00:01
皆さん、おはようございます。
暑いですね。お元気ですか?
元気がないですね。
それでは、メッセージの前に隣の方、お元気ですか?って、挨拶しましょう。
ありがとうございます。一言お祈りいたします。
イエスはこのことを最初のしるしとして、ガリレーのカナで行い、
ご自分の栄光をあらわされた。
それで、弟子たちはイエスを信じた。
アーメン。
主よ、この朝も一週間、主が我らの健康も霊性も埋まってくださって、
また、この朝、他の場所ではなく、この時を清別して、主の御前にお捧げしています。
どうか、ここに集まっているこの群れの上に、主御自身の栄光をあらわしてください。
あなたの愛と恵みを、また、御言葉による悟りを豊かに注いで下さいますように。
そして、あなたこそ、誠の主であること、全知全能の神であることを知り、
信じて、信頼して、歩むことができますように、
我ら一人一人を、主よ、信仰を成長し、強めて、憐れんで下さいますように、お願いをいたします。
主よ、今の時、神様御自身が、私たちに語って下さいます。
人間の牧師のお話を聞くのではなく、神に学ぶ時、神に聞く時ですから、
どうか主よ、あなたが、我らの心も精神も体も気も、全て主が、
術を納めて、主に向けさせて下さって、深くあなたの心を知り、
また、悟ることができますように、お助け下さい。
イエス様の皆によって、お祈りいたします。アーメン。
はい、ヨハネーノ福音書公開説教、5回目です。
今日のタイトルは、最初の印でございます。
一節を見ますとですね、ガリラ屋のカナで、コンネがありました。
そこにですね、イエス様も、弟子たちも、お客さんとして招かれてですね、
そこに参籍して、出席していらっしゃるわけなんですね。
その様子をイメージしてみたらですね、神であるイエス様が、その弟子たちと、
03:08
その宴会に、そこにおられて、お祝いして、またそこにいるですね、
親のや親父、あるいはその家族、あるいは友人自身とともに喜んでおられること、楽しんでおられることを考えることだけで、
私たちの心がですね、神なるイエス様もそこにいて、人とともに喜んで、ともに楽しんでおられたということを考えるだけでですね、
私たちの心も温かくなってくるということではないでしょうか。
神という町は、イエス様がお生まれになった名ざれからは、ちょっと北の方で約8キロあるいは10キロメートルぐらい離れている小さな町なんですね。
今もとても小さな町なんですけれども、そこのある人の結婚式、その婚礼に招かれて行かれました。
ところがそこにですね、イエス様の母マリアさんもそこにいたわけなんです。
ところが二節三節の流れから見ますと、イエス様の母マリアさんもですね、何か接待の手伝いをしていたように思われます。
当時の風習を調べてみたら、イスラエルの人々は、イエス様の時代は普段ですね、水曜日に大体、まず宴会を、パーティーを先にして、
そして暗くなって夜遅く結婚式があげられるということなんですね。
なぜなら、お金持ちの人は3日とか2日、3日やるんですけれども、水木、金曜日からは安息日が始まりますので、それをしないわけなんですね。
だから水曜日に始めても、水木2日、そして金曜日の夕方までにはできますので、大体水曜日にやったという記録があります。
昼間はですね、もう大体中等の人々はのんびりするようにですね、時間の制限なしに飲んだり食べたり、おしゃべりしたり、あるいは踊ったりですね、パーティーを楽しむそうなんです。
だからですね、イエス様も弟子たちもですね、そこでそのお祝いする人々と一緒にきっとですね、楽しんでおられたと思われるんですね。
ところが、このイスラエルの結婚式、あるいは婚礼のパーティーにおいて、この武道書というものはもう中手はならない大事なものなんですね。
06:10
そして、誰が来るか招かれている人々は大体決まっているのでですね、もう十分に準備するのがお客さんに対する礼儀なんですね。
ところが予想していなかったお客さんが来たり、あるいは来ていたお客さんがたくさん飲みすぎてですね、足りない時がたまに起きたりするようです。
そしたらですね、そのお客さんに対する接待がまともにできなかったということで、その婚礼の親の親父、あるいはその親がとても困ることもあったりするようです。
ところがですね、なぜかイエス様が招かれて行かれたその宴会にですね、ちょうど武道書がなくなってしまったんですね。
2節3節をご覧ください。イエスもまた弟子たちもその婚礼に招かれた。3節、武道書がなくなった時とあります。
ところがですね、その母マリアがですね、多分いろいろお手伝いをしていたからですね、武道書がなくなって、どうしよう、困ったなと思ってですね、
その時にそのマリアさんは、3節続いてみますと、母がイエスに向かって武道書がありませんと言ったとあるんですね。
なぜですね、このマリアがすぐにイエス様に行って、武道書がありませんと言ったのか、すぐには納得がなかなかですね、いかないんですけれども、
その時は今日の10節に最後にあるようにですね、イエス様の最初の印がこの婚礼で水を武道書に変えてみんなに与えたこのことなんですね。
だから実際にまだイエス様は救い主として神様として印をまだ行っておられない時なんです。
いわゆる本格的に福音伝道を始まっていない時なんですね。
でもですね、にもかかわらず母マリアはイエス様に武道書がありません。つまり救ってほしいとですね、そういうふうにお願いしたわけなんですね。
さあ、ここで一つだけちょっと考えていきましょう。何がですね、何があったからこの母マリアはイエス様に武道書がありませんと、救ってほしいとお願いしたんでしょうか。
マリアのことをちょっとだけ考えてみたら、マリアはイエス様の誕生の前に天使からいわゆる受胎告知を受けてですね、身ごもって、そしてインマネイル、救い主がお生まれになるんですよということを身ごもる前から天使から聞いたわけなんですね。
09:18
だから母ですけれども、このマリアはイエス様に対する信仰を持っていたと思うんですね。
そして自分の息子なんですけれども、でもこの人は救い主である。神によって、見た目によって生まれた人であることを知っているわけなんです。
だからこの時にマリアは、ただ母の立場じゃなくて、主に対する人の立場として、神様なるイエス様に武道書がありません、救ってほしいんですとお願いしたのではないでしょうか。
ところがですね、そうお母さんにお願いされたのに、四節を一緒に読みましょうか。四節一緒に読みたいと思います。
するとイエスは母に言われた。
あなたは私と何の関係があるのでしょう。女の方。私の時はまだ来ていません。
素直にですね、はいそうですか、そしたら作りましょうかと言ったらいいんですけれども、そう答えておられないんです。
この四節だけ見たら、どういう意味なのか、ちょっとわからないところがあるんです。
いわゆるですね、イエス様は母マリアのお願いを断ったわけなんですよね。
しかもそこにですね、あなたは私と何の関係があるのでしょうと言って、だって私はあなたの母でしょと言いたくなるかもしれませんね。
関係がないと、何の関係があるんですかと言っているんですね。
そして女の方と呼んでいました。そしてその後に大事なイエス様のお言葉。
私の時はまだ来ていませんとおっしゃいました。
まずここにですね、女の方、この呼び方だけでイエス様もこの四節の、このお話の意味がわかってくると思うんです。
いろいろですね、日本語の訳は女の方と訳されていますけれども、この呼び方についてですね、いろいろ研究があるんですけれども、
当時のいわゆる成人の男性が、成人の女性に、日本語にですよ、女の方と呼ぶのは、そんなにですね、変なことでもありませんし、おかしいことでもないのです。
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いわゆる丁寧に尊敬を込めて呼ぶ、その呼び方が女の方ということなんですね。
ところが一つ難題があるということは、いくら丁寧で尊敬語ですけれども、その呼び方ですけれども、
イエス様のように息子さんがお母さんに女の方と呼ぶ事例はないそうです。
ではイエス様は生意気なのか、礼儀がない人なのか、ではないのです。少し考えたらわかってくると思うんですね。
この時が最初の印の時ですね。イエス様がいわゆる福祉として、神として、いわゆる本格的にその働きを、お働きを始められる時なんですね。
ですからイエス様はすでにこの時からですね、あなた私と何の関係があるのでしょうという意味、そして女の方と呼んだ意味は、
今までは母と息子の関係で今まで生きてきましたけれども、今までの私生活、これはもう終わりました。
これからは私はあなたの息子としてではなく、神の子として、そしてすべての人の罪を背負う神の子羊として、
私のこの生涯、大げけ生涯がこれから始まるんですよ、ということをイエス様は母マリアに伝えたんです。
だからここでイエス様はあなた私と何の関係があるのでしょう、女の方。
ですからこの時からはイエス様はキリストである、神の子である、そしてマリアは救われるべき罪人の一人であるということになります。
もはやですね、母と息子の関係で亡くなったということになります。
そのことをイエス様はこのところではっきりと語っておられるんですね。
そして四節の後半に私の時はまだ来ていません、という言葉がここに記されていますけれども、
福音書を読みますとですね、イエス様が時々私の時はまだ来ていませんとおっしゃった言葉が多くあるんですね。
その時はだいたい二つの場合にイエス様が語られるんです。
一つの場合はまずまだ十字架を背負う時になっていないんですよ、ということです。
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その意味も時なんです。
もう一つの時は人々の前に自分自身を神の子として表す時がまだ来ていませんよ、と
二つの意味としてイエス様は私の時はまだ来ていませんと語るんです。
だから今日のこの場合は十字架を背負う時が来ていませんよじゃなくて、
神の子として自分を表す時はまだ来ていませんよという意味としてイエス様は語られたということなんです。
ところがそういうふうに断られたわけなんですね。
ところがマリアさんはどうなんでしょうか。
ご説をご覧ください。
母は手伝いの人たちに言った。
あの方が言われることを何でもしてあげてくださいと。
イエス様は時は来ていませんよ、女の方と答えたのに、
母マリアは揺れていないんです。
イエス様は神の子であること、神であることをその信頼が、信仰はぶれていない、揺れていない。
だからその下目立ちにですね、あの方が言われる通りに何でもしてあげてくださいねと。
つまりイエス様はきっと葡萄酒を作ってくださるだろうという信仰がマリアにはあったんですね。
だから彼らに下目立ちに言ったわけなんです。
そしてその後どうなったんでしょうか。皆さんだいたいご存知です。
イエス様がその水がめが6つあって水を満たし出す。
下目立ちは一緒にですね、一生懸命水を縁までいっぱいにした。
80リットルから120リットルですから結構大きい水がめですね。
6つも満たした。ところがイエス様が発説に至るですね。
さあ今汲みなさい。そして園会の世話役のところに持ってきなさいと。
彼らは持っていったとですね。この下目立ちも素直ですね。持っていったんですね。
そしてですね、旧説味わってみたら葡萄酒なんですね。
そしてしかもその味は最も良い葡萄酒だった。
それでそれを飲んだ人々はその真の神父にあるいはその世話役の人に
いやだいたい酔っ払ったら後からは悪いものを出すのに
あなた方はいいものを出しているねって褒められました。
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みんなびっくりしたと思うんです。
さあストーリーですね。こういうストーリーですけれども。
みなさんストーリーはだいたいご存知だと思うんですが、
今日はこの中で3つ4つのぐらい、このイエス様の最初の印から
3つぐらいの教訓を一緒に学びたいと願っております。
まず第一。第一はイエス様は私たちに喜びを与えてくださるお方であるということです。
喜びを与えてくださる、楽しみを与えてくださるイエス様であります。
先ほども申し上げたようにイエス様も弟子たちとこの宴会に参加しました。
喜ぶものと楽しむものと一緒に喜ばれました。一緒に楽しみました。
決してイエス様は世の人々と全く分離した生活をしておられたわけではないんですよ。
宴会にも行って、新郎新婦多分お祝いしたでしょう。
お客さんも多分なざれとかなは18キロですから、それ遠くないです。同じ街なんですよね。
だから知り合いもそこにいたかもしれません。
久しぶりに誰々さんと懐かしくおしゃべりしたかもしれません。
この宴会を楽しみました。
そしてまた葡萄酒がなくなって困ったなと思っていた世話役の人や新郎新婦のためにも葡萄酒を作ってあげて喜ばせてあげました。
皆さん考えていただきたいです。
たまにこういう話を聞きます。
クリスチャンは信仰生活はとても厳格な生活としなければならない。
すべてを節制して、自制して、この世の楽しみを一切も切って、ただひたすら清く清く生きなければならない。
世のものは全部悪である。
根本論的な考え方を持っているクリスチャンにあったりするんですね。
例えば、そういう方々の考え方は礼拝や聖書を読むこと、祈りとか賛美とかメッセージを聞くとか、そういったものは良いもの。
他は全部ダメ。
いわゆる禁止、禁欲イコール良い信仰。
そんなふうな考え方を持ったりするクリスチャンがいるかなと思いますね。
皆さんはどう思われますか。
それはですね、決して健全かつ健康な信仰の持ち方ではないと思います。
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神様は私たちが日常生活において、家族とともに、あるいは友人知人とともに、あるいは兄弟姉妹たちとともに
主にあって感謝しながら、楽しみつつ喜びつつ歩むことを主は願っておられるんです。
罪を犯すものでないなら自由に楽しんで味わうことを、実は神様は喜ぶんですよ、皆さん。
決してクリスチャンはこの世と分離して生きるものではないんです。
ちょっと1ヶ所ですね、聖書を開きましょうか。
旧約聖書に伝道者の書がありますね。
伝道者の書、旧書、旧説です。
1112ページです。
一緒にお読みしましょうね。
日の下であなたに与えられた虚しい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむが良い。
それが生きている間に、日の下であなたがする老苦によるあなたの受ける分である。
伝道者の書、旧書、旧説。
1112ページです。
もう一度私がお読みします。
日の下であなたに与えられた虚しい一生の間に、あなたの愛する妻と生活を楽しむが良い。
それが生きている間に、日の下であなたがする老苦によるあなたの受ける分ですよ。
つまりどうですか。
この日の下で生きている中で、この人生で老苦がある、苦労がある。
しかし、あなたの愛する妻と、つまり家族と、ありがとと広げて言うならば、兄弟姉妹たちと生活を楽しみなさい。
これが私の心ですよという御言葉ではないでしょうか。
神様は私たちに、特に家庭において楽しむが良いとおっしゃっているんです。
喜びながら暮らしなさいと。
それが神の御心なんですね。
だから皆さん、クリーチャーは清く生きること大事ですよ。
清く生きなければなりません。
そして礼拝を守ること、祈ること、賛美すること、聖書読むこと大事ですよ。
それをやり続けてください。
同時に家族と共に楽しむこと、あるいは夫や妻を楽しませてあげること。
親や子どもと共に楽しむこと、兄弟姉妹たちと共に喜び、共に幸せに生きること。
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それも信仰生活において大切な部分ではないでしょう。
それこそ健康かつ健全な信仰なんです。
イエス様は水をブドウ酒に変えてみんなに提供しました。
そこの宴会場にいた人々を楽しませてあげた、喜ばせてあげてくさったわけなんですよね。
例えばイエス様が、私はこんなお酒は作りません。
触りません。他のところに行ってみなさいとおっしゃってないんですね。
皆さん、クリチャーライフはイエス様の品性を見習うことであるならば、
イエス様の清さだけではなく、イエス様が人々共に喜ぶ、共に楽しむ、
そして人々を幸せにしてあげる、楽しませてあげる、喜ばせてあげて一緒に楽しんだ。
もとと言いますと、遊んだという部分も我々は否定しませんし、それを無視してはいけないと思います。
このようにしてイエス様は、私たちの人生において喜びを、楽しみを与えてくださる方、
そして喜びつつ歩みなさいと願っておられるお方であられます。
2番目に行きましょう。
2番目、イエス様は最初は断ろうとしたんですけれども、結局的には聞いてくださった、答えてくださったということなんです。
さきも申し上げたように、マリアが葡萄酒がありませんと言いましたのに、イエス様は何の関係があるんですか、女の方。
私の時はまだ来ていませんよと、まずはイエス様は断ったんですね。
ところがマリアは負けないでお手伝いの人たちに、あの方が言われることを何でもしてあげなさいと言いました。
このマリアのこと、イエス様のことから教えられることは、もしも皆さんが何かのお願いがあって、何かの本当に切実なお願いがあって祈っておられるとしましょう。
時にはそれが本当に早く答えられる場合もあるんですね。
朝考えて朝で祈ったのに、お昼になってそれが答えられる場合もあるでしょう。
27:01
でもある願いは祈っても祈っても祈っても、何日が経っても何年が経っても答えられていない場合もあるんじゃないでしょうか。
どうですね、何かのお願いがあって祈るところが答えられていない。
そしたら神様の身ここにないみたいねと諦めて断念してしまう。
あるいはですね、祈りながら、もしかしたら神様は答えてくださないかもしれないねとかね、そういうような思いがする場合もあるかもしれませんね。
ところがですね、そういう時こそ諦めないで、このマリアのように祈っていただきたいんですね。
イエス様を信頼して、求めるものには与えてくださる私のイエス様であることを信頼して求め続けていただきたいんです。
もちろん答えられるか答えられないかは神の主見でありますけれども、
でも私たちは祈り求めるものには与えられる、開かれるという信頼を持って祈るべきなんです。
言語的に言いますと信仰という言葉と信頼という言葉は同じ。
だから信仰は何でしょうか。
信仰はですね、全知全能なる神様をイエス様を信頼することなんです。
祈り求めるものには与えられる、聞いてくださる、それを信頼する、それが信仰なんです。
一ヶ所聖書をいただきましょうか。
四篇、九百聖書の四篇、百七篇の九説です。
私の聖書では千十六ページです。
九百千十六ページ、四篇、百七篇の九説。
では一寸見ますね。
まことに主は渇いた魂を満たらせ、飢えた魂を良いもので満たされた。アメン。
皆さん、私たちが信じる神様はイエス様はこんなに素晴らしいお方なんですよ。アメンですか皆さん。
信頼していただきたい。
まことに主は渇いた魂を満たらせ、飢えた魂を良いもので満たされた。とあるんです。
この四篇の著者は、もう満たされたとありますから、もう満たされた後、この四篇を歌っているわけなんですね。
30:02
皆さん、我々はもうそうじゃないでしょうか。
求めるものには与えられる、飢えたものには満ちたらしてくださる神様。
葡萄酒がなくなってみんな困っている彼らのために優しく葡萄酒を作って、
しかもあんなでっかい水瓶の6つでしょ。
たぶん2日3日も飲んでも飲んでも十分余るほどの葡萄酒だった。
このようにイエス様が我々に与えてくださる良いものは、十分余るほど与えてくださるお方なんです。
神様はケチなお方ではない。
今日は与えても、明日は与えることがなくて困る神様ではない。
そして、今日もこの四篇の福寿に書かれているように、人間の想像を超えるやり方で満たしてくださる神様なんです。
誰がここで空っぽの水瓶に水を入れたら、それが葡萄酒に変わると、誰が想像できたんでしょうか。
誰も考えられなかったと思うんですね。
そうなんです。我々の神様は、我々の考えることの、それを超える、考えられない方法で何でもしてくださるお方であること。
神の答えは、人間の考えややり方に関わらない、制限されない、そしてそれがお敵になるというお方なんです。
娘の話をちょっとしたいと思いますけどね。ささやかなことですけれども、許可を取ってない。
私の身分で関西学院大学2年生ですけれども、そこは私立ですから、学費は確かに高いんですね。
あれこれ、奨学金を申請したりしましたけれど、この場合は申請日にちょっと遅れたので、モースフィードで車で脱出して起こったんだけれども、
それも落ちてしまってできなかったところですね。
きのう、教会に私行って、本を持つ家に行ったら、表記から1年間、そんなに多くの金額ではないんですけれども、お小遣いぐらいのですけれども、
奨学金をもらうことになって、その敷所に行って、なぜかその100人ぐらいがもらうみたいですよ。
この表記の全部で、それで代表で挨拶をするようになったとおいて、黒染めしてまた変わりましたけどね。
それを私は考えました。
33:02
普段、私は祖先でいろいろ祈っておるんですね。
我が家の都合を御存じの神様。
神様は叩くものには開いて下さる。求めるものには与えて下さる。
求めるものには良いものを喜んで与えて下さる神様であること。
そして私たちは神様を裏切ることがあるかもしれませんが、神様は決して裏切ることはない神様であること。
聖書一箇所を開きましょうか。
マタイノクン書7章7節です。
新約聖書のマタイノクン書7章7節と8節を一緒に読みたいと思います。
新約聖書の11ページです。
7節と8節を一緒にお読みしたいと思います。
求めなさい。そうすれば与えられます。探しなさい。そうすれば見つかります。
叩きなさい。そうすれば開かれます。
誰であれ求めるものは受け、探すものは見つけ出し、叩くものには開かれます。アーメン。
皆さん本当にそうなんです。マリアさんはブレていなかった。諦めていなかった。
求めるものには与えられる。探すものには見つけ出す。叩くものには開かれると約束してくださった。
その約束された主を信頼することこそ、立派な信仰ではないでしょうか。
3番目に移りたいと思います。
今日のこの最初の印から教えられる3番目の教訓は、
イエス様は、私たちの神様は、行けば行くほど、時間が経てば経つほど、もっと良いものをお与えになる方であることなんです。
皆さん信仰を持っていく中で、このような希望と信頼を持って歩むことはとても大事なんです。
今日もですね、最初より後から余裕ぶどしが出されて、みんなびっくりして喜んでいたんですね。そうなんです。
イエス様がくださる喜びは、イエス様がくださる良いものは、昨日より今日が今日より明日が、もっと良いものなんです。
さらに良いものを与えてくださる方、さらに良い恵みを与えてくださる方、
36:02
さらに大きな愛を注いでくださる方、なんだという希望と信頼を持って信仰生活をしていこうではありませんか。
イエス様を初めて信じた頃は、恵みと喜びがないわけではありませんが、よくわからなかった。
しかし、行けば行くほど、神様と共に過ごすことが本当に喜びに満ちている。
イエス様がくださる喜び、イエス様がくださる恵み、それが、昨日より今日の方が、今日のより明日の方が、もっと良いものであること。
それが皆さん、神なるイエス様が私たちにくださる喜びであって、恵みなんです。
もう一箇所、聖書を開きたいと思います。
詩編103編5節です。
詩編第103編5節、1008ページ。
5節、ご一緒にお見舞いしましょう。
あなたの一生を良いもので満たされる。あなたの若さは、わしのように新しくなる。
アーメン。
皆さん、神様はですね、私たちの一生を良いもので満たしてくださるんですね。
本当にハレルヤじゃないでしょうか。
ですから皆さん、信仰生活をして行けば行くほど、もっとさらに希望に満たされる。
一生を良いもので満たされる。もっと素晴らしい喜び、もっと素晴らしい印で満たされる。
恵みで満たされるんだという希望を持って、信仰生活をしていただきたいんです。
この神様を信頼していただきたい。期待していただきたいんですね。
皆さん、それは年齢と関係ないと思うんです。
子供であろうが、お年寄りの方であろうが、青年であろうが、男性であろうが、女性であろうが、健康な人であろうが、病気の人であろうが、
自分に向いて見るんじゃなくて、神に目を向いて、神を見る。
そして、一生を良いもので満たしてくださる方が、私の神であることを信頼して、希望を持って歩んでいくことこそ、信仰ではないでしょうか。
同じ信仰を持ち方をしても、こういう希望を持って歩む人はいつも信仰生活がワクワクするんです。
39:03
今日より明日の方がワクワクする。
神様がまたどんなふうにこの印をしてくださるんだろうか、満たしてくださるんだろうか、
今日はどんな良いもので満たしてくださるんだろうか、というような希望が生じてくるんじゃないでしょうか。
もう一つこれを適応して考えていただきます。
それは、神様が我々にそういうように良いものを満たしてくださるということは、我々も立派な国に変えてくださるということなんですね。
今より10年の後が、昨日より今日が、もっと神様は我々を良いもので満たしてくださって、
愛してくださって、ときには責めて、ときには取り扱ってくださって、
さらにさらにもっともっと立派なクリスチャーに主が変えてくださるということなんですね。
その希望を持っていく人は、ときにはがっかりすることはあるかもしれませんが、
自分自身に対して期待できるわけなんです。なぜでしょうか。
神様が私を変えてくださるから。
神様は私を諦めないから、捨てないから、孤児にはしないから、希望を持っていくことなんです。
そして、そういうクリスチャーは、家族に対しても、兄弟姉妹に対しても、期待する信仰が持てるんです。
例えばですね、家族とか兄弟姉妹たちに、その関係において、今はちょっと気に入らない点があるかもしれません。
ときには足りないところ、ときには短所が見えてくるかもしれません。
あるいは、夫や妻、子供や、あるいは牧師や神道ですね、比べるかもしれません。
それで、ときにはがっかりしたり、悲しんだりするかもしれません。
ところが、そこで忘れてはいけないことがあります。
神様は一生良いもので満たしてくださる。
それは、行けば行くほど。
神様は、私も、兄弟も姉妹も、神道も牧師も、妻も夫も、親も子供も、神を信じる者は、私は立派なものに作り変えてくださっておられること。
それを期待して、希望を持って、信仰生活をしていこうではありませんか。
そして、何よりも、イエス様の目には、自分自身のことだけ考えても、本当に日々だらけで、短所だらけで、罪深い人間ですけれども、決してイエス様は捨てられていない。
諦められていない。
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そして、何とかして取り扱って、時には愛して、時には叱って、時には励まして、我らを清くしてくださる。
清くしてくださる。
作り上げてくださるんですね。
その神様が、我らの神様である、我らのイエス・キリストであることを信頼して、希望を持って歩んでいこうではありませんか。
皆さん、神様は、自分自身を含めて、周りの家族、兄弟姉妹たちを、行けば行こうと、立派なクリスチャンに作り替えてくださることを期待しましょう。
そして、家族も兄弟姉妹たちも、本当に一生余裕ものを満たしてくださって、主にあって感謝しつつ、喜びつつ、あるいは楽しみつつ、主のために生きる。
そして、主が許してくださったこの人生を、生活を、主にあって、もちろん清く歩みながら、楽しみつつ、喜びつつ、歩んでいこうではありませんか。
それこそ、健全であって、健康な信仰生活です。お祈りしましょう。