成長し、人格が変化し、
どんどんどんどんイエス様に見て変えられる聖性のクリスチャンがいます。
本当に立派なクリスチャンだと思います。
一方、十年前と二十年前、あるいは三十年、四十年前と比べてみたら、そんなに変わっていない。
信仰という高速道路に乗っているんですけれども、渋滞して進んでいない車のように信仰が渋滞停滞しています。
本当に深刻なケースは、信仰がむしろ進むのではなく後退している。
どんどん良くなって、どんどん恵まれて、どんどん信仰が成長すべきなのに、どんどん信仰が後退している。
新しい時代を始めるこの時点で、一度ですね、みんな立ち止まって、
自分は果たして一緒にあって、信仰と人格とあらゆる面が成長しているのだろうか、立ち止まってですね、自分自身のことを共に変えりたいと思うのであります。
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問題は皆さん、同じ教会で、同じ参議院を立って、同じ礼拝にいて、同じメッセージを聞いているにも変わらず、
ある人は成長し、ある人は後退しているのは、一体なぜですか。
イスラエルに行きますと、皆さん、畑を見るチャンスがありました。
普段のツアーでは、なかなかそういう地元の畑に行ったりすることは、あんまりないと思うんですが、私、わざとその先生が、
ガイドしている僕先生が案内してくれました。実際のその地元の人がやっている畑を行ってみました。
そしたら、大農勲書に種をまく人のたとえ話があるんですね。二国の話。
そしたらですね、やっとその見事の意味がわかりました。
畑があって、そして他のところに岩のある岩地があって、また他のところに道端があって、また全然違うところに茨の木があるわけではない。
畑をさがやすわけなんですね。そしたら雪を寄せてしまうと、その周りに雪が集まっている。
そしてその横には茨があったり、そして通る細い道があるわけなんです。
種をまく者が行って、良い地に種をまいて、また移して茨に行ってまいて、また移して道端にまくわけではない。
同じところに全部一緒になっているわけなんですね。
そして種をまくと、ある種は良い地に落ちる。まくと、同じ種がついている横の岩の地に落ちる。
茨のところに落ちる。そして道端に落ちるわけなんです。同じ種なんです。
この里山木は、教会の中にその霊が良い地のような生徒もおり、その霊が土の薄い岩地のような生徒もおり、
その魂が道端のように固くなった生徒もおり、またその霊が茨のような地も混ざって一緒にあるという意味なんです。
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ですから私たちは今年、2015年、この良い地のような生徒になりたい。
御言葉の種がまかれますと、100倍、あの御言葉60倍、この御言葉30倍の実を結ぶ生徒になりたいと、本当に心から願っておるところであります。
また私はもっと恐れず御言葉を取り継ぐ者として、この御言葉がただ称えるだけではなく、この御言葉がこの実の上になるように、
100倍、60倍、30倍の実を結ぶように切に願っております。
これが皆さん、信仰によって進む生徒の美しい信仰の様子なのではないでしょう。
信仰によって生きる、信仰によって進むということは、このように皆さん、基本から美しく行うことである。
今日は大きく2つ、信仰によって進む、精霊の力によって進むことを、今日ちょっと姿活動から共にですね、考えていきたいと思います。
信仰によって進むということは、必要だけを愛する歩みを意味します。
今日ですね、結婚をされた方々が大勢いらっしゃるんですけれども、そんな方はもう決していらっしゃらないと思いますが、
井上さんの旦那さんが、奥さんがですね、あなたも愛して、他の男性、女性も愛してるんだから、どんな気になるんでしょう。
この旦那さんが、奥さんがですね、あなたも愛してますよ、愛していないわけではない。
あなたも愛してるけれども、他の人も愛している。
皆さん、家様を愛すること、家様も愛することと、家様だけを愛することとは全く違うと思います。
家様も愛する、家様を愛することはですね、自分の夫も愛って、他の男性も愛することと同じであるかもしれない。
一人の夫と一人の妻だけを愛するのが、本当の愛であって、それが本当の夫婦の関係なんです。
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こういう女性どうでしょうか。私は左右にですね、出せませんけど、旦那の写真を入れて持っています。
しかしその旦那の写真の下にですね、他の予定の写真が10枚あったならばどうするんでしょうか。
私はこの11名の中で、旦那を一番愛している。しかし2番目の人も3番目の人も10番目の人も愛している。
それは偽善なんですよね。
私たちが主を愛しますと賛美します。
御子様がつくときに、あるいは祈るときにそうします。
主を愛することは、多くの大主の中で家様を一番愛するのではありません。
家様だけを愛すのです。私の愛の対象は、家様他にはないのです。
それが本当の愛なんです。
家様がおっしゃいました。あなたの命を尽くして、力を尽くして、精神を尽くして、あなたの主を愛しなさいとおっしゃいました。
尽くしてですよ。思いを、力を、精神を、命を尽くしたら、他のものを愛する心も精神も何もない。
最近、読んだとても恵まれて感動を受けた本があります。
日本語にはまだ訳されていない本なんですけれども、前に出ていますが、タイトルが印象深いです。
ファン。
カイ・アイドルマンという先生が書いた本なんですけれども、まだ日本語には訳されていないんですけれども、
英語の上手な皆さんは、英語を最初読んだりする方々は、ぜひAmazonで購入できるから読んでみてください。
ポイントはこうです。家様はアイドルのファンのような人を探して求めるわけではない。
家様が求める人は、完全に献身したファロワー、つまり弟子を求めるというメッセージなんです。
私たちは家様のファンではない、家様の弟子でなければならない。それがこの本のポイントなんですけれども。
その本の中に、あるとても素晴らしい人物の一人を紹介しているんですね。
ウィリアム・バーヴンという人なんですけれども、1800年代、1900年代の人です。
お父さんが、あの当時アメリカの一番大きな地図や場所を作る楽の会社のオーナーさんでいた。
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そして彼は一人息子でしたから、相続者になるわけなんですね。
そしたら自分はあのときのアメリカで、アメリカでですよ、一番大きな会社のオーナーになれるんです。
彼はイエイル大学とプリストン大学で学位を取りましたけれども、高校のときでした。
彼が高校を卒業して、そしたらその親がですね、世界旅行に旅に出てほしいと。
そしていろんなことを、世間を積んでほしいと誘われてですね、ヨーロッパやアジア、あるいは中東の国々を旅をしました。
ところが行ってみるとですね、まだ福音が届いていないところが多くあることを初めて知りました。
福でした。そしてですね、そこで彼は神様から海外選挙地へのコーリングを受けました。
そして彼はですね、家様のために世界選挙に自分の人生を捧げる。
そして親にですね、手紙を書きました。そして自分の生徒に一つの文字を書きました。それがこれです。
私で言い逆しましたけれども、ノーリバース、後進にはまだ、後進せずと書きました。
そしてですね、家様についていくためには、全く禁止が必要であることを悟りました。
そしてですね、帰ってきてですね、お坊さんが末力進むから家入大学に入りました。
そしてその最初の年から彼は、もうただ家様だけを愛することを心に決めてですね、
友達一人と毎朝聖書読む集いを始めました。
そして彼がですね、四年生になったら、なんとその学校にですね、そのような聖書読む集いが千個もできて、
学生たちが聖書読む集いが増えていきました。
彼は卒業後、聖書の裏にもう一つの文字を開けました。それが二番です。
ノーリクリ、後退せず、そういう意味でした。
そして彼はですね、世界選挙に召されて、民の見声を聞いて、
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中国の漢集祥というところに行って、福音伝道をすることを心に決めました。
ところが、中国に入る前にですね、アラーブ語を学んで、イスラム選挙を準備するためにエグストに先に行きました。
ところが残念ながら、そこで彼は水幕宴にかかって、エジプトに行って、わずか一ヶ月後、25歳の青春で手に召されてしまいました。
そして彼がですね、亡くなって、彼の聖書にもう一つの文章がそこに書いてありました。
ノーリクリ、後退せずという言葉でした。
後進せず、後退せず、後悔せず、死について行く、死中だけを愛する、そういう。
彼はですね、死の心に永遠に敵として残っているでしょう。
皆さん、信仰によって進むということは、ただイエス様が好きなファンじゃなくて、イエス様の後をついて行くフォロワー、弟子として生きることを意味します。
そして私たちみんながですね、イエス様だけについて行くフォロワー、弟子になって仕えて行く、私たちでありたいと願っております。
心に決めようではありませんか。イエス様だけを愛する、イエス様だけについて行く、ファンじゃなくて、弟子になりたいと。
その次、大きい見番なんですけれども、精霊の力によって進むということはどういう意味でしょうか。
これも違った角度から共に考えていきたいと思いますが、精霊の力によって生きる、進むということは、皆さん、
精霊様に何か神秘的な能力を受けて、自分の力は御助しかできていない、精霊様から御助の力を受けて客のパワーマンになるという意味ではありません。
精霊の力によって進むということは、神の能力、力を求めることより、神様御自身を求めることでしょう。
この意味をお祈りについて解いてお話をしたいと思います。この画面を見てみたいと思います。
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新約聖書に祈る、祈るという言葉がたくさん出てくるんですね。ほとんどの新約聖書に書いてある日本語の祈る、祈るという言葉の言語はプロシコマイと言います。
その意味は何かを求める、何か欲しくてそれを求める、勝ち取るという意味ではなく、神様に向かって願う、神様を求める、神様を礼拝する意味が祈るという言葉なんです。
ですから皆さん、祈りは私たちが何か欲しがるものを得るための資産として使うものではありません。もちろんその意味もありますが、しかしそれはトータル的な祈りの意味の一部しかありません。
何か自分のニーズを得るために、あるいは答えられたくて祈る人は、もしもその祈りの答えが与えられていなかったら、あるいは自分がもともとおりにならなかったら、失望したりつまずきやすい、何かを求めるんですね。
それを求めて祈る。しかし、主がそれを与えてくださらない。そうしたら、失望するんです。がっかりするんです。つまずきやすいんです。ですから皆さん、祈りの本当の意味は、何か条件をかけるのではなく、ただ神様を礼拝することであって、ただ神様に近づく時間であることを知っていただきたい。
つまり、祈りは、神様の手にある何かものを求めるのではなく、神様を求める時間、神様の見顔だけを求める時間が祈りであります。
聖書1ページを一緒に開きたいと思います。第二歴代誌を開きましょう。第二歴代誌、七書、十四節。中学聖書744ページです。第二歴代誌、七書、十四節。それでは十四節を一緒に読みたいと思います。
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三杯。私の名を呼び求めている私の民が、自らへり下り、祈りを捧げ、私の顔を額求め、その悪い道から立ち返るなら、私が従く天から聞いて、彼らの罪を許し、彼らの血を癒やそう。アメン。
つまり、何を求めるんですか。主の名を呼び求めるんです。祈りは、主の顔を額求めることです。主の手にあるものを求める祈りより、主ご自身を、主の存在自体を求める、額求めること、それが祈りになります。
ですから、失礼ですが、幼稚なクリスチャンは信じたばかり、クリスチャンは何か欲しがるものが多いんですね。神様はこれも欲しい、あれも欲しい。何か得るために祈りを使います。
子供がそうなんですね。ハンナが急遽、祇園に行っているんですけど、行くときに、子供は、お母さん、あれが食べたい、これが食べたい、あれが欲しいと求めるんですね。ところが私は、そんなに食べたいものより、ただ、あなたが最後に変えて欲しいと思う。
神父が生とした大人のクリスチャンは、成人のクリスチャンは、神様の手にある何かものを欲しがるんじゃなくて、神様存在自体を主体求める。神様に近づくこと、それが一番の喜びです。
与えられなくていいです。用いられなくていいです。満たされなくていいです。主を見るだけで、主とお共にいるだけで、それで十分なんです。それが大人のクリスチャンの信仰なんです。
たまに見ますとですね、家族の好きのために祈ったり、子供の貧困のために祈ったり、何か言い訳のために祈ったりするんです。それが間違ったり、悪いことではありません。しかし、祈って、祈って、祈って、答えられたら嬉しいんですけれど、それがもしも答えられない場合もあるんです。神の道は遥かに高いから、簡単にはわからない。
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そうすると、大人の信者は答えられなくても、満たされなくても、自分の手に入ってこなくても喜べます。しかし幼稚な子供のような信者は、大人に身体が大人になっていてもすぐにがっかりしてしまう。落ち込んでしまう。
だから、私たちは身体だけが大人になるのではなく、信仰が大人にならなければなりません。
皆さん、ですから、生命の力によって進むという意味は、ここから見つけて知っていただきたいと願います。
神様に近づくこと、死と共にいること、神の御化をしたい、求めること、それが私たちにとって最も強い力です。
このように皆さん、祈りの時間に神様に近づき、神様ともっと親密なお付き合いの時を持つ苦しさになっていただきたい。
このような生徒が、生理の力によって進む生徒・家庭・教会になれるのです。
2015年、明太に教会を作っている皆さんお一人お一人、また全てのご家庭、私たちが、ただ神様だけをしたい求め、神様だけを礼拝する生徒になりたい。
私たちの祈りが、ただ答えだけを求める行いのではなく、ただ神様を求め、神様の御礼拝をしたい求め、そのように祈る生徒になります。
そうすると、それは何か特別な能力が、神秘的な力が与えられることではなくて、神様との深い深い親密な濃密なお付き合い、お交わりを持つこと、それが私たちにとって最も素晴らしいことです。
そして必然は、どれだけ神と共に、親密に、濃密にですね、近く近づいて、交わりを、お付き合いができるんだろうか。
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そのために祈り、そのために礼拝し、そのために奉仕をし、そのために参御する、私たちでありたいです。その歩み自体が、生命の力です。
イギリスのある教会で、高壇の後ろにですね、スペインのグラフに、イエス様が立っている姿が刻んでいる教会があったそうです。
それでその日曜日ですね、僕たちは立って説教するんですね。そして説教して、ちょっと動いたりするんですね。
ちょっと動いたら、手前に育っていた子供が、あ、僕先生が避けたらイエス様が逃げたと言ったそうです。
その子供の話を聞いて、その僕先生はすごく悟られたそうです。
私がイエス様を隠すことがあるかもしれない。
見言葉を語っていると立っているんだけども、自分はイエス様のお顔を表し、栄光を表すのではなく、神のイエス様の存在を隠しているかもしれないと深く教えられたそうです。
まあ、実は私の悩みでもあります。
僕しかって、いつも主の見言葉だけを取り継ぎ、主だけを表し、主の栄光だけを表したいと、本当に切に願って、祈って、もがいて、仏会をしておりますけれども、
実際に私も、もしかしてイエス様を隠してされているのではないかと、極力考えて、祈って、祈って、祈っているわけです。
皆さん、熱心な牧師だから、神様に喜ばれる立派な牧師だとは必ずしも言えましょう。
熱心な神徒だからといって、神様に喜ばれる立派な神徒だとは必ずしも言えないかもしれません。
なぜなら、私たちは、もしかしたら、この方は言われちゃいけないと思いますが、ある時はそうすることがあるかもしれません。
立派な牧師の真似をする、振りをする、立派な信者の振りをする、我らの行いがあるかもしれません。
36:07
これに本当に私たちは気をつけていなければなりません。
私、演劇を見たことがあります。
こちよりのおばあさんの役割を強く演じていた演技家がいましたけれども、本当に当時結構投資を掘った人だと思いましたが、なんと20代の若い女性でした。
おばあさんの演技をものすごく上手でした。
私たちも皆さん、このように生徒の演技を演じたり、牧師の演技を演じたりしながら、信仰生活をすることもあるかもしれません。
それは人は自分自身を騙している、演じているだけなんです。
その演技は、演じていることは長く続きません。
人を騙すことはできるでしょう。しかし神様を騙すことも、自分自身を騙すことはできません。
やがて演じることができない時が来るんです。
人が大人になったということは、大人のふりをするのではないですよね。
言葉や行い、人格が大人らしくなることです。
人格的に、信仰的に、大人は大人らしく物を言い、行います。
大人のふりをすることと、大人らしく行うこととは違う。
生徒のふりをすることと、あるいは牧師のふりをすることと、生徒らしく、牧師らしく行うこととは違うと思います。
本当の生徒は、生徒のふりをするのではなく、生徒らしく歩む生徒が本当の生徒なのです。
そういった意味で、生徒の前に立っている私のような牧師、あるいは役員、あるいは教師、あるいは毎日歌を歌っている生徒たちの皆さんは、本当に気をつけていなければなりません。
人の前に立っているかと言って、動きをしているかと言って、演じたり、ふりをしたりしてはいけません。
39:13
演じることはできるでしょう。ふりをすることはできるでしょう。しかし、さっきの牧師のように、放置はしましたが、
神様をさえぎるとしている、それでその生涯が終わるかもしれません。
そういった意味で、皆さん、私たちは牧師だから、私は役員だから、私は古い信者だから、
私は教師だから、私は聖者だから、私はあれあれだからと言って、だから自分が立派な生徒だと勘違いしていてはいけません。
実は、イエス様をさえぎって隠しているかもしれません。
私はこのために、本当に泣きながら祈るわけなんです。
そして、もしもしよ、私があなたの栄光をさえぎしてしまうならば、隠してしまうならば、邪魔になっているならば、
私の命を取り戻そうと、私はそういうふうに祈ります。皆さんはどうでしょう。
こういう言い方は失礼かもしれませんけど、私は皆さんが役員だから、あるいはシエスの教師だから、あるいは聖火祭だから、あるいは奉仕をしているからと言って、
その奉仕だけで、その人は必ず立派な信仰の人だとは思っています。
私たちは信仰があまり良くなくても、いくらでも奉仕できます。
役員もできますし、奉仕もできますし、シエスもできますし、聖火祭もできます。
去年、ある教会でメッセージをするときでした。
メッセージのときに、あそこにいるある男性の人が、ずっと本を使って足を伸ばして、出会いの最初から最後までずっと何か本を、携帯を弄ったり、ずっとしていました。
そしてちょっと気になりました。後から見たら、その教会の役員さんでした。
そして、この後々から聞いたことは、長い間役員をしている。
42:05
しかし、なんとまるで仏会を反対するために生まれた人のかのように、何もかも反対してばかりしている。
でも、自分が役員だと言って立派な信者だと勘違いしているかもしれない。
私は今年で、仏師の案件を受けて、まだ短いのですけれども、11年目ですし、仏会を仕始めて14年目です。
最初は、自分が本当に立派な信仰を持っている仏師、立派な信者だと勘違いしていました。
仏師様の栄光をしっそく表している仏師だと、時々立派な仏師の演技を演じていたかと思います。
ところが、行けば行くほど、仏会の面子が立てば立つほど、自分の品工がそれほど立派ではない。
この仏師の働きを担えるほどではないことを、ついつい教えられ悟られて、本当に辛い時も苦しい時もありました。
だからこそ、その御前に比例をして、祈らざるを得ない。
祈らずには、いられない。
祈らずには、仏会できない。
神の栄光を遮ることがないように、神の御言葉を遮ることがないように、
神の栄光を表すことができるように、
栄光を私が受けるのではない、神様だけが栄光を受けられるように、
本当の仏者になれるように、涙で祈って呼ばれ、叫ばずにはいられないわけであります。
明日から新年、祝祭御人会が始まりますが、私が神父は立派だから、立派な仏だから、人会を一楽お手伝いします。
祈らなければならないから、祈らずには、しきんこの歩みができないから、
祈らずには、生徒らしく歩めないから、だから、祈りましょうと進めているわけです。
45:06
しきんこが弱いから、足りないから、薄いから、精霊の力を求めずには、この仏会ができないから、祈るわけです。
皆さん、私たちの信仰生活、教会生活、あるいは奉仕の年数は、大事ではありません。それは何もないです。何でもないです。
自分がいくら奉仕をしたのか、いくら熱心にしたのか、それより最も重要なことは、
神の御前に果たして自分が立派な信仰の信者なのか、それが一番重要なんです。
特に長い間奉仕している方々、耳のある方は聞いていただきたい。神の御言葉は聞いていただきたい。
私たちは、数だけを愛し、死の御前に果たして自分が立派な信仰のものなのか、それが一番大事です。
私たち全てが、神の顔を求め立派な信者になります。それだけが永遠に残ります。お祈り致します。
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