1. 名谷教会 podcast
  2. 2016/01/31:聖日礼拝(旧音源)
2016-01-31 32:30

2016/01/31:聖日礼拝(旧音源)

2016/01/31 聖日礼拝(旧音源)




00:01
では、淀木氏より、「主にある交わりに生きる。」と題してメッセージをしていただきます。
皆さん、おはようございます。
今日も、寒い中、よくいらっしゃいました。
では、今日も、いつものように、隣の方々と愛の挨拶をしませんか。
では、一言お祈りいたします。
私の喜びが満たされるように、あなた方の意志を保ち、同じ愛の心を持ち、
心合わせ、志を一つにしてください。
神様、今日も、聖日にある交わりに生きる、というお題をいただきました。
主よ、今日語られるこの御言葉から、神様御自身が、私たち一人一人に、
礼の糧を、また、私たちが行くべき方向と指針を、
主よ、示して、主が導いてくださいますように、お願いをいたします。
イエス様のように、心を入り下り、そして、無にして、
素直に言葉を受け止めさせていただきまして、
また、従っていける信仰も、上からお与えくださいますように、お願いをいたします。
そして、礼が終わって帰りの際には、本当に希望に満ちて、愛に満ちて、信仰に満ちて、
そして、主を堂々と歩んでいけるように、主を祝福してください。
イエス様の皆によって、お祈りいたします。
アーメン。
新年に入りまして、信仰生活の五つの基本について、御言葉から教えていただいておりますところです。
今日は、その四番目、主にある交わりに生きる、主にある交わりに生きるということで、
御一緒に加害でいきたいと願っております。
イエス様は、十字架に架けられる直前に、弟子たちと共に、最後の晩餐の食卓を囲みました。
イエス様が、その席上で、弟子たちに互いに愛し合いなさい、互いに愛し合いなさいという新しいおきていをお与えになりました。
03:03
そして、その直後、あの有名な大祭司の祈りと言われる、その祈りが出てきます。
そこを、まず一緒にお開きしたいと思います。
ヨハネの福音書、第十七章を開きましょう。
ではですね、一節から私が読み始めますので、どうぞご覧ください。
新約聖書の215ページです。215ページ。ヨハネの福音書、第十七章、一節からです。
イエス様は、これらのことを話してから、目を天に向けて言われた。
ここからがイエス様の、あの大祭司の祈りと言われるお祈りなんですね。
父よ、時が来ました。あなたの子があなたの栄光をあらわすために、この栄光をあらわして下さい。
それは子が、あなたからいただいたすべてのものに、永遠の命を与えるため、あなたはすべての人を支配する権威を子におわたになったからです。
その永遠の命とは、彼らが唯一の誠の神であるあなたと、あなたの使わされたイエスキリストを知ることです。
あなたが私に行わせるためにおわたになった業を、私は成し遂げて、地上であなたの栄光をあらわしました。
今は父よ、見そばで、私を栄光で輝かせて下さい。
世界が存在する前に、ご一緒にいて、持っていましたあの栄光で輝かせて下さい。
私はあなたがよから取り出して、私に下さった人々に、あなたの皆を明らかにしました。
彼らはあなたのものであって、あなたは彼らを私に下さいました。
彼らはあなたの御言葉を守りました。
今彼らは、あなたが私に下さったものは、皆あなたから出ていることを知っています。
それはあなたが私に下さった御言葉を、私が彼らに与えたからです。
彼らはそれを受け入れ、私があなたから出てきたことを確かに知り、またあなたが私を使わされたことを信じました。
私は彼らのためにお願いします。
06:01
世のためにではなく、あなたが私に下さった者たちのためにです。
なぜなら、彼らはあなたのものだからです。
私のものは皆あなたのもの、あなたのものは私のものです。
そして私は彼らによって栄光を受けました。
私はもう世にいなくなります。
彼らは世におりますが、私はあなたの身元に参ります。
聖なる日、あなたが私に下さっているあなたの皆の中に彼らを保って下さい。
それは私たちと同様に彼らが一つとなるためです。
アメン。
つまり皆さん、これこそが、
イエス様の御心であり、救われた者が求める在り方であります。
言い換えれば、教会における愛の交わりということではないでしょうか。
今日の本文はピリピリとなっている手紙なんですけれども、
ここにもキリストにある一致、イエスにある一致を、
とてもファウロー先生が解いて展開しているところであります。
注目してほしいと赤ちゃんが。
さて今日の箇所から注目したい第一のポイントは、
私たちの生まれながらの性質というのは、
まずは一致とは逆の方向に働くということであります。
よくご覧ください。
今日のピリピリ2章の3節を、それから4節を一緒にもう一度お読みしたいと思います。
ピリピリ2章3節4節。384ページです。
よろしいですか。一緒に見ますね。
何事でも自己中心や虚栄からつることなく、
へり下って互いに人を自分よりも優れたものと思いなさい。
自分のことだけではなく、他の人のことも変えりみなさい。
09:03
ここに皆さん、
聖徒の御言葉は、教会主にある、キリストにある一致を破壊する罪の問題に触れていきました。
つまり、罪のDNAと呼ばれる自己中心と虚栄心というものです。
不思議にですね、罪の思いが生じてくるところに、
そこにですね、必ずのように自己中心や虚栄心がですね、現れてくるんです。
皆さんあの、私一度食べたことありますけれども、金太郎飴ありますよね。
ポカンと打たれ、そこに顔の何とかそういう断面にありますように、
罪が、罪の思いが生じるところには、不思議にも自己中心、虚栄心が必ずように現れてくるんじゃないですか。
ところで、この自己中心というものは一体何でしょうか。
これは、別の日本語の聖書では、利向心と訳されていますけれども、意味は四節に書かれているように、
自分のことだけ、自分の利益だけを考える。他の人のことを顧いにない。
つまり、自分の考えだけを言い張る、あの心の在り方ではないでしょうか。
そこには、自分をいつも計算に入れて行動する人の姿があります。
そして、虚栄心とは、背伸びをしてよく見せようとする心、
競い合う心、人と比べるところから生まれる虚しい心だと思います。
このような自己中心や虚栄心を心に抱く私たちが一致を求めたとしても、必ず行き詰まるということであります。
なぜなら、そのような一致は、上辺では一致をしていたとしても、
自己中心、虚栄心がまだ残っているならば、まるでそれは全てを合わせて出して、
二で割ることによって出来上がる一致のようなものです。
その一致は、みんながどこかで妥協をしていられ、どこか不満が残るということです。
だから、見方を変えるならば、痛み分けですから、痛みが残る。
それは、自己中心と虚栄心が満たされていないからです。
では、イエス様が願う一致を実現するために、そしてこのパオロ先生が語っている一致を実現するために、私たちは一体どうしたらいいのでしょうか。
12:01
それが、パオロが説いている第二のポイントは、
共にキリストを見上げることにおいて与えられる一致です。
皆さん、常にイエスとキリストを見上げていらっしゃるでしょうか。
私たちがイエス様を見上げるときに、そこには本当に素晴らしい励ましや恵みがあります。
私たちが傷ついた心を持って、イエス様の御前に跪いて祈るとき、イエス様は私たちの心を受け止めてくださるのでしょう。
またなら、そのために人間になってくださって、私たちのすべての思い患い、悩み、苦しみを経験し尽くして、そして人間の生を生き抜いてくださったお母さんが、イエスキリストだからです。
だから皆さん、私たちがイエス様にお会いして、イエス様と交わりを持たせていただくときに、そこに心と心が深く触れ合って、何とも言えない霊の交わりを経験するのです。
そして、私たちがキリストに向くときに、聖徒として神様が私たちをいかに、自分をいかに慈しんで憐れんでおられるかを知るのです。
ですから、一致のためには、まず主を見上げることです。そして横を見るときに、同じようにキリストを見上げている神父の兄弟姉妹たちがいる。
そして、自分と同じようにキリストによって励まされて、愛の慰め、霊の交わりを、そして憐れみを必要としてひざまずいて祈っている信仰の友がいる。
皆さん、イエス様はその人のためにも死んで、少ししたらどちらが正しく間違っているかが問題ではなくなります。
自分の意見が通る通らないの勝ち負けではないのです。
私たちのために命を捨てて愛してくださったキリストの御心を一緒に求める、そこが教会ではないでしょうか。
その御心を実現のやり方はいくつかあるかもしれませんね。
15:02
しかし、目的は一つ。宣教です。福音を述べ伝えることです。これをぜひ心に留めていただきたいと願っております。
なぜなら、人間が本当の意味で人間になるためには、どうしても神様とのお出会いが必要だからです。
それを伝える使命が私たちの教会にあるのです。その目的に向かって一つとなっていく集団、それが教会になっている。
ですから私たちはキリストを見上げ、同じ方向を見ることにおいての一致、それがイエス様の御心であります。
さて、この説教の準備をしながら、聖書の中に素晴らしく一致をなった例を思い出しました。
それは福音働き第6章です。まず6章を開きましょうか。福音働き6章、新約聖書の237ページです。
そこを見ますと、エルサレム教会が教会の伝道の働きが尽くされて、大勢の神徒があるいは弟子たちが増えました。
そうしますと、そこに同じユダヤ人なんですけれども、イスラエル以外で育ったギリシャ語を話すユダヤ人たちと、
昔からイスラエルで育ったヘブル語を話すユダヤ人という二つのグループがあって、そこに騒乱が起こってしまいました。
その具体的な例は、ヤモメの人たちに対する給食サービスの不公平ということに発展してしまったんですね。
つまり、これはキリストにあって一つであるはずのエルサレム教会の一致が犯されたと言いましょうか、そういう危機の時でした。
しかし皆さん、危機は懺悔なんです。その証がこの6人なんですけれどもね。これからまた見ていきますね。
皆さん、その一致を回復するために、一致を強化して保つために、彼らはどのように事柄を進めていったんでしょうか。
18:01
彼らは何をしたんでしょうか、皆さん。解決したんでしょうか。
いえ、実は彼らはこの不一致になりそうなこの現状を、この問題を、課題を、まず神様に差し出していきました。
皆さん、これが大事なポイントであって、初代教会から学ぶ教訓だと思います。
頭を抱えてですね、悩んで会議を繰り返してするんじゃなくて、まず第一は神様に自分の課題を、自分の問題を神様に差し出して、神様に働いていただくこと。これが信仰。
皆さん、教会の課題だけではないです。皆さん、お一人お一人の課題もそうなんですよね。人間には自分の手に負えない課題がいっぱいあります。
その時にどうしたらいいですか。私には心強いお方がついておられる。その神様にその課題を、まず悩む前に、相談する前に、苦しむ前に、まず神様にそれを持って行って、差し出してお願いする。
そして、何事にもできる神様のあの御手によって解決していただく。
さあ、この6章を見ていきますと、彼らは神様に差し出して祈っていきました。そして、その時に私たちがこういうふうに祈るのではないでしょうか。
神様、私が抱えているこの課題は、私には手に負えません。この課題の問題の前に、私は全く無力です。ですから、どうぞ、あなたが働いて下さい。
なぜなら、あなたは全ての事柄を相働かせて、益とする強い意志と強い力をお持ちのお方です。あなたの御言葉は、私の悩みよりも小さなはずはありません。
主よ、あなたにとって解決できない問題はありません。なぜなら、私が抱えているこの問題よりも、あなたは遥かに大きなお方だからです。
こういうふうに祈るのではありませんか、皆さん。皆さん、何かの問題、課題を抱えていらっしゃるでしょうか。悩む前に、この世に祈るのではありませんか。
21:05
そうなんです、皆さん。私が抱えているこの問題よりも、主は、全知全能なる神様は、遥かに大きなお方だからなんです。
こうした確信と平安へと導かれていきます。問題の中にいる私たちは同じであるかもしれません。しかし、問題と向き合う自分の内側に変化が起こるのです。
イエス様が、ああ、共におられる。今まで、あの時にもこんな時にも、主は、こういうふうに、あのように助けてくさった。奇跡のように主は導いてくさった。だから、今度はもう大丈夫と、主は私についておられる。
時間がかかるかもしれない。でも、このことを通して、必ずイエス様が改善をなってくださるに違いないと確信する。それが信仰ではないでしょうか。
さて、このように言って、巨大教会の人々は、山梅の人たちの給食の問題で、まず羊をたてました。7人の羊をたてました。そして、日々の配注を公平に行いました。
そして、その結果ですよ。皆さん、その結果、何が起こったのでしょうか。その結果が、実は本当に素晴らしいことなんです。それがですね、6章の7節を見ていきましょう。7節、一緒に読みたいと思いますね。
3回。そうして、神の言葉はますます広まっていき、エルサレムで弟子の数が非常に増えていった。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入った。
皆さん、この結果が、どんなプロセスの中で起こりましたか。もう一度思い起こしましょう。エルサレム教会に、給食の問題が起きました。あちらこちらで通例している人がいたかもしれません。
なんで、うちにはおにぎりが2個しかないのとか、向こうの家は5個あげるのとか、そういうふうなふえがありました。確かに好きです。しかし、その時に、この人たちは、まず神様に問題を持ち出していって、祈って神様に知恵をいただきまして、
そして、7人の執事様を乗せて、彼らに公平にその給食、配給を行ってもらいました。その結果、神の御言葉がますます広まっていて、そして弟子の数が増える。つまり、宣教の前進が行ったじゃないですか。
24:20
このプロセスを覚えていただきたいですね。初代教会の兄弟姉妹たち。そして、使徒と執事が一緒になって、イエス様を見上げて、祈りのうちにその問題をイエス様にあけ渡って、御心の実現を求めていく時に、それが基地が福音の全身という身に変えられたのでしょうか。
なんと素晴らしいことでしょうか。これこそ、一致の恵みは遥かに素晴らしいことなんです。
一気によって、私たちが一つになる。そこで平安と喜びの輪の中に私たちが留まる。しかし、それが内向きだけの身で終わるのではなく、それが福音の全身の救いの考えもしていなかった大きな収穫をもたらす恵みになる。
さて、もう一度、今日の聖書箇所、フィリピンに戻りたいと思いますけれども、フィリピン2章をご覧ください。2節を一緒にもう一度読みたいと思います。フィリピン2章の2節。よろしいですか。ご一緒に読みましょう。
3回、私の喜びが満たされるように、あなた方は一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。
これなんです。今日の御言葉の最後のポイントは、一致こそ教会につながる人々にとって深い喜びの源になる。一致は教会につながる人々にとって深い大きな喜びの源になる。
ここにですね、パオロが、私の喜びが満たされるようにとお願いしています。この満たす、満たされるという言葉はですね、満月ありますよね。この前満月でしたけれども、あのように歪みがない、欠けのない、完全な形、それが満たす、満たされるという言葉の意味です。
つまり皆さん、私たちが一緒にキリストを見上げていくときに、必ずそこに歪みのない、欠けのない一致が起こるんです。許し合いが起こるのです。和解が生じてきます。
27:05
本当に完全な一致、祝にある歪みない一致がなされるんです。いつですか?祝を一緒に見上げるときにです。ですから、教会に一致が起きていること自体がですね、教会につながる人が他では経験できない深い喜びの源になるんです。
だから、教会に来ていて本当によかったなとしみじみ思うということではないでしょうか。
皆さん、教会が教会らしくあるために、生徒が生徒らしくあるために、一緒にイエス様を見上げることから実は始まるんです。そうしますと、そこに一致が生じてしまった。
その一致は、私たちにどこからも経験できない喜びをもたらすのです。それからその一致がもたらす一番大きな実りは、福音宣教であるということです。
それがさっきの人名だらけの証ではないでしょうか。福音宣教、魂の救いこそ、教会の最も大きな目的ではないでしょうか。そのスタートラインは一致というものであります。
一括のセースを開きたいと思います。第1コリント、9書。19節から23節までです。330ページですね。新約聖書の330ページです。
それでは私が読み始めますので、後半の部分を一緒に読んでいきたいと思います。
私は誰にかえっても自由ですが、より多くの人を獲得するために、すべての人の奴隷となりました。
ユダヤ人にはユダヤ人のようになりました。それはユダヤ人を獲得するためです。
立法の下にある人々には、私自身は立法の下にはいませんが、立法の下にある者のようになりました。
それは立法の下にある人々を獲得するためです。立法を持たない人々に対しては、私は神の立法の外にある者ではなく、キリスの立法を守る者ですが、立法を持たない者のようになりました。
30:05
それは立法を持たない人々を獲得するためです。22節、23節を一緒に読みたいと思います。
弱い人々には弱いものになりました。弱い人々を獲得するためです。すべての人にすべてのものとなりました。それは何とかして幾人かでも救うためです。
私はすべてのことを福音のためにしています。それは私も福音の恵みを共に受けるものとなるためです。
アーメン。皆さん、パウルは、私はすべてのことを福音のためにしていますと告白しているのですが、何と素晴らしいでしょうか。
ですから、私たちが教会の中であろうが、そこであろうが、そこで私たちがなすすべてのことを何のためにすべきでしょうか。それは福音のためです。
福音のためなら、自由人になる。あるいは奴隷になる。奴隷のようになる。立法の下にある人のようになる。何でもできる。弱いものになる。時には公官のようになる。なぜでしょうか。
私はすべてのことを福音のためにしています。この告白が、私たちの一両の告白であり、私たちがさらに一両なすためには、この御言葉の精神を持つことだと思います。
私はすべてのことを福音のためにしています。それは私も福音の恵みを共に受けるものとなります。お祈りします。それでは今日の御言葉の恵みを覚えて、それぞれ示されたまま、心のままに、大人の祈りをしばらく祈っていきたいと思います。しばらく大人の祈りをご一緒にお祈りいたします。
32:30

コメント

スクロール