1. 名谷教会 podcast
  2. 2014/08/10:聖日礼拝(旧音源)
2014-08-10 46:46

2014/08/10:聖日礼拝(旧音源)

2014/08/10 聖日礼拝(旧音源)




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それでは、一緒のように言葉に入る前に、隣の方と、ようこそいらっしゃいまして、挨拶をしませんか。
よくいらっしゃいました。
本当に、こんなにでも集まって、礼拝を守れることに感謝いたします。
先ほども、大村姉妹の祈りの中にありましたけれども、2週間前に、池田姉妹の同級生の方、塚田照夫さんが、2週前に一度、礼拝にお目が出ました。
その時に、礼拝で恵まれて、神様の信頼と気持ちで、東中部から来たのですけれども、今、兄弟は水魚岩を患っていらっしゃって、
そして、蓄水がものすごく溜まって、抜いても抜いても、ずっと溜まっているところでいました。
それで、水曜日の祈祷会のときに、池田さんから、ほぼとなりまして、神様の信頼、そして、病院、病院中ですので、お見舞いに行くのではと言われまして、
早速、水曜日の、向こうに着いたのはほぼ6時でしたけれども、着いて、あのときに私と池田さんと大村さん、3人で行って、そして祝いの招きをしまして、30分ほどお話できたけれども、話をしました。
そして、伝えたときに、本当に不思議な驚きの反応でしたけれども、「イエス様、受け入れませんか?イエス様、あなたの心のどこにいますか?心の中にいますか?」と言ったら、
もう、心の中にいます。そして、あの一緒の礼拝するときに、イエス様を信じたかった、そういうふうに言われて、早速、受け入れの祈りをしまして、そしてまた、入院日ですし、水曜が進んでいるようですので、
一人ででも早く洗礼を受けられた方がいいですよとお勧めしました。そして帰ってきて、いまっているうちに、一人でも早く洗礼を続けた方がいいでしょうという神様からの見込みがありまして、そして木曜日に5人で行きました。
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有岡さん、それから茂木さん、池田さん、大村さん、田中さんで行きました。そして、ちょうどその、あさって川本山病院は、カトリックが経営している病院なんですね。
サペルがありまして、そこをお借りして、そこで、サペルで洗礼を授けました。神の臨在に栄光に満ちた、本当に彼は最初から最後まで涙で、本当にイエス様信じます。私の病気を癒してくださいと、切に願っている方です。
家族のことは詳しくは言いませんけれども、妹さんが家の近くにいらして、そして、家族とは別れてはいるんですけれども、息子さんと娘さんがいまして、娘さんとはたまに連絡はしているそうです。
先ほど池田さんからメールが来ましたけれども、今週末に大津の近くの病院に転院されるそうです。それから、4月か5日に、いまの病院に確認し、そして金曜日からルースですので、またお見舞いに行きたいと思っております。
こういう不思議な導きで、人の魂が神の家族になったこと、そして病気でしたけれども、神様を信じて復活したこの素晴らしい恵み、それも本当に2週間ででも、神様を、魂をいくらでも救うことができる力が神様です。
祝いの神様の恵み、本当に神様に栄光をお返し、また一緒に礼拝できないかもしれませんし、法師一緒にできないかもしれませんけれども、久々巨大の祝いをお祝いの、また神様に感謝の発祥を一緒に行きませんか。
我々は感謝しています。神の恵みを感謝いたします。
私の方も祈りと、またですね、これからも続いて皆どうぞお祈りください。一言お祈りします。
天のちな神様、皆は我め三位いたします。神の恵みと神の働きは計り知れない。私たちの頭ではそれを理解し難いことですけれども、
しかし、主は憐れみ、愛の方でありまして、恵んでくださる、救ってくださる神であることを主よ感謝いたします。
私たちに目撃させてくださり、明かしてできるように恵んでくださったことを心から感謝いたします。
エンパラの御言葉をどうぞ主よ、あなたが私たち一人一人にお望むお語りくださいますように。
家様の皆によってお祈りいたします。
はい、キリスト教のエッセンスのシリーズのメッセージを続いています。
今日は先週もですね、聴きなる神様3回メッセージさせていただきました。
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今日からまた3回にわたって、こなるキリスト、こなる神様について共に聖書に学んでいきたいとそう願っております。
皆さん、このようにですね、今まで私たちは現在、救い、信仰、そして知なる神様について学びました。
このようにキリスト教の、いわゆる教理を私たちが知って送らなければならない理由は、
簡単に言いますと、本物と偽物を見分けることができるためであり、また私たちが正しい信仰を持つためであります。
かなり前ですね、テレビの番組で見たんですけれども、銀行で偽造された紙幣と本物を勘別する、勘別しという人が銀行にあるそうです。
彼らはどのようにしてこれが本物なのか、偽物なのか、それを見分ける、勘別できるのか、どういう練習したり訓練するのかと言ったらですね、
それは偽物を研究してよく見て、光に照らして見て、それを研究するのではなく、練習するのではなく、
本物の紙幣を何度も何百回、何万回それを見て、触ってみて、それをして、そうして本物を極めるほど好きです。
そうしておけば、これが偽物なのか本物なのか、もう目をつぶって触ってだけでもそれが勘別できるそうです。
皆さん、私たちの信仰も同じだと思います。
救いが何であるか、信仰が何であるか、三味一体の神様がどなたであるのか、
本物を正しく深く知っておけば、偽物に騙されない、そしてこの本物の信仰を保ち続けていくことができるということです。
だから皆さん、私たちが説教を通して、あるいはメッセージを通して、あるいは聖書を読むことを通して、あるいは祈りを通して、このキリスト教の真理を正しく知ることは、
まず私たちの信仰を守るために、そして正しい信仰を人々に伝え、教えるために、何より大事なことなのであります。
今日は、このある神様、このあるキリストについて学んでいきたいと思います。
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13番に次いで、改めにはもう何十回、何百回説教を聞いても足りないと思うんですけれども、その中でチョイスして、
今日は獣肉について、そして次回は獣事化、またその次回は復活についての言葉から学んでいきたいと思います。
今日は獣肉です。
イエス・キリストがこの地においでになったのは、神様が今日の御言葉にあるように、人間と同じようになられた大事件でありました。
これを日本語ではジュニック、英語ではインカーネーションと言うんですね。
皆さん、イエス様は完全で完璧な神様です。そうですよね、皆さん。
そして同時に、イエス・キリストは完全な人間であられました。
これを正しく理解するのが最も重要です。
理解し難いかもしれません。あれ、完全な神なのに、どうして完全な人間になられるのか、理解し難いかもしれませんが、
今日の御言葉からその理解を深めていきたいと思います。
今までイエス様が生せなかった後から、キリスト教の歴史の中に、このイエス様のジュニック、神なるキリストが人間になられた、
これに対する正しい理解もありましたけれども、間違った理解も歴史の中に多くありました。
その間違った理解の影響で、今の例えばエロバの教に、そこはこのジュニック、神なるキリストが人間になられたことを、
全く間違った理解を持っているんですね。
大きく二つの理解があります。一つは正しい理解であって、一つは全く間違った理解です。
まず間違った理解は、いまだにも欧米の多くの神学校や教会に影響を及ぼしているわけなんですけれども、こういう理解です。
イエス様に対する歴史的な理解を深めました。
つまりイエス・キリストは、歴史的に実存した人物です。そこまではですね、あっています。
しかし、ジュニックした神ではない。ただ道徳的に偉い立派な先生だった。ラビだった。
そして彼らの父教は、イエスという人はマリアの子供として、普通の人間として生まれた。
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だけど、立派な人生と立派な知識を持っていて教えることができた。
ところが、ヨルダン側でイエス様がアプテスマヨハナから洗礼を受けたんですよね。
あの洗礼を受けた時に、人間であったイエスが神の養子になったと言うんです。
わかりますね。養子になった。養子を入れてもらった。
そして神のようなキリストになったという教が、あの洗礼1世紀、2世紀、3世紀、
そして今でも特にヨーロッパのドイツとか、あるいはイギリスとか、アメリカもたくさんありますけど、
そういう信学でそれを教えている、そういう教会、そういう教局、そういった教会が世界に、
日本だけではなく世界中にあるわけ。
しかし皆さん、私たちが信じて正しいこの樹肉の教理は、
イエスキリストは三名一体の神様でして、永遠から永遠まで神様とキリストと三様、洗礼様はご一緒でした。
そしてこのある神様が人間となられてイエスキリストになられた。
そしてそれを樹肉である。
だからイエスキリストは、人間となられたイエスキリストは、完全完璧な人間でありまして、同時に完全で完璧な神様であること。
それを私たちは理解していかなきゃならないことなんです。
だからエロバム教人の主張はですね、イエス様の神性、神の性質を認めない。
ただの人間である。
そしてイエスキリストは神様より劣等な存在であること。
非動物であること、そういうふうに主張していることがエロバムの教人です。
皆さん、イエスキリストは非動物ではありません。
創造主義です。神様と永遠まで、永遠からご一緒でした。
だからそういう間近な信仰を持っている多くの教会で教えているのは、
イエス様が教えたこの素晴らしい道徳的な模範や教えや説教やお話がたくさんありますよね。
それをよく読んで感銘を受けて、感動を受けて、そしてイエス様がされたように良いことをたくさんやっていけば、
それが救いだと教えている。
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世の中に多くの教会にそういうことを教えているわけです。
皆さん、善を行ったとして人が救われることはありません。
救われた私たちが神の恵みによって良いことを知っていくことが信仰でありまして、その逆ではないわけです。
イエス・キリストはこのように完全かつ完璧な神様であります。
そして完全完璧な人間でありました。
今日のメッセージのポイントはたった一つです。
イエス・キリストは神であること、創造主であること、作り主であること。
ですから皆さん、教会に通っていて、礼拝もして信仰生活もしている中で、
信仰生活において最も重要なことは、イエス・キリストを生きる全能なる神様として信じて、
お会いして、そのイエス・キリストと交わりを持つことが最も大事です。
偉大な先生それほどではなく、立派なオーナーとされたラビではなく、
生きる神様、受肉した神様であること、その神としてのイエス・キリストに私たちが対面し、
お会いし、また信じなければならないわけです。
人格的な神様、生きる神様。
そのイエス・キリストに出会うと、皆さんもそうですし、私もそうですし、今までイエス・キリストに出会って、
数え切れないほど多くの人々が、その人格や価値観、あるいは教育、
あるいは様々な人生がもう根こそぎ変えられて、新しく生まれ変わったんですね。
それは単なる偉大な先生にお会いして変わったわけではなく、
生きる神様、唯一の神様にお会いしたから、そのイエス・キリストのあの御言葉、あの救い、あの栄光によって私たちが変えられたわけなんです。
イギリスのウィルヴァ・ポースという人がいました。
そしてアメリカのリンカン大統領。この二人の共通点は皆さんご存知でしょうけれども、
彼らはプリシャとして奴隷継承運動を広げた人でした。
あの当時のアメリカにもイギリスにも、普通に黒人を奴隷にするのは当たり前のことでした。
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神様を信じる人であろうが、信じないであろうが、みんなそうしていました。
それがもう当然しされるあの時代でした。
しかし、あのウィルヴァ・ポースはイギリスの民として、またリンカン大統領は大統領として、もちろん戦争は起きましたけれども、
その中でこの奴隷制度は、これは罪である。
これを認めてこのまま持っていくのは、これは悪であり罪であると。
そして彼らはですね、多くの人々から殺されるも、被害も、反対も、様々なですね、脅迫や威嚇がありましたけれども、
そんな中でも、このウィルヴァ・ポースとリンカン大統領は、彼に散歩する人々とともに、この奴隷制度を平視をして、
やがてアメリカに、やがてイギリスに、世界に奴隷制度が平視になりました。
皆さん、これなんです。
言い過ぎると信じてですね、いい話を聞いて感銘を受けて感動を受けて、ああよかったなと、
ここでおどまって終わるのではなく、またさての人生が変えられる、
価値観が変えられる、人格が変えられる、夫婦関係が変えられる、物質主観や様々なこの考え方が根こそぎ変えられること、
改革、変革が起こること、実はそれが救いではないでしょうか。
皆さん、ここでですね、教えられたことがあります。
このように生きる神様にお会いしますと、キリストこそ真ことの主であることと、それが悟るようになるんですね。悟るようになる。
自分が悟りたくて悟るんじゃなくてですね、不思議な恵みによって、イエス様が救い主であることを悟るようになる恵みがある。
この悟りの恵みこそ、すごいことだと思うんですね。
先ほども申しましたけれども、司会者さんが、皆さんもそうだったでしょう。
イエス様が救い主であることが悟るようになった。
不思議に悟りの悟る、この看護と言いましょうか、霊感と言いましょうか、その恵みが上から注がれて悟るようになって、目が開けるようになって、
そしてこれが本物なのか、偽物なのか、これが正しいなのか、正しくないのか、それが真実なのか、それが真実じゃないのか、それが悟るようになるこの悟りの恵み、
これは皆さん、救いの恵みであり、神様から来る恵みなんです。
あのイルバポス、リンカ、彼らは奴隷制度は罪である、悪であると悟るようになった。身が開けるようになったんですね。
これが恵みなんです。皆さん、この悟る恵みが最も大事なんです。
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イエスキリストを生きる人としてお会いすること、人格的にお会いして、
そして様々なあらゆる面において、この光が照らされて、この霊においても肉においても、闇が消え去り、光輝くされて、そして真理を正しく知ることができるようになるこの悟りの恵みを求めようであります。
ですから、私たちにもさらにさらに、もっともっと、この神の恵みによって悟る地へ恵みが注がれるように、
そしてこの世のこの事実を、あるいは神の御言葉の真理を正しく知ることができるようにしよう、悟りの恵みを私たち一人一人に注いで下さいと祈るようになりました。
皆さん簡単です。神様を信じていない人々はふさがれているわけなんですよね。神を神として見ることができない。悟ることができない。
いくら教えられて、いくら言われてもですね、夫婦が一緒に屈指していても悟ることができない。
だから悟りの恵みが与えられて、闇が消え去り、光輝いて、照らされて、悟る恵みが注がれるようにどうぞ祈ろうでありませんか。
そして信仰生活はしていますけれども、この浅い信仰、あるいはちょっとだけ開けているこの霊の恵みが、悟りのこの世界がもっと幅広く広げられて、開けて、
神を知る、キリストを知る、聖霊を知る、自分自身を知る、この世の中の真相を正しく知る、そのような悟りの恵みが上から与えられるように、そう願っております。
このように皆さん、そしてこの霊の目が開かれることが何より大事なんです。何より大事なんです。
この悟りの恵みが我々にありますようにお祈りいたします。
人間のなられたイエス・キリストは、私たちと遠く遠く離れている、あるいは何億光年離れている、アンドロネーダとかインガスイとか、
そういう遠く遠く離れて離れて、自分とは触ることも知ることも考えることも交わることもできない、そういった神様ではないんですよね。
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イエス・キリストは、神なるキリストは、人間となられて私たちと共にいてくださる、交わりをしてくださる、語ってくださる、癒してくださる、教えてくださる、感動を与えてくださる、励ましてくださる、そういう近くにいるお方なんです。
今日の御言葉は、もう一つ一緒にお読みしませんか。
6節、7節、8節です。これが受肉のイエス・キリストに対する最も重要な数なんですけれども、6節、7節、8節、一緒に読みましょう。
ここでですね、神様の恵みと、そして受肉の真理がここに書かれているんですね。6節からちょっとご覧ください。
キリストは神の三姿である、そして神の在り方一緒であること。キリストは神であるんですね。三姿である、神の在り方、これは本質という言葉なんですけれども、キリストは神様と本質的に同じ形であることなんです。
しかしその方がですね、なんと神の在り方を捨てられた、自分を無にした、そして使えられるべき方が使えるものの姿を取られました。
人間と同じようになられて、人としての性質、人間の性質をもってこの地上に現れて、自分を低くして死にまで従われた。実に十字架の死にまでも従われたとあります。
皆さん、これなんです。イエス・キリストは、あのソクラテスとかコーヒーとかですね、立派な哲学者でもなく、あるいは救済をたくさんした良き人でもなく、あるいは感動的な感銘的な説教をたくさんした偉大な説教者でもありません。
イエス・キリストは生きる神様です。唯一の救い主です。こなる神様であることを、私たちはそれを信じなければならないことです。
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だからこの樹肉というのは、こなる神様が人間となられた奇跡中の奇跡であり、神秘中の神秘なんですよね。それはなぜでしょうか。それは神の、皆さん実はこの樹肉というものはですね、神様の愛の極地と言えるでしょう。
私たちも、私たちをあまりにもあまりにも愛して、共にいたくて、そして逃げようとして、実に逃げてしまっている私たちを追っかけて、追っかけて、そしてまるですね、神様のこの樹肉は、こう言いたいんですね。
樹肉は神様が愛の追跡者であること。もうですね、追いかけて追いかけて、私たちに愛を示して、人間となられるまで私たちを愛したあの事件がこの樹肉の第一件であります。
それはなぜでしょうか。神様が私たちを理解するためでした。愛するためでした。人間となられて同じ恥を抱かし、同じ苦しみを受け、喜びも悲しみも、それを同じくですね、私たちと全く同じくそれを覚えられて、一緒にいてくださったこの恵みなんですよね。
つまり神様は、私たちを手振る人の手紙にあるように同情してくださる方なんですね。思いやることができない方ではない、思いやってくださるお方なんです。
ところが皆さん、私たち人間はどうでしょうか。自分ではない人を理解するのは、なかなか難しいと思います。
自分が立場になってですね、立場に立って理解するのは、夫婦の間だけでもなかなか理解し難いと思いませんか。
実は昨日の夜もですね、かんなといろいろ激しいディスコの論争がありましたけれどもね。その他にもですね、皆さんもそういう思いがあるかもしれませんけれども、
人の考え方や理解をその人が感じるように考えるに全く同じく理解することはなかなか難しいんですよね。
夫婦の間でもそうですよ。あるいは親子の間でもそうだと思います。あるいは教会の中で兄弟姉妹たちの間でもそうですし、あるいは説教者と会主の間。
僕会社と生徒の間でもお互いの理解を深めて深めていくこと。悟りが与えられてお互いを深い理解していって、これが本当に合致してですね、
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全く一つになる日が来る。いつ来るか分かりませんけれどもね。それを極めていく。そして宿にあって精霊にあって一つになることが信仰生活の恵みであり幸せだと思うんですよね。
これはですね、ちょっと裏目でもあるかもしれませんけれども、私が進学のときに毎日キャピルをするんですね。
そのときに学校の教授の先生だけでなく、教団のあらゆる先生方が来られて説教されるときにですね、
ある引退された老牧先生のお話を、いまだにあたって忘れられないことがあります。
あの当時はちょっと理解していかない方ですね。こういう話でした。ちょっと皆さん理解して聞いていただけないんですけど。
こういう、みんな進学者ですから僕会社のために語ったお話なんですよ。
僕会社はどんなことがあっても、生徒を最後の最後まで愛しなければならない。
牧師は生徒から愛され、認められ、褒められるそういう思いを持たない方がよかろう。生徒はあくまでも愛する存在である。
一番近い生徒であって、一番心強い生徒であっても、あまりにも頼りにしない方がよかろう。
生徒はいつでも自分の知らない気に入らなかったら、一晩でも牧師の敵になることがあり得る。
でも牧師は生徒をあくまでも愛し続けていかなければならない。それがイエス様が歩まれた道である。
あの時その話を聞いて、それは人過ぎる。そう思いました。
神道さんをそんなに信じないのか、そんなに悪く言うのか、多分もう散々苦しめられたからそう言うでしょうと思いました。
あの新学生の時ですよ。私、あの時31歳でしたから。そう思いました。
実際に1年生の時には勉強だけしていて、教会の報酬はしていなかったわけですね。
そして新学を卒業して、牧会に現場に出て、今年で14年目です。
少しずつあの先生のお話がわかるようになりました。
あくまでも愛し続けていかなければならない。それが牧師である。
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本当に今日まで心強い味方であった、本当に助け人であった人が、一晩で、適当に言ったらちょっとひどすぎるんですけれども、
反対、大反対者になったことを経験したことがあります。
皆さん、牧会さんには様々な悩みがあります。
悩みを神道の皆さんにも、あるいは家族にも妻にも言えない悩みが、死ぬあの棺の中にいる時までずっと秘密にしてお金のようなこともありますし、打ち明けられない悩みがあります。
牧会者という立場は、皆さんにいつも見られる立場です。
徹底の一言、あるいは普段の話の一言、振る舞いや、すべてがいつも見られて、いつも評価されて、
時にはもちろんですね、褒められることもありますけれども、それよりは批判されたり、指摘されたり、評価されることが多くある立場です。
また、多くの悩みを抱えて、泣きながら祈る日も多くあるでしょう。
なぜ変化は起こらないのか。なぜリバイバルが起こらないのか。
様々な悩み、緊張、悩み、涙、多くの目や多くの口の中に牧会して立場が、牧会者の立場だなと思います。
だからというか、牧園の中には、失礼なんですけれども、ハゲアダマの先生が多いんですね。緊張の中に食らっているわけなんですけどね。
ところが皆さん、私がこう見ますと、妙談に評価のように、幸せな教会、幸せな家庭、祝福される教会の共通点が一つあります。特徴があります。
家庭もそうですし、教会もそうなんですけれども、生徒が生徒を、生徒が牧師を、牧師が生徒を、自分のように愛し、自分のように理解し、自分に使えるように、自分を愛するように愛し、使える家庭、教会が祝福され、幸せな家庭、幸せな教会になる。
生徒が牧師を尊敬し使え、牧師は謙虚で謙遜で、いくらきれいに使える教会。
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もちろんですね、牧会者が尊敬されるほど、愛されるほど、使えられるほど、立派な人物でなければなりませんでしょう。
しかし皆さん、例えばですよ、立派な夫は、そもそも立派だから立派な夫になるのではなく、妻の賢い、難易度の力によって、夫は立派な夫になれるんでしょう。牧師も同じだと思います。
もちろんですね、そもそも立派な先生方もいらっしゃいますが、立派な牧師は、生徒によって作られ立てられることだと、私はそう思います。
この前、韓国から住人の選挙訓練を受けている信徒さんが訪問しましたよね。そのときに、私も知らなかったんですけど、お母さんは米軍に行った夫人の方から聞きました。
その教会の先生は、10年前か15年前、パーキンソンを発揮されて、今もずっとパーキンソンを働いていらっしゃる。
だから、その前までのように母会活動ができなくなって、説教のお話もまともに話しにくくなっている。それで、信徒さんが先生のお話を聞きづらい。
そして、何を喋っているのか、ある日は、知らない。分からない。ああいう日もある人です。しかし、あの夫人が明かしています。でも先生、私は言ったんですけどね、先生がパーキンソンになる。
でも、前よりパーキンソンになって、説教もまともにできない、母会もまともにできなくなっているんだけど、不思議にその前より、その後は教会が爆発的に成長して、リバイバルして、信徒さんがもっと伝説して、もっと宝教して、もっと捧げ物を捧げて、
そして、不思議に、ああいう説教なのに、何で人が次から次に教会に来るだろうか。先生、不思議で、不思議で、理解しがたいですね、と、あの夫人が言っています。
皆さん、何でしょうか。さっきからその夫人が言いました。私たちは、あの先生を本当に愛しています。その先生の、理解しがたくて、何でそれが意味が分からない、そういう説教であっても、私たちは大声で、アーメンと言う。
常に先生を愛して、祈って、祈って、祈って、そして、もうそういう風に仕えているうちに、不思議に恵みが、恵みが注がれているんです、と、あの夫人が証明しています。
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そして、私が語ったことがあります。ああ、そうなんだ。
牧会も恵みも、教会のリバイバル聖書も、言葉にあるのではない。祈りにある。神の恵みにある。そして、立派な牧師は、生まれつきのではなく、聖徒によって、教会によって作られ、さてられるものだな、と、私は、あの証をついて実感しました。
皆さんはどう思いますか。このように皆さん、幸せな教会、恵みに満ちる教会は、聖徒は、イエス・キリストに出会ったならば、人生観、価値観、物質観、すべてのあらゆる面が変えられるんですね。世の価値観に採用されないんです。
例えば、一般の会社だったら、パーキンソンで、そしたらもうすぐリストラになるでしょう。仕事できなくなってから、もう机がなくなる。世の価値観なんです。雑工の先生であろうが、会社の何であろうが、勤められなくなってしまいます。
しかし、実際、多くの教会にもあるんですよ。先生が選んでいると、もちろん先生本人が辞退することもありますけれども、辞めてもらいましょう、という教会もあるかもしれません。実際にあるんです。しかし、なんとあの教会は素晴らしなと思いました。
パーキンソンをやって、なかなか歩くこともできない、家庭を訪問することもできない、仏会もできなくなっている。もちろん福音の星が多くいるからと言えるかもしれません。
ああいう状況の中でも、先生を仕え、愛し、立てて、尊敬し続けていくときに、教会が恵まれて、先生が病気になって、病んで、あと、私も一度行ってみたいなと思っていますけれども、
約50室、50ルームを備えている世界選挙センターを建てたそうです。そして、世界各国から選挙席が休暇とか安息面で入るでしょう。そうしたら、大体多くの選挙席は居場所がないんです。
家族がいれば、ちょっと泊まることがあるかもしれませんけれども、大体、統計によりますと、約8割の選挙席は、例えば、日本からアフリカから自分の国に帰るでしょう。
そうしたら、どんどん元気を取ると、お父さんもお母さんも家族も亡くならないんですね。そして、自分の教会が、私の資料の教会のように大きい教会だったら、何とかです。むしろ、あるかもしれませんけれども、そういう教会は0.5%もないだから、居場所がないんです。
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だから、安息面に入っても、県庭もある選挙席が実は多いんです。そういう事業を図った教会の信徒さんが、50ぐらいのルームを備えるセンターを建てて、教団、教話、講座、居たんじゃない限り、誰でも空いていたら、そこに来て休んでください。
育児も提供します。そういう素晴らしい事をやっているんですね、皆さん。素晴らしいと思いませんか、皆さん。
また、夢があります。両谷教会が、神様がゆるって恵んでくれたのならば、日本の教会の中でも、安息面をできない先生方、病んでいても休みたくても休むことができない、そういう先生方が大勢いらっしゃるかと思います。
教会が、どこかの、富士山は多いですから、六甲さんはいかがでしょうか。六甲さんのふもとのところに、しゅうゆかにのような施設が建てて、そしてルームを備えて、そこで一緒でも先生方でもいいですし、信徒さんもいいですし、
そこで、休息、安息の補給をもたらさせて差し上げて、そして墓会にもっと励むことができるように、お伝えしたいな、お助けになりたいな、そう思いますけれども、皆さんはいかがでしょうか。
二言目に戻りましょう。
創物なる神様が、非常物の人間の体になられて、この地にお出になったことは、私たちの人間の頭では理解し難いことなんですけれども、奇跡のように見えますけれども、しかし皆さん、言葉でこの天地宇宙万物をお作りになった神様にとっては、人間になれることはですね、お安い御用なんですね、お安い御用なんです。
いくらでもお出来になるわけなんです。だからこの樹肉のこの恵みは、私たちに向かう神様の愛の最高の極地であることを、それをこの朝、覚えていただきたい。
それほど人間になられるまで、自分を癒しくされるまで、死にまで従われるまで、私たちを愛してくださったこの愛を、この朝、覚えていただきたい。
感謝書でありませんか。
製索一箇所見てみましょう。
ヘブル人への手紙、4の14節です。
新約聖書、428ページです。
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4の15節、一緒に見ましょうか。
3、私たちの大才子は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。
罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように試みにあわれたのです。
同情できない方ではないと、二重指定して、恐懼して、同情できる、十分同情して思いあって思いあっても、その愛は余る。
皆さん、イエス・キリストは人間の限界を超越した聖人ではありません。
完全な神様でありまして、完全な人間でありました。
それは私たちを罪から救うことができたわけです。
この救いについて、十字架については、また次回に、共に言葉から学びたいと思います。
皆さん、イエス・キリストは完全な神様でありました。
イエス・キリストは完全な人間でありました。
この純肉の恵みの中心と言いましたか、それは神様のきつこい愛です。
まるでヨナを追っかけられた神様の愛のように、私たちを愛して愛して、私たちを救うために、変えるために、
人間となられたこの神様のきつこい愛、それが純肉の恵みです。
お祈りいたしましょう。
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