00:04
大変素晴らしいので、タイトルから私は、私も知っているそれがあるのかなと思いましたら、
全く見新しい賛美が捧げられましたので、その美しさとその日の一つ一つに、
本当に、アーメンと、皆さん方も一緒だと思いますけれども、そのようにして、今の賛美を一緒に受け止めたと思います。
今朝、私は、このローマ・ビトの手紙の5章から、この神との平和という、このタイトルのもとでもって、お言葉を共に受け止めていきたいと願っております。
私の高校生の時ですが、初めてビリグラムという方が東京に来られまして、そして今の両国の国民館が、その前にはしばらく日本大学の財布館として使われた時代、
ずいぶん昔なんですが、そのところで、そういう大勢の人を集めて、そしてこのメッセージを取り継ぐ、そういう方が来るんだという、そういう方をお聞きしまして、私も真っ直ぐに参りました。
明るい紺のスーツに身をまといました。まだ青年という感じのビリグラム先生が、そこで素晴らしいメッセージをされたんですね。
この時に合わせて先生を紹介する本として、初めて出されたのが、この神との平和というテーマでした。
あるいは皆さん方も何回かその本をお読みになったかと思います。伝道説教の、私もとりましては、非常にそこに出てくるお話のいくつかをお借りして、そして令和として用いたことがあるぐらいに、日本においてはよくこれが用いられてまいりました。
ご承知のように、この八月、特にこの時期というのは、私たちにとっては平和ということの大切さということを改めて思わせられる、そういうこの時でもあるわけですね。
広島、長崎という、あるいはその他、東京も、そして大阪も、そしてこの神戸も、大きな空爆を受けて、そして大勢の方々が亡くなる、そういう犠牲の上で、八月の十五日を迎える。
03:04
私は大変個人的なことですけれども、先週ですね、終戦のエンペラーという映画が神戸の国際会館であるということで、宣伝で見ておりましたから、どのようにして今の天皇制が守られるようになったのかということも含めて、そして参りました。
これはあくまでもアメリカサイドからの映画ですから、ああ、そういうことがあったんだなという。
けれども決して、この一つのべちやげたようなストーリーではない。最後に、そのために最後までマッカーターのそれを支持して、そして皇室、天皇を守り、そして日本を治めるに至ったという一つのことをそこで書いておりました。
ああ、そういう背景が一つにはあったんだなと。そして思いますことは、確かに当時の天皇にとっての大きな決断のもとは、やはり広島長沙と。
そしてまた東京やそういう申し上げたような大都市が、大勢の人たちがこの空爆によってこれが失われていった。このままではもう日本は終わりになってしまうということで、戦争のすべての責任は私が負うという、そういう決心のもとでもって、
私もですね、小学校の1年生か2年生ですけれども、あの放送を聞きました。これまで言ったら、もう何が何か分かりませんが、親たちが言ったことを聞くと、日本は戦争に負けたんだ。
もうこれからは空襲警報という、それもないんだという、そういうことでの白川さんの言いながらですけれども、ああよかったなと思いもいたしました。そういう私個人にとってはこの思いがあります。
皆さん方もご存知かと思いますが、フランシスコという、この方の平和の祈りという一部がありますが、あるいはご存知のない方もいらっしゃるかと思いますので、ご紹介したいと思います。
彼はこういう祈りを捧げています。神よ、私をあなたの平和の使いにしてください。憎しみのあるところに愛をもたらすことができますように。
疑いのあるところに許しを。分裂のあるところに一致を。迷いのあるところに信仰を。誤りのあるところに真理を。絶望のあるところに希望を。悲しみのあるところに喜びを。闇のあるところに光をもたらすことができますように、助け導いてください。
06:16
神よ、私に慰められることよりも慰めることを、理解されることよりも理解すること、愛されることよりも愛することを望ませてください。
自分を見立て始めて、自分を見出し、許してこそ許され、死ぬことによってのみ、永遠の生命に蘇ることを深く悟らせてください。
私はこの一枚の印刷されたペーパーですが、そこにフランシスコが書いたこの祈りの文、非常にそれからこの詩を、素晴らしいな、彼の祈りが自分の中の祈りとしてこれが実を結んでいくようにという願いもあわせて、それをいつも紹介するときはご紹介したりもしております。
本当の平和というものは誰もが願いとしてまた求めるものです。しかし現実にはなかなか彼が祈るようなそういう祈りという本当のこの平和というものがそこに見られない。
私たちが考える、あるいは私たちが求めようとする平和というのは、しばしば何があっているその場所でしょうか、具体がすっぺらなそんな感じがする。
今NHKでやっております八重の桜でしたかね。数週間前のそこでは、私の故郷でありますけれども、当時の合図藩に属しておりました白川藩が官軍によって滅んでいく。
私が子供の頃は城壁がありまして、今はちゃんと立派なお城も建っているそうであります。今の赤松の鶴ヶ城もそうですが、後にお城がそこに建つというようなことで、今の現在があるようですが。
このお堀が、私も子供にとっては学校の冬も夏も良い遊び場になっておりまして、危険なんですけれども、夏はそこでもって泳ぐことができる。
冬はそこに氷がありますから、そこでスケートもすることができるということで、しかしこれは学校からですね、親からもあんなところに行って泳いだり、すれきに行ったりするのは危ないからと言って、
09:11
今、禁止はされておったんですけれども、ダメだと言われると、よけいやりたくなるのが人間の性格、性格の差がでしょうか。あんなに行ってましてね、そして私はそこでスケートを滑りました。何かの友達と行ったんですね。
あんなところはずっと全面が凍っておるように見えますんでね、そして滑っておりまして、少し安全だなと思うところまで滑って戻ってくるんです。そこでそのうちの一人がですね、もう止まらなくなって行っちゃったんですね。
一番無情、薄いところになって、そこに彼ははまり込んでしまった。それからが大変でした。やっとのことで助けることができたんですけれども。改めて思いましたことはね、この見る範囲においては、まあどこでも大丈夫だろうということでもって滑って行ったところでも、そういう薄い場所があって、そしてそういうことにもなってしまった。
命が損なわれるというような、そういう事件にまで発展しませんでしたから良かったんですけれども、普通にしたことは小さな小屋があったものですから、それを壊して、そしてそれを燃やして、そして身を乾かして、後でそれが問題になったんですけれどもね。
しかし事が決めたということで、まずはそれなりの懲罰を受けましたけれども、改めて思いましたことはね、一見大丈夫だろうと。まあ白いところを楽しみ、あるいはそういうところが見えるわけですけれども、しかしそたんそこでもって足をはめ込んだら大変なことになる。
これスケートの世界だけじゃないですよね。先週も罪という問題がそこに指摘されておりましたし、またその前もそうですが、罪というものは、何も私たちにそれが罪とわからずないところに罪の難しさがあるわけですね。
一見それはもう、それこそ楽しいエレンのような、そういう光景すらも私たちに描き出してきます。やがて私たちが気がついたときに、それがどうにもならない罪だということに、あるいはそういうつかみに押し込んでみて、それから私は何ということをしてしまったんだろうか。
先々週のメッセージにありましたように、最初の人たちはそうだったわけですよね。見たところは何でもないし、でも一応魅力があるし、罪の持っている生活のあそこにみんな描かれている。
12:00
法席の参教の最初の人たちが誘惑を受けたあの場面を見てまいりますと、ですから彼らは、ついしてはいけないこと柄に彼らが手を出してしまうという、結果それがどういうものをもたらせるのかという、その罪の恐ろしさということは、その時彼らは何も知らずにやる。
罪ってのはそういうものなんですね。ちょっとした心の緩みが自分の足を向かわせてしまう。あるいは自分の手をそこに差し出してしまう。私たちにとって大切なことはですから、
まず私たちの求めなければならないのは、やはりこの世の楽しみにカモフラージされたような安息とか平和とか楽しみとかという、それをなくして。私はその高校生の時にそのリグアン先生のメッセージを聞いた時に、ああ本当だなと。
まず自分のうちに確立しなくてはいけないのは、神様との間の平和をそこに持つことなんだ。クリスタルマスターもそれができて、明日はもう大丈夫だというわけではないんです。私たちはいつでもこの方との平和というものをそこに持っていかないとならない。
このローマ書の今の御書を見てまいりますと、この3節に観難とかそういう問題がそこにいくつか出てまいりますね。確かにそういう問題が私たちに死に犯させてしまうというところもあります。
けれどもそういう問題だけではない。罪は私たちがそれを犯した時にどのような問題を生じさせるかということをカモフラージして私たちに忍び寄ってくるところに、ある意味でこの罪というのは魅力がありますし、さちまた危険がそこにあるわけです。
ただ、私たちの心が何をベースにしているか。エスペラが見たところなんて見えるようなものをベースにしているならば、どこで私たちが取り組んでしまうかわからない。神様との間にいつでも。そしてそれはノンクリスタル時代もそうですけれども、クリスタルになってからでもそうですよね、そういう関係を私たちがいつも持ちゆくことです。
神様は私たちにそういうまず求めなければならない神との関係においての平和こそ、それがどんなに必要かというべきあるものかということをそこになる。
15:10
そしてその平和というのは、単に私たちのそっとしたことでもってバランスを崩してしまう弱いその心、そしてあるときは、ああもう私にはその平和がない、安息がない、やっぱり私はダメだって言って崩れてしまうような、そういう薄っぺらな平和でしょうかね。
それはない。そういう主観的なものではなくて、あくまでも聖書はここに見せられますと、キリストの血による贖い、今も共に賛美いたしましたけれども、
その贖いによって神様に対する私たちとのその関係が不和から平和の関係に決定的に変わらない。その結果私たちはその証をどこで見ることができるかというと、
この二節を見てまいりますと、マサキリストによって、今私たちの立っているこの部組に信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んでおりに喜んでいるという言葉がそこに最後に結んでますね。
神様との平和というのは、私たちに神様の栄光を、これを喜ぶという、何事においてもそこに私たちのこの導きというものをそこに変えて下さい。
神教学生賞においてもありますと、この喜びというところは、こういう風にも訳されているんですね。神の栄光に預かる希望を誇りにしています。喜ぶということを同時に、私たちは神様の栄光を誇りとする。
神様の救いに預かるまでの私たちの誇りは、あるいは喜びは何であったかということを考えますと、お互いよく分かりますね。先ほどの氷でありませんけれども、パッとした言葉でもってダメになってしまうような、そういうものですよ。
10年少し前でしょうか、海外選挙局の責任を負っておりました時に、聖書とか参考書とか宗教書、そういうものを持って、関東の関教会に行く、そういうきっかけが与えられてまいりました。
18:22
ここでは西宮生の福文先生も一緒に来ましたし、それから横田先生という、神父の方の何人か一緒に参りました。本当に大変の中で伝統がなされているんだなということを見てまいりました。
ここは教会ですから、それこそひかりこって、そういうことをやっているんだろうと思って来ましたら、ロングハウスに申し上げると、5階ぐらいの木造の建物の一番上に、しかも私だったら私が一人通るぐらいの階段で上がってくる。そこで永遠3時間。最初の1時間は寒いですよね。
そしてその次の1時間はお祈りです。そして最後の1時間は熱帯です。何にも、それは私だけにとってはですね、周りの人の写真を後で持って、ああ間違ったと思ったんですけれども、そういうところで写真を撮ってはいけないんですね。
それが仮に関東から、中国から出るときに募集されて、そしてそこに写っていた、それが教会の様子であり、また教会の人たち。そう思ったんですけれども、そうしました。そこの牧師は、いや大丈夫です。私も8階も捕らえられて、そして何年も牢獄に入りました。
ここの人たちもそういう人たちがいるんです。そして私が出てくるまでに、彼らはどんなにそのために苦労したか、結婚ができない、就職ができない、進学ができないとか、いろんなそういう様々な政治的な圧力があって、そして彼らはあっという間に困ったと。しかも牧師が捕らえられている。
当時400人くらいの礼拝だったそうです。そんな礼拝は集まらないようなところですよ。それが帰ってきたら800人になったといって。私その方の写真ここに持っておりますけれども、通称ランという牧師さんが、肉年なんです。本名はやはり言わない。
その時に一口言わさってお話しなさった先生も、おばせから日本から来ていますから、挨拶に行ったらもういないんです。そのラン牧師も、どこから来たのかどこへ行ったのか私は分かりません。ただ今日ここで寝ていく企画ということがたくさんのことです。そしてそれぐらい緊張感の中でもって彼らはクリスチャンとしての生活を送っている。
けれども彼らはね、自分の身にどんなことが起こってもそれを喜びとするという。これが神様を、神による平和を得た人たちの証なんだなと思いましたよ。自分の身にどんなことが起こってもそれは神様の栄光になるならばそれを喜ぶという。それとはもう裏腹なことと言いましょうかね。
21:27
その帰り、香港で乗り換えがあって、それでいわゆる免税店を見ておりました。そしたら当時日本はまだ景気がいい時でしたからね。もう大勢の日本人たちがそういう高価なものを買うために、たぶん今の中国の人たちの東京とか大阪で見る光景じゃないかなと思うんですけども、私が見たのは日本人の人たちですよ。
団体客さんがやってきて、そしてシャツとかを着て、そしてバーッと買っていくわけですよね。まもなく日本はバブルの時代が終わって、そしてみんな、今日も今もそういう影響の中でおるわけですけども、彼らは自分の肉を喜びとする。あるいは自分のそういう行為を誇りとする。
けれども、そうでない私たちは、神様の栄光を喜ぶという、それですよ。
ピリピリと見ている三聖の二十一節を見ますと、ちょっと開きましょうかね。有名な歌手ですから、この三聖の二十一節というわけでも、みなさん方はよくご存知だと思いますが、ここに二十一節。
二十一節。キリストは万物を御自身に従わせることのできる道からにより、私たちのいやすみ身体を御自身の栄光の身体と同じ姿に変えてください。すごい言葉ですよね。私たちがイエス様と同じ栄光の身体に変えられる。
私はここで国立説教を何回かしたことがあります。人間は最後は、ああ、こうなんだなと。本当に死にかな、こっちに収まってしまうような、そういうものですよね。月は月に変えるというのが聖書の言葉の通りだなと思います。
ところがね、この聖書の言葉は、それを突破してするでしょうかね。それを打ち破って。月は月に変えるのは現実ですけれども、私たちの礼なる身体は、あの素晴らしいキリスト様と同じ栄光の姿、あのイエス様が復活なさったその栄光の姿に私たちのこの身体が変えられる。
24:12
それを喜びとするという。ここですよね。ですからそういう、私たちはこの方、神様の栄光を喜ぶというものとされた時に、私たちは先ほど指摘、読み上げました、この五章の三節、不難、あるいはそれに類するところ、いろんな厳しい世代、
そういった言葉らに私たちは、やっぱりこう人生ですからね、クリスチャンになったら何も問題ないんだとか、何も悩みがなくなるんだとか、そんなこと聖書はもちろん言っておりませんし、イエス様もそういうことは全くこれを指摘していなさってますよね。
世にあっては患者が多いんだよ、ということをイエス様はおっしゃっておりますし、私に従ってくるものは十字架を追うもんだよ、と言って、そういう厳しい一面というものを私たちに述べています。ただ私たちはそれを超えることができる喜びというものを、このお言葉から私たちはいただいているわけですね。
ペトロ第一の手紙の四章を見ますと、ここではこうも書いてます。ペトロ第一の手紙の四章、十二節から十四節にかけて見ますと、ここにペトロ第一の手紙の四章の十二節。
愛する者たち、あなた方を試みるために、あなた方の間に燃え盛る死の訓練を何か思いがけないことが起こったかのように恐ろき操ることなく、むしろキリストの苦しみに預かるのですから、喜んでいなさい。
恐ろきキリストの栄光が現れるときにも、喜び踊るものとなるためです。喜び踊る。
関連してもう少し前のヘブル図書の手紙を見てまいりますと、そういう苦難が私たちに何をもたらせるのかという、その意味がそこに記されています。
十二章ですね。ヘブル図書の手紙の十二章を見てまいりますと、特にこの誤説以下、そしてあなた方に向かって子供に対するように語られたこの術を忘れています。
27:13
我が子よ、主の懲らしみをおからんじてはならない。主に責められて弱りをはせてはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れる全ての子に無情を加えられる。大変厳しい言葉が書いてあります。
しかしご存知のように、もう少し後の七説を見ますと、神はあなた方を子として預かっておられる。しかもこの子とは、実説の中のことから見てまいりますと、霊の父は私たちの恵みのために、私たちをご自分の器用さに預からせようとしておらしめる。
そしてさらに十一説の最後ですと、これによって訓練された人々に平安な義の身を結ばせる。苦難というのはですから、せっせい私たちにそういう不安的な材料として、あるいはどうにもならないものとして私たちを追い込むのではないのです。
有名なモデリア表の二十九章の十一説ですが、神様があなた方に抱いている計画はここだ。それはあなた方に希望を与える。シャウムという言葉が十一説のその言葉の中に全部含んでいるんだ。
神様はそういう素晴らしい恵みをもって私たちを取り扱ってくださる。また、そういう目的の中でもって私たちに、時には私たちにとっては厳しいのですけれども、エレビアは本当に厳しい、それこそ人を隣り合わせている中でもって、彼はこの言葉を神様から教えられて、そして私たちに伝えているのですね。
素晴らしい準拠を環境の中でもって彼は言ったのではない。もう一歩間違えたら彼はその場で準拠をするかもしれない、そういう危険の中でもって彼はこの言葉を残しています。
そして最後に申し上げたいことは、この十一説、そればかりではなく私たちのために今や和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいる。
神を喜ぶ、という言葉にまとめておりますね。どんなことがあっても、この方を私たちの喜び、私たちの誇り、そして私たちはそのように生かされて今日ある。
30:14
どうか、こういうお方との関係においての、この素晴らしい恵みをもたらしてくださるこの方との関係においての平和、自分をしっかり保たせていただきたい。
私が忘れられないのですけれども、最後に読みしたいのがこのコロサイクスの手紙の参照の理由語説ですけれども、
おじめじけという先生がこのところのお話をなさったときに、先生は早くにいわゆる南米、北米、両方の教会から招かれて、そして一年かかっていろんな御報酬をされた。
南米でのブラジルから、ブラジルの中での行動だったと思いますけれども、飛行機を持って移動するという。鉄のような機体、飛行機だったり。
見るところ、ミスリンだけで何も目印らしいものはない。一体どこに行ったらどういう街があるんだろうかという、このパイロットは知っているだろうかと、余分な思いで持って、そんなことを考えたりするぐらいに、もう延々と続いている。
そういう先生に、パイロットがブラジルだからそういうことがあったのか分かりませんが、先生にレシーバーを貸してくれた。
そしたら非常にリズミカルな前半が入ってきて、これは何の前半なんだろうかなと。ところがそのパイロットが右にずっと旋回、この曲がっていきましたら、超リズミカルなそのメロディがザザザザザという雑音に変わっちゃった。
これおかしいな、私のリズムおかしいかなと思ったそうです。そしたらパイロットがまたこう戻った。そしてまた同じリズムが入ってきた。またここで左がやる。また同じように雑音が入る。
その時に先生は思ったそうですよ。ああ、キリストの平安の中に私たちに生かされるということはこういうことなんだ。本当に主の御子の中に歩むならば、いつもメロディの確かなそういうリズムの中でもって歩むことができる。
ところが何かそっちに入り込まれるものがあって、ふーっと寄っていこうと。平安の中でやる。私たちのその心の平安というのは、神様が私たちに与えてくださったこの平安というのは、そういうものなんだ。神様の前途の中で私たちが奇跡的に守られる。
33:05
そしておっしゃったことはね、私たちにそういう素晴らしいこのリズム感を与えて、そして神様の見頃というものを確かめながら歩むことができるのは、それは精霊だ。
そして最後に申し上げたいことは、バクトンという先生がね、清き神様の見た目が憎なる私たちの内に働きなさるときに、何が残るのか、神様の言葉で。神様の言葉というものが私たちをあらゆるものから守る。
ですから、本当に私たちのこの聖書というものがどんなに最愛なのか。そこで最後にお読みしたいのは、三章の十五節。
キリストの平和があなた方の心を支配するようにしなさい。そのためにこそ、あなた方を召されて一杯となったのです。また感謝の心を持つ人になりなさい。
十六節。キリストの言葉をあなた方のお血に豊かにすまらせ、知恵を尽くして互いに教え、互いにいましめ、人を賛美と礼の歌とにより感謝にあふれて、心から神に向かって歌いなさい。お祈りいたしましょう。
お祈りいたしましょう。私たちが今日もこのようなことを得られた中で、あなたにお言葉をいただきながら、また精霊の深い神材の中において、導きの中において、ともに礼拝をお捧げできれました。この幸いを感謝します。
今から行われます、あわせてこの聖参詩の上に、あなたの豊かな恵みをあらわし、また聖参に預かるものとして、私ども一人一人を整えてください。主の皆によって祈ります。
アーメン。