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2017-01-08 32:31

2017/01/08:信仰のベーシック(1)礼拝

2017/01/08 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ヨハネの福音書 -26

00:01
改めて皆様、おはようございます。どうも、礼拝にようこそいらっしゃいます。
それでは、メッセージの前に隣の方と挨拶しましょうか。
それでは、一言お祈りします。
しかし、真の礼拝者たちが、礼と誠によって、主を礼拝する時が来ました。
今がその時です。主は、このような人々を礼拝者として求めておられるからです。
アーメン。
主よ、今日の礼拝が、真の礼拝者が捧げる礼拝がありますように。
礼と誠によって捧げる礼拝がありますように。
主よ、どうぞ、ここに臨在なさって、術を収めて導いて下さい。
イエス様の皆によってお祈りします。
アーメン。
はい、先週お知らせをしましたように、
今日から6週にかけて、信仰のフェイスク、信仰のベースクのシリーズのメッセージをさせていただきたいと思います。
今日は、その1回目の礼拝になります。
そして次は、聖挙、祈り、クリスチャン、キュアード、交わり、それ最後は伝説になります。
年の初めから、この信仰のベースクを改めて立て直して、
あるいは信仰の基本基礎をチェックしたりしていただいて、
私たちのその信仰が健康化す健全な信仰、また聖と通りの信仰として立てていきたいと願っております。
皆さん、あらゆる物事にはベースク、基礎、基本が大事だと思うんです。
いくら強調しても過分ではないと思います。
例えば、皆さん大体の方は運営なさろうと思いますけれども、
最初、大体教授との関係を教えてもらおうと思うんですけれども、
誰に教えてもらって、どういうような癖が身についたかによって、それぞれ運転はできるんですけれども、
03:06
ある方は運転のハンブローを切る時は、もう一度かけて切る人もいますし、
そっちをブレーキに分ける人もいますし、それぞれ癖があるかなと思いますね。
逆に基本や基礎が、もしずれている、間違っていたら、その癖を直すのは、またなかなか難しいと思うんですね。
2、3週間前でしょうか、田村さんのおじいちゃんのりんなちゃんが、教会のキッチンで国語の宿題をしていて、
白花を書いてあって、こう言ったら、小学校2年生の文字がなかなか綺麗なんですよ。
本もペン字もそのとおりにマーも書いて、下も三角形でちゃんと書いて、数もジャーンと書くんですね。
なかなか綺麗で、お父さんから傷つきを教えてもらったみたいですけど、その文字を見て、
2階にいて、ひそかに自分の文字を書いてみたら、なかなかその通りにならなくて、もうすでにくじがついているんですね。
それで今日皆さんに新年の作品をお配りしましたけれども、明治にプリントに入って、20分ほど時間があったので、
2階の外にいたら、なんと癖が治るペン字教授の本が目にパッと入ってきて、買っちゃって文字を書いて、全然なかなか治らない。
基本が大事なんです。最初どういう基礎を、基本を作ったのかによって、それがうまくいくか、そうなんです。
信仰の基礎も、今までもなく大抵はないです。
今日はこの信仰の基礎、ベースクの初めの時間で、礼拝についてイエス様の教えを学んでいきます。
礼拝という信仰の基本の基礎を、みんながご一緒に立てていきたいと願っています。
そして、もしも私たちの礼拝において、何かのいつの間にかついている、聖教的じゃないような何かの癖がついているならば、
それを聖職かけ、神様からイエス様から治していただいて、立て直していきたいと願っております。
今日の聖職かけは、みなさんよくご存じのことです。
06:03
イエス様とイスラエルのエルサレムを中心にしたイザから、ちょっと北の方にサマリアという地域があります。
そこのサマリアのある名も知らぬ女性とイエス様の会話の部分です。
ところが、今日の聖職を読んでみたら、この女性はそれなりに宗教心がある。宗教について知っているようです。
イエス様と最初は水の話をしているうちに、彼女は特に礼拝について関心がありました。
ところが、彼女の礼拝についての関心は何なのか、20節をご覧ください。
私は20節を読みます。
私たちの人たちはこの山で礼拝しましたが、あなた方は礼拝すべき場所はエルサレムだと言われました。
この当時、いろいろ歴史が絡まって、ユダヤの人々、つまりエルサレム、ベトナムを中心にした人々とサマリア地域に住んでいる人々は仲が悪かった。
しかも、昔もそれぞれの信仰というものを受け継いでいって、それぞれの癖みたいなものがあった。
特にサマリアの人々は、イスラエルが北と南に分かれてしまって、北イスラエルの人々は南に行けない。敵国だから。
だから、もう神殿を作らなくてはならない。エルサレムに行けない。
それで、サマリアが北イスラエルの中心部であって、そこにゲリジム山という山がありました。
新メキとかヨシアキに出てくるんですけれども、ゲリジムの山に神殿を建てました。北イスラエルのあの時に。
それで彼らは、礼拝はここですべきだと批評し続けてきて、ずっとサマリアに住んでいる人々はエルサレムではない。
礼拝は、ここでゲリジムの山の神殿での礼拝が本当の礼拝だとみんな信じているか、思い込んでいた。
だから、少なくともサマリア人の人々は、エルサレム神殿は神殿じゃない。そこでの礼拝は礼拝じゃない。
そこでのゲリジムの山の神殿だけが本当の神殿。今本人は教会であって、ここでの礼拝だけが本当の礼拝だとみんなそういうふうに言っていました。
その話をこの二十節で彼女は言っていました。
私たちの人たちは、この山はゲリジム山です。そこにあった、北イスラエル時に建てた神殿の方です。
09:03
そこで礼拝しましたが、あなた方はエルサレム、ベスレムを中心にしたユダヤ人は、もうエルサレムで礼拝すべきだと言っていますね、と話させました。
ところが、この女性の感知は、どこで礼拝したらいいんですか、という場所に関心があったんですね。
この山、ゲリジムでの山、ゲリジムでの礼拝ですか、エルサレムで礼拝すべきですか、どこで礼拝したらいいんですか、そこに感知がありました、この女性の人。
ところが、二十一節からご覧ください。
イエス様のお話は、私が読みます。
イエスハムドに言われた。
私の言うことを信じなさい。
あなた方が救いを礼拝するのは、この山でもなく、エルサレムでもない、そういう時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、私たちは知って礼拝していますが、あなた方は知らないで礼拝していました。
どういう意味でしょうか。
礼拝に対して、このシャマリアの女性とイエス様の感心は、もう違っているんですね。
シャマリアの女性は、どこで恋愛すべきかに感心がありました。
ところが、イエス様の感心は、その二十節の女性のお話を聞いて、そうですね。
んー、ねえ、わざわねえ、そういう話を一切触れていない。
で、イエス様が彼女に教えておっしゃるのは、二十一節にあるように、この山でもなく、エルサレムでもない。
そして、本論に入りまして、二十三節、二十四節をイエス様はこのシャマリアの女に言いました。
ねえ、ちょっと長いですけれども、二十三節と二十四節を一緒に読みましょうか。
二十三節と二十四節を一緒に。
しかし、真の礼拝者たちが、礼と誠によって菊を礼拝する時が来ます。
今がその時です。菊はこのような人々を礼拝者として求めておられるからです。
神は礼ですから、神を礼拝する者は、礼と誠によって礼拝しなければなりません。
どういう意味でしょうか。
このシャマリアの女性は、つかんでいなかったものがありました。
見逃してしまったことがありました。何でしょうか。
12:00
礼拝を捧げる自分がどういう人なのか、どういう心の姿勢を持って、礼を持って礼拝しているのか、
神様に喜ばれる礼拝であるかどうか、それが最も大事ですよ、というイエス様の教えでした。
だからイエス様は、この20歳の女性の質問に対して、
シャマリアでの礼拝が本当だとか、エルサリムですべきだとか、そういう答えをしておられない。
イエス様の関心は、どこなのか、いつなのかではなく、
礼拝するあなたがどういう信仰、どういう心を持って礼拝していますか、そこですよ、という話です。
20、30と大事ですから、よくこれを分解するように見ていきたいと思うんです。
まずは、分の礼拝者さしが出てきます。これを覚えてくださいね。分の礼拝者さし。
それから、礼と誠によって菊を礼拝する。礼と誠によって菊を礼拝する。
今がその時です。今がその時である。分解するのがこの2つ目。
それから最後、菊はこのような人々、つまり皆さん、このような人々は誰のことでしょうか。
それは、礼と誠をもって菊を礼拝する者たちがこのような人々です。
つまり、神様が礼拝者として求めておられる人は、礼と誠によって菊を礼拝する者が、菊が神様が求めておられるということであります。
この箇所は、礼拝のためにとても大事なイエス様の教えの箇所です。
イエス様はこの23節に、ただの礼拝者と言っていましたね。何の礼拝者ですか。菊の礼拝者。
イエス様はあえておっしゃったのではないかと思います。菊の礼拝者がありますよ。
つまり、イエス様の感じは何でしょうか。あなたが菊の礼拝者なのかどうか、それが大事ですよということであります。
つまり、私たちは菊の礼拝者であるべきであること、そこにイエス様の関心があるということであります。
15:02
ですから、まず第一のポイントとして、私たちは菊の礼拝者にならなければなりません。
これは、なってもならなくてもいい、そういうものではありません。
イエス様の教えですから、必ず菊の礼拝者とならなければならないということであります。
いや、皆さん、私たちは一人一人がですよ。一人お一人お一人が菊の礼拝者であること。
そうするときに、皆さん、お一人お一人の菊の礼拝者のその礼拝を、イエス様が喜んで受け入れてくださるということであります。
だから、イエス様の感じは、どこでするのか、いつするのか、それじゃない。
それよりもっと大事なのは、あなたが菊の礼拝者となりなさいということであります。
2番目のポイントとして、ではどんな礼拝者がどんな人が真の礼拝者なのかということであります。
それもイエス様が教えてくださいました。
礼と誠によって誰を?菊を礼拝する者たちになります。菊を礼拝しています。
今日私は菊なる神様を礼拝しています。何によってですか?礼と誠によってです。
ここに癖がついてはいけません。忌み急がついてはいけません。
礼と誠によって礼拝する者の礼拝が真の礼拝である。その礼拝を主が求めておられるということであります。
真の礼拝者は、礼と誠によって礼拝する者です。
礼拝する自分がどういうものなのか。自分の信仰はどういう信仰なのか。
礼拝する私が神様をどれだけ愛しているのだろうか。恵みをどれだけ伝え求めているのだろうか。
それが礼拝においての本質ではないでしょうか。
だからですね、サマリアの女性は礼拝の本質を見逃してしまった。
どこで来たらいいんですか、イエス様。イエス様の女性は、礼と誠によって礼拝しなさいと答えられたんですね。
では、まずこの礼と誠によって礼拝するという意味について学んでいきましょう。
まずは、礼です。言葉その通りです。礼によって礼拝する。
18:00
私だけがここに来ているわけではありません。
自分の礼が神様にお会いする時です。
自分の礼がイエス様にお会いして、聖霊にお会いして、そしてその神に触れて、神に捧げること。
それが礼拝であります。
ですから私は礼拝において、神様に、イエス様に、聖霊様にお会いしなければ。
もしも礼拝において神様にお会いしていないならば、私たちは本当に何とかして礼拝において、
祈りの中、賛美の中、言い言葉を聞いている中、あるいは言葉を語られる中で、
その中で神様に、イエス様に、聖霊様にお会いすべきではないでしょうか。
それから誠によってされますね。誠。誠は何でしょうか。
二つの意味があると思います。第一の意味は、その誠に誠ですから、真になんです。
英語はtrueなんですけれども、真に。真実なんです。真実。真実を持って礼拝するのです。
そこには偽りがあってはいけないことがあります。
もしも心の中に罪がある。託されている罪がある。そのまま悔やためせずに、そのまま礼拝するならば、
それは誠によって捧げる礼拝ではなくなってしまいます。
しかし悔やためて、真実によって礼拝するのであります。
礼拝すべてにおいて真実が大事だということであります。
あたしの心が、あれは捧げ物が、それによっても偽りがあってはいけない。
もしも偽りが少しでもあるならば、それを捨てて、悔やためて、真実に礼拝すること。
その誠によって、真実によって捧げられる礼拝をすれば、受け取ってくださるということであります。
三義の意味としては、真理はイエス・チリストです。
旧約・新約政府において言われる真理は、真理言葉がたくさん出てきましたけれども、究極的に真理はイエス・チリストを指します。
ですから、この礼と誠によって礼拝するという意味は、わかりやすく言うならば、
イエス様に出会う礼拝者、つまりイエス様を通して神様にお会いする礼拝者、
イエス様を通してその礼であられる聖女様にお会いする礼拝者が、礼と誠によって礼拝するものであります。
21:04
ですから皆さん、願わくは、私たちが皆、礼と誠によって父を礼拝するものでありたいと願っております。
ただ、一回の礼拝だけ捧げたとしても、そこで礼と誠によって父を、父なる神様を礼拝するものでありたいと、私たちに願っております。
次に大事な言葉は、今がその時ですとイエス様がおっしゃいました。今がその時ですと。どういう意味なのだろう。
イエス様とですね、サマリアで、サマリアの平成とイエス様が会話をしている中で、イエス様が突然、今がその時ですよ。何の時なのですか。
今が、礼拝すべき時ですよと言います。
つまり、彼女の目の前に、誠なるイエスキリストがそこにおられるのです。
だから、あなたがギリシャ山であろうが、どこであろうが、そうではない。今、あなたの前に誠である私がここにいるから、今が礼拝すべきではないでしょうか。
つまり、イエス様に礼拝すべきですよという教えを、今がその時なんです。今が大事です。
だから皆さん、私は今日本当に幸いな人なんです。今日、礼拝できる今が大事なんです。
明日のことは誰も約束できません。大事なことは誰も約束できません。
今日というこの日に、私はこの礼拝において、イエス様にお会いしなければならない。
大事よと言わないでほしいです。今度と言わないでほしいです。
今日この時に、イエス様にお会いし、礼拝をすべきである。
そこで、サマリアの女性は、この日、この井戸近くでイエス様にお会いしました。
そして、イエス様はそうして神様に近づいてまいりました。
彼女のことは大事。どういう夫が御人であろうが、どんな辛い過去のことがあったであろうが、
私はイエス様の前にはいって、過去のことは大事なものではない。
今日、私がイエス様に出会って、礼と真心において父を礼拝する真心の真の礼拝者とならなければならない。
そうなったらいいのです。私も同じです。
今日というこの礼拝において、イエス様にお会いして、見た目に満たされて、
24:02
神の愛に触れて、神の御前に十字架の御元に近づいていって、そこで礼拝するものでありたい。
そして最後に、実は神様はこのような人々、つまり君の礼拝者たち、
つまり礼と真心において父を礼拝する者たちを礼拝者として求めておられるということです。
簡単に言いましょうか。神様が礼拝者として認められる者は、礼と真心において礼拝する者ということです。
だから私は今、礼と真心において礼拝するならば、神様のこの礼拝は受け入れられていって、
神様が求めておられた、あ、ここに、君の礼拝者がここにいたんだと、実は見つけてくさって喜んでおられるということであります。
もしも私が君の礼拝者じゃなくなって、礼と真心において礼拝していないならば、もしですよ、
そしたらただの観客に過ぎないかもしれません。あるいはただのどこかの講演会に来ている教習になってしまうかもしれません。
あるいはですね、国の鉄橋を昇華する審査員になるかもしれません。
私は教育になってもいけませんし、観客になってもいけませんし、何か昇華する審査員になってもいけない。
真の礼拝者とならなければならないのです。礼と真心において君を礼拝する者となるべきであります。
そのような人々を神様はずっとずっと探し求めておられ、そして見つけられたらその人を、その礼拝をまず喜んで受け入れてくださって、また豊かに祝福してください。
お自分を示す神様である。語ってくださる神様である。愛を注いでくださる神様である。祈りに応えてくださる神様であるということであります。
リサッター2016年、誠実礼拝を講じるについてです。あるいは想定、あるいは追憶とか様々な礼拝がありましたけれども、
私の礼拝はどういうものだったんでしょう。真の礼拝者だったんでしょう。礼と真心において捧げた礼拝だったでしょう。
27:10
編集で終わりたいと思いますけれども、私が日本に来て自分の左右に韓国ではあまりなかったものが増えたものがあります。
いろんなポイントカードでした。ローソンのカード、アルカのポイントカード、どこかの温泉のスタンプカードとか、
もうポイントカードだけで10枚、20枚たくさんあって細かなと思うんですけれども、
例えば温泉のスタンプカードがあったりします。お金を出してスタンプを10個、たまたま無料券をもらったりします。
ところがその温泉には自分が服を10枚着ていこうが、3枚着ていこうが、スタンプはお金さえ出せばスタンプを押してもらいます。
身体がきれいであろうが汚いであろうがお金を出せばスタンプを出してもらいます。
真実な人であろうが美しいものであろうがお金さえ出せばスタンプを出してもらいます。
しかし私の礼拝はそういうものとは全く違います。
礼拝は税と誠によって捧げる礼拝ですから、もしも本日なくしては、それは税拝ではないことであります。
私の礼拝は税と誠によって捧げる時だけ誠の礼拝に挙がる。
つまり真の礼拝者があるということでは、逆の偽りの礼拝者もあり得るということであります。
神様を通して神様の未満に近づく礼拝。
生命に満たされた礼拝。
神の未満に比例をしてその恵みを伝え求める礼拝者。
今日神の恵みを受けなければ私はもう死ぬという信仰を持って礼拝の場に臨む礼拝者。
真の礼拝者を求めて探しておられることであります。
私はこの2017年、みんながそういう礼拝者でありたい。
真の礼拝者でありたい。
礼と誠によって礼拝を捧げる者でありたい。
そしてこの未満に境界の礼拝がさらにさらに一緒に受け入れられて喜ばれる礼拝者になりたい。
今までの神様の恵みと祝福の上にさらにこの礼拝をしか喜んでおられ捧げてくださる礼拝者でありたいと願っております。
30:00
最後に1ページですね、聖書を開きたいと思います。
第一コリント6章19節。
三百聖書の325ページです。
一緒に読みたいと思います。
あなた方の体はあなた方の内に住まれる神から受けた精霊の宮であり、あなた方はもはや自分自身のものではないことを知らないのですか。
つまりこの二言葉によりますと、皆さんのお一人お一人のこの神様を信じているあなた方のこの体が何ですか。
精霊の宮なんです。
つまり精霊様が宿っておられる宮、神殿、境界なんです。
だから皆さん、主役の主人はあなた方の存在が境界なんです。皆さんお一人お一人が境界なんです。
だから皆さんが山で礼拝票であろうが、川で礼拝票であろうが、日本で、アメリカで、どこで、砂漠で、南極で礼拝してあろうが、
皆さんお一人お一人が境界でありますから、精霊の宮でありますから、そこが礼拝であって、そこが境界であるということになります。
それが主役の福音である、主役の教えであります。
皆さん、私は今年一年間、本当に寸の礼拝とならしていただきます。
一回一回の毎回毎回の礼拝を、本当に神の恵みをしたい求めて、精霊に満たされて、神様を通して神様にお会いする、
礼と誠によって福音を礼拝する礼拝があります。
それを目指して、共に歩んでいこうではありません。
お祈りです。
32:31

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