1. 名谷教会 podcast
  2. 2013/11/03:ここにいなさい
2013-11-03 41:27

2013/11/03:ここにいなさい

2013/11/03 聖日礼拝

斎藤亘師

ルツ記 2:1-8

00:01
おはようございます。
久しぶりのような感じがします。
先週は、私の母教会であります福島県の白川の教会に行っておりまして、始まる時間は一緒ですから、
今頃、MyoudaniChurchもこうして始まっているなと思いながら、
この白川エコ教会というのは、最近、新しい街道が立ちまして、
今日が震災のあの頃に話がだいぶまとまっておったんですけれども、
震災のために話が全部、誤発さんというわけではないですけれども、
時期を改めてというのは、あの状態ですから、材料も調達できないし、
仕事をする人たちにも、これもそちらの方に手を取られてしまうということで、
随分苦労なさったようであります。
しかし昨年、ちょうど今頃、ほぼ完成したんでしょうかね。
それで、クリスマスは新街道で行うことができた。
改めて4月に県道式があったんですけれども、それに行けなかったと思うんですから、
機会があったらという願いを持っておりました。
幹事としてはですね、新街道ですから、
しかも全く今までのところとは別なところに350坪、何か10万だそうですよ、1坪。
しかし小さい教会にとっては大変なことだったと思いますけれども、
そこに小さな教会を建てて、そして礼拝終わって表に出たら車でいっぱいなんですね。
大勢来ているように見えるねと言ったんですけれども、
別に日に来ると言ったのではないんですけれども、
みなさんそれぞれ遠方から来ますから、それで広い駐車場もほぼいっぱいになる。
その日たちは祈り会をするということで、
じゃあそこまでは私も一緒におろうと言ってですね、祈り会までおりましたけれども、
私が白川の教会で信仰を持ちましたのが今から約60年ほど前なんですね。
高校生でした。
その教会もそこにあるんですね。
ですから私にとってはこの方が懐かしいなと思いながら、
今回は行く機会がありませんでしたけれども、大変恵まれた幸いの席をいただきました。
私はそのときにふと思い起こしておりましたのは、このルスキーなんですね。
ルスキーを読みながら、ここはご存知のようにボアズとルスの出会いという素晴らしいところなわけですよね。
それぞれ出会いというのがその人の人生というものを結成している。
03:03
それほど大切な出会いというのがそこにあります。
私もその高校生になって、そして友達に誘われて教会に行ったという、
当時は何もわからないでそうしていたそういうものでしたけれども、
しかしそこでやがてイエス様を信じることができたという、
本当に私にとってはその日は少し前のこの街道というのは、
私にとっては生まれ落ちた場所でしょうかね、そんな感じがするぐらいに個人的にはそういう思いがあります。
しかしこの街で私はイエス様の助に扱って、そして今日まで来れたんだなという、そういう感謝の思いを持っております。
また後に少しそのことについて触れたいと思うんですが、
私はこのルッツーキーというものを改めて読みながら、
皆さん方ももうすでにそういうことでお聞きになった方がほとんどだと思うんですけれどもね、
エステルという女性は、これはイスラエルを救った女性ですから、
ですから旧約聖書に乗るというのはわかります。
ところがこのルッツーという人は、今は呼んでいただいたところでも、
ルッツーという名前が出るところには必ずモアブの女、ルスっていうですね、
そういう肩書というわけではないんですけれども、無実情を表す、
そういう彼女のもので生まれた、そういったものがそこにいつも伴うわけですね。
イスラエルとこのモアブというのは、これはよろしくない関係なんですね。
このモアブというのは、イスラエルもおっしゃったように、これは神様に捨てられた人々ではないか、
全然違う神様を信じ、そして全然彼らは神様に心が離れているような、
そういう穢れた人たち。
何と言ってもこのイスラエルというのは今でもそうなんですけれども、
もう自分たちが一番いい、他はみんな駄目という、そういう発想を選びというところから、
彼らは今もそういうふうに思っている。
ですから、センリン、ユダヤ、イスラエルということに彼らは誇りを感じながら、
しかしそういう、ある意味でこのアイディがあったものですから、
彼らは2000年か余り、自分の国を失い、民族も世界中に散らばってしまったんですけれども、
第二次大戦が終わって間もないときに、
彼らはわすかその当時50万ぐらいだったんでしょうかね。
他は全部アラブの人たちでした。
06:02
けれども彼らはそこに、うまいことここへ行って、そしてついに自分たちのこの国を再建する。
当時はまだこのヘブル語も失われてしまって、ヘブル語を使えるような依頼もいなかったということを聞いております。
ですから、イスラエルと組む国を始めたときに、やはり真相を読まなきゃいけない、
神の言葉に立たなきゃいけないということで、このヘブル語の復興ということに当時の指導者たちは諮ったそうですよね。
そしてだんだんと、この一般の西洋生活の中にヘブル語が使えるようになって、そして小西に立っている。
そういうことをずっとやり遂げてきたそこには、自分たちこそ神が選ばれた唯一の神だという誇りがあったんですね。
ですから、それを彼らは2000年という長い期間、いろんな国に行ってしまいましたけれども、
しかしそこでも彼らは必ず、自分たちはユダヤ人だ、神に選ばれたイスラエルだという、それぐらい彼らは自意識が非常に強みる。
反面、他の人々に対してはもう容赦ないというぐらい、彼らはそういう誇り高き民族と言ったら、そう言えるかもわかりませんが、
そういう思いが、やがて中東戦争という戦争を何回か経験する。
そういう戦争をするたびに、ほとんどの勝手のこのイスラエルの領土を自分たちのものとするという、
今でもそれは、いろんな問題をそこに起こしております。
これもついでの話ですが、皆さんが見返った方は、そう思いなさったと思うんですけれども、
私が最初に言ったときは、あの別題を見たときは、非常にこう、これも精神の世界だなと思っていましたよ。
ところが、数年前に行きましたときは、それこそもう、もう鉄壁の境地でしょうかね、
それがずっと延々と空いて、そしてこのパレスの人々の住むところと、自分たちのそれと、
彼らはその戦時中にドイツ政権によって、ゲットという中に集められて、
そうして彼らはもう本当に狭いところに、そういう汚い環境の中で生活をした。
それをですね、そういうことがあったから、今度は逆にやっているのかなと思いをするぐらいに、
現実の今のイスラエルにおいては、パレスニアとそれからイギリア人、
イスラエル人のそういう境地、そういう見上げるばかりのですね、そういうのがあった。
ですから、前はバス一本でスーッとペスレンに入れたのが、その前でバスを降りて、
09:02
そしてそのコンクリートの底を抜けて、そしてそこでもパスポートがいるわけです。
そしてペスレンに入っていって、でペスレンの今度はこのパレスの用意したバスに乗って中に入っていくというような、
そんな経験をいたしました。
それもこれもね、言うなら悪く言うならば、
彼らはせっかく神様の選ばれ、この選びというものを受けながらタオルを這い込む。
まあ前のキャラがありましたけれども。
ですからこの当時の、ルシファンが来た時のこのモアブっていうこの国は、
今のこのパレスニアの国ではなかったんじゃないかなと思うんですよ。
当時はイスラエルにはどんどん進めて、そしてほぼですね、制圧したんですね。
けれども制圧していく中でもって、
彼らは自分たちの約束の土地として神様がお与えくださった、
その善道において彼らは本当に神様に感謝したらよかった。最強に感謝した。
そうしていくうちにだんだんだんだん、自分たちがあんな苦労をした中から、
今のこの国を神様がお与えくださったという、そういう感謝の思いが薄らいでいったんですね。
薄らいでいくうちに、ここに至らしてくださった神様に対して、
重い感謝の思いがだんだん薄くなってしまった。
それだけではない、自分たちが善道したそのところには、
例えばモアブだったら、モアブ土脚のそういう宗教がある。
そういうことにも心を向けるようなことがあったわけですよね。
もうそこには、本当にこの神様が選びなさったこの位置であるという、
そういう思いではなくして、毎日のこの生活の中でもって、
もう何でもいいから受け止めて、そして行こうというような、
そういうイメージの位置の悪い妥協を受けましょう、それがあった。
ですから、もともとこの一章の方を見てまいりますと、ここには、
そのモアブが結婚した相手の家の事業がそこに書いてありますね、一章の初めに。
もともと別の辺りの人ですよ。
ただ、危機があったために、そこではもう生活が苦しい。
だったら、何とか食べられるところを探そうと言って、
そしてこのモアブの地に彼らは移っていったわけですよね。
そして移っていって最初は良かったんじゃないかなと思うんです。
ああ、やっぱりここへ移ってきて良かったと思ったかもしれません。
そのうち、この夫が亡くなる。
ナウムさんから言うなら夫が亡くなる。
結婚したこの二人の息子も、それぞれ亡くなってしまって、
そしてこのナウムさんにとっては、残されたのは自分だけになっている。
12:02
頼りに住むのはこのモアブの家で、この息子たちが結婚した相手のモアブのこの女性ということで、
彼女にとってはもう、そのモアブの家は何のためにも生活の糧にもならないということで、
やっぱり別の家に帰ろうという思いを持ったんです。
そう言っていれば、この二人のこの嫁さんを連れて行くわけにはいきませんから、
あなた、あなたはもう夫はそれぞれ亡くなったんだから、
あとはこれからも家に行きなさい、モアブの男性と結婚するなり、
また別の家になるならば、そういう道を進みなさいと言って、
そしてこのナウムさんは、二人のこの嫁さんを介護したわけですね。
ところがその時にずつだけが、いや私はもう絶対お母さんとははまれません。
この時の彼女の言葉が、このいいですよね、あなたの神は私の神でしょ、
私の神でしょって言う、それはモアブの神じゃないんですよ。
ですが、あのベスレムにおいて、先祖以来ずっと神様を信じて歩んできた、その神。
だから私は想像しますのに、このナウムさんという方、本当に自分はもうその楽しいところじゃない、
苦しみがあっという間にですね、もう帰せないくらいの重りを持つくらいに、
このモアブの家においては、彼女にとっては本当に悲劇の時、
本当に悲しい、寂しい、そういう子の生活をしていた。
だからルッツさんはそのナウムさんのどこに、あなたの神は私の神で、そう言ったんだろうかな、
どういうとこでナウムさんはルッツさんにそういう感覚を与えたんだろうかな、と思ったりもするんですよね。
いろいろそこでも想像するわけですが、
しかし、ルッツをして、今自分が信じている神を私も信じてきたんです。
だからお母さんが恥ずかせん、というそこの決心をさせた。
そんな器じゃないですよ、ナウムさんは。どう考えたって。
だから私は改めて思ったことはですね、何にも私たちは苦しいから、
もう、けども悔しいんだからって、勝手に払ってもいいんだな、と。
もう本音で言ったならば、本当に私たちが神様を信じていくその姿の中に、
何がその人の心をとらえるものを与えるのかな、と想像するんですよ。
ナウムさんは与えるものがあったんだろうかと思うんですけれども、
しかし、しっかりとね、そういう苦難の道を歩んでいても、
ルッツをして、あなたの神を私も信じていきたいですから、
だからお母さんは私の一人に来ますね。
しかしルッツも、その時のこの感情がまってそうして言ったんじゃない。
15:00
これからね、そうするともう後の日だから自分もここで生活できたものの、
もう一日、あのイスラエルそこに入っていたならば、どんな扱いを受けるかわからない。
だから私は、ナウムさんはそういうこともやはり言ってますから、
だからあなた々はここに留まりなさい。私だけが帰るって言ったと思いますよ。
しかし、ルッツはもうどんなことがあっても行きます。
そして、この2章に入って、このナウムについて、
このルッツは、この別レームの新しい、そういうところに来たわけですよ。
しかし、生活の手段はありませんから、
それでルッツさんは、もうこのままでは食べていけないから、
お母さん、私は今からパートを見つけていきますよ、と言って。
そして紹介されていったのが、ボアズさんのソロ農園だったわけでしょ。
あくまでもこれはパートですよね。
後、それはなくなるんですけれども。
ともかく、そういうふうにして彼女が出向いたその先に、
そしてもうここで持って、皆さんの仕事の合間の何か取りこぼしがあれば、
そこで持って、自分はという思いで持って、その働きに出向いて、
そして一生懸命、このお家を休めていた。
彼女は、その協業者がどういう人なのか、オーナーが誰かというと、何も知らない。
ただ、お母さんに、少しでもここで持って、餌物で持って、
この上をしないでもらえたならばいい、という、そういう方法や思いで持って、
彼女がしたんでしょう。
反則になるとね、僕は出かけて行って来る人たちの後について、
畑でおそごを拾い集めたが、ここに、
エリメレクの一族に属する、ボアズの畑のお家であった、と書いてあるんですね。
ハカラズの、ボアズの所有する畑で持って、
彼女は何にも背景知らずに、
モワモナという、そういう思いで持って、一生懸命そこで持って、
この仕事を始めていた、仕事をしていたんですね。
そして、このハカラズ持つ、
これは人間の計算の届かないところと言ってもいいんじゃないかと思うんですね。
私は、教会に行きました時にね、前に申し上げましたけれども、
ぜひここで持って、このクリスチャンになってこうと言って、
その白川の教会に行ったわけではない。
私にとってはですね、今思えば、
18:00
友達が誘ってくれたっていうことが一つのきっかけで、
そして、私にとってはそこが、
幅広く先生様を知るきっかけの場となっていったんです。
こっちのように、何がこういう計算があっていったのではないんですね。
また、法観線はどういうものかということは何も知らないんです。
あるにおいて、
クリスチャンと同じような、全く異教祖の私にとって、
教会っていうところは別世界。
あるいは皆さん方の中にもそういうおかげになっている方もいらっしゃるかもわかりませんけれども、
私はもうどっちにするという点においては、
教会ということに関してはもう知りませんでした。
だから、もう一つ一つの、
教会ってのはどういうことをするの?こんなことをするの?
安倍晋三の今の八重の桜を見ておりましたときに、
新島城の火星というか、そこに九州の熊本万能人たちがやってきたんです。
彼らはそこで思って、もう何とならずなのに、
食事をしようとしたら、食べようとしたら、お祈りですと言われて、
え?とこう言っていることがあります。
私には本当にあれが、経験があるんですよ。
大好きな彼が出ましたね。
それで、ああすごい、食べようと思ったら、
あまり周りを見たら、カチャッと音をしないで何をしているんだろうと思ったら、
お祈りの姿勢で友達が来られて、お祈りだと言って、
お祈りというか、こんな時もお祈りするのかという、
そこから始まって、本当に教会の姿というのが、
あるいはクリスタルの生活というのが、
私にとってはもう気に入らないですよ。
何でそこでそんなことをやるの?
何でそこでこういうことに心を向けていくのだろうか?
というような、一つ一つの何か、別世界のことでした。
ルンチさんも多分そうだったんじゃないかなと思うんですね。
自分たちの思惑では、経験もしないようなことなら、
彼女はここでしていくわけですけれども、
しかし、何も知らずに行った、そこが実は、
オーナーでありますボアスマンとの、
新しいロマンスが芽生えるところの、そういう前方というのは、
彼女といっては、これから自分の知らない世界が、
どんどんどんどん広がっていくわけですよ。
イエス様の救いというのはそうだなと思います。
最初はね、本当におかしくて罪をあぶりしなさい。
そしてイエス様が教えたならば、本当にその罪が許されるんだって。
それだけでしたよ。
まあそれでいいんですけどね。
ところが、本当に信じて、その信仰というものについて、
心が向いていたときに、
イエス様のこの救いというのは、どんなに豊かなものか、
そのことに、知り発見するというような感じで持って、
21:04
この信仰生活というもののスタートを、私は今も思い起こします。
神様は、そういう、この、
ずっとさんにとっての、ボアスさんとの出会いにされる、
最初のきっかけというものを、こういう形で持って与えなさった。
私たちはそういうときに、
申し上げる言葉は、やっぱ、神様のせすりの中でもって、
そういうふうな、この救いに至る、
神様のとっておきのプランが、自分に向けられていたんだな。
せすりというのはですね、
何も偶然というか、全く違う。
神様の計画の中でもって、
神が表してくださったその計画の中でもって、
私たちが、この進んでいく、
あるいは出会っていく、
あるいは得ていくところの、
そういうこの言葉らを、私たちは、
神様のせすりということにおいて知っている。
これを最もよく表している言葉が、
ご承知のように、道真道の手紙の8章ですね。
そこをちょっと開いてみましょうか。
道真道の手紙の8章。
これはやはり、既に覚えていらっしゃる方が大勢だと思うんですけれども、
覚えておくと、非常に励ましになる。
あるいは、悩んでぶつかってしまったときに、
そこに一筒の光を見出すことができる、
そういう言葉と思います。
この8章の28節というところを見ますと、
神を愛する人々、
すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、
神がすべてのことを働かせて、
営みとしてくださることを私たちは知っています。
すごい言葉ですね。
これについて言った言葉が旧約聖詩にもたくさんありますけれども、
神様が私たちのために、このようにおもんばかりくださっているということ。
もう一つ開きましょうか。
それは、ペテロの第一の手紙の2章に、こういう言葉があります。
2章ではない、4章でしたかね。
このペテロ第一の手紙、第5章の7節というところに、
24:08
私はよく訪問しましたときに、
この言葉を共に親にする、そういう中の一つなんですけれども、
ここにあなた方の思い患いを一切、神にいらねなさい。
神があなた方のことを心配してくださるからです。
素晴らしい言葉ですよね。
こういうことが、私たちのために最前最上の、そういうご計画をもって、
そして今も導きださっているわけです。
こういう神様のご計画という中に、
実は、イスラエルの人々にとっては思いもしない。
自分たちこそ神様に選んでくださった民族だ。
モアルの女が何だという。
けれども、そうじゃなかったわけですよね。
そういう偉大人から見て、穢れたサミット、
詰めつけられていたところの、そういう違法人の女性が、
もうすでにこういう旧約聖書の時代において、
神様はご自分の選びというところにおいては、
その選びということを優先させなさって、
そして民族が何であろうが、その人がどういう経歴の持ち主であろうが、
そんなことを一切おこまえなしに、
神は選びなさった場合には、もうそれでいいんですよ。
私たちはもうそれ以上、選ばれているんだろうか、どうなんだろうか、
私はしばらく悩んだことがあるんですよ。
クリスチャンになってもクリスチャンらしくないことばかりやってましたし、
牧師になってからもそうなんですけどね、
本当に私は牧師としてやっていけるんだろうかとか、
クリスチャンとしてやっていけるんだろうかとか、
そんなことがよくあります。
しかしね、それはあり得て神様の領域に入ってしまうことなんです。
神様が一旦選びなさったってことなら、それで安心したらいい。
できないことはこっちに来たんですけども、
それはそういうところで神様はね、選びなかったんですから。
日焼け直ったわけではないんですけども、
神様はちゃんと責任を持ってそうして導いてください、という、そういう思いですよ。
別に牧師さんはそこまで当たり前ではなかった、女性ではなかったですよね。
しかし、彼女は後々になってそのことを本当に知っていたと思います。
さえ私たちはね、前回、ヨハネによる福音書から同じテーマで持って学びました。
今回はルスランを通して同じテーマについて開いているわけですけども、
27:04
あのヨハネによる福音書の15章の最初には、
ブドウの木と枝の関係で私につながっていなさい、という話でした。
私に留まっていなさい、と。
そしてその文字に書いてある言葉が、あなた方が私を選んだんじゃないんだ、と。
私があなた方を選んだ、と言ってね。
そこには選定する側の責任において、
他のものは選定して、余分なものはもうそれを全部放棄して、
そしてこの枝だけを残したんだ、という、そういう選びですよ、神様は。
そういう選びにおいて、神様の深い御説理、御計画の中にこのルスを選び、
しかも選んだだけではない、そこにはさらに深い、この意味があったわけですが、
それを見てまいりますとそこに、先ほど8節まで読んでいただきましたが、
この8節、
もわずわるすぎた、娘さんよく聞きなさい。
なんかこの役ってのは、なんかの歌にあったなぁ、と。
そんな思いがするニュアンスなんですけどもね。
まあそれはいいんですけども。
他の畑にお希望を拾いに行ったり、ここから出て行ったりしてはいけません。
私のところの若い女たちのそばを離れないで、ここにいなさい、と。
ここで出てくるわけですよ、ここにいなさい、と。
そういうのならば、今ここであなたの周りにおる、同じようにやっている人たちと一緒に離れないで、
一緒にやったらいいよ、というよりも、言葉を詰めているのならば、
私のそばを離れないで、ここにいなさい、ということですよ。
中の他の女性たちも一緒にやっているから、ここにいなさいよ、というよりも、
私のそばを離れないで、ここにいなさいよ。
他の畑に行ったり、辞めてしまって、そしてどこかへ行ってしまうんじゃなくて、ここにいなさい、と。
当時の一代の教えの中には、これは新米記ですけども、こういう言葉なんですね。
まあ私だけちょっと読みますと、
あなた方が畑で穀物の借り入れをして、束の一つを畑に置き忘れた時、
それを取り戻しに行ってはならない。
それは在留異国人や離難後、山前の者としなければならない。
あなたの神主が、あなたの全ての手の技を祝福してくださるためである。
言うならば、もう何もかも全部自分のものだ、と言ってね、そしてこの取らないで。
30:02
そういう外国、ここで言うなら、ルッツさんのような、そういう女性であるとか、
あるいは夫を亡くした奥さんであるとか、あるいは何も食べる糧を捨てない子供たちのために残しておきなさい。
それは神があなた方の手の技を祝福してくださる方々。だからそういう風にしなさい。
ボアズさんという人は、そういう思いを持ってね、ここで言っているわけですよ。
彼は、ですからこの聖書の言葉をひとりこう受け止めて、そして、特にこの外国から来たわけでしょう。
あのムアムから、何も知らない。
それで彼は、だから周りの人にも、この言葉の通りね、彼女のためにそこに、
言うなら、わざと落としとけ、そんな入りまで言っているところですよ。
この辺りを見せまいりますと、ルッツさんは、そんなこのボアズさんの思いを知ってか知らずと、
とにかく、なんで今日はパフォーマンスでお母さんに喜んでもらえるって集めたと思いますが、
次の日も同じように、
昨日あれだけ撮ったんだから、もうないんじゃないかと思ったら、またそこにお芝居がたくさんある。
そして彼女はもうそれを本当に感謝して、そしてお母さんのところに持って行って、
お母さんまたこんなに撮れたという、そういうこの様子は想像できますよね。
だからボアズさんも、もうね、いつまでもここにいらっしゃいよって。
英語の訳なんか遅いとき見るんですけどもね。
そのとどまりなさいというのは、ずっとここにいらっしゃいよという、
そういう意味合いの言葉がそこに使われているわけです。
明日から別のところに行ってもいいよという意味ではないんです。
私たちとイエス様の関係なんです、これはね。
前回申し上げたこのブドウの木と枝の関係においてもそうです。
そこにしっかりとつながり続けるときに、
そこにおいてブドウの枝はブドウの木から来る養分を受けて、
そうして豊かなブドウの実を結んでいくわけです。
ここにおいては、ここにおるときに、
言うなら私が全部保証すると、
言わんばかりのこのボアズの配慮というのがそこに意味されている、
そういう言葉ではないでしょうか。
私があらかじめと思うのは、
イエス様を見てみて、だんだんこうわかっていって、
ああ、これなんだなというその一つは、
いいか、それが全てだと言ってもいいんです。
33:03
イエス様と一緒に生活ができるという安心感というのは、
これは本当に感謝なことですよね。
自分はもうこっちを向いているんですけれども、
けれどもイエス様の方からは、あっちを向いてしまうというようなことはないんです。
私たちがこっちを見て、このイエス様を後ろにするようなことがあっても、
イエス様が私たちを見据える眼差しというのは、
あのイエス様を裏切ってしまったペセロを見るあの眼差しなんです。
こっちはもう向こうに向いているんですよ。
それかこの関係で言うならば、
ここにいなさいよというのに、もうあっち行ったりこっち行ったり、
何かここに行ったら満足すべきものがあるのではないかと、
そういうふうに言っているんですけれども、
イエス様が私たちに向けてくださっている眼差しというのは変わらないですね。
早く戻ってきて、ここにおりなさいよ。
神が私たちとともにいてください。
私たちの神様と一緒になる。
神がイエス様が私たちとともにいらっしゃるという、そういう根拠ですよ。
よくこんな例を言うんですけれども、
私たとえばデパートに行って、
そして子供はもう嬉しくてあちこち見てやっていると、
まあ珍しいものがあるからそっとこう行きたい。
それでそこで離れちゃったら大変なことになるわけですね。
私も昔、娘があれば幼稚園官房長と、そんなんでしょうかね、
神戸のデパート、大間デパートに行ったときに、いなくなっちゃったんですね。
どこ行ったんだろうか。
この子は泣かないものですから、泣けばね、みんな寄ってこうやるんですけれども、
もういろんな人が行って来ます。
それで見つけたデパートの掛かりの人がね、
あら、どっか行って、離れちゃっているのか、離れた人は別にね、
お母さん、お父さんと呼ぶ様子もないし、
だからとりあえず扱って、そしてこのお菓子を渡したらもうそれで満足して。
こっちはね、そんなね、エレベーター乗って行ったり、
エスカレーターなんかはとても乗るんじゃないですから、
それでも慌てるようにして、そして二階三階に行ったり、
折りたりなんかして二人手分けしたりしてるんですけれども、
そしたら館内放送だったんでしょうかね、
これこれの服装をした、何歳くらいのお嬢ちゃんが使ってますと言って、
それで行った時から、別にですね、離れてどうの、
度日からどうのって、そんなんじゃない。
もう楽しげにお菓子もらってこうやってるんで、
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もう親にくっついて回るよりはこっちに置いた方がいいみたいな感じで、
そんな感じの、そういうことがありまして。
まあそれをそれに守られたから良かったんですけれどもね、
まあ責任はやっぱり親ですよね。
これもついてると思ったらいつの間にかいない。
こっちがもう何か、その時点で何かあったんでしょうかね、
こういう安いものが。
それでそっちに向かっている時に、いつの間にかこの箱のものがどっか行ってしまったっていう。
だから子供が親の手を握っている関係は、それは危うい。
でもどこにも行かないようにね、親がしっかり手を握っていたならば大丈夫ですよ。
この間東京でね、まるで犬か猫、猫ってあんまり様子見ないんですけれども、
まあ最近は猫もおりますが、犬は必ず紐をつけてしますよね。
そのように、まあ3歳ぐらいの男の子、女の子かなんかとにかく、
こういう童話のとこにつけてね。
そしてこうやってまして、ああ便利だな。
しかもひもよく伸びることもできますし、そういうのまたこうしこうやりますからね。
あれだったらば、まあどこへ行こうが、こうやってたらおりますので。
まああれも一つのコツだけの中に必要なことかなと思いますけれども、
いつも関係つけられておったならいいんです。
しかもその関係が、子供から親の関係ではなくて、
親から子供の関係をしっかり握っている限りは安全なわけですよね。
ここはそういうことですよ。
私に、また父親の言葉で言うならば、この畑に泊まっていなさい。
私たちは幸い、本当にこうしてね、
いらっしゃるものごとにおって、そして、
あっちに行きたい、こっちに行きたいと言うのではなくて、
どこに行ったって、そんなないんだから、
私の畑におりなさいよ。
私のそばから離れないで、いつもここにいなさいよ。
私たちはそういう関係に今置かれているっていう、そのことを持ってきた。
そして、やがてこの二人の関係が、ここはね、さらに読んだらいいんですけれども、
どうぞお帰りになって読んでください。
この二人の出会いを、もっと本格的になっていくわけですよ。
別さんの方は、もう全くそんなことを思いもしなかったんですけれども、
坊主さんの方が、やがて自分の奥さんとして、ルーツを迎えていく。
この違法人の女性の名前が、新学生時代に出てくるところは、
ご承知ですね、イエス様のケースですよ。
そこに、違法人の女として、その数少ない女性の名前が出てくる中の一人がそのルーツさん。
つまり、やがて彼女を通してイエス様が、このダルベが生まれ、
39:04
そしてその強さを通してイエス様が生まれなさい。
そんな思いルーツさんは持っていましたか?
しかも彼女が言っているときは、そのことはわからなかった。
けれども、神様の選びはその人以外じゃないんです。
その人を通してその子たちに、孫たちに、そして末にまで、
しかもこの違法人の女性のその末に、イエス様が誕生なさるという、
これからクリスマスを迎えてまいりますけれども、
イエス様はそういう思いをこのケースで持って、
私たちのために生まれなさったんですけれども、
ルーツさんがなんと、光栄にもね、
そういうイエス様をやがて自分の末として誕生するその先祖ですよね。
神様の選びというのは、本当に一日二日の選びじゃない、
永遠の選びの中で、私たちをしっかり私に届かせなさい。
この関係をね、いつも私たちは覚えていきたい。
お祈りに、お祈りいたしましょう。
ベグミル会主よ、どうぞ私も一人一人が、
ボアズ・トールスのように、ルーツさんにとっては全く未知の世界でしたけれども、
しかしボアズから言われるように、
やがて彼のもとにおいて新しい生活が待っておりました。
本当にあなたはそのところにおいて素晴らしい計画を示し出されておりますが、
私たちにもあなたはその同じ思いを持って、
私も一人一人にその思いを向けてくださっておられることを感謝します。
どうぞ、神様が私たちを本当に愛し抜いて、
そして今にまで導き出されたあなたが、
さらにこれからも守りまた導き、
間違いないあなたのもとにおいてさらに導き出されることを、
神に申し上げまして感謝します。
この恵みの関係をしっかりと覚えていくことができるように。
今から、ともに聖さんの恵みに預かりますが、
どうぞこの上にあなたのいたからの恵みを表してください。
神の皆によって祈ります。
アーメン。
41:27

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