2025-02-23 29:47

聖霊と真理による安らぎ 25/2/23

ヨハネ-26 からの礼拝メッセージ。2025年2月23日録音。

00:01
それでお読みします。ヨハネの福音書4章15節から16節。
彼女はイエスに言った。
主よ、渇くことのないように、ここに組みに来なくてもよいように、その水を私に下さい。
イエスは彼女に言われた。
行って、あなたの夫をここに呼んできなさい。
彼女は答えた。
私には夫がいません。
イエスは言われた。
自分には夫がいないと言ったのはその通りです。
あなたには夫が五人いましたが、今一緒にいるのは夫ではないのですから、あなたは本当のことを言いました。
彼女は言った。
主よ、あなたは預言者だとお見受けします。
私たちの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなた方は礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。
イエスは彼女に言われた。
女の人よ、私を信じなさい。
この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなた方が父を礼拝する時が来ます。
救いはユダヤ人から出るのですから、私たちは知って礼拝していますが、あなた方は知らないで礼拝しています。
しかし、誠の礼拝者たちが、見た目と真理によって父を礼拝する時が来ます。
今がその時です。
父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。
神は霊ですから、神を礼拝する人は見た目と真理によって礼拝しなければなりません。
女はイエスに言った。
私はキリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。
その方が来られる時、一切のことを私たちに知らせてくださるでしょう。
イエスは言われた。
あなたと話しているこの私がそれです。
以上です。
今日はこのところから、
聖霊と真理による安らぎと題して御言葉を取り継ぎます。
皆様おはようございます。
今日は2月23日、明日24日ですね。
ロシアがウクライナに侵攻してから3年になるという月ですね。
ニュースでもいろいろ話題になっています。
世界もそうですけれども、日本でもですね、まだ寒波がやってきましてですね。
青森などの東北地方では、また北陸でも雪が大変で事故なども起こっているようです。
その中ですけれどもね、日も長くなってきて、日の出が6時半を切って6時20分台になってきたり、
日の入りもですね、5時半より後になってきて、少しずつこうはるめいてきている方もいます。
03:01
その中ともに御言葉から学んでいける、また今週も学んでいきましょう。
先週からですね、サマリアの女性とイエス様の会話のところから見ています。
先週の続きなんですけれども、先週のようにですね、会話がさらに進展して深まっていく様子がわかります。
つまり、毎日井戸に水を汲みに行くような日常生活のことから、神様を礼拝する生活へと話が進展していきます。
また、5人の男性と結婚離婚を繰り返した人間関係ということから、飯や救い主とその人との関係というところに話が進展していきます。
あるいは、喉の渇きから心の渇きとかですね、神を求めることによってしか癒すことができない、
ある程度言えば、霊の渇き、そのことについて話がですね、深まっていく、そういうところが今日の箇所であります。
それはですね、この間見ました3章のニコデモとイエス様とのやり取りのようにですね、日常生活のことから神のこと、永遠のいのちと話が深まっていくことと関係があるわけですね。
ニコデモとの会話では、神の国に入ること、それに関連して赤ん坊として生まれるということと、
聖霊によって神によって上から新しく生まれ変わるということが話題が深まっていく。
それに似たようなところ、それと関連したような話に今日のところもなっているわけです。
今日も3つの点から見ていきますが、鍵の成果はですね、霊と誠によって霊廃する、そういう人を神は求めているというところです。
そこを詳しく見ていくので、最初は霊による霊廃、次は真理による霊廃、またそういう人とはどういう人かということ、どういうことかということになります。
最後に今日決定的な結論になっているイエス様メシアとの出会いということを見ていきます。
一番最初ですね、霊による霊廃というところですね。
4章23節を読んでいます。
しかし、誠の霊廃者たちが、見た目と真理によって父を霊廃する時が来ます。
今がその時です。
父は、そのような人たちを、ご自分を霊廃するものとして求めておられるのです。
まず、ここの部分の結論と言いますか、大事なことはですね、神様は霊であられるお方なので、
神を霊廃する場所、それがエルサレムなのかサマリアなのかということは関係がないとイエス様は告げておられるんですね。
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霊廃の場所が正当かどうかということよりも、霊廃する人が真実か純粋かということの方が大事だとイエス様は言われるわけです。
そういう結論に至るまで、興味深いやりとりが女性とイエス様の間にありますので、そのやりとりを追いながら話を深めていければと思います。
そして、まず先週と同じように背景をおさらいしていかなければいけません。
サマリア人とユダヤ人は、イスラエルが南北に分かれた時から反目していた。
サマリアがですね、日本人との雑婚を強いられたということから、一つ端を発しているんですけど、もう一つ大きな問題、話題がありました。
それは、霊廃する正当的な場所はどこなのか。南のユダヤ人は、エルサレムの神殿でしか正当的な霊廃は行うことができないと主張したんですね。
そして一方、北にいるイスラエル、このサマリア人たちは、前も言いましたが、聖書のどの部分を信じていましたっけ。
モウセゴショですね。そのモウセゴショを信じていたところからですね、ゲルジム山、スカルの側のゲルジム山が正当的な神殿のあるべき場所であり、霊廃の場所である。
というのは、今詳しくなりませんが、そのモウセゴショの葬式などを見ていると、ここにアブラハムが神殿を築いたとかですね、そういう神の民、彼らの父祖がですね、ここで神を霊廃したから、このゲルジム山こそ真の霊廃の場所だ。
そういうことで、どちらが正当的な霊廃の場所かということを争っていたのが、この2つの国というか民族の問題だったわけです。
よく言われるのはですね、温泉饅頭とかにですね、本家とかですね、あるいは本法ということで、どっちが本当なのかというものがありますが、それ以上にですね、このどこが霊廃すべき場所かというのは、民族のアイデンティティにも関わる問題なので、真剣な議論や問題になっていたわけなんです。
そしてそれがイエス様の時代までも続いていたわけなんですね。しかしイエス様はまさに一刀両断に、場所は問題ではない、場所を議論しているということは時代遅れだということを言っているんです。
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なぜか彼はですね、この女性に言っています。女の人よ、尊敬と愛情を込めて、女の人よと呼びかけて、私を信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなた方が父、つまり父なる神を霊廃する時が来ています。
なぜ場所にこだわることが時代遅れなのか。それはイエス様がその理由をこう述べていますよね。神は霊ですから、神を霊廃する人は、見たもと真理によって霊廃しなければなりません。
神なるお方は霊的な存在だからだ、と言うんです。それはどういうことか。それは場所に縛られないお方。キリスト教の専門用語で言うと偏在、どこにでも存在することができる、ご臨在することができるお方だ、と言うんですね。
今の時代、当然、私たちのこの街道で霊廃を捧げられていますが、他の教会でも霊廃が捧げられています。どこの教会が、どの教団が本当の教団なのか。ちょっと広がる議論になりますけど、カトリックなのかな、そういうこともありますよね。
でも、そういう場所ということとか、特に今では場所ということに限られていますが、なぜ場所にとらわれずに、世界中どの時間、どこの場所で霊廃しても、それが正当的なものになるかというと、神様は聖霊によってこの場にご臨在してくださっている。
ルターは、二人でも三人でも、神の御言葉が語られるところ、そこが教会だと言っています。それは少し論でずれますけれども、今ここに目に見えませんが、皆を置かれる神様が聖霊として共にいてくださっておられるので、この教会も神を霊廃するまことの場所であるということができるんですね。
ですから、この見た目によって、ある訳では霊によって霊廃するというのは、そのような霊的存在である神様のことを覚えて、そして聖霊によって霊廃する人だと言うんですね。
聖霊によって霊廃する人とはどういう人でしょうか。
先ほど触れたように、三章でニコデモとイエス様が議論していました。
神の国に入る人はどういう人ですか。それは新しく生まれる人。
新しく生まれる人って何ですか。それは上から生まれる人。
それはどういう人ですか。
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何て言っていましたっけ。水と水玉によって生まれなければ、神の国に入ることができない。
聖霊によって、そしてみずみずしいいのちが満ちあふれるように、新しく生まれ変わった人が神の国に入れますし、ここではこの聖霊によって霊なる神を真実に純粋に霊廃できるということをイエス様は言っておられるんですね。
先ほど申し上げましたけれども、この女性を含むサマリア人は、英語でペンタチクというんですけれども、猛瀬五書しか信じていなかった。創世紀から神明紀まで。
そうすると何が抜け落ちるか。聖霊の約束は旧約聖書どこに書いてありますか。
いつも引用しているの。エテケール書とかですよね。預言書です。つまり預言書をサマリア人は聖書と認めていなかったわけですから、聖霊が下るという約束について鞭だったわけですね。
だからイエス様は、あなた方は本質を知らないで霊廃しているということの中には、そういうことも含めて述べているんですね。
私たちは聖書全体を知っていますし、そしてイエス様を信じて、聖霊によって新しいいのちを授かった。
ですから、聖霊によって真言の神を霊廃できている。毎週当たり前に霊廃が来ていますけど、その意味がどのような意味があるのか。
どれほど幸いで特権であるのかということを、このイエス様の霊によって霊廃する人こそ神が求めている人なんだということから改めて考えていきたい。覚えていきたいと思います。
2番目。霊と真言による真理による霊廃の2番目。真理による霊廃ということについて見ていきましょう。繰り返しになりますが大事なので一緒に読んでみましょうか。
4章24節。神は霊ですから、神を霊廃する人は、見た目と真理によって霊廃しなければなりません。
ここの次は後半の部分の、真理によって霊廃する人について見ていきましょう。
実は、この真実で純粋なイエス様が言っている霊廃者は、その真実な霊廃者の資質は、真理によって霊廃する人なんだと言っているんですね。
神科薬成書をずっと使ってました?皆さん。この今2017年版の前の神科薬成書で、なんて訳されているか覚えています?霊と真言によって、真言という言葉で訳されているんですね。
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ここはもともと真理という言葉、真言という言葉はギリシャ語ではアレーセイヤーという言葉なんです。
多義語じゃないんですけどね。日本語とギリシャ語との難しさというのは、ギリシャ語が意味する広い意味と日本語が言う広い意味がずれているところがあるんですが、
とにかくアレーセイヤーという真理という言葉で真実も意味しますし、真理も意味するというのがギリシャ語の特徴なんです。
そしてとにかくこのアレーセイヤーが言うところの真理というのは、ヨハネの福音書でとても大事な言葉の一つですね。
その大事な言葉の一つはイエス様がご自分を表していった言葉にも表れていますね。
イエス様がこう言いましたね。ちょっと見えますかね。読んでみましょう。
私は道であり真理でありいのちなのです。
イエス様ご自身が私が真理になっているんですね。
ですからこの真理によって礼拝する人というのは、イエス様によって礼拝する人ということと関わりがあるということがわかってくるわけなんです。
それはイエス様によって神を礼拝する人が真理によって礼拝する人という意味はどういうことか。
なぜイエス様を信じてイエス様によって礼拝することが真実な礼拝であり、真理に基づいた礼拝になるのでしょうか。
それはですね、ヨハネの一章一節からずっと継いだことと関わりがあります。
この福音書の中で何がイエス様について明かされてきたか。
それは一章一節から始めに言葉があった。言葉は神であった。言葉は神と共にあったというところからわかるんですけど。
イエス様は天地万物を作られた創造主なる神様と等しく神なるお方であって、そして言葉は人となってこの地に宿られたというように。
その目に見えない天地万物を作られた永遠の神様が人間の形をとってきたのがイエス様だということですね。
なぜイエス様がこの地に来たか。それはいろんな理由があるかもしれません。
それは一つはですね、イエス様はイエス様が語る言葉やなさることによって神ご自身を私たちに見せ、私たちに語られた神を明らかにしたお方だからです。
ありてやに言うと、イエス様を見た人は事の神を見たとイエス様は言っている通りに、神を解き明かすためにイエス様が来た。
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それを言い表した言葉の一つがヨハネの一章十八節ですね。
いまだかつて神を見た者はいない。父の懐におられた独り子の神、つまりイエス様が神を解き明かされたのだ。
この人となられた神の懐におられて、父なる神と親しく親密な関係を持っておられたイエス様ご自身が私たちに神を解き明かされた。
それゆえに私たちはイエス様を知ることによって事の神様を正しく知ることができる。そういう理屈なんですね。
これ富士山ですよね。この辺でも富士山見えますね。見たことあります?
あちこちバス停でも富士見川からあるんです。きれいに見えるところがあるんですね。
皆さんちょっと想像してほしいんですけども、今スマホがあって、スマホで記念撮影を頼まれたとしましょうね。
富士山をバックに写真撮ってくださいと。2,3人の人を入れて、富士山を入れてスマホで写真撮ろうとすると、富士山にピントが合ってしまうと顔がボケてしまうんですよね。
今スマホ便利で顔に合わせて撮るとですね、その人の顔に四角がこうやって出てですね、その人の顔にピントが合うようになるんです。
そうするとその人の顔もはっきり写って、遠景にある富士山もはっきり写るようになるんですね。
何かというと、実は私たちはイエス様を知ることによって、このぼんやりとした神様をピタリと見ることができるんです。
なんとなく神様って祈ることもいいんですけども、私たちがイエス様って祈ることによってピタリと焦点を合ってですね、
神様はイエス様だという確信を持って祈ることができますし、礼拝することができるんですね。
ですからこのようにですね、私たちは当然のようにイエス様を信じているし、イエス様を礼拝していますけれども、何をしているか。
これは神に焦点があった礼拝をして、神に焦点があった祈りを捧げることがイエス様を信じることによってできているんだということ。
そのことを改めて覚えてですね、確信を持って神様を礼拝して、確信を持ってイエス様を祈ることによって神に祈るお互いである、物であるというその意味をみんなは知っていけたらと思います。
最後、そしてイエス様はまさにそのような神を示すメシアとしての正体をこの女性に明かしたんですね。
3番目、メシアであるイエス様。
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女はイエスに言った。私はキリストと呼ばれるメシアが来られることを知っています。その方が来られるとき、一切のことを私に知らせてくださるでしょう。
ここから読んでみましょうか。イエスは言われた。あなたと話しているこの私がそれです。
4章25-26、この最後ですね。あなたと話しているこの私がそれ、すなわちキリストと呼ばれるメシアですと宣言しています。
これは以前見た1章41節でイエス様の弟子のアンデレがですね、私たちはメシアにあったと宣言したのと等しく、それに続く明確なメシア宣言の言葉なんですね。
非常に大事な言葉です。繰り返しますけど、このサマリア人の女性、サマリア人は猛誓五書しか信じていなかったんです。
だからイエス様はですね、救いがユダヤ人から出る、でもあなた方は知らないで礼拝しているという願畜の中にはですね、
救いは旧約聖書の全体を見ればわかるようにユダヤ人の中から出る、つまり私がそれだということに繋がるんですね。
もう1回考えてみてほしいんですけども、前マルコの福音書で目の見えない人がイエス様を呼んだ時に何て呼んだか覚えてます?
救い主よっていう代わりに〇〇の子よって呼んだでしょ。誰の子ですか?アブラハムの子じゃなくて。
ダビデの子よって呼んだじゃないですか。それはダビデ王のような救い主がやがてやってくるという、そういう信仰からですが、
ダビデはどこに出てきますか?旧約聖書の。猛誓五書出てきます?出てこないですよね。
サムエリキからしか出てきませんから、だからサマリア人からしたら、ダビデの子孫が救い主だという信仰はなかったんですね。
でもにもかかわらずここでは猛誓五書しか知らなかったのに、この彼女はメシアが来るということを知っていた。
なぜかそれは神明記の18章18節に、今引用しませんが、猛誓を通して神様がですね、私は後に
あなたのような預言者を使わす、そしてその方が、その者が全てを知らせるということを言っているんです。
実はそのところからサマリア人、この女性も、やがて猛誓のような預言者が来て、その方がメシアだという信仰を持っていたんですね。
そのメシアは何をするかというと、猛誓のように神の真理を全て明らかにする人だという、そういう信仰があったんです。
だから彼女はこの時、自分の結婚歴を言い当てられましたよね。
24:03
そして長年問題となっていた、この礼拝論争について明確な答えを教えてもらいました。
そして神についての真理を解き明かしてもらいました。
ですからここで彼女はうすうす、まさにこの目の前にいる戦士といった、どこの馬の骨かわからない男と思ったこの人は実は救い主なんじゃないかということに思い馳せていくわけです。
だからあなたはそうなんですかということを遠回しに聞いたわけですね。
それについて答えてイエス様は、まさに私はそれですと宣言した。
非常に大事であり感動的な礼拝なわけなんですね。
そして先週見ましたように、私を信じなさいとイエス様は言いましたけれども、イエス様を信じるならばどうなるか。
永遠のいのちに至る泉が心の中から沸き上がってくるわけですね。
それはどのようなことか、いろんな意味がありますけれども、今日見たところから言うと、誠の神を知ることができる栽培です。
誠の神を知ることによって、心の奥底から神、永遠のいのちに至る聖霊の泉が沸き上がる。
それは永遠のいのちに至る誠の神を知ることができるこの栽培なんですね。
そしてそれは心の奥底から永遠のいのちに至る泉を持つ聖霊を持つことによって、私たちは誠の神を礼拝することができるようになったわけですよね。
それをすると何が起こるか。
それは井戸の水を飲んでも癒すことができなかった心の渇き、礼の渇きが満たされますよ。
旦那さんを特会、筆会して、心が満たされなかった、人間関係の中で満たされなかった、そのような心の渇き、礼の渇きが誠の神を知ることによって癒されますよということにつながってくるわけなんですね。
この世の何者によっても満たされなかった神への渇望が、本当の渇きがイエス様を知ることによって癒されますよという福音なんですね。
実はそのことをキリスト教の有名な思想家の一人、アウグスチヌスが、告白という著作の中でこのように表現しているんですね。
これは神様への祈りの言葉なんですけれども、神様に対してあなたは私をあなたのために作られました。
あなたは私を心から賛美されるようにと、礼拝されるようにと作られました。
ですから私たちの心はあなたの中で安らぐまで安らぐことができないのですと言っているんですね。
27:07
そして私たちはイエス様を知ることによって真言の神を知り、心から安らぐことができるわけです。
そのイエス様が神であるというその幸いについて、パウルの言葉、聖書の言葉から最後引用して終わりたいと思います。
コロサイビトの手紙の2章の3節と8節ですね。
ちょっと長いんですけれども、読んでみましょうか。
このキリストのうちに、知恵と知識の宝がすべて隠されています。
キリストのうちにこそ、神の満ち満ちた御聖室が形をとって宿っています。
私たちはこれからもイエス様を知り続け、そしてイエス様を知る幸い、
聖霊を受け、そして真言の神様を知る、そしてその真言の神を礼拝して心満たされていく、
そういう幸いに生きていく疑いであり、教会でありたいと思います。
お祈りしましょう。
天の神様、皆を賛美いたします。
私たちは当たり前のようにイエス様を信じて歩んでおりますが、
その救い主イエス様を知る幸いをまた知ることができてありがとうございます。
あなたは真理であり、神についての真理を私たちに教え、
あなたを礼拝すること、あなたに祈ることは真言の神を礼拝し、
真言の神に祈ることであることを感謝いたします。
どうぞ、あなたが与えてくださったこの幸いなる聖霊の祝福を、
また更に新たに知ることができるように、
そして本当にあなたの前に安らぎ、あなたと人に仕えていく教会であり、
お互いでありますようどうか導いてください。
この願いと感謝を私たちの救い主、主イエス様のお名前によってお祈りします。
アーメン
それでは1分ほど神様に答えて黙祷する時間をとりましょう。
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