1. 名谷教会
  2. 2014/08/17:贖いのめぐみ
2014-08-17 37:02

2014/08/17:贖いのめぐみ

2014/08/17 聖日礼拝

斎藤亘師

ルツ記 4:7-10

00:01
これいいですか、これ。
おはようございます。
名谷教会では、久しぶりのご放送があってまいりました。
大変緊張しておりますが、声が出ませんね。
こんなはずじゃないんですけどね。
それでは、いつものように、お互いにご挨拶をいたしましょう。
ようこそいらっしゃいました。こんにちは、おはようございます。
前の平方の評価のときは、礼拝の仲間でこういう時を持ちましたがね、
最初はよかったんですけども、ある役員会で、先生、あれは礼拝の雰囲気を壊すと言われました。
それでやめたことがありますが、最終でやるのも大変良いかと思います。
それでは一言、お祈りをお下げいたします。
礼拝会、天のちなる神様、
こうして、8月半ばのこの聖日のこの朝まで、私もそれぞれをお守りくださって、
今朝ともに二枚に集い、礼拝をお下げできることを感謝いたします。
先週は、思いもしない台風のために、しかもこの付近を通過するというような、
そういう非常事態と言いましょうか、そういうようなことのために、
礼拝に集うことができずに、それぞれの自宅においての四の二枚の時を持つようなことでありました。
けれども、それぞれの家庭もお守りくださって、今朝はこうして二枚に顔を合わせ、
挨拶もすることができるようにしていただきましたことを、心から感謝いたします。
今、遅刻されております夕先生家族の上に、また、今入院なさっている方や、
あるいは、病のために捨てておりますお一人人の上に、
今朝も変わらないあなたの家主の御手をおいてください。
一々も早い回復を見、ともにこのところにおいて顔を見てながら、
あなたを礼拝することができるように、その日を速やかにお与えください。
今からの全てをあなたの御手に託し、主の皆によってお祈りをしたげいたします。
アーメン。
03:02
それでは今朝は、今読んでいただきましたルスキの4章の歌詞から、
御一緒にお言葉を拾っていきたいと思いますが、
大分以前に、ここにいなさいとボアスがルスに呼びかけて、
そして彼女が水平のその土地でもって、ボアスの畑でもって仕事にありつくことができ、
日々の生活もできるようになったという、表面的にはそういうことですけれども、
神さんの愛、配慮の中でそのことが私たちにどういう関わりを持っているのか、
ボアスがルスに呼びかけたそのお言葉は、まさしく、
ヨハネによる福音書の15章の武道の木のたとえの中でもって、
私につながっていなさいという、その言葉をそこに感念して、
そして、そこに神様の深い私たちに対する思いがあったんだなということを見てまいりました。
今朝はこの4章から、このあがまいのネギというこのテーマを中心にして、
そして、ルスの身の上に起きたこの出来事の中から、
同じように神様の心を求めていきたいと願っております。
前回も申し上げましたように、彼らは本来はレスレームにその住まいを設けておりました。
ところが、基金のために、彼らはそこを出てムアブの家に行かなくちゃいけなかった。
2人の息子をと、4人家族で持って、そしてムアブの家に落ちて、
この大きいパッティンでしょうかね、そこにのころ逃れていったわけですね。
日々の生活の過程はそこで得られたかもわかりません。
そこで持って、彼らはそれぞれ息子にお嫁さんも迎えることができるという旗目においてはね、
極めて安泰なこの生活、やっぱりここに来てよかったんだなという、
そういう家族の言葉が交わされたかもわかりません。
ところが不幸なことに、エリメレット、その2人の息子たちが愛知で亡くなるという、
このナオミさんにとっては、夫が一人行こうということでもって、
06:02
あのベスレールの地を離れて、そしてやってきたものも、誰が知るわけでもない。
確かに息子のお嫁さんとなった、この辺じゃもうるかもわかりませんけれども、
しかしナオミさんにとっては心細いということで、やっぱりベスレールに帰ろう。
その時にそのナオミさんが2人のお嫁さんに、あなた方はそれぞれ結婚して息子に突入したけれども、
その息子もみんな亡くなった。
だからあなた方はここに留まって、また新しい道を求めなさい。
私はイザヤの地に戻るということを言いました。
その時に一人のお嫁さんの方はわかりましたと言って、そしてその地に留まった。
ところがルーツさんは、いやそうではない。
彼女は、いや、そのベスレールがどういうところかわからないけれども、そこへ行きます。
で、このルーツ君を呼んできますとね、ルーツを紹介するのにいつもこのムアブの女っていう、
それがそこについてくるわけですね。
それぐらい依頼人たちにとってムアブっていうのはですね、敵対関係のそういうこの国であり、
またどれだけ自分たちがそれによって苦しめられてきたことかっていうところから、
ムアブの女性をあのベスレールに連れて行っていきたい、どうなることか。
ナオミさんはそれが心配ですから、いやもうそんなこと言わないで。
あなたはもともとこの国の人なんだから、とどまりなさいってこう言ったんですけども、
しかしルーツは、いや、お母さんの神様を私は信じていきたい。
あなたの神は私の神様なんですからって言ってね。
そしてこの二人はベスレールに戻っていく。
そして厳しい生活のとこで入ってくるわけですけども。
ところが、まあその時に申し上げましたけども、
そのルーツさんは、何とかどっかね、パートでいいから働くところがないかなっていうことで働きに出た。
そこがはからずのそのボアズさんっていう、そのオーナーの農場だった。
彼女のボアズっていう名前は聞いたこともないし、お母さんからも聞いたこともない。
もともと親戚通信ですから。
ですから何かそこで思って、この聞くこともあったかもわかりませんけども、
全くそういうことを知らずに行って、そしてやっと見つけた、そのパートアリーのその仕事。
あとでそれがボアズさんのその畑であったっていうことを、
彼女は聞いて、そしてそれをこの報告をお母さんにする。
そこでこのやっとですね、このルーツさんは、
09:02
ああ、神様って方は何と不思議なことをなさるんだろうか。
そういった親戚だからね、そこでもって特にじゃあひとつ後よろしくお願いしますって言って、
彼女はこの親戚のそれでもってこの合意に頼んだわけではない。
朝焼けから本当に遅くまで一緒に働く。
そういう働きぶりをこのボアズさんがたまたま農園にやってきて、
そうしてみたら一人の見慣れないこの女性がね、やってるんで、
いったい誰かって聞いたら、
いや最近ね、あのモワルノキから来た、あのナオミさんの議員の娘ですよ、嫁さんですよって言われて、
ああそう、それじゃ大変困ってるだろうから、
あの彼女の取りたい分、しっかりと差し上げなさいよって言われて、
そういう配慮も知らずに、仏は一生懸命そこでもって働いたっていう。
でその時にこのボアズさんが、
あなたはどこにも行かずに、これからずっとここにおりなさいよっていう、
そういうことでボアズと仏の関係っていうものが、
少しずつこれもって芽生えてきたわけですね。
私はこの出会いっていう中にね、
まあ俗な表現って言ったらいいんでしょうかね、ラブストーリーって言うんでしょうか、
神様が二人のために生んだ一つの物語がここで始まっている。
そしてこの仏は、本当に何度読んでもラブサメに満ちたところの、
この短い4章からの物語ですけれども、
そしてまた私たちに深い霊的なメッセージを与えてくれますよね。
つまり旧約聖書に仏っていうね、
こういう名称をそのまま使って、そしてそこに加えられているっていうところに、
神様の深い説明をかけているんですよ。
当時のユダヤ人たちにとっては申し上げたように、
今パレシアの問題があります。
あるいはペリシテとして旧約聖書がずっと出てくる。
その頃からこうやっているわけですけれども、
モアブも同じだった、モアブもね。
そういう関係のモアブの女っていうレッスンが流れているこの女性。
しかも彼女の名前が表題となって、そして旧約聖書の中に加えられているというところに、
私は個人的にはね、本当に今のユダヤ人たちが、
トーラだけじゃなくて立法の書だけじゃなくてね、
この旧約聖書は自分たちの律儀の書ですから、
読んだならばそこにルスという名前も出てくるでしょう。
そしてやがてそのルスか神様がどういうことをこのイスラエルに、
そしてまたこの全ての人々に何という大きなことをなさっているか。
12:02
それを知ったならばね、今のそのパレスチナの問題ももう本当に解決する。
あまり定的なことなどもってそこに加えてはなりませんけれども、
しかし私は私がたくさん読んでもですね、
今のユダヤ人たちがそのまま読んでくれたらいいのになと思いながら、
それほどの敵対関係の中にあったモアブの女ルスをとして、
このプラグマがここで進んでいくわけです。
しかもこの四章はあがまえのめげみということを申し上げましたけれども、
まさにここがこのルス記の一番の中心ですと言ってもいいわけです。
当時このユダヤ人には、ユダヤ社会には、やはりこれはイスラエル民族の独特のそういう決まりというか規定なんでしょうが、
その一族とか親族の好きを絶やさないために、
今このモアブがね、教老たちの前に申し出ている言葉らが、
その行われてきたレピラートという、レピラート婚というあまり聞き慣れない、
これはユダヤ人だけの社会だけのことでしょうから、一般にはそれは言われないんですけれどもね。
これは今読んでいただいた箇所にも出ておりますように、
その好きを絶やさないためにね、こういう配慮というものがなされて、
そして神様から選ばれたこの民族のうちを、
どんなことにしてもそれを守っておかないといけない。
ですからこういった言葉らが公に一つの法整備されて、そして行われていたんでしょう。
で、モアブは留守のことを考えたときに、
そうだ、このまま行くならば、あの愛媛で行くナオミさんのその二人の息子も死にかえてしまった。
この一族の親族のその血はこのまま咲いてしまう。
それを絶やさないためっていう、公的にはそうか分かりませんけれども、
モアブはそれを一族に測るわけです。
せっかく別英語に戻ってきたこのナオミさん家族を、
これから私たちはユダヤ人として守っていかなきゃいけない。
だからこの守るために我々のこの親族の中から、
一番その彼女とその財産のすべてを受け止めることのできる人から申し出て、
15:01
そしてその人がこの血を絶やさない、その親族を絶やさないようにしようということで、申し出た。
そしたら最初のこの権利ある人が出てきて、じゃあ私がそれをやりましょう。
その時にこのモアブは、ではナオミさんの娘も一緒だ、モアブの女です。
彼女も一緒に受け取ってくれということになった時に、
ナオミさんだからまだ、そしてまた彼女の持っているその財産を受け継ぐということによって、
それは何とかなるだろうけれども、モアブの女がそこについてくるのか。
さすがにこの親族の特権を持っているその人も、それはちょっと話が違うということで、
いや私はそれではやめますということで辞退をした。
そういう中でもって、では誰がこのナオミとモアブの女、ルスという、
この親族の中の彼ら彼女たちを受け止めるか。
誰もそれを申し上げるものがいなかった時に、ボアズがそれを申し出た。
私がナオミと、そしてこのナオミとモアブの女ルスを、彼女も私が受け止めていこう。
そして言ったのが、この実節に書いてあるこの言葉ですね。
そこでボアズは長老たちとすべてのために言った。
あなた方は今日私がナオミの手からエリメレクのすべてのもの、
これからキリオンとマクロンのすべてものを買い取ったことの証人です。
さらに死んだ者の名をその相続子に起こすために、私はマクロンの妻であったモアブの女ルスを買って、
私の妻としました。
死んだ者の名をその妊娠の者たちの間から、またその負けの者から絶えさせないために、
今日あなた方はその証人です。
今のこの日本で言うならば、地方裁判所みたいな、そういう一つの親家の法廷の座でもって、
そういうやりとりがなされ、そして住人の長老たち、言うなら今の裁判官のような立場でしょうか、
そういったこの人たちが、改めてそこでもって証人するという形で、このやりとりが行われていったんですね。
18:06
実はこのボアズとルスとの関係を見せまいりますとね、
いつまでもモアブというレッドリを払われてしまうこのルスにとって、
じゃあ何がボアズにとってこの役となったのか、何がボアズがルスをここまでして、
そしてこの結婚を考えたのか妻としようとしたのか、
ただ権利が順番で追っていって、そして自分に来たので、その長老の財産、
あるいは息子二人のその財産を自分が所有する、管理するという、そうではない。
ボアズにとっては、その他のものはどうでもいいというわけではないでしょうけどもね、
しかし彼にとってやはり最大の願いは、ルスその人を自分の妻とする。
ここにこの目的がボアズさんの願いもありましたし、またそういうことですよね。
私はキリストと教会、キリストと私たちの関係ということを考えてきますと、
イエス様は何が私たちをして見所があって、そして私たちを選びなさったのか。
私たちとイエス様との関係においては、イエス様がそれほど私たちを愛してくださる、
しかも命を捨ててまで愛してくださるというそれに対して、その恩返しでしょうか。
それに憎えるという、あるいはそこで何かがこうしたとね、
イエス様の御心に喜ばれるようなことがあるのか。
どう考えたって何一つ見当たらない。
私はこのボアズとルスの関係は、相手の方がそういう関係だった。
ルスの方からは、何でボアズさんがあっている。
どうしてボアズさんが、そんな発覚できているようなこんなものに、
しかもイダイ人ではない、その血をもたない、
確かにこの結婚はしかけどもしかしながら、私はそういう気付きのものではないのに、どうして。
夢の言葉はローマ人の手紙の3章の24節ですが、そこには、
ただ神の恵みにより、キリストイエスによるあがなえのゆえに、
21:03
あたりなしに義と認められた。認められたとあります。
このルス物語に、このことを少しくですね、あれにしますとね、
ただ、ボアズの帰りによって、そのあがなえによって、
なんまさえもないようなこの私を、あえて妻としようとして、これを認めてくれている。
まさにこのボアズとルスの関係は、そういう私とイエス様の関係。
何の取り柄もないようなものを、あえて恵みによって、そうした自分を選んで、
そしてその机の中に加えてくださっている。
後にそうしたこともいますけれども。
もう一箇所は、このお手もて第一の手紙の2章の6節ですが、お聞きください。
人はすべての人のあがまえの罪かとして、ご自身をお与えになった。
私は、このボアズとルスの関係、確かにボアズはその立場の上に、
全部を彼は受け取ったでしょう。
しかし、言うならば、そうのように見えますけれども、
実際は、このルスの家に、ボアズ自身がどんなに大きな大きな恵みをそこで、
後々受けるようになるか。
最後に申し上げたいと思いますけれども、
このようにボアズは、自分のすべてを通して、投げ出し的に、
このルスを自分のところに受け止めていく。
そして、ひばしば申し上げたように、このボアズとルスの関係というのは、
キリストと教会、キリストと私たちの関係。
それをそこに見せる。
24:07
ヨハネ第一の手紙の4章の10節で、夢の言葉がありますが、
私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、
私たちの罪のために、なだめの備え物としてお肉を使わされたのです。
ここに愛があるのです。
私たちは、このおこそばがそこにしてくれますように、
キリストの一方的な愛によって、
罪からの救いにあたる方だけではない、
ボアズとルスのように、私たちはキリストと一つにされる。
ゼロクリシャンとしての最大の願いは、それは、
キリストと共なる生活をそこにあいませていただくという、ここにあるわけです。
パウロは、こういう関係をエピソディックな手紙型で持って、
キリストとの境界の関係で持ってくれるを教えているのです。
結婚式には、決まって生まれる箇所が、この5章の25節からのお言葉ですが、
よく知っていらっしゃる言葉ですから、私の方にお意見しますと、
夫たちよ、キリストが境界を愛し、境界のために御自身を捧げられたように、あなた方も自分の妻を愛しなさい。
キリストがそうされたのは、御言葉により、水の洗いをもって境界を清めて、聖なるものとするためであり、
御自身で、シミやシワや、そのようなものの一つもない、清くきつのないものとなった栄光の境界、御自分の前に立たせるためです。
そのように、夫も自分の妻を自分の体のように愛せなければなりません。
自分の妻を愛せる者は、自分自身を愛せるので。
結婚式は、言うならば、こういうキリストと私たち、キリストと境界ということを、
そういうことを私たちに教えるために、この結婚の教えというものがそこにある。
27:03
そう言ってもいいほどパウロは、そのことをそこにしてほしい。
結婚のあり方について教えているのではなくて、
キリストと私たちの関係というものを、一つの結婚という形を通して私たちに表そうとしている。
それがこの今、お言いにきました、このエフェスト5章のお言葉なんですね。
ですから、招会で結婚式が行われる。
ここで新しい家庭が、一つの家族が生まれるんだなということで、私たちはそれをお互いに祝福し合うわけですね。
私たちは、そういうふうにして神様がね、
キリスト様と私たちの関係をそういうふうにして、
今も私たちにキリストの教えの愛を表してくださっているんだな。
そのことをね、この結婚という一つの式を通して私たちは、もっとさらに深くしていく。
ですから、それなくして結婚というのは、形としては表されないと言ってもいいじゃないですか。
しかも、このご悪と留守の関係において、
そのことがすでにそこに、あがなるという形においてそれが表されていたんだ。
あるいは予言的な意味合いを持って、そして二人の出会い、そしてこの二人が一つになるということにおいても、
神様のそこに取りなされたこの素晴らしいラブストーリーがそこに演出されているわけですね。
それだけではないんですね。
この二人がそこで結婚する。
これは、このペーストは十節までしか読んでいませんけれども、
十三節を見ますと、ここに、
こうしてゴアズは留守を埋めとり、彼女は彼の妻となった。
彼が彼女のところに入ったとし、父は彼女を見守らせたので、
彼女は一人の男の子を産んだ。
新しい命がそこに、二人の関係を祝福するかのようにして、神様がそこにございなさったんですね。
このゴアズのこの結婚を見てまいりますと、
30:05
そうですね、そこからもう少し十六節を見ますと、
ナオミはその子を取り、胸に抱いて養い育った。
近所の女たちはナオミに男の子が生まれたと言って、その子に名を付けた。
その人たちはその名をオベデと呼んだ。
オベデはラビレの父、エスカイの父である。
非常に素晴らしいストーリーが始まりつつあるわけですね。
ゴアズ・モルスも。
そこまで自分たちが見通したわけではない。
神様が仕組まれたこの一つの物語という中で、
神様はなんと大きな事柄をその活石において、そこでもってなさっておられるか。
ナオミさんはその自分にとって孫ですよね。
それで近所の人たちは、
いやあんなに可愛がってた、あれはナオミさんの子だって言うぐらいに、
ナオミもその子を本当に愛して育てた。
そして周りの人たちからそのオベデという名前を付けて、
そして本当に周りの人たちからも一人からも愛されて育っていく。
神様はそこでもってさらにこの人が、
やがてその息子がいるならば、
ですから今のユダヤ人たちが、
こういう神様のなさったストーリーを見るならば、
自分たちは神様の先人、イスラエルだ、ユダヤ人だ、という力分じゃなくて、
そしてただそれもと他を変えていくのではなくして、
モアブの女と神聖いわれ続けたこのルースを通して、
なんと自分たちが身まもなを尊敬してやまない、
誰でもその職人にその名前があるということに気づくべきですよね。
そして私たちによってもっと素晴らしいことは、
これはまたエリオル福音書の一章ですね。
私もあそこ何回読んだかわからないし、
何度読んでもわからないものですから、もう途中でもとやめてしまって、
33:03
そしてまた読まなくちゃいけないと言って、また一章の一節から、
なんかパパパのややこしい名前を見せまいりました。
しかしそのケースにこそ、
なんとここにいられるところの、このルースの名前が出てくるわけですよね。
ユダヤ人のケースの中において女性の名前が入るということだけでも、
これは世の中にあり得ないと言ってもいいぐらい。
男性決闘もそういうところですから。
それがそこに女性の名前が出てくる、しかもルースもそこに出てくるわけですよ。
ノワブの女ルースというこの方を通りで、
やがてその末からラビレの子という、
そういう呼び名を受けて、この治療に誕生されたイエス様ですよね。
ですからイエス様のそのケースを一本見ていきますとね、
ここに来るわけです。
ボアスとルースの出会いがなかったらどうだったんだろうかなと、
まあ余分なことをふとこう思ってしまうんですけども、
しかし神様の意図されるところは、
神様が神の前には、ユダヤ人もヨウ人もないんです。
選ばれたとか、まあこの人はまだ選ばれてないとか、
この人は戦国だとか、この人は正しい人だとか、
そういう意味においては神様は、
全ての人のためにキリストは私たちのあがまいとなったというのが、
先ほどお見せしましたところの、この言葉の一つでもあるわけですね。
私たちはそういう意味において、ボアスとルースの関係から、
神様が私たちに何を期待されているのか、
期待されても何もそこまで生まれてくるものではありませんし、
それに答えてそうした何かができるわけでもない、
手の下しながらルースがそうであったようにね、
神様は私たちの思いもしないところにおいての、
神のご計画というものをそこで進めてくださっている。
しかも私たちがボアスのもとにつながったように、
キリストのもとに私たちがあるときに、
イエス様は自らもおっしゃっているように、
良き身を結ぶ、そういうものだな。
最初に申し上げましたヨハネの十五章の、
その私につながっていなさいということは、
私に寄りなさいということは、
そのおるというこの関係において、
やがてそこに身を結ぶんだという、
36:00
当然の言葉なのがそこに言われているわけですね。
ルースがやがてその末から、
ラビデがそしてその末から、
イエス様の誕生があった、
同じように神様は私たちを通して、
どんなに逆が身をそこで、
私たちに持っていらっしゃることか。
私たちは今それを知っているかわかりませんし、
全く知らないかもしれません。
けれども思いもしないところで、
このルースの身に起きたことならば、
神様はイエス様として、
私たちに話そうとされているという。
そこで最後にお言いしたのが、
このコリンと雑誌の手紙6章です。
あなた方は財庫を払って買い取られたのです。
ですから自分の体をもって、
神の栄光を払いなさい。
お祈りいたしましょう。
37:02

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