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2019-09-15 32:18

2019/09/15:神に祝福された人生の法則21(11)聖書的なスチュワードシップの法則

2019/09/15 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ペテロの手紙第一

00:01
改めてみなさん、おはようございます。
感謝いたします。
今日はレアにおいて、このように展示会も行われ、また、今日は軽度の教え合いもありますし、
また、この後は、僧侶の兄弟たちによる、また、昼食の講師もありますが、
今日は、ゆんぼこしの罠じゃなくて、ランチを楽しみして、してはいないんですよね、まさか。
では、周りの方と挨拶しましょうか。
ありがとうございます。
一言お祈りいたします。
それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて、たかに誓え合いなさい。
主よ、私たち一人一人を、神の良い管理者として、チュワードとして立てて下さって、このように私たちを用いて下さり、導いて下さることを本当に感謝いたします。
主よ、この朝も神の御声を聞きし、その御言葉によって、本当に私の心の目が開かれ、あなたを喜ばせる道を歩ませて下さいますように、
一人一人に、今日の命の言葉を主御自身がお語り下さいますように、
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
感謝します。
シリーズのメッセージ、神に祝福される人生の法則21の中で11回目になります。
大体半分くらいまで来ています。
今日はその中で、聖書的なチュワードシップの法則、聖書的なチュワードシップの法則についてお話ししたいと思います。
皆さん、女性の方々の中で、若い時の夢が飛行機の乗務員、シュアレスになりたいなと思ったこと、もしありますか。ないですか。
こんな方がいいんですけれども。
今はそう言っていないんですけれども、以前は飛行機の女性乗務員をシュアレスと言っていましたよね。
今はキャビン、アテンダントと言っていますけれども、
今日の聖書課の述説に、良い管理者となっていますか。
03:04
その管理者という言葉が、英語の聖書ではシュアードとなっていますね。
男性はシュアード、女性はシュアレスという言葉になります。
今日は飛行機乗務員の話ではなく、神の管理者としての私たちの生き方について、聖書からその法則を学び、それを身につけていきたいと思います。
もう一度ご一緒に、今日の箇所を一緒にこれを合わせて読みたいと思います。
第一ペテロ四の述説です。
ではご一緒にお読みしましょう。
前の画面にもありますね。
三、それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な恵みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに使い合いなさい。
アメン。
ここの良い管理者としてとあります。
家様に従っていくためには、神様から私たちに求められる信仰生活の法則の一つが、この良い管理者として生きることです。
日本語のニュアンスは管理と言ったら、どこかのマンションの管理人を思い出しやすいかなと思って、あえてキュアードという言葉を選ばせてきましたけれども、
その管理者精神の法則、キュアードということであります。
つまり、神様が私たちみんな一人一人を、私たちの人生の管理者、そして神様のひもめとしてのその管理者、キュアードをして召してくださったということなんです。
この良い管理者として生きるために、このキュアドシップを理解していくために、まず前提になる大事な法則三つがあります。
一つ、それはオーナーです。私たち人にとっては、自分の人生の時間、あるいは金銭という財、あるいは賜物など、すべてのもののオーナーではないんです。
オーナーがいる、それはどういう意味ですか?主なる神様であられるということです。
06:02
神様がオーナーであって、したがって私たちはしもべ、管理者にすぎないということであります。
この認識を常に持ちながら生きていくことが本当に大事です。
私はオーナーではありません。神様がオーナーです。私は管理者です。私はしもべです。
神様が求められることであって、神様に喜ばれる人生の秘訣が、まずここにあります。
二番目、大事なことです。それは神様が私たちを良い管理者として召してくださったということは、私たちにあれもこれも多くのもの、すべてのものを預けてくださったわけですね。
皆さん、全然信頼できない人、あまり知らない人に皆さんの印鑑も通帳もお金も全部預けられますか?できないんですよね。
信頼できる人に預けるわけなんですよ。とすると、神様が私たちを本当に信頼してくださっているということです。
これが第二の前提の大事なことです。
すべては神様のものなのに、神様がオーナーなのに、ご自身の代わりに私にあなたにそれらを任せてくださった。
これを良い管理しなさい、良く管理しなさいと任命してくださった。そこには信頼があったということなんです。
皆さん、こういう考えをしますと、何と感謝なことなんでしょうか。
神様が私たちを信頼してくださる、忠実なシュワードとして認めてくださって、こんなに多くのものを預けてくださっているということなんですね。
三番目、他人のと比較しない、今あるものに感謝することが前提の三番目の大事なことです。
神様から人生というこの時間、財、賜物などは、実は皆さん、みんなに同じものが与えられているわけではないんです。
ある人には多く、ある人には少なく与えられている。それは差別ではない。神様のオーナーシップによる御心なのです。
私たちは人物であり、私たちにはわからない神の説理、神の世界、神の御心があるということを、どうしたらいいですか。
謙遜に受け止めて、今あるものに全ては恵みであることを感謝して、他人と比べないことなんです。
09:06
あの人はあんな賜物があるのに、あの人は絵の具がペラペラなのに、あの人はあんな美人なのに、あの人はあんな金持ちなのに、そういうふうに比べをしない。
これが大事な前提の三つの法則であります。
では、神様は私たちにどんなものを預けてくださって、任せてくださって、よく管理するようにしてくださったのでしょうか。
今日は三つのことをお話したいと思います。
まず第一は時間の管理です。時間、人生というものですね。
誰も自分の人生のオーナーではないんです。
今まで歩んできた人生も、これから歩んでいく人生も、どれくらい残っているのか誰もわかりませんが、
それはこの人生という時間を本当に感謝な、ある意味で預かりものなんですね。
そして人生をどういうふうにそれを用いたのか。
必ず決算、生産の時がみんなに来るということであります。
ここで一箇所、生と一緒に開きたいと思います。
エペソビトリの手紙、五章、十五節、十六節です。
新約聖書の三百七十九ページです。
エペソビトリの手紙、第五章、十五節と十六節、三百七十九ページです。
それでは十五節は私とお読みしますので、十六節はみんなでご一緒に読みましょう。
エペソビトリの手紙、第五章、十五節。
そういうわけですから、賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩んでいるかどうか、
よくよく注意し、機会を十分に生かして持ちなさい。悪い時代だからです。
賢い人のように歩んでいるかどうか、自分の人生を神の目に賢い人のように歩んでいるかどうか、よくよく注意しなさい。
12:02
そして機会、この機会は時間、タイム、そういう意味がありますけどね、その機会、チャンス、時間を十分に生かして持ちなさい。
なぜなら、悪い時代だからなんです。
でも私はですね、今日皆さん、時間をよく無駄遣いしないように、自衛閥を使いましょう。
ただ、そういう話ではないんです。
それは一般のセミナーにいても、いくらでも聞ける話ですし、一般の書店にいたら本に書かれるというお話です。そういう話ではない。
人生という時間は神様から預けられたものであるならば、その御名であられる神様の御心が何であるかをまず探り知ること、分けまい知ることです。
ここね、ちょうど不思議に姉妹が沸かす中に、ローマと十二章二節をお話しさせてくださってびっくりしましたけれども、ここでこの話をしたいと思うんです。
私は読みしますので、皆さん見たくても開かなくてもいいです。
ローマ手紙十二章二節。
この世と生地を合わせてはいけません。いや、むしろ、神の御心は何か。
皆さん、私の人生、この時間、1日24時間、1年365日というこの時間を過ごすにあたって、神の御心が何か、すなわち何が良いことで、何が神に受け入れられ、何が完全であるかを分けまい知るために、
心一心によって、自分を変えなさいと言われています。
皆さん、イエス様を信じるということは、ただ真面目な人になりましょう、という話ではない。
しかも、1日たくさん使っても、夜通し放課しても、それが神の心にかなったものなのか、神に喜ばれることなのか、それを分けまい知って、そのために自分の人生の時間というものを捧げる、投資するということなんです。
そのための分野が四つあると思います。
一つは神様のために、二つは自分のために、三つ目は隣人のために、四つ目は社会、この世界のために、その関係の中で私たちは生きているわけなんですよね。
時代は悪いから、私たちが神に喜ばれるように、生きることができないように、悪魔サタンは妨げるんですね。
15:02
そして、消え去るもの、成功、お金、ただの富、世の中の人々が言う幸福、そういったものに夢中させて、本来歩むべき神の御心を失わせてしまう。
そんな悪い時代なんだから、機会を神のために、隣人の世界のために、福音宣言のために、愛の実践のために用いて歩みなさいという話であります。
神様から与えられたこの人生を、どうしたら神に喜ばれる人生を歩むことができるんだろうか。
そのために皆さん常にお祈りください。
一種類の言葉ですが、教会では養成という言葉をあまり使わないんですけれども、確かに人生は残っているわけなんです。
それが一年なのか、十年なのか、五十年なのか、私たちには分からない。
でも限られていることはみんな一緒なんですね。
とするならば、この限られているこの時間を、人生を、ただ自分のために、自分の欲を満たすためにそれを用いるのではなく、
神様から預けられた時間ですから、それを神のために用いさせてやること、福音をつけるために人生を用いることであります。
それから自分自身の内面の霊能成熟、信仰成熟のために、祈り、聖書を読み、学び、集会に出席し、
あるいは兄弟姉妹との交わりを持つ中で、神様から与えられている時間を、神の御心通りに用いることであります。
その次は隣人、社会のために用いることであります。
私が今の私の人生にはそれができていないというか、大学生のときに一つ夢がありました。
ビジョンというかですね、勇気がなかったのか、環境が整えなかったのかわかりませんけれども、
東南アジアかアフリカというところに学校1年休んで、そういうところに行って、
ボランティアでですね、キリスト教の団体に入って、そういういろんな法師活動をね、
エンジオとかね、NPO団体みたいにね、そういう、
18:03
それで自分の一番若いときの青春の黄金の時代の人生の1年、少なくともね1年ぐらい、
神様にお叫びしたいなと、若いとき、20代になるというときですよ。
そう思って祈ったことがあるんですよ。でもそれがね、できていないんですけどね。
天に行くまでには一度ね、それを忘れていただきたいなと思いますけど、
家族がいるからほったらかして一人でアフリカに行くわけにもいけませんしね。
でもちょっと許してくれるかもしれない。
自分の人生というものをね、ただ、もちろん仕事をする、家庭を守る、家事をすることが、
決してそれはいらない。悪いことではない。それをすべきです。
本当にね、勤勉にすべきですけれども、人生を90年としましょう。
90年のうちに自分の人生を食べていくためにではなく、世界のため、世界のため、
そこで神の国が来ますように、神の御心を満たすために、自分の人生をまるまるをさせていける。
そういう仕方をしていきたいということであります。
聖書にも、ローマ書12章15節にもね、
喜ぶ者と一緒に喜び、泣く者と一緒に泣きなさい、ということがありますね。
こういうふうに、主のため、教会のため、福音選挙のため、隣人のため、あるいは社会のために、
自分の人生のこの時間を用いること、それを主が喜ばれるんです。
そのためなのにか、皆さん、夢を持って、ビジョンを持っていただきたいんですね。
大きい2番として、何が預けられているんでしょうか。
私は何を良い管理者として、良い忠実なシュワードとして管理すべきでしょうか。
2番目は財、金銭、お金のことです。
この金銭というものは、主から預けられた、預かりものなんですよね。
改めてもう一度申しますが、オーナークップを覚えながら生きることなんです。
私たちは主のものを管理する者、人です。
そうすれば、自分の1ヶ月の給料を、1年の収入を、このお金の元の主である神様の御心が何であるかをわきまえ振って、
21:07
そして神様が私に何を求めておられるんだろうか、常に祈りを教えていただいて、そしてそれを実行する人が良き管理者なんです。
それが忠実なシュワード、シュワデスなんです。
ではどのように書き起こしたらいいんでしょうか。
まず金銭のオーナーは神様であって、自分は管理者であることを改めて覚えることです。
そしてお金の支え方にあっても、そこで神の皆があらめられますように、神の英語があらわれますようにという、いつもの信仰の姿勢をもって用いること。
もちろんそこには神様への十一献金や感謝献金、聖水献金などは、それはもう当たり前のことであって、言うまでものであります。
いつも皆さん、今日もお部屋において皆さんが献金を神様にお届けすると思いますけれども、こういう信仰のお証なんですね。
主よ、あなたが私の主です。
私は下人です。私はオーナーではありません。
というような信仰の証なんですよ、献金は。
ただ何かの募金をするわけではないんですよね。
二番目、お金に執着するのではなく、それをよく管理して、神の御所通りに用いること。
皆さんは我々に満門信仰、お金を神にして、そのお金に執着させる。
そして神へ向けるべき心を奪われるんでしょうね。
マサイの訓示六章二十四節に、ゲス様はこういう御言葉を語られました。
覚えてほしいんですが、私が読み出します。
マサイ六の二十四節、誰も二人の主人に仕えることはできません。
一方憎んで他方愛したり、一方重んじて他方軽んじたりするからです。
あなた方は神にも仕え、また富にも仕えるということはできません。
また何でしょうか。神様が我々の主だからです。
私の人生の主は神様お一人だけなんですよね。
だから神も主にする、お金も主にする、両方はできない。
24:02
神に仕えているか、お金に仕えているか、どっちかになりますよという話でもありますね。
三番目、だからこそですね、私は今日みんな節約しましょう、無駄遣いはしません。
そういう話ではないんです。
お金をかけ集めたり、ただ節約するんじゃなくて、惜しみなく分け与えることがゲス様の御心なんです。
旧約聖書新元十一章二十四節に、こういう御言葉があります。
バラ撒いてもなお富む人があり、聖徒の足払いを惜しんでもかえて乏しくなるものがあります。
皆さんこうですか。今まで皆さんの人生、いや遠く行かなくても、今年一年、あるいは去年、この最近五年のうちに、
皆さんは自分の収入から、自分のお金から、どれだけ多くの人々に分け与えていますか。
どれだけ多くの人々に施していますか。
あの人の働きの、あの二所の人々のようにね、聖書的な室和土宿の金銭関には、惜しみなく分け与えることです。
この時のように、何か持って行くものは、手に行くものは誰もいない。裸で来て、裸で帰るわけないです。
あの予言が告白したように、全ては主から与えられ、全て主に還る。この法則を、この御言葉を悟って実行するものが幸いな人であります。
神様も言われました。金を地上に蓄えるのではなく、天に蓄えなさいと言われています。
それは神のものだからなんです。
教会の働きもそうなんです。教会はですね、いつも節約します。もちろんね、無駄遣いしてはいけないでしょう。尊い献金だから。
でも神の国のために、もしそれを投資することがあるならば、もう優雅にもってそれを使うものも必要なんです。
例えば、豪華ななるのの行為を注いだ、あのマリアのように、主のために尊くそれを用いることです。
3番目、大きい3番目、我々に与えられて、預けられているものは、賜物なんですね。賜物の還りです。
賜物という言葉の言語はカリスマと言うんですね。
27:09
それは恵みという言葉の意味するカリスから由来したことなんです。
だから賜物は恵みなんですよね。
私たちが食べたいものを選ぶようにね、Aをチョイスして、Bをチョイスして、自分が選んだわけではないんです。
一方的な神の恵みによって、受ける何の資格もないものに、神の行為によって預けられたもの、それが賜物です。
だから賜物自体が神の恵みなんです。
もう全く何もなくても、神様に文句を言えないんですよ。神様が手段だから。
でもゼロではない。何かが与えられている。
だから恵みである。だから感謝するわけなんですよね。
その賜物の還りが求められています。
神の家のために、国のために、隣人のために、この世界のために、自分の賜物を積極的に用いていただきたい。
また大事なのは、みんな誰にも誰にでも賜物が与えられているということなんです。
与えられていない人は一人もいません。
ある人には、会計のお金の還りの賜物があります。私はとても苦手なんです。
でも幸いに9万はよくできています。
ある人には、園芸の賜物があります。
私は夫婦にはないんですよ。お花をもらってもすぐ死んでしまう。
ある人には、人のお話をよく聞く賜物があります。
ある人には、生理生徒の賜物があります。
ある人は、わかりやすく上手に教える賜物があります。
ある人には、外国語の英語の賜物があります。
またある人には、誰に会っても初めて会ったのにすぐ親しくなる賞物があります。
ある人は、無から何かを開拓する、切り開く賞物があります。
みんなにあげます。皆さんお一人に。
何かの賞物が2個、2個、3個、必ず与えられているんです。
その自分の賞物を知り、それを積極的に活用していただきたい。
それを活用する、用いる責任も私たちにあるんですよね。
30:06
それを用いないのは、ある意味で怠惰であって、また偽りの謙遜でしかないんですね。
皆さん、お自分の賜物を主のために、教会のために、福音伝道のために、
営まれるために活用していただきたい。
メッセージをやりたいと思いますが、
今日のテーマは、クリスチャンの務め、シクワドシップということですが、
私たちはただ単に自分の務めに忠実でありましょうという話ではないです。
あるいは、よく反映しましょうという話ではない。
何を話したいのかと言いますと、今あるのは主の恵み。
主に使えるのは恵み。
私たちに任せられているものは全て恵み。
福音に使えるのは恵み。
主にある老苦も恵み。
私の務めは恵みの務め。
全ては主の恵みであるという信仰を、
このような人が征服して、福された人生を送るのでしょうか。
全ては主の恵みであり、
主に信頼されて、こんなにも主から預けられているんだから、
いつも観察して、周りに観察して、
それを主のために務めさせていただこうとして、
実行し、従う人であります。
難しいことではありません。
このように、私たちは必ずいずれか、
イエス・キリストの前にかたされどしたとします。
主に行くよった忠実な人々よと、
主に認められ、褒められるというものでありたい。
そのために、我々に与えられているこの人生という時間を、
財というこの金銭を、
賜物というものを、
主のため、福音のために用いていこうではないでしょうか。
お祈りいたします。
32:18

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