1. 名谷教会
  2. 2014/11/23:聖日礼拝(旧音源)
2014-11-23 45:25

2014/11/23:聖日礼拝(旧音源)

2014/11/23 聖日礼拝(旧音源)




00:01
では、メッセージに入る前にお互いに挨拶して、またメッセージに入りたいと思います。
はい、よろしくお願いします。ようこそいらっしゃいました。
はい、それでは一言お祈りいたします。
愛している神様、二人の姉妹に証を放ちていただいて、また恵みを引き上げ、またチャレンジを受けたことを感謝いたします。
今日は、宗教と感謝礼拝として、主の御前に心を込めて、礼拝を据えているところです。
今から神様御自身が、私たち一人一人に御言葉を持って安らんで、一人を与え、神のものへと信仰の高いところに、私たちを引き上げて下さいますように。
主を喜ばせる、主に喜ばれる貧困者の子の生涯を、起こらせてあげたいと切に願っている私たちですから、
主はどうぞ、あなたの御子供を手養って、生徒として恵んで下さいましたように、お願いをいたします。
御前に依頼、感謝して、神様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、今日は宗教と感謝礼拝です。
今日の説教題はですね、あなたを幸せにするためであったという、この神明からのメッセージなんですけれども、
皆さん、もしですね、神様が、私たちが毎日使っている何かのものに対する費用を、神様が請求されるのなら、
私たちはどれくらいのお金を支払わなければならないんでしょうか。
二つのことを考えてみました。
さあ、ちょっと見てみましょう。
例えばですよ、神様が、ものすごい賃金が安いんですけれども、1時間バイト代くらいで1000円くらいとしましょう。
もっと高いと思うんですけれども、1000円だとしましょう。
そしたら、1日、神様は私たちが寝ている時にも、歩いている時にも、働いている時にも、主はずっと見守ってくさるから、
20時間来て、24000円。
さあ、これを1年間来たら、いくらになるんでしょうか。876万円。
これを80年間、神様がずっと私たちのために、ケアして、守って、相談して、事故からすべて守ってくされたら、それを費用に換算したら、いくらになりますか。
03:04
7億ポンで80万円ですよ。
単なる計算式なんですけれども、それほど神様は、私たちを守ってくださるんです。
さあ、もう一つ。私は1日、タダで酸素を使っていました。
1日5万円くらいの費用が発生するんです。
そうですよ。スクールだったら、1年で1825万円くらいです。
80年間使って、皆さんも50年間、70年間使っているんですね。タダで使っていますよ。
木も植えないし、酸素を使っている。
そうしたらですね、いくらになりますか。
14億。それくらいの、はい、いいです。
それくらい、私たちは本当にですね、タダで神の恵みを受けています。
しかし、いく度も支払いをしたことはありません。
どれくらい感謝のことなんでしょうか。
ちょっとだけ皆さん考えてみても、感謝せざるを得ない、いや感謝したくてたまらない、その課題は山ほどあるのではないでしょうか。
今年の1年間、神様の恵み、教会の兄弟姉妹たちの愛、あるいは皆さんのご家族の愛に感謝したい。
その心を込めて、今日の礼拝を主に捧げて参りたいと、そう願ったわけです。
皆さん、どんな生徒が、どんなクリスチャンが、幸せな信者生徒なんでしょうか。
一言で言うならば、幸せな生徒はいつも感謝する生徒だと。
神様に感謝し、家族に感謝し、兄弟姉妹に感謝する生徒が幸せな生徒なんです。
今日聞く三つのことを、今日の神明から、イスラエルの人々のこの40年間の全行程から、それを私たちに当てはめて、
三つのことを共に考え、また習って、また決心をして、それを実行していきたいとそう願っております。
まず一つ、いつも常に感謝する生徒は、全ては主がなされましたと感謝する生徒です。
06:05
全ては主ご自身がなされましたと告白し、感謝する生徒が幸せな生徒なんです。
神明に呼んでいただきましたけれども、イスラエルの人々のこの40年間の全行程を、皆さんよく知っていらっしゃるから、覚えていらっしゃると思います。
エヒプトでパローと戦って勝つことができたこと、銃の災いから生き残らせたこと、指一本使わずに航海を渡ることができたこと、
水もなく食べ物もない、あの何にもない穴ので、150万人あるいは200万人、それ以上の人々が食べていけたこと、
天国とか多くの敵があったには変わらず、モーセが手を挙げてさえいれば、祈っていれば、イスラエルが勝てたこと、
今から約3500年前ですから、あの時代に全戦病や事故や寒さや飢餓から守られて生き残れたこと、
最初出発した時のあの人口が40年間が経ってほぼ変わっていなかった。それほど守られたことは神様がなされたことではないです。
40年間ですね、今日の御言葉もありますけれども、40年間全皇帝を振り返ってみたら、彼らは何一つしたことがないと言っても囲んではないと思う。
全ては主御自身がなされたことです。彼らを救い出したこと、後悔を渡らせたこと、食べさせたこと、飲ませたこと、病気から守ってくださったこと、あらゆる敵から守ってくださったことなどなど。
ただですね、神様のお守りがあって、お助けがあったから、40年が経って今のイスラエルの人々がいられたのではないでしょう。全ては神様の恵みであって、祝福です。
09:01
ですからイスラエルの人々はですね、主御自身が全てをなさいましたと告白すべきだと思うんですね。それでは私たちのことはどうでしょうか。
2014年、今年1年間、神様が施してくださった恵みと祝福、主のお守りを考えてみるならば、どれだけ大きな恵みと祝福と自由と憐れみがあったのでしょうか。
去年の12月31日に、夫人たち幾人が集まって餃子を作って、ランタン礼拝で礼拝を捧げて通食会をしたのが昨日みたいですよ。もうすぐまたしますけど。
1年が終わろうとしているこの時点に、私たちが生きておられ、こうして愛する兄弟姉妹たちと主の教会で礼拝を守ることができているこの恵み、
多くの事件事項の中で主が守ってくださったこと、多くの病気や様々な災いから主が守ってくださったこと、
車やバイクを毎日のように持っているのにも主が守ってくださったこと、子供の事件も多いこの世界なんですけれども、そんな険しい世界の中でも主が守ってくださったこと、
自分のことを考えてみても、韓国にもどこにも結構行ったり来たりしましたけれども、主が守ってくださったこと、
いや皆さん、単純に事件事項から守ってくださったことだけではないと思うんですよね。
つまり神様は私たちに礼拝と御言葉と祈りと兄弟愛を持って私たちを変えてくださいました。
私たちを成長してくださいました。私たちの内側から恵みの変化を主が起こしてくださったんですね。
世の中に兄弟が、先ほども赤城の中でありましたけれども、この福的に恵み的に主が生存してくださっておられること、一人一人が恵みを使い求める信者に変えられていること、
喜んで主に仕え、喜んで教会に仕え、兄弟姉妹を愛するその恵みに満ちた姿を見るたびに、本当に主は全てのもとを成してくださったと告白をせざるを得ない今のところであります。
12:10
その恵みが最も大きな福だったと思うんですよね。皆さんの祈りの恵みが成長しました。御言葉を知る知識が生としました。深くなりました。
夫婦の関係が回復され、礼拝が回復されていました。親子が生として礼拝と御言葉と祈りを引き裂くその魂に変えられていること、喜んで仕え、喜んで捧げ、喜んで兄弟姉妹たちに仕える愛し、選挙者助け、分け与え、施すこの愛に満ちる教会に変えられていること、
これが最も大きな恵みなのではないでしょうか。この全ては主なる神様がなされたことなんです。これを覚え感謝することなんです。それが習得感謝礼拝なんです。
自分自身のこと、家庭のこと、主の教会のことを皆さん考えてみてください。どれだけ大きな恵みがあったのでしょうか。
ところが、私たちは、そのような大きな大きな神様の恵みが、祝福があったにもかかわらず、神様が助けてくださったから、自分ができたにもかかわらず、それを忘れてしまってですね、
また言ったら、俺がやったよ、とそういうふうに思ってしまい、やすい我々なんですね。神様は、私たちのそのような容赦があることを、主はご存知ですから、十七節のように私たちに語っておられます。
今日の歌唱の十七節をですね、一緒に読みたいと思います。いいですか、十七節。お一緒に、3、はい。
あなたは心の内で、この私の力、私の手の力が、この乙女を築き上げたのだ、と言わないように、気をつけなさい。
どういう意味でしょうか。イスラエルがそう言ったように、私たちがですね、何かできていって、持っていて、満ちていって、うまくいっている時に、私の力でこれをやった。
15:01
私の手に力があるから、俺に能力があるから、これができたんだ。私がやった。私だからこれが可能だったんだ、とそういうふうに思ってしまいやすい。この富を築き上げたのだ。
今ふうに考えるならば、この家は俺が、もう骨折って働いて、そのお金をそれで貸したものだ。この職場は、私が一生懸命働いていたから、このことができているんだ、と。
あるいは、自分が一生懸命運動して、あるいは、食べ物をちゃんとしているから、健康で長いとしているんだ、と。そういうふうに思ってしまいやすい。皆さん、こういうことを何と言うんでしょうか。勘違いと言います。勘違いです。全く勘違いなんです。
例えば、私のような僕会社に、一番危険な勘違いは、自分が偉いから、自分に能力があるから、自分が立派な牧師だから、教会が成長している、リバイブが起きている、という思ってしまうことは、本当に危険な勘違いなんです。
皆さん、全ては主なる神様がなされたことです。これを忘れてはいけません。
17つの最後に、「あなた方はいつも気をつけなさい。」とあります。
と言わないように、気をつけなさい。気をつけなさいと。これは、私たちへのメッセージであるかもしれません。
人々は、こういうふうに思ってしまうのよ、という神のメッセージなんですね。
この富を、私が、俺が、築き上げたのだ、と言わないように、皆さん、お互いに、全てのことは、神様が与えてくださったことなんです。
全てのことは、神様がなされたことなんですね。
13節、14節を、皆さん、ご覧ください。私は読みますね。13、14。
あなたの牛や羊の群れが増え、金銀が増し、あなたの所有物が皆増しふわり、あなたの心が高ぶり、あなたの神々を忘れる、そういうことがないように、とあります。
18:02
そうなんです。イスラエルは、荒野を通って、花に入って、検察して、そして、牛や羊の群れが増えました。金銀が増えました。
そして、所有物が増えられて、神様をすっかり忘れてしまって、自分たちがこれをできたように、自分たちでこれを築き上げたように、勘違いしてしまう。
そういうことがないように、富を覚えていなさい。
あなたの神、富を心に据えなさい、とありますね。この18節。
高ぶって、富の恵みを、助けを忘れてしまうんです。我々の人生のストーリーの主役は、イエス・キリスト様であって、神様ですね。
富は見えなくなってしまって、自分だけに見えてくるんですね。皆さん、私たちも気をつけていなければなりません。
そして、18節の御言葉のように、あなたの神、富を心に据えなさい。
さあ、この御言葉だけ一緒に読みましょうか。ここだけいいと思いますよ。
あなたの神、富を心に据えなさい。
高ぶりというものが、頭を下げようとする時に、この御言葉を覚えていってください。
あなたの神、富を心に据えなさい。
ああ、そうです。私がしたのは何一つありません。すべては神様がしてくさったことです。神様がなされたことです。
そういうように感謝する私たちがしたいですね。
たまたま申し上げたことがありますけれども、私は日本の他の先生たちとパスターが違って、選挙主として使わされているものですから、
皆さんから献金を捧げていただいて、謝儀をいただいて、本当に感謝しているところであります。
また、多くの方から、韓国から、個人や教会やあるいはグループからですね、選挙献金を、
今年で6年になりましたけれども、6年間、主が彼らを通して見させてくださっているんですね。
ところが、その恵みを振り返ってみたら、実に私があるいはハンナが何一つですね、
祈祷のところに行ってお願いして、誘ってもらいました。お願いしたことは一度もなかった。
でも不思議にもですね、例えばですよ、縁のところから献金が来ていることがあるんですよね。
21:05
その教会の事情がありまして、ユニ先生申し訳ない。こういう事情があって、私はしたいんだけれども、これ以上無理です。
そうですか。それですみません。感謝します。その、例えば私はユニさんの本当に献金を本当に感謝しています。
そういうようにですね、縁のところがきれいでしょ。そしたら、神様は普通に他の縁だけのところを道を開いてくださるんです。
アメリカにある私の新学校の友人、久しぶりにフェイスブックというSNSでつながってですね、
その教会が長い間日本選挙主に献金したくて、献金を貯めていた。でも日本の選挙主は一人にも来ていない。
その私の同期の彼が府に行って、教務官がその先生に先生申し日本の選挙主がいないですか。
彼の頭には日本の選挙主は私一人しか来ていないんです。
そしてそれが月が3月に去って、毎月本当に感謝な恵みを受けている。またBのところがまた知れるんですね。申し訳ないけど知れる。
今日ペクスさんがいますけれども、ペクスさんの弟さんが韓国で立派な牧野をされている牧野先生のところに主が導いてくださって、そして献金を贈ってくださった。
そういうふうに不思議にも神様がですね、与えてくださる、与えてくださる。何一つ自分はしていないように主が満たしてくださる。
これからはですね、もっと楽しみなんです。もっと神様がどんなに素晴らしい人々を用いて、主が満たしてくださるのだろうか。
そしてそれをまた用いて、主に捧げ、それを用いることができて嬉しいなと思っているんです。
みなさん、幸せな生徒はいつも感謝する生徒です。そしてその生徒は、主が全てを責めましたと告白したなら生きる生徒なんです。
二つ目です。いつも感謝する生徒は、主が私を救われましたと感謝する生徒です。主が私を救ってくださりました。
私を生かしてくださった主。永遠の滅びから救ってくださった主。永遠の希望を与えてくださった主。生きる目的を教えてくださった主に感謝する生徒なんです。
イスラエルの人々のことを考えてみましょう。彼らがエジプトから連れ出されたこと、航海という海を渡ることができたこと、すべては救いを象徴する出来事なんです。そのことは誰がしたことでしょうか。
24:20
イスラエルがパローと戦って勝ったわけではないんです。イスラエルにエジプトの兵器より、あるいは騎馬より戦車よりもっと強いものを持っていたから脱出ができたわけではないんですね。
航海を渡ったあの出来事もそうなんですね。彼らがその航海の海水を乾かすほどの熱吹きを持っていたから、それを乾かして渡ったわけではない。神様が一晩中強い東風で海を切りづかせて、海を陸地とされて、それで水は渡れたんです。
その渡れたことも、私たちみんなには救われるべきほどの資格を持っている人は、実は一人もいないのです。私たちの中に、もし皆さんの中で、自分は必ず救われるべきものなんだ、そんな資格を持っていると思っている人はいますか。いないですよね。
神様が必ず私を選ばなければならないその理由を、資格を、命を持っている人は、しかし、そんな私たちは選んでくださいました。
召してくださいました。救ってくださいました。永遠の命を与えてくださいました。これだけで皆さん、どれほど大きな恵みを、福を、私たちはいただいているのでしょうか。私たちが救われるにあたって、何一つしたことはありません。
すべては、主なる神様が、イエス様が、聖霊様がなされたことだけなんです。十二日で亡くなられたこともイエス様であって、そのイエス様を死に渡されたのも、主なる神様であって、私が心の中に救いに導いてくださって感動を与えた人たちのことも、聖霊様なんですね。
ただ、私たちは、ただで救いをいただいただけなんです。その信仰さえも、福から与えられた恵みなんですね。
聖書を一箇所開きましょう。新約聖書のエペソビトへの手紙、二の八節です。エペソビトへの手紙、二書、八節。374ページです。それでは、八節を一緒に読みたいと思います。
27:28
あなた方は恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。アメン。
私たちは、皆さん、お一人お一人は、神様の恵みのゆえに信仰によって救われたのです。そうなんですよね。しかし、その恵みも信仰も、私たち、あなたから出たことではありません。
それは、神様からの恵みも、信仰も、その救いを、私たちが信仰の手を差し伸べて神の救いをいただいたその行いも実は、神のためです。
ですから、皆さん、実は、私たちが最も感謝すべきことは、神様、こういうふうに守ってくださったから、こんなことを与えてくださったから、福を知ってくださったから、いたしてくださったから、何かいただいたから、じゃなくて、救われたことだけで、私たちはそれで十分なんです。
なぜなら、救われた人は、主なる神様を持つものであって、イエス・キリストを持つものであって、精霊様を持つものであるから、すべてを持っているものなんです。
聖書を一箇所いただきましょう。旧約聖書第一歴代史二十九章です。旧約聖書第一歴代史二十九章。十一節、十二節です。旧約聖書七百三十二ページです。
旧約聖書七百三十二ページ。第一歴代史二十九章。十一節から十二節です。それでは一緒に読みましょうか。ご一緒に。
主よ、偉大さと力と栄えと栄光と尊厳とは、あなたのものです。天にあるもの、地にあるものは、皆そうです。主よ、王国もあなたのものです。
あなたはすべてのものの上に、頭として崇むべき方です。富と誉は見前から出ます。あなたはすべてのものの支配者であられ、御手には勢いと力があり、あなたの御手によってすべてが依頼にされ、力づけられるのです。アーメン。
30:20
みなさん、すべては誰のものですか。神様のものです。ですから、救われたあなたたちは、父を持つものは、すべてを持つものなんです。偉大さも、力も、栄えも、栄光も、尊厳も、富も、誉も、主のものですから、主を持つものは、そのすべてのものを持つものなんです。アーメンですか、みなさん。
この福祉を持っていただきたい。いや、持たなければならないんです。イエス・キリストを持つものは、聖霊様を持つものは、すべてを持つものなんです。ですから、聖徒は、幸せな聖徒は、このような御言葉による確信と自信感があるんです。だから、堂々と歩むことができるんです。恐れることはありません。
ところが、みなさん、これよりもっと深い信仰と感謝があります。それは、神様が何かを与えられるから感謝する感謝ではなく、祝福されたから喜ぶ感謝ではなく、
それは、何にもないところででも、荒野のような何にもないところでも、そこで主を見上げて賛美できる。何も持っていなくても。あの荒野、みなさん行かれたことありますか。私も行ったことありますけれども。イスラエルの南の方や東の方は、ユダヤの荒野といって、何にもないです。土だけないです。木もない。
イスラエルからエギプトのその間の荒野も、歩いたり車で通ったことはありますけれども、一日二日走っても何にも出てこないんです。本当に、文字通り、高齢たるその野原の砂漠がずっと続くわけなんです。
イスラの民が訓練されました。心を見られました。それは何を訓練され、心を見られたのでしょうか。何もない、こんな荒野ででも、あなた方はただ私がいるだけで感謝できるのだろうか。
つぶやきもなく、何にもなくても、ただマナ、これ一つだけあっても感謝できるのか、その試みも立てる。さあ、それでは今度は私たちの順番です。自問自答してみてください。
33:15
皆さんはいかがでしょうか。私たちはいかがでしょうか。本当に、さあ、今から一瞬、すべてがなくなったとしましょう。ペンとあの荒野に落とされたとしましょう。何にもないです。
そんなところで、主なるイヤウエの神様が共におられるから、私はそれで感謝できる。主を見上げるだけで生きられる。その信仰にまで至らなければならないんです。
何かが与えられたから感謝するのは、子供でさえできるんですよ。うちの子供を何かいいものをあげたら嬉しい顔をするんですけど、ちょっとして誰もあげないとかしたら、
唇がブワーッと出てくるんですね。つぶやき顔をしてですね。子供の信仰はそうなんですね。何か良いものが与えられたら、ああ、うれしい、うれしい、ほとんどしないし、するんだけども、何もなかったらつぶやく、文句を言いふらす、逆らう。
だから私はですね、何かが与えられたから感謝する信仰を乗り越えて、何も与えられていなくても、主ご自身だけがそばにいることだけで感謝できる、賛美できる、クリーさんにならなければならないんです。
制度を一回書いていただきましょう。900ページの中で、幅告書があります。後ろにありますよ、皆さん。1537ページ、幅告書、3書、17節、18節です。
もう少し読みたいと思いますね。
36:02
皆さん、この18節のですね、私は人にあって、このにあっては、によっての意味がある。いや、人のため、そういう意味があります。
これはですね、今風に書いてみましょう。そしたら、通常にお金がなくても、年金が少なくても、家がなくても、車がなくても、職場を失われても、病気にかかっていても、家族が先に天に召されていっても、
私は人にあって、人によって喜び、踊る。それが告白できるクリーさん。そのように生きるクリーさんになりたいんです。皆さん、これこそ本当のクリーさんなのではないでしょうか。
そういうような信仰を持っている人はですね、何か振り上げられても、なくなっても、持っていなくても、揺さぶられないんです。恐れません。怒ることもありません。このような信仰を持っていただきたい。
3つ目いきましょう。感謝する聖徒は、今日の御言葉のタイトルなんですけれども、神様は私を幸せにするためだったと告白する聖徒なんです。
16節をもう一度御一緒に読みたいと思いますね。今日の神明8章16節です。よろしいですか。16節、御一緒に3回。
あなたの先祖たちの知らなかったままをあらので、あなたに食べさせられた。それはあなたを苦しめ、あなたを試み、ついにはあなたを幸せにするためであった。
アーメン。
皆さん、神様があらのでイスラエルの人々を心を見られたの、苦しめられたのは、訓練されたのは、その目的は何のためなんでしょうか。
それは、彼らがもっと宗なる神様だけを縋るためでありました。彼らを心見られたのは、宗だけを信じさせるためでありました。その目的を一言で言うならば、ついには彼らを幸せにするためだった。幸せにするためだった。
39:05
神様がですね、イスラ神があまりにも頑固でつぶやきばかりで、だから彼らをですね、いじわってですね、苦しめて苦しめて潰すため、あらのを通らせたり放置をしたわけではありません。
彼らを訓練されたのは、心を見られたのは、もっと人を信頼するものに作り変えるためです。
他の神々には希望がない、命がない、何もないからそこに行っては危ないから、宗だけを信じる道に、そこに希望があり、命があり、そこに卑屈があるから、彼らを守るため、時には持ちをもって、時にはマナーをもって、彼らを訓練し、心見、導いてあげます。
その道は、試み、試練、苦しみ、訓練をもって、イスラの人々を取り扱われたわけです。
それは、神様のそのお取り扱いは、イスラ神の幸せのためだったんです。
皆さん、この霊的原因を学びたいです。
今年1年間、いや、今までの皆さんの人生のだけ、試練も、試みも、訓練も、悲しみも多かったでした。
時には、納得できない、つらい思いをさせられたこともあった。
耐えられないようなことに合わされたこともあったでしょう。
もう、泣きの力がなくなったほどの悲しいこともあったかもしれません。
ところが、皆さん、心配はいりません。
私たちを愛しておられる人、私たちを作ってくださる人、私たちの人生に返して、最後の最後まで責任を負ってくださる人が、
私たちをついには、あなたを幸せにするため、このような訓練が、試練が、試みがあったのです。
それが、神様のお取り扱いだったのです。
だから、皆さん、訓練、試練、試みを通して、神様から扱われていることは、本当に、実はそれは、幸せな恵みの前兆、きだしなのです。
ですから、この霊的原理を悟って知っている生徒は、幸せな生徒なのです。
だから、いつも常に感謝ができるのです。
42:02
訓練がやってきても、試練がやってきても、亡くなっても、つらい思いに合わされても、恐れない、逃げない、心配しないのです。
なぜでしょうか。
ああ、神様が私を取り扱い始められたのだ。
そしたら、この先には、至福が、幸せが待っているのだと、それをわかるのです。
そういうクリスチャンは、だから、祈りの座に、礼拝の座に行くのです。
そして、命へ血を賛美して、恵みを賛美する。
そんな中で、自分の信仰に思わされ、気が付き、救いとして、いつの間にか自分が感謝と賛美の信者に変えられているのに、気が付くのです。
だから、もっともっと感謝ができるように変えられるのです。
今日は、5つのお話をしました。
皆さん、どうか、神様に感謝する。
ところが、与えられたから感謝する。
それぐらいのレベルのシンクじゃなくて、なくても感謝する。
いや、おにとりだけで感謝する。
私たちであります。
最後にもう一つだけ申し上げたいと思います。
このように、主なる神様に感謝する生徒は、神様にだけではなく、家族にも、親子の兄弟姉妹たちにも感謝する生徒なんです。
例えば皆さん、神様にはものすごく感謝する親徒なのに、奥さんに、ご主人に、ご両親に、子供に、教会の兄弟姉妹たちに感謝しない。
それは矛盾なんですよね。
まあ、あえてですね、申し上げなくても、皆さんよく知っていらっしゃると思います。
皆さんのご主人、奥様、お子様、教会の兄弟姉妹たち、その方々が私のそばにいるから、今もあなたが私がいられるのです。
ですから皆さん、今日すごく感謝礼拝なんですけれども、
皆さんは背中を使って、そういう話がこっちから全然来ないかもしれませんけれども、
今日どうか皆さん、今日の日が暮れるうちに、皆さんのご主人に、奥様に、あるいは離れているご両親がおられますか、
ご両親に電話でもして、感謝をあらわせたいんです。
口ではどうて話せないんですか、そしたら手紙に書いて、どこかにそこだけに置いて、設置にすればいいでしょう。
45:06
そういうふうにして、感謝をあらわす。
それは神様が私たちに教えられる信仰の道なんです。
神に感謝し、家族に感謝し、兄弟姉妹に感謝し、お祈り頂きます。
45:25

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