1. 名谷教会
  2. 2018/03/11:祈りと愛と奉仕
2018-03-11 40:18

2018/03/11:祈りと愛と奉仕

2018/03/11 聖日礼拝
足立幹夫師
ペテロの手紙第一 4:7~11

00:00
祈りと愛と奉仕と題しまして、足立美紀夫先生にメッセージを語っていただきます。よろしくお願いいたします。
おはようございます。
高いところからですけども、今日こんなものをここに立たせてくださいました。
神様の恵みと憐れみ、そしてユン先生の御恩情に感謝しております。
年ばっかり取りまして何もできませんけども、師匠におすがれして、こんなものでも使ってくださることを感謝してここまで上がってきました。
どうか祈って応援してくださいますようにお祈りします。
一言感謝します。
恵み深い天の父なる神様、皆と恩情をあがめ豊かな恵みを感謝します。
過ぎました一週間も守っていただき、今日から新しい週となりますが、まず初めの日、私たちをこうして教会にお集めください。
礼拝をお捧げしてスタートさせてくださるから感謝します。
待ち望んでおります。
どうぞこの日、外なる人に癒やしとまた回復をお与えくださるとともに、内なる人ももう一度軌道を修正してくださり、また整えてくださり、今週も明星を指して昇るものとしていってくださいますようにお祈りをいたします。
御用を差しておく者もおすがれしておりますから、どうぞ助けてくださいまして御用ができますように、そしてこの時をもってもあなた様がどうぞあがめられてくださいますようにお祈りいたします。
ゆん先生のお世にも、しのお守り、良きお導き、そしてますますあなたの偽器として尊くお持ちくださいますようお祈りをいたします。
さよなられました。感謝祈りにあわせまして、死の皆によってお祈りします。
アーメン。
今日はただいま読んでいただきましたところを中心に、祈りと愛と奉仕という題で説教させていただきます。
はじめに万物の終わりが近づきました。万物の終わりが近づきましたとありますが、万物の終わりとはこの世の終わりということでありまして、キリスト様の再臨をもって今の世は裁かれ葬られるということです。
03:08
しかし神様はキリスト信者のためには新世界を用意しておられます。
このことは今のこの世を楽しもうとするものには面白くないし馬鹿らしいことでしょうが、キリスト信者には希望であり慰めです。
ところで、その終わりは近いと言われてから二千年過ぎました。
これはどういうことかなら、第二ペトロに書いてありますけれども、神様は乱れたこの世を堕落したこの世をいつも滅ぼしてもいいのですけれども、
食いを休めて死ぬ者がおるならば救ってやりたいと応募します。神様の憐れみと愛の意味に、いわば一日伸ばしに伸ばしておられるということです。
今日もこうして新しい日になりましたが、あちこちで福音を聞いて、そして自分の間違いがわかり、食い改めて神に立ちかえるものが起こるならば、天皇お父様は今日も裁きに踏み切らずにおいてよかった。
あの方々が食い改めて戻ってくることができた。
そうお思いになると、じゃあ明日ももう一日伸ばしてみようかなというふうにして伸ばしておってくださるのです。
しかしながら近年は地震あり異常気象あり、それに世界の各所に紛争は起こるし、不法者の増加と男女間の性の乱れは、サイリンの前兆について語っている御言葉を思わずにはおられません。
こういう時に建てられている教会、生かされている私たちクリスチャンはどのように歩んでいったらよろしいでしょうか。
今日はこのところから御言葉を聞かせていただくことにしました。
三つほどのことを申しますが、第一番は七節です。
万物の終わりが近づきました。
ですから祈りのために心を整え身を慎めなさい。
世の終わりとかキリスト様の御祭りが近いと言うと、キリスト信者は福音宣教が一番と思うでしょうが、祈りが先になっています。
それはキリスト信者の生活がしっかりしていないと証にならないからですが、ここには心を整え身を慎めなさいと、そして祈れと書いてあります。
06:03
あちこち開きませんけれども、一箇所ですね、ちょっと開いていただきましょうか。
第二手もて、手もてへの第二というところですね。
第二手もて三章、手もてへの第二の手紙三章の一節からちょっと読みます。
終わりの日には困難な時代がやってくることをよく承知しておきなさい。
その時に人々は、自分を愛する者、神を愛する者、大言壮語する者、不尊な者、神を汚す者、良心に従わない者、感謝することを知らない者、汚れた者になり、情け知らずの者、和解しない者、素知る者、節制のない者、乱暴な者、善を好まない者になり、
裏切る者、無好みずな者、満身する者、神よりも快楽を愛する者になり、見えるところは経験であっても、その実を否定する者になるからです。
こういう人々を避けなさい。
とんで十四節。
けれども、あなた方は学んで確信したところにとどまっていなさい。
あなたは自分がどの人たちからそれを学んだか知っており、また幼い頃から聖書に親しんできたことを知っているからです。
聖書はあなたに知恵を与えて、キリストイエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。
聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと今しめと教えと義の訓練とのために有益です。
それは神の人がすべての良い畑のために探し、十分に整えたものとなるためです。
ちょっと長く読みましたが、キリスト信者の、つまり救われた私たちの心と生活を、政治を健全にするのは御言葉で、それを身につけさせるのは聖霊様ですね。
キリスト信者、私たちの心と生活を、政治を健全にするのは御言葉でありまして、それを身につけさせてくださるのは聖霊様です。
私たちクリスチャンが毎日御言葉に聞き、聖霊様の助けをいただきながら教え示されたことに従う。
そうすると信仰は健全になるし、生活は肉敵、余敵になりません。
痛んにも惑わされないし、熱心で生むことなく霊に燃え、主に仕え、望みと喜び悩みに絶え、すべてのことを祈るものとなる。
09:10
熱心で生むことなく霊に燃え、主に仕え、望みと喜び悩みに絶え、すべてのことを祈るものとせられますね。
終わりの時代に大切なことは、私たちクリスチャンが各自の信仰確立ということを覚えて祈っていきたいですが、
そしてその次に伝道でしょうが、伝道、そして未信な人が救われるということはね、祈りのあるところになされる神の御業ですから祈りが大切です。
皆さんも祈っておられますけれども、これからもお祈りをいたしましょう。
一人で、あるいは夫婦で、あるいは家族で、そして教会で一緒に祈りましょうか。
近年は教会の祈り会、出席がどこの教会も少なくなっているということを聞きますけれども、
高齢者とか病人さんは無理ですけれども、そうでない人は、礼拝とともに祈祷会にもできるだけ出席してくださって、一緒に祈るようにしていきたいと思いますね。
今私が所属している教会では、周報に毎週ですね、十人ほどの信者さんのお名前が書いてありまして、一ヶ月間祈るんですけれども、
普通はですね、信者さんのために祈ると思うのに、私の教会では信者さんとともに家族の名前が書いてあるんです。
そして家族でもまだ救われていない人には印がつけてある。どうか皆さん救われている者のために、兄弟姉妹のためにですね、お祈りをしましょう。
同時に、まだ救われていない信者さんの家族のためにも、みんなで祈っていきたいと思いますが、もう少しお話をさせていただこうと思いましたけれども、
こちらに掲載をしていただいて、周報を見せていただいたり、また白石恩兄弟からお話を聞いておりますとですね、もうこの教会にこれ以上そういうことを話す必要はない。
本当にこの教会は皆さんよく祈っていらっしゃるなぁということを示されて嬉しく思っております。
私たちクリスチャンが整えられ、祈りに励むと、教会は神との交わりの場だけでなく、未信の人の救いの場となります。
12:09
韓国の教会が盛んなのは、よく祈るからだということを、もうずっと聞かされてきましたけれども、私たちもペテロ第一の手紙4章の6節ですか、7節ですか、万物の終わりが近づきました。
ですから、祈りのために心を整え、身を慎みなさい。このことを覚えて、これからも励んでいただきたいと思います。
それでは2つ目のことは、8節と9節です。
第一ペテロ4章8・9何よりもまず、互いに熱心に愛し合いなさい。愛は多くの罪を負うからです。つぶやかないで互いに親切にもてなし合いなさい。
2つ目には、愛し合い、もてなし合うということが書いてありますが、この熱心にというのは、尽きることなくというのが元の意味だそうです。
世間の人の愛や親切は、気のあった人には燃えますが、長続きしない。
キリシト信者の愛は偏らず、隔てず、いつまでも。また愛は多くの罪を負うと書いてありますね。
そして、創世紀に出てくるノアのことは、よく知っていらっしゃると思いますが、
鉱水も終わってから、新しい世界で葡萄を収穫して、葡萄酒を飲んだノアが酔っ払っちゃった。
しかも、すっぱらかで酔っ払って寝てしおるということですね。
その世を見たノアの息子の一人、ハムはですね、そのお父さんの醜い姿を笑って不意地をしたということ。
ところが同じ息子でもセムとヤペテは、お父さんのその醜いところを覆うものをね、
あるいは毛布でしょうか、あるいは肩かけのようなものでしょうか、持ってきて、
そして二人が両方でね、後ろ向きになっていって、そして醜いところを覆ったということが書いてあります。
人の失敗や欠点は不意地をしたくなるものですが、お互いにカバーし合う、覆い合う、そして良い境界にする。
15:03
ペトローがこれを書いたときに、ペトローはマタイニョル福音書十八章のことをね、覚えておったと思うのです。
どういう言葉がそこに書いてあるかと申しますと、イエス様がおっしゃいました。
選ばれされたクリスチャン、キリスト信者といえどもですね、なお弱さがあるし悪魔もおること、間違って罪を犯すことはあると。
けれども誰かが罪を犯したからと言うて、その人を非難したり、あるいは悪く言うたり、ましてや境界から除外するなんて、そんなことはしてはいけません。
そうでなくて、誰かがそういう恥ずかしいことをした、あるいは醜い罪を犯したと言うときはですね、祈るんだと。
その人のことをね、咎めたり責めたり、あるいは不意地をしたりするんじゃなしに、祈るんだと。
その人が早く罪に気が付いて、杭をはためてね、そして立ち返ってくることができるように、杭をはためて、もう一度神のもとに帰ることができるようにと祈る。
同時に、そういう方のために祈るということは、あの方がこういうことを犯した、本当に皆の栄光になりませんが、それはあの姉妹がまずかったと言うだけでなくて、私も悪かったんです。
私がもっとあの方のために配慮して、もっと親切にしておったら、これのことはなかったでしょう。許してくださいと言ってですね、祈るんだと。
許すんだということをね、イエス様がおっしゃいましたね。
そうしたらペトロが、では何回ぐらい許したらいいんですか。
日本ではね、仏の顔も三度というのがありますけれども、ユダヤでも三遍も許した上出来だということだったらしいんですが、
ペトロは三度、もうちょっと増やして、七回にして、イエス様、七回までですかと聞いたら、イエス様が、いいえ、七度を七十倍するんだと、こういうふうに仰せになりました。
じゃあ四百九十一回目からは痛みつけてもいいのかと、もうそうではなくて、もう許し続けるということですね、七度を七十倍するということは。
イエス様は弟子たちの裏切りをお咎めにならずカバーされましたが、私たちの醜い汚い罪を清い血で覆って下さいました。
このイエス様の愛によって救われた者が愛し合うは当然。
誰かが罪を犯した、本当に教会の名前にね、傷を付けることをしたということが起こっても裁かない。
18:02
破れは広げない。許し合い。覆い合う。交わり。
私はこの年の初め、二、三年前ですか、引退された。私から見たら後輩の一人の牧師と会いました。
そして二時間ぐらいお茶をいただきながら交わりをしたんですけれども、その引退牧師がですね、いろんなことを若いときからずっと、年取るまで何が起こったことをいろんなことを話されましたけれども、一つのことはこういうことでした。
それは、若いときに奉仕された教会で、夏、教会学校で水泳というんですか、泳ぎに行くということを計画して、そして決められた日に集まった子どもたちと一緒に、海だったか川だったかそこまでちょっとわかりませんけれども、行って泳いだんですが、
その中の一人、小学校一年生の女の子がね、溺れて死んでしまったというんです。行くまで、そして行くときはみんな喜んで楽しんで行ったのにね、そのことのために帰りはみんなシュンとして、そして帰ってきたんですけれども。
それから後、こういうことが起こると、普通にはですね、一般的には、牧師の責任が問われるとか、あるいは教会学校の先生、何しとったんじゃと、そんなに王子でもない子どもだと思うのに、ちゃんと見とらんかい、教会学校の先生といって何人もおったと思うのに、どうしてそのことが起こったんだと。
牧師を避難したり、あるいはそういう教会学校の先生を捌くということが、普通は起こると思うんですが。
ところが、そのとき教会ではですね、小さい教会がやがて大きな街道が建つようにといって、みんなで貯めておった街道券金を全部銀行から下ろしてきて、そしてそれを亡くなった子どもさんの親のところへ持って行って、そして許してくださいとお願いをしたと。
そしてその後、教会では、誰が悪かった、ちゃんとせんかいというようなことではなくて、神様、この度の出来事が、この周辺、この街々の電動、新しい人が救われてくることのためにブレーキにならない、お邪魔にならないようにしてください。
どうぞこういうことを本当に許してくださって、だから電動が進まないということにならないように助けてくださいという、みんなそういう祈りをしたそうです。
21:11
そうしたらしばらくしてから、救造者は増える、信者は増える、立派な街道ができる、大きな教会になったという。
他のいろんな話はもう私は忘れましたけど、このことだけは忘れない。
夢に残り、頭に残り、覚えておるんですけども、許し合う、追い合う、本当に祈るということがどんなに幸いかということを思い知らされました。
野間さんのように、人の醜いところは不意調したり、あるいはさばいたりするのではなしに、追うということですね。
祈ってあげるとこういうことだと教えられますが、旧説にはつぶやかないで互いに親切にもてなしあいなさいと書いてあります。
もてなしあい、助けあいもこの心でしましょう。
あとに問題を残すような助けあいではいけません。
なんとなれば、イエス様が御サリンの時、報えてくださると。
聖書にも書いてあるしね、イエス様がおっしゃったんですね。
いきなり私のことで申し訳ないですけども、息子が高校から大学へ入る時でした。
その頃は大学に入る人が多くて、なかなか入れない。
ですから息子は一回でダメ、二回目も入れなかったんですけども、一人の役員さんが。
結果はどうでした。ダメでした。これからどうするの。
もうどっか働かねば仕方ないでしょうな。
そうしたら向こうから、人生は長い。もう一度チャンスを与えてやってくれ。
けどもう私の方にそういう余裕はないんです。
そしたら息子をちょっと私の子へよこせとおっしゃってですね。
そして日を改めて息子がそこへ行ったんですけども、そこでご馳走をいただきながら。
そしてそのお方もこの世的には高い立場におられますけども、
若い時には目指す大学に入ることができなくて苦労したということで、
息子を慰め励ましながら、がんばれと言って激励してくださった。
24:08
結果はどういうことかというと、一年間の予備工費を40万円をその方が出してくださったんです。
息子は大変励まされて、そして精進、努力しました。
その結果もあったでしょうけども、無事に入ることができ、卒業もでき、不思議な導きによって今は牧師にさえしてもらっておるんですけども。
私はその後ですね、こんだけことをしていただいたんだから、少しでも恩返しをしなくちゃいけないと思って。
ぼんと正月にはですね、デパートに行って何か良いものを見つけて、そしてお中元を整合というふうにして、息子が卒業するまでは起こらないかと思ってですね、始めたんです。
ところが最初のお中元を送ったそのすぐ後から、何でこのことをするんかとおっしゃるから、
まあ私の親ぐらい、親でもないけどもうちょっと、息子から見たらもうね、親を超えておじいさんのような年配の方でしたけどね、
いや感謝の気持ちといたしまして、少しですけどと言ったところが、やめてくれ。
もうそんな、本当にこれがね、イエス様が喜んでおってくださることならば、私はやがてイエス様のところに行ったときに報いてもらうことができるから、もうそういう気遣いはせんようにと言われてですね、
そしてもうそれっきりしなかったことを思い出しますけども、せっかく親切にしてあげて助けてあげたのに、もうお礼も言いよらんと、そういうのではないですね。
本当にその人のためをもって、本当に精一杯のことをするのであって、つぶやかないで、互いに親切にもてなしあいなさい。
伝道とか、ミシンの人を救うということは、人は先に救われている私たちクリスチャンと、教会を用いて神様がなさる御業ですが、
良い教会があると神様は新しい人をそこに送ってくださる、そこに委ねてくださる。
神様が喜ばれ、魂を委ねてくださる、そういう教会形成をお互いに努めたいと思いますが、どうぞ良い教会を作っておられますけども、なお良い教会になるようにですね。
27:00
続いて祈り、また奉仕していただきたいと思います。
それでは三つ目の言葉、実説です。
実説、それぞれが賜物を受けているのですから、神の様々な身組みの良い管理者として、その賜物を用いて互いに使いあいなさい。
語る者があれば、神の言葉に相応しく堅い奉仕する人があれば、神が豊かに備えてくださる力によって、それに相応しく奉仕しなさい。
三つ目のことは、神の恵みの良い管理者であれということですね。
実説に賜物、そして管理者、そして使いあいなさい、ということが書いてありますけども、公約では賜物、管理、役立てるという字が使われておりますが、
創世紀の終わりに出るヨセフは、エジプトの総理大臣となりましたけども、あるとき神様から与えられた特別の豊かな賛物をよく管理して、そして全ての人が苦難が乗り切れるように導いたということが書いてありますね。
天よりの豊作をよく管理して、人々のために役立てたということですが、イエス様は良い忠実な仕事の話もなさいました。
それぞれクリスチャンは天から賛物をいただいておる。ごたらんと、ねたらんと、いちたらんと、そういう違いはあるけども、みんな天から賛物をいただいておるが、それを活用するんだと、神と人のために役立てるんだということをおっしゃいましたね。
そしてより奉仕をしておくと、やがて天に上がったときにですね、よくやってくれた、本当に忠実な和菓子の方へといって、そしてイエス様が喜んでくださるし、さらに多くのものをまかせられるということが言われておりますけども、
私たちクリスチャンがこの地上で用いる、役立てる天佑の賜物については、才能、あるいは時間、時ですね、そして財産、持ち物のことは、もう皆さんよく知っていらっしゃると思いますね。
才能、まさにたらんとですが、それから時、そして持ち物、これを役立てるということですね。せっかくの賜物を自分のためにだけ使おうとした金持ちをイエス様が愚かなものと仰せになりました。
30:14
同時に無益なことのために使っていないか検討して、できるだけ神と人のために役立てる。そして主御祭のときには、イエス様からよくやった、忠実な和菓子もれよとお言葉がかけていただける、そういうものになりたいですね。
聖書の舞台となったと言いますか、イスラエル、あるいはユダという国は、ユダイスラエルは、ちょうど日本の四国ぐらいの大きさだそうですが、四国は東西にちょっと横になっていますけれども、それを南北に立てたのがユダイスラエルというところですけれども、
そのユダイスラエル、北は夏でも雪があがるというヘルモン山という高い山、そしてその山に降った雨や雪が流れて、そして下に降りてくるとガリラヤ湖という海にそれが入るそうですね、溶けた水が、流れてきた水が。
そしてガリラヤ湖は溢れると、夜山側に持っていって流れる。そしてその夜山側から流れた水は最後は死海に入ると、そういうことになっているようですけれども、これは何だか私たちのことを語っているようですね。
天から与えられた、天から降った、その雪や雨は下に流れ流れて、そして夜山側、ガリラヤ湖ですか、そして皆さんそのきれいな水はガリラヤ湖にあふれると、そのガリラヤ湖では魚がたくさん養われるというか生かされる。
そしてできた魚がまた附近の人たちを楽しませる、喜ばせる、また生活を豊かにするとこういうことでしょう。魚だけじゃなくて他のそういう水の中でできるものがたくさんできる、ガリラヤ湖。
そのガリラヤ湖からあふれた水が夜山側、夜山が流れるとその川べりはですね、やっぱり影響を受けて、あるいは木や花やまた植物となるそういう野菜のようなものがね、よくできて住んでいる人たちを喜ばしている。
けれども最後は死海というところはですね、受けるばっかりで全然出さないから入ったものはみんな死んでしまうという、何の役にも立たないという、どうか私たちもできたらガリラヤ湖になりたいですね。
33:11
本当に天からいただいた賜物、あるいは時間、あるいは持ち物、それを神と人のために生かして持ち得るという。そして多くの人がですね、喜ぶと申しましょうか、本当に神様の栄光となるという。
そしてごたらんとまでいかんでもですね、寝たらんとでも流れることによって、そしてまた奉仕をすることによって生かされる人ができてくるという。
けれどもせっかくの天への賜物もですね、全然活用しない人、自分のためにだけ使ってですね、本当に神様が本当に寂しい思いなさる、そういうものは死海みたいなものでですね、自分を、周りの人を生かさないだけでなくて自分もですね、だんだんダメになってしまうという。
そういうことのようですけれども、天への賜物を活用なさった、といえば三浦彩子さんなんていう人は有名ですね。お書きになった本が今も多くの人に読まれておるという。
そしてその本を読んだことで、求道した、信者になった、教会へ行くようになった、救われたという人はどれほど多いかわからない。
救われて信者になっただけでなくて、牧師になったり、宣教師になった人も数え切れんほどあるというね、三浦彩子さんの賜物が生かされたということは皆さんよくわかってらっしゃる。
けれどもこういう話をすると、とても私たちよさな三浦彩子さんのようなことはできないとおっしゃる人がほとんどだと思いますけれども、わかります。
けれども三浦彩子さんにお使いなさった方々がいろんなものに書いておられるのをね、読むと言葉を合わせるように。
三浦彩子さんは教会にいらっしゃっても、あるいは人が家まで来られてもですね、その人の徳を立てることはおっしゃっても、人の悪口だとか、その人をけなすようなことなんか一言もおっしゃったことはない。
いつも笑顔で、そして人を喜ばすこと、人の徳を高めることばかりおっしゃっておったと書いておられますけどね。
皆さん大きな小説、大きなそういう文学全書を作ることはできないかもしれませんけれども、キリストに会って笑顔で接する人たちにですね、本当に良い影響を与える。
36:03
また人を慰め生かすところの、そういう交わりをするということはできるんじゃないでしょうか。
どうか司会となる人が一人もありませんようにですね、みんなできたら、ガリラ役型クリスチャンとして与えられた天佑の賜物をもってですね、良い奉仕を続けさせていただきたい、させていただきたいと思うものです。
最後は十一節ですけども、語る人があれば神の言葉に相応しく語り、奉仕する人があれば神が豊かに備えてくださる力によってそれに相応しく奉仕しなさい。
それは全てのことにおいてイエス・キリストを通して神があがめられるためです。
栄光と支配がいよいよ限りなくキリストにありますように、アーメン。
賜物を用いる動機と目的ですけども、天佑の賜物を役立てたことでその信者さんがあがめられるのでなく、それを与え用いられた主があがめられるようにする。
今回の聖書箇所、終末時代に生きるクリスチャンの生き方です、生活ですけども、内容は祈りと愛と奉仕。
目覚めて祈る教会、麗しい交わりの教会、みんなが積極的に奉仕している教会。
そして自分や誰かが褒められるためでなく、神の栄光のためにしているという、栄光は神に。
これを合言葉に、キリスト再臨の日まで前進していきたいと思います。
15、6年もなるでしょうか、一人のクリスチャンと出会って、その方がよくお手紙をくださるんですけども、いただいているうちに気づいたことはですね、
普通私たちクリスチャンは、主の皆をあがめますとかね、あるいは主を褒めるとか、そういう言葉を最初に置きますけどね、
その兄弟は栄光在主と書いておられる。栄光が主にあるように。栄光在主。
どの手紙が来ても、どれも全部はじめには栄光在主、主を賛美しますというようなことはないんですね。
ほーっと思って、だんだん私もそのことが気がついたんですけども、
その兄弟もですね、良い卵を持って良い働きをしておられますけども、
決して自分を見せるというのか、誇るというようなことは全然なさらない。
39:01
本当にもう自分は小さくして、そして神様があがめられてくださるように、
死の業が広がるようにということを祈って懸命に奉仕しておられるということを知れば知るほど立派だなと思って、
私も知らず知らずそのうちにも、あちらこちらさんにお書きする手紙には私も栄光在主と書くようになりました。
どうか栄光在主に良い奉仕ができたとしても、決して自分を誇るということはありませんよ。
ましてや、俺はこんなにやっている、この教会が良い教会になっているのは俺がやっているからだ、ではない。
そしてあまり奉仕しない人を養めるのではなくて、
そして、栄光は神。こんなものが御用ができるのも、奉仕ができるのも神様の恵みです。本当に憐れみなんですと言ってですね、
そして神様があがめられてくださることを本当に喜ぶという、そういう信仰生活、また教会生活でありたい。
お祈りをさせていただきます。
40:18

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