1. 名谷教会 podcast
  2. 2014/08/24:聖日礼拝(旧音源)
2014-08-24 48:46

2014/08/24:聖日礼拝(旧音源)

2014/08/24 聖日礼拝(旧音源)




00:01
皆さん、おはようございます。
一週間、皆さんの祈りとご支援いただきまして、実家に戻って一週間、家族や親戚と久しぶりに会って、楽しい時を過ごさせていただきました。
また、家族みんな元気に無事に帰ってきました。その祈りを感謝いたします。
では、今日も御言葉をいただく前に、周りの方々と握手したり、挨拶して、同じ上げの手を持ちましょう。
ようこそいらっしゃいました。
ようこそいらっしゃいました。
それでは、一言お祈りいたします。
大切な先のお父様、神様、こうして私たちが神の子供になり、またこうして主の御前に喜びの礼拝を捧げることができるこの恵みを心から感謝いたします。
どうぞ必要。
今日も神様の定められたあなたの妻への恵みを、どうぞ一人一人の上に溢れるほど、私をどうぞ降り注いでください。
そして、神様が語ってくださる御言葉に耳を傾け、引き伝い、また行える力もどうぞ私たちにお与えください。
主の御前に謙遜に減り下り、子供が聞きます、主をどうぞお語りくださいという信仰を持って御言葉に学ぶときとさせてください。
このものがくって、主の御言葉と主御自身だけが現れますように、胃でにじだねて、イエス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、今日はキリスト教のエッセンスシリーズの説教、このあるキリスト二回目です。
今日は十字架を主に考えたい、また十字架の意味をもっと掘り下げて深く学んでいきたいとそう願っております。
皆さんは今までですね、人生の中ですごく大変な仕事が終わってですね、ああ終わったといった大声で叫んだことはもしないでしょうか。
あるかもしれませんけれども、私もいろいろありましたけれども、大学三年生のときですね、日本語学科でしたから、秋の学校の学社員のときに日本語で演劇をするんですね。
03:10
あのとき、天国の椅子という劇でしたけれども、それを私がいちなりに演出を頼まれてですね、何度もこたわさなけれど、それが支えられるような感じで、半年以上で、
まあ大体9ヶ月ぐらいですね、毎日のようにあまり日本語をどうぞなかったのに難しい日本語の演劇をですね、それを指導して演出して、そして最後の表劇場で二回上演をしました。
そして一回目が終わって、二回目が終わりました。全部終わってですね、試験者が一人ずつ出て感想を述べて、最後に演出して私がですね、出てですね、最初の言葉が終わった。
大変でした。もうあの、日曜日礼拝もできないこともありましたし、私の以外にもみんなのむくりさんのものだけでしたから、集まって練習したら必ずようにお酒を飲んだりタバコを吸ったり、まあそれもいいんですけれど、それを指導することは大変でした。
努力も足りなかったこともありましたけれども、そういうことを終わって喜びもありましたけれども、私の人生に何かすごく大事なこと、あるいは大きなプロジェクトのような良い仕事を終えて、
最後にですね、喜びの終わった、しまったじゃなくてですね、終わったという喜びの完了した、ああこれ終わってよかったという声を上げるときがしばしばあるかと思います。
ところが興味深いことは、イエス様もあの十字架の上で最後の一言は完了したと言われました。その完了したとは簡単に言えば終わったという言葉なんですよね。
そのイエス様が十字架の上で六時間の痛みと苦しみのせい、完了した、その叫び声はダメだ、もうしまったという意味ではないんですよね。
最大の苦難でした。最大の痛みで、最大の苦しみを終えてイエス様は終わった、完了したと言われたあの見言葉には実は深い意味が込められています。
06:06
私たちは信じています。私たち一人一人の恥、弱さ、あるいは罪、あるいは痛み、苦しみの身代わりとなられて、イエス様が十字架の上で死んで下さったことを私たちは信じています。
皆さん信じていますか?
イエス様の最大のプロジェクトは、最大のお仕事は十字架です。
あなたの罪、恥、あるいは痛み、あるいは苦しみのため代わりに背負われた最大事件、それが十字架なんですね。
一枚の写真を見てみたいと思います。あの映画、ファッション・オブ・クライスト、皆さんご覧になられましたか?
あの一つのシーンです。あの十字架の。今までのイエス様を描いた映画の中で、最もリアルに、あの時代のあの十字架形に最も近い苦しみ、痛みを描いた映画だと強化されているあの場面だと思います。
本当にむごたらしい十字架の死刑です。十字架にかけられる前からイエス様は人たちに罵られました。侮辱されました。鞭を打たれました。
皆さんも映画で見られましたよね。あの鞭の端には、ところどころに金属がついていて、それが身体を張り裂けるこのような痛みが、槍で刺され、両手両足は大人の親指ぐらいの太さの釘で打たれ、
普通の人だから、六時間もあの十字架の上で耐えられないそうです。しかしイエス様は、あの十字架の上で、あの苦しみのお姿で六時間もかけられていました。
血も水分もすべて出てしまって、もう耐えられない、これ以上耐えられないといえる極めての苦しみ、痛みをイエス様はあの十字架で体験なさった。それは何のためなんでしょうか。
それは、私の代わりに、あなたの代わりに、イエス様があの十字架で痛みと苦しみを体験なさったんですね。はい、結構です。そして最後にイエス様が言われた言葉がこれです。
09:19
一緒にですね、聖書を開きたいと思いますが、ヨハネノ福音書19章30節です。ヨハネノ福音書19章30節、新約聖書222ページです。よろしいですか。ではご一緒にですね、30節を一緒に読みましょう。
ヨハネノ福音書19章30節、新約聖書222ページ、新約聖書222ページ、ヨハネノ福音書19章30節、新約聖書222ページ、ヨハネノ福音書19章30節、ヨハネノ福音書19章30節、ヨハネノ福音書19章30節、ヨハネノ福音書19章30節、ヨハネノ福音書19章30節、ヨハネノ福音書19章30節、ヨハネノ福音書19章30節、ヨハネノ福音書19章30節、ヨハネノ福音書19章30節、ヨハネノ福音書19
言われることなく、完了した、完了したと言われたんですね。
では皆さん、この完了した、終わったという意味は一体どういう意味なんでしょうか。
何を完了したんですか。何が終わったんでしょうか、皆さん。
これはですね、もうさよなら、俺死ぬわ、そういう意味ではないんですよね。
こう言い換えるのはどうでしょうか。
イエス様がですね、俺は負けなかった、勝ったんだ、試練を乗り越えたんだ、
大きな大きなこの十字架の救いのこの技を達成したんだ、という意味ではないでしょう。
大きく三つで、この完了した、終わった、その十字架の意味を三つでですね、共に考えていきたいと思います。
まず一つ目は、何を終わった、何を完了したんでしょうか。
それはですね、私たちの痛みと苦しみを背負うということを完了したという意味なんです。
私たち一人一人の痛み、苦しみ、傷、すべてを全部を背負うあのイエス様の大きなお仕事をもう完了した、やり切った、という意味なんです。
12:04
イエス様が、あの十字架で、人間では想定、耐えられない、あの痛み、苦しみを身をもって経験なさいました。
それは何ででしょうか。
私たちの一人一人の痛み、苦しみ、それからですね、心の痛み、心の苦しみ、あるいは肉体の痛み、苦しみであろうが、すべてを背負うことをやり切ったよ、という意味なんです。
だから皆さん、私たちは二度と痛みや苦しみのため、つらく生きる必要はありません。
イエス様はこう言われたんです。
あなた方の痛み、苦しみを全部私がこの十字架の上で背負ったんだ。
背負うこの仕事をやり切ったんだ。
だからあなたは二度とあなたの心、あるいは肉体の痛み、苦しみの上につらく生きる必要はない。
私がすべて全部背負ったんだから、と言ってくださったんです。
皆さん、どれだけ多くの人々が、さまざまな痛みや苦しみのためにつらい日々を過ごしているんでしょうか。
人生の中では、本当に自分でコントロールできないことがたくさんあります。
行き詰まりも多くあるでしょう。
どうしようもないことも多くあるでしょう。
あるいは裏切られたり、傷つけられたり、心を折られたりすることもたくさんあるでしょう。
もちろん人生は痛み苦しみばかりではありません。
喜びも嬉しいこともたくさんあります。
しかし皆さん、ぜひぜひ覚えていてください。
私が信じなければならないことは、
イエス様の十字架の上に、人生のすべての痛み苦しみ問題に対する答えが、あの十字架の上にあるという。
そしてイエス様が、皆さんが背負わなくてもいい、背負う必要がないあの痛み苦しみを、
すべてイエス様が背負ってくださった。
代わりに背負ってくださった。
そして勧誘した。
終わった。
まるでですね、ローンを返済するんですよね。
15:00
私の家は、今までローンを返したこと一度もないんですけれども、
例えば20年、30年ローンを返済するんですよね。
そしたら、返済が終わったら、返済する必要がないんですよね。
同じです。
イエス様が、すべての痛み苦しみという100記号ですね、すべてイエス様が支払ってくださった。
代わりに全部官名してくださったから、ゼロになって、私たちは痛みを背負う必要がないんです。
天気を作られた神様が、人となられて地表に来られました。
それは何のためなんでしょうか。
あなたの痛み苦しみを背負うためです。
いや、背負ってくださいました。
痛みを代わりに背負ってくださいました。
例えばですね、皆さん、親がですね、自分の子供が重い病気にかかっていると、
小児癌とか何とかですね、今の子供も大きな病気にかかっているわけですから、
本当に苦しんで苦しんでいるんだったら、親はだいたいこう言うんですよね。
もうできるんだったら代わってあげたい。
そういう気持ちになるでしょう。
同じなんです。
親は子供の病気を背負うこともできない。
痛みも罪も恥も背負うこともできないんですけれども、
善のなる神様は、神なるキリストは、不可能なことはないんです。
そして神様はですね、その何でもできる、その善能の力をお誓いになりました。
何のためにその善能の力を使われたんでしょうか。
皆さん、もしですね、皆さんだったら、何でもできる善能の力が皆さんにあるんだったら、
皆さんは何のために使いたいんでしょうか。
欲しいものをゲットするんですか。
あるいは、何に使いたいんでしょうか。
もし自分にですね、何でもできる、そんなことないんですけれども、
何でもできる善能の力がもしもあるんだったら、
まず自分のすべての問題を解決する。
そしてお飲みも一億二千万、すべてを救う。
そして欲しいものをゲットするとかですね、そうするかもしれません。
神様は、あの善能のあの力を持って、この企業に来られて、人を止められて、
その善能の力をですね、すべての人の苦しみ、痛み、恥を背負うこと、背負い切ること、
18:03
そして関与することに、その大きなお仕事のために、その善能の力をお使いになったんでしょうか。
本当にイエス様が、私の手が苦しんでいる、痛んでいる、我らの姿を見られて、
本当に変わってあげたいと思って、実際にそれをなかったんですね。
何でそれをなかったんでしょうか。
それは、あなたを愛しておられるからです。私を愛しておられるからです。隣の兄妹姉妹たちを愛しておられるからです。
聖書一箇所、一緒に見てみたいと思います。
旧約聖書、イザヤ書、五十三章、五節です。旧約聖書、1214ページです。
では、五十三章、五節です。一緒に読みましょう。
しかし彼は、私たちの土木の罪のために差し通され、私たちの戸場のために砕かれた。
彼への懲らしめが、私たちに変やのをもたらし、彼への打ち傷によって、私たちは癒された。アーメン。
皆さん、この御言葉、この通りに私たちは信じなければなりませんし、また、苦しい時、つらい時に、この御言葉を何度も何度も繰り返して読んで、この御言葉を宣言していただきたい。
彼への、この彼はイエス様なんですね。イエス様への懲らしめが、私たちに変やのをもたらし、イエス様の打ち傷によって、あの十字架の打ち傷によって、私たちは癒された。
癒されるかもしれない。癒されるでしょう。でもないんですよね。癒されたと御言葉が、このように決まって宣言している。
だったら私たちも、イエス様があの十字架の打ち傷によって、痛み、苦しみ、涙、あるいは心の傷、あるいはつらい思い出、こういった全てを背負ってくださった。
だから私たちは癒されたとですね、この御言葉をですね、つらい時に、苦しい時に、したくないことをしてしまった時に、あるいは自分の弱さに自分が負けてしまった時に、自分の弱さを感じる時に、この御言葉を何度も何度も繰り返してお読みください。
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そしてこの御言葉通りに宣言してください。
彼への懲らしめが私に平安をもたらした。彼への打ち傷によって私たちは癒された。
この二行だけ一緒に読みますか、皆さん。いいですか。
彼への信仰を持ってですね、本当に平安をもたらされた。私は癒されたという信仰を持ってですね、読んでいきたいと思うんですね。よろしいですか。
三杯。彼への懲らしめが私たちに平安をもたらし、彼への打ち傷によって私たちは癒された。アーメン。アーメン。
皆さん、イエス様が皆さんに向かってこうおっしゃるんです。
私があなたのすべての痛みを背負うこの仕事を完了したんだよ。二度と苦しむことはないと優しく語り上げてくださるんです。
その二声をお聞きしたい。イエス様が十字架にかけられ死んでくださったこと。
それは私たちの痛みと苦しみを全部担って、背負うあの仕事を完了させた。これを信じるのが十字架を信じる信仰なんです。
終わった。終わったよ。皆さん本当に終わった。癒されたと信じますか。
私たちは今の肉体は壊れる肉体です。だからいつかは皆死にます。病気のゆえであろうが、事故のゆえであろうが死にます。
しかし皆さん、もしイエス様が私たちの痛みと病みを、苦しみを背負ってくださったことを信じるんだったら、
私たちの死、死ぬこと、この死というのはこの古い肉体が滅びると同時に新しい健康な肉体を得るチャンスであることを私たちは信じなければならないんですね。
この滅びる肉体が滅んでしまって、全く新しい肉体で、身体で、存在で、リアリティで、よみがえること、それを得る恵みのチャンスが好きであることを私たちは信じているんです。
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それが十字架の信仰なんです。それがよみがえりの信仰なんです。
新しい肉体はどんなものでしょうか。例えば、ぽっちゃりの人がスリムな人になるのでしょうか。あるいは、もっとかっこいい、ハンサムな人に変えられるのでしょうか。
私たちはわかります。でも信じているんです。滅びる肉体が滅びるときに、滅びたときに滅びることない新しい肉体を持って、新しい存在で、全然違う存在で、よみがえることを私たちは信じているんです。
それが、この出発が十字架なんです。イエス様が十字架で背負ってくださいました。あなたの痛みを、苦しみを、涙を、あるいは家族のことも、全部取ってくださいました。
だから、私たちは癒やされたんです。そして本当に完了したんです。イエス様が完了したと言われたから、本当に終わったんです。80%終わったわけではありません。あるいは、99%終わったんだけど、1%はまだ残っているよう、そういう意味でもない。完了した。パーフェクトなんです。
だから皆さん、この十字架の御言葉を信じましょう。そして、自分の痛みも苦しみも、病も癒されたと信じましょう。そして生きる秘密は、これが信仰なんです。
皆さんにはどんな痛み、どんな病があるのでしょうか。あるいはどんなストレスがあるのでしょうか。それが肉体の痛みでしょうか。心の痛みでしょうか。あるいは家族の痛みでしょうか。ぜひ覚えていてください。イエス様が全部背負ってくださいました。十字架の上で、だから終わったと言われたんです。
だから皆さん、私たちはイエス様が打たれたあの傷によって、私たちは癒されたんです。だから十字架を皆さん覚えるたびに、十字架の賛美を歌うときにですね、「私は癒された。私は癒された。そして、私は癒してくださる。私は癒されています。」と信じて、御言葉を宣言して、
そして癒されたものに相応しく生きる信仰が私たちに必要なんです。しばしば私たちは諦めてしまうときがあるのではないかと思います。それが体の病気であろうが、あるいは何らかの問題であろうが、もう何度かなるだろうが、無理じゃないかとか。
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諦めていないわけでもないし、諦めているわけでもないし、中途半端な信仰を持っている人をしばしば見るときがあります。
皆さん、イエス様が十字架の上で賛美を歌う。その基準によって御言葉は癒されたと宣言しているんですね。そしたら私たちもその御言葉通りに信じて宣言して歩むのです。それが信仰なんです。
私たちはその御言葉を宣言して御言葉通りに生きるその信仰がしばしば足りないのではないかと思ったりします。今の時代へとよほど多くの人々が苦しんでいるでしょう。しかしそれ以上に多くの人々がイエス様を信じる信仰によって癒されているんです。数え切れないほど多くあるんです。
例えばアルコール依存症の男性が癒されて本当に真実なクリシャンになったこと。暴力団の親分がイエス様に出会ってすべて人生がひっくり返られて真実なクリシャンになって世界選挙のために働いている人々が世界を壊します。
あるいは暴力を振るったり妻を虐待していた夫がイエス様に出会って癒されてもう天使のように赤旗のように変えられた人々。離婚直前の夫婦が本当に生まれ変わって心が癒されて本当に愛するラブラブの夫婦の関係に変えられたことがどれだけ多くあるんでしょうか。
皆さん、信じれません。いや、信じなければならない。私たちは癒されました。私たちは癒されました。
イエス様の願いは私たちの単なる体の病気だけではなく心の病もあるいはあらゆる関係のその病もあるいはストレスも弱さもすべてが癒されて回復されること、それを願ってイエス様はあの電脳の力を十字架の上であの痛みと苦しみを背負うことをなかった。
これで完了したんだ。だからあなたは二度と苦しむ必要はない。痛む必要はない。辛く生きる必要はないんだよ。とイエス様が語ってくださるんですね。だから見事とは信じます。そして歩んでいこうでありませんか。
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2番目。何を完了したんでしょうか。何が終わったんでしょうか。2番目はイエス様は私たちの罪と恥を砕くことを完了されました。私たちの罪と恥を砕くことを完了されました。
その完了というのは先ほども言いましたけれども8割とか9割じゃなくて100%完全に完璧に終わった完了したんです。イエス様は十字架の上で死死を流されて、私たちの内側の罪の性質を完全に砕かれました。完全に砕かれました。
それを信じるならば私たちは神の目に罪のない存在、つまり偽なる存在にされたんです。それが偽人ということなんですよね。私たちを本当に神様から遠ざけて、私たちの人生を潰そうとして、いやもう潰していったあの罪の性質から、悪魔の手から、サタンの手から本当に自由にしてくださったんですね。
それが十字架でイエス様が完了なかった大きなお仕事なんです。
イエス様が十字架の死死をの上に、私たちの過去の恥を罪を完全に砕かれて、跡形もなくなって、私たちは完全に砕いて砕いてください。
人にバレたくない、本当に嫌だと思っているあの恥、あるいは自分の弱さ、本当に昔のあの辛い記憶、恥ずかしい、あの過ち、この過ち、そういった全てをイエス様が十字架の死死を持って洗い流してくださったんです。
洗い流してください。シミも跡もついていないんです。綺麗に綺麗に洗い流してください。
例えば小さい時やってしまった過ちとか、あるいは大人になってからやってしまったゆくないこととか、誰にもバレていない過ちとか、そういったものがあるかもしれません。
33:20
私も小さい時にいろんないたずらをたくさんやりました。まあいちいち言えませんけれども、たくさんありました。しかし皆さん、十字架の恵みは何でしょうか。
私が十字架の御前に、いやこの死の御前にはばかることなく近づくことができる恵みは何でしょうか。それは十字架の死死を信じながら、その恥も弱さも痛みも過ちも罪も死だ洗い流してください。残っていない。
そしてその十字架の死死を、私たちのすべての恥も罪も洗い流して、洗い流してあまりがあるんです。やっと洗い流して、ああしんどい、もう次の人は洗い流せない。
そういうですね、足りない力じゃなくてですね、洗い流しても洗い流してもあまりのある圧倒的な力を持って洗い流してください。それが十字架の力ですね皆さん。これを信じるのが十字架の真実。
十字架の上で血まみれになられて流された血液によって私たちの過去の罪や恥を全部すっきり洗い流してください。完全に洗い流してください。それを信じてください。
むかし洗い流された。またこれを十年後また繰り返す。二十年後また繰り返す。そうする血を死の御前に食い温めて、死が洗い流してくださったことを信じる信仰に立つこと。
そしてはばかることなく死の御前に近づくこと。そして積極的に父を愛し隣人を愛する。それが父が願っておられるあたさくの人生の生き方なんです。
ですから皆さん、あなたの過去の罪、過去の恥などのために苦しむ必要はありません。自分を苦しめる必要もありませんし、他人を苦しめる必要もありません。すべては洗い流されました。残っていないんです。
36:03
これが十字架の力であり、これが十字架の恵みなんです。また十字架の力はどんな罪もどんな恥も完全に砕いて、完全に洗い流してもまだまだ力が余るんです。
やっと終わったじゃなくて、終わってかちえてあまりやという言葉があるように、洗いへてあまりがあるんです。それが十字架の力なんです。
だから皆さん、あたさちは罪許された存在として、安心してイエス様を愛し、安心して生ける神を礼拝し、安心して誇りに高くイエス様に従うことができるんです。
皆さん、あたさちが許しにふさわしい存在になる、ずっと遥かに前に既に許されたんです。それを信じることが信仰なんです。いいですか、皆さん。
だから、罪、恥から死が私たちを自由にしてくださったんです。私たちは自由なんです。皆さん信じますか、皆さん。
どんな罪からもどんな鎖からもどんな恥からも私たちは自由に、そのためにイエス様は来られたんですよね。
四つの福音書に何度も書かれている御言葉の中で、盲人が見えるようにすること、囚われ人を解放すること、そうなんです。
あたさちはイエス様に出会う前に、様々な鎖に縛られていました。囚われていました。
そこから私たちは解放して、奴隷じゃなくて、神の子として自由に生きなさい、自由に愛しなさい、自由に礼拝しなさいと、本当の自由をお与えになった。
それが十字架の恵みなんです。
だから皆さん覚えていただきたいです。私たちは自由に…
三番目、十字架の恵みは、イエス様は私たちをあがなおうことを勧了されました。あがなおうことを勧了されました。
あがなおう、あがないという意味はですね、買い戻す、もっと簡単に言えば、買って自分のものにする、そういう意味があがない、あがなおうという意味なんですよね。
買い戻す。私たちはイエス様の十字架持ちによって、解放される前に、悪の支配下にまだ留まっていました。奴隷でした。罪人でした。希望もない、将来もない存在でした。
39:14
ところがイエス様が、私たちをこの世界を支配しようとしているこの悪魔の手から、私たちを救うことをなさいました。それが十字架の作戦なんですね。
イエス様が必要な代価を支払って、私たちをイエス様のものにしてくださいました。
買い戻してくださいました。悪魔の手から私たちを買って、自分のものに、イエス様ご自分のものにしてくださったんですね。
私たちを買うために、買い戻すために、その代価はどれぐらいのものだったんでしょうか。それはイエス様の命でした。
だから皆さん、例えばこのボールペン、150円ぐらいでしょうか。150円としました。150円払って買いました。そしたらこれは150円のものですね。
私たちはイエス様の命、死しようという代価を払って買い戻された存在ですから、私たちはいくらのものでしょうか、皆さん。イエス様の命のものなんです。
それほど価値あるものなんです。だから私たちは互いに愛し合うべきですし、互いを尊敬し合うべきですし、尊重し合うべきですし、愛し合うべきなんです。
安いものはですね、適当に使って適当に捨てるでしょう。例えば皆さん、コンビニでですね、お弁当買ったらつけてくれる割り箸ですね。
それを使ってですね、きれいに洗ってですね、干して100回あるいは10年使う人いますか。いないでしょう。使って捨てるんです。
それほど価値はないんですよね。もちろんそれによってごみの問題もあるわけなんですけれども、そうなんです。
しかし私たちはイエス様の命という神の命が支払われて買い戻された本当に価値ある存在なんです。
さあ、隣の方の顔と似合いますか。隣の方、夫婦だからもっと見つめて。愛の目で。隣の奥さん、隣のご主人さん、皆さん、毎日見てるから深く聞かないですか。
42:16
それほど価値があるんです。だから愛し合うべきですし、尊重し、尊敬し、会うべきのイエス様が命を捨てられる。
だから皆さん、子供に対しても、家族に対しても、あるいは教会の兄弟姉妹たちに対しても、いや信じてない人々に対してでもですね、
その人々を私はいつも見るときに、ああ、あの人もこの子供もその人もイエス様の命という代価が支払われてあがなわれた存在なんだ。
あるいは主があがなおとしておられる存在なんだ。そのことを皆さんいつも思い起こしてください。思い起こしてください。
大事、大事なものをですね、高い、高価なものを大事にするでしょう。
すみません、例えばですね、大きい高いがんとかあるでしょ、そしたらですね、きれいな、毎日のようにですね、きれいにするでしょう。
あるいはもっと高い陶器とか、そういったものはあればですね、きれいに、きれいに、もっと高いものはですね、健康に預けるんですよね。
それほどイエス様が私たちを大切にしておられる、それが十字架の恵みなんです。
ところが買い戻された私たちも本当に買い戻されてあがなわれてイエス様の命ほどの価値のものにされた私たちも嬉しいんですけれども、
皆さん、買った人が実は一番嬉しいんです。私たちを買ってくださったイエス様が一番嬉しいんです。
それがイエス様の気持ちなんです、皆さん。
そしては買い戻されて、そして呼べない神様をお父さんと呼べるようになった。それが十字架の恵みなんですね。
それが私たちにも非常に嬉しいことですけれども、本当に息子のお父さんのようにですね、皆さんよくご存知でしょう。
あの場面をよく見ましてですね、息子が本当に嬉しく嬉しく、そういう表現はあまり書かれていないんですよ。
45:00
しかしお父さんはですね、向こう帰ってくる息子をですね、もう駆けつけてですね、喜んでですね、新しい服を、指輪を、宴会をしてですね、喜んで、
それがイエス様の気持ちなんです。それが十字架の恵みなんです。儚うことを買い戻されて。
だから私たちは世のものではない。罪のものでもなく、痛みのものでもなく、傷のものでもなく、あるいは怒りのものでもなく、世の支配者の悪魔のものでもなく、誰のものですか?
イエス様のものです。神様のものなんです。買い戻されました。完了したんです。まだ借金は残っていないんです、皆さん。
皆さんもしですね、車をですね、ローンで買ったらですね、そのローンをですね、最後の1円まで返済するまでは、その車はあなたのものじゃないんですよ。
ローンというのは田んぼですから、神国はどこかのものなんです。その借金を全部ゼロになるまで払うまでは私のものでないです。しかし全部払い切ったらですね、それが私のものになるんですね。
でも5年仕上げたらもう車はボロボロになっているかもしれませんけれども、同じなんです。私では神様が罪に対する、腐りに対する全ての代価を完全に支払ってくださって、完了した、終わったと十字架で宣言してください。
だから皆さんは誰のものですか?イエス様のものです。メッセージを終わりたいと思います。イエス様の十字架はあなたにとってどんな意味がありますか?
イエス様が十字架の上で流されたあの血を、背負われた痛み、恥を考える時に、それはあなたにとってどれくらいの意味があるんでしょうか?
イエス様は罪を背負われて、痛みを背負われて、罪の性質を砕かれて、私たちを買い戻すために支払いを払って、自分の血を流してくださって、私たちを自分のものにしてくださったんですね。
そしてそれを中途半端にやったのではなく、イエス様は完了なかったんです。終わった、やり切ったよ、とイエス様は語っていました。
ですから皆さん、自分自身に、また私たちは宣言しなければならないんです。皆さんに宣言したいです。言葉によって宣言したいです。
48:06
あなたは癒やされました。あなたは癒やされています。あなたは自由です。あなたは神の子供です。神ですか?お祈りします。
では今日の御言葉を覚えて、本当に、主よ、私は癒やされました。主よ、私は自由です。私はあなたのものです。この十字架の恵みを感謝します。
この御言葉の恵みを覚えて、イエス様の御言葉を覚えて、あの十字架の完了したと宣言してくださった、あの御言葉を信じて、感謝して、今から心合わせて御一緒にお祈りいたしましょう。しばらくお祈りいたしましょう。
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