00:03
ルツキー1章15節
ナオミは言った、ごらんなさい、あなたの弟嫁は、自分の民とその神のところへ帰っていきました。あなたも弟嫁にならって帰りなさい。
ルツは言った、あなたを捨て、あなたから離れて帰るように、私にひしむけないでください。
あなたの行かれるところへ私も行き、あなたの住まわれるところに私も住みます。
あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。あなたの死なれるところで私は死に、そこに葬られたいのです。
もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、主が幾重にも私を罰してくださるように。
ナオミはルツが自分と一緒に行こうと固く決心しているのを見ると、もうそれ以上何も言わなかった。
以上です。
おはようございます。
今日の良き日を感謝いたします。
今日はプログラムの中に献辞式を入れさせていただいております。
駅ひろき君の献辞式をただ今より行わせていただきます。
まず神聖歌の505番1節2節を賛美いたします。
その間にご両親とひろき君を前の方に出ていただきます。
それではよろしくお願いいたします。
主はれを愛す
主は強ければ
我弱くとも
恐れはあり
我が主 イエス
我が主 イエス
我が主 イエス
我を愛す
我が罪のため
栄えを捨てて
03:00
雨より下り
十字架につけ
我が主 イエス
我が主 イエス
我が主 イエス
我を愛す
今日は本当に神様の祝福のあふれた日であり
またこういうプログラムが備えられたこと
私自身にとっても大変な喜びであります。
今日の献辞式をさせていただくにあたって
またひろき君を今日初めてお会いして
私自身
いつもそういう思いではいるんですが
改めて私が子どもたち
あるいはこういう幼子に接するときも
決してその小さいからとか幼いから
例えば今私はちょっとごめんなさいね
上から見ているその上から目線ではなく
一つの尊い人格として
私たちは神様の前に
どんなものも平等であるというそういう思いで
幼子であってもそれは一つの尊い人格
そしてやがては大きくなり
そして私たちと同じような大人になるわけですから
私たちもさらに開けた
素晴らしいこの未来が開かれている
そういうことをもう一度私自身も覚えながら
この献辞式に臨みたいとそう思っております
まず式辞を読み足します
愛する兄弟姉妹方
先に神の恵みによって授けられた幼子を
神の御前に今
あなたの前に携えて来られました
聖書には
身を子どもたちは神から賜った修行であり
胎の実は報いの賜物であるとあります
主耶穌の両親も
幼子イエスを神の御前に捧げました
この幼子も今
両親の志と信仰によって捧げられようとしています
これは父なる神の御心にかなうことであり
この幼子とその家庭また
教会にとっても大きな祝福の源となります
ですからここに集まっておられる兄弟姉妹方も
このために感謝し神の導きと祝福が
06:02
豊かに与えられるように祈ってください
聖書をお読みいたします
ルカによる福音書の2章
22節から24節それと40節52節をお読みいたします
それから孟瀬の立法による
彼らの清めの期間が過ぎたとき
両親は幼子を連れてエルサレムへ上った
それは主の立法に母の胎を初めて開く男の子は
皆主に性別されたものと唱えられねばならないと
書いてある通り幼子を主に捧げるためであり
また同じ主の立法に山場と一つがいまた家畑の
雛庭と定めてあるのに従って
犠牲を捧げるためであった
幼子はますます成長して強くなり
知恵に満ちそして神の恵みがその上にあった
イエスはますます知恵が加わり
背丈も伸びそして神と人から愛された
以上です
今日この検事式にあたって
また後ほどこの式紙をプレゼントさせていただきます
この式紙に
ルカによる福音書2章の52節のその言葉を添えさせていただきました
知恵が進み背丈も大きくなり神と人とに愛された
ひろきくんが
神と人とに愛されるそういう人に育ってほしい
そして神と人とに愛された人は
神を愛しまた人を愛するそういう人になると
聖書は約束しております
本当に幸いなことであります
それでは
このひろきくんのためにお祈りをいたしましょう
それじゃあ抱っこしてお祈りしましょう
経験がありますからね
それじゃあひろきくんのためにお祈りするね
はい
それじゃあお祈りしましょう
慈しみ深い天の父なる神様
この幼子あなたからの修行
また賜物として授けてくださり
今日まで守り育ててくださいましたことを感謝いたします
両親はこの幼子をひろきと名付け
今見前に捧げ
生涯主の道を歩ませたいと願っておられます
どうか豊かな恵みをもってこの幼子を受け入れ
これを祝し身も魂も健やかに成長し
09:03
神と人とに愛され
また神と人とを愛し
主の恵みと両親の養育に応えるものとならせてください
またこのことによって家族一同に祝福を増し加えてくださいますように
私たちの救い主イエスキリストの皆によってお祈りをいたします
アーメン
おめでとうございます
それでは神聖歌の505番シュワレオアイスの3節4節を賛美して
献辞式を終わらせていただきます
わああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
あああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ
ええええええええ
4 a
はあああああああ
それでは聖火隊に参入していただいて、 その後、内田先生より本庁の説教をいただきます。
12:23
聖火隊に参入していただいて、 その後、内田先生より本庁の説教をいただきます。
聖火隊に参入していただいて、 その後、内田先生より本庁の説教をいただきます。
聖火隊に参入していただいて、 その後、内田先生より本庁の説教をいただきます。
聖火隊に参入していただいて、 その後、内田先生より本庁の説教をいただきます。
聖火隊に参入していただいて、 その後、内田先生より本庁の説教をいただきます。
聖火隊に参入していただいて、 その後、内田先生より本庁の説教をいただきます。
聖火隊に参入していただいて、 その後、内田先生より本庁の説教をいただきます。
15:06
聖火隊に参入していただいて、 その後、内田先生より本庁の説教をいただきます。
聖火隊に参入していただいて、 その後、内田先生より本庁の説教をいただきます。
聖火隊に参入していただいて、 その後、内田先生より本庁の説教をいただきます。
改めましておはようございます。 今日は5月第2日曜日、母の日であります。
私自身も教会学校に今日も参加させていただいて、 改めてこの母の日のことを教えられました。
母の日ができたいきさつというのは、 これは教会を通してできたということは、
皆さんも御存じだと思います。 2つの理由があろうかと思うんですが、
1つは聖書の出エジプト記の20章の中に 指名されています孟瀬の十回、
その中にあなたの父と母を敬いなさい。
あなたの父、父はちょっと置いておいて、 お母さん、今日はお母さんの日。
父の日も来月あるんですが、どちらかというと地味で、 お母さんの日の方が何か華やか。
どうしてだろうか、そんな気もするんですが、 おそらくどなたかが母の日があって、
そして父の日がないというのはちょっと寂しいな。
お父さんにも父の日を作ってあげてよというような、 そんなところであったのかもしれませんが、
この母の日ができたもう1つの経緯は、 教会学校でも教えていただいたように、
ジャーヴィスさんという教会学校の先生が 熱心に教えておられて、
娘のアンナにも教えておられたわけですね。
そしてやがてジャーヴィスさんが召されて、 娘のアンナさんがお母さんを忍ぶ記念会で来られた方々に
カーネーションを配った。
そのことを皆さんがとても感動され喜ばれて、
それじゃあこれからお母さんの日というものを定めて、 そしてカーネーションを配るなどして、
18:08
お母さんを感謝する日を作りましょうということで、
全世界的にそれが広まって、 日本でもそのことをするようになっているわけです。
今日はそういう意味でお母さんを感謝する、 そういう日であります。
もちろん今日だけではありません。
毎日毎日お母さんに感謝を表すわけですが、
お母さんといってもいろんな立場のお母さんが おられると思うんですね。
もうすでに召された私たちのお母さんもいましょうし、
現役でありますけれども子育ても一応終わって、
今はこの孫の世話に忙しいという、 そういうお母さんもおられます。
あるいはもう子育て真っ最中のお母さん、 そういうお母さんもいますし、
これからお母さんになろうかという、 そういう方もおられます。
それぞれの立場で私たちはそのお母さんを覚えて、
そして今日感謝し、またお祝いしたいと、 そう願っておるわけです。
私もこの母の日にあたっていろいろ思いついたことを、
死とはいかないまでもこの文章にしてみました。
二つの母の日ということです。
今日は母の日。カーネーションを添えてお母さんに感謝する日だ。
もう一つ母の日がある。それは私の誕生日だ。
私はその日のことを何も知らない。
しかし母にとっては忘れられない日だろう。
その日母は大きな仕事を成し遂げた。
今それが何よりの証拠だ。
命を生み育てる母は偉大だ。
その母を覚えて感謝と祝福の祈りを捧げます。
お祈りをして今日の御言葉にあいらせていただきます。
恵み深い天の父なる神様、御言葉を通して今日も示されています。
あなたの父と母とをうやまいなさい。
母なしに私たちはこの世に生まれていません。
どうぞその母を私たちがもう一度覚えることを通して、
母に感謝し、またイエス様がその良心にお使いなさったように、
私たちもまた良心に使い、
そして母の慰め、また祝福のもとへとなることができるように、
21:02
私たちをもう導いてください。
今日この母の日が定められたこと、
これは神様の身胸にかなっていることです。
どうぞお母さん方をあなたが癒し、
癒し、また慰め、
そしてそのお母さん方をねぎらって、
今日私たちも感謝をする日とさせていただけるように、
今日もまた御言葉を通してあなたの身胸を教えてください。
今日の日に備えられたあなたのメッセージを
静かに心鎮めて聞くことができるように助けてください。
委ねて主イエスキリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日はルツキを開いていただいております。
このルツキを読んでいて私が感じたことの一つ、
それはルツキ、それはルツのことが書いてあるからルツキ、
なるほど、そうでしょう。
しかし特にこの一章をずっと読んでおりまして、
ここに登場しますナオミという人。
このナオミなしにこのルツキは成り立たない。
ナオミなしには神の御業は現れなかった。
そのナオミを通して神様の恵みと祝福が豊かにあふれ出た。
そういうことを思うときに、
この書はナオミ記と言っても過言ではないと言えるのではないか。
それぐらいこの特に一章においてナオミという人のその登場というのが
非常に大切な働きをしている。
そう感じたわけです。
私たちは今日母の日にあたって、
このルツキ一章のナオミの記事を通して、
母が子に残すものというものを考えてまいりたいとそう願っています。
まずこのナオミという人の前半世はどんなものであったか、
そのことをおさらいしたいと思うんですね。
お母さんもルツキお嫁になった方もおられましょうし、
この一章の中でナオミがどういう半世を送ったのか、
そのことが書かれてあります。
ナオミという人は妻として、また母として三つの試練を受けています。
一つ目の試練、それは一節、
捌き司が治めていた頃、この地に貴賓があった。
24:04
要するに夫エリメレクと二人の息子、そしてこのナオミ、
この者たちがユダのベツレヘムというところに暮らしておったわけです。
おそらくどういう生活をしていたのか、私たちはイメージするんですが、
本当にこの親子、それぞれ幸いに暮らしていたんだろう、
そういう中で貴賓が起こった。
そして彼らはユダのベツレヘムからモアブのノエユキ、そこに留まったとあります。
ですから彼らは住みなれたユダのベツレヘム、
そこはもう貴賓で住めないということで、
おそらく夫エリメレクの判断でしょうか、
食料のあるモアブの地に移り住んだということがここに書かれてあります。
このモアブというところは違法人の地です。
ある仲介書、仲介書というのは正解ではないんです。
いわゆるその人が感じたことを一つの参考として書かれた。
いろんな仲介書があるんですが、そのうちの一つの仲介書は、
神の物たる者がそういう違法人のところに行ってはならぬということが書いてありました。
しかし私はどうしてもそうは思えませんでした。
やっぱりこの貴賓、何とかしてこの一家を支え、
そして自分たちも生き延びないといけない。
やむなくこのモアブの地に行かざるを得なかったのではないか。
そうでなければこの一家は生き残れない。
そういうふうにして夫エリメレクもやむなくモアブへの移動を決心しただろうし、
ナオミもその夫についていく。
そしてどれぐらいの年齢だったか。
二人の息子も連れてモアブの地に行った。
なれない地、あるいは見知らぬ地に行くということは、これは大変な決断であろうし、
不安もいっぱいあろうかと思うんです。
そういう中で彼らはモアブの地へ行ったということが一つ挙げられます。
前にナオミを襲った試練、それは三節。
ナオミの夫エリメレクは死に、彼女と二人の息子が後に残された。
モアブの地で何とか暮らしを始めた。
27:00
そういう中で夫エリメレクが亡くなってしまった。
これはナオミにとっては大変なショックであり、
このなれない地で、これからこの二人の息子と三人、どうしてやっていけばいいんだろう。
一家の主を失った、そういうナオミが。
そういう中でもナオミは一生懸命働き、あるいは子育てをしたんでしょう。
二人の息子はやがて成長して、モアブの女性を妻に迎えることができたとここに書かれています。
二人の息子はモアブの女を妻に迎えた。
一人の名はオルパで、もう一人の名はルツであった。
こうして彼らは約十年の間そこに住んでいた。
ナオミにとってはやっと訪れた幸いな時、息子たちが成長して、それぞれ妻を迎えた。
これでやっていける。しかしそれも十年しか続かなかった。
そして第三の試練がナオミを襲うわけです。
なんと二人の息子も死んでしまうのです。
五節、しかしマフロンとキリオンの二人もまた死んだ。
こうしてナオミは二人の子供と夫に先立たれてしまった。
この時ほどナオミは絶望と言いましょうか、もうがっかりと言いましょうか。
そんな思いになったんだろう、そう思います。
神様どうしてこんな目に遭うんですか。
これからどうして生きていけばいいんでしょうか。
恐らくナオミは日々神様に祈りを捧げていたことでしょう。
でもこの時ばかりはそんな祈りしか出てこなかったのではないか。
どうしてですか、なぜですか。これからどうしてやっていけばいいんでしょうか。
夫にも先立たれ、また息子たちも妻を迎えた。
そんな中でまた息子たちも死んでしまう。
そういうまた失望の中でナオミは生きていかざるを得なかった。
そういう中で彼女は一つの決心をするわけです。
それはもう一度ユダの地ベツレヘムへ帰ろう、そういうことでした。
30:06
ベツレヘムでは寄金が収まったようだというそういうことを耳にしたからユダの地に帰っても食べていける。
しかし自分自身この失意の中にあることに変わりはなかったろうとそう思うわけです。
ナオミは残された二人の息子、嫁たちと三人でユダの地ベツレヘムへ向かうわけですが、
その帰る途中でナオミは二人の嫁たちに言いました。
あなた方は生まれ育ったモアブの地に戻りなさい。
ユダの地ベツレヘムに行っても幸いはないでしょう。
私一人で帰りますからあなたたちはモアブの地に戻りなさい。
そこでまた再婚でもし、そして幸せに暮らしなさい。
それがあなた方にとって一番いいことですから。
しかし二人の嫁は嫌です。あなたについていきます。
ナオミはダメです。あなたたちはモアブに帰りなさい。
嫌、ついていきます。ダメです。ついていきます。ダメです。
そういうことが何度繰り返されたことでしょうか。
オルパはやむなくそのシュート目に従って帰ることを決めました。
そしてモアブの地に帰っていきました。
ところがもう一人の嫁ルツはナオミにすがりついていたと書かれてありました。
ルツはそのシュート目のナオミにすがりついていた。
そのすがりつくルツの力強いこともさることながら、
このルツの言った言葉にナオミはもうこれ以上何も言えないと思ったわけです。
16節、17節、ルツはこのように言いました。
あなたを捨て、あなたから別れて帰るように私に仕向けないでください。
あなたの行かれるところへ私も行き、あなたの住まれるところに私も住みます。
あなたの民は私の民、あなたの神は私の神です。
あなたの死なれるところで私は死に、そこに葬られたいのです。
もし死によっても私があなたから離れるようなことがあったら、
主が幾重にも私を罰してくださるように、
この言葉にナオミはもうこれ以上何も言わなかったと記されております。
33:06
こうしてナオミとその嫁ルツは二人してユダの地、ベツレヘムへと帰っていくのであります。
この後、2章からルツとナオミの夫、エリメレクの一族の親族、ボアズとの出会いがあって、
そして物語は展開していく、そういうことになっているわけです。
私たちは今日母の日、このルツ紀の一章を通して、母ナオミが何を残したのかということを考えたいと思うんです。
この残すという漢字に、この遺産の遺という漢字を当てたのは、ただ残すだけではなく、
それは後世に伝えられていく、あるいは代々受け継がれていくという意味を含んだ残すということです。
ですからこの漢字を使わせていただいております。
母ナオミは何を残したのか。
一つは母ナオミはイエス・キリストにつながる子孫を残した。
やがてルツとボアズは主にあって結ばれて、そして子を設けます。
ボアズもルツもナオミの子ではありません。
しかしナオミがマフロンとキリオンを設けたわけです。
二人の息子を設けた。
そしてその息子たちにモアブの女性、そしてルツとの出会いがあり、そのルツを嫁として迎えることができたわけです。
ですからナオミが息子を設けなかったら、ルツとの出会いもないし、ルツを嫁として迎えることもなかった。
そのルツを通してオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、エッサイにダビデが生まれ、
そしてやがてヨセフマリアを通してイエスキリストが生まれるというキリスト誕生へとつながっていくわけです。
このことを見るときにナオミが息子を産んだこと、息子を残したということ、
これが実にナオミにとっては大きな仕事を成し遂げたということであるわけです。
ナオミはイエスキリストにつながる子孫を残した。
二つ目にこの母ナオミは何を残したのか。それは彼女自身の生きざまを残したわけです。
36:01
このルツという人はモアブの地の人、そしてナオミと夫エリメレク、そして幼子がモアブの地にやってきたわけですね。
想像しますにルツは結婚する前からナオミさんのことを見ていたかもしれない。
夫に先立たれて二人の息子を買い替えしく育てている姿をどこからか見ていたのかもしれない。
あるいは見ていなくても近所の人からナオミさんの噂を聞いていた、そういうことも言えるわけです。
そしてやがて神様の導きでナオミさんの息子に嫁としてとついだルツ。
今度はお執留さんであるわけです。そのナオミとルツは一緒に暮らし、そしてナオミもこの息子、嫁と一緒に暮らし、
いろんなことを話した。一緒に料理を作りながら自分が聞いたことを見たこと、あるいは体験したことをこの嫁のルツに話したかもしれない。
ルツもその執留さんからいろんなことを教えていただいた。そういうことを想像するわけです。
そういうナオミと暮らしたこの10年の間、嫁としてシュート女として、そして自分たちのそれぞれの夫に仕えていく、
その中でナオミはその自分の生き様をルツに示していった。自分のありのままの姿をルツに示していった。そういうことが言えるだろうと思うんです。
ルツはそのナオミさんの生き様をわざわざと見て、そしてしっかりと自分の心にそれを刻みつけたわけですね。
ルツが後に言いました。あなたの行かれるところへ私も行き、あなたの住まれるところに私も住み、あなたの民は私の民です。あなたの死なれるところで私は死にます。そこに葬られたいのです。
そこまでルツが言っている。これはルツがそのナオミの生き様に、その人格とその生き様に何か魅力を感じてこの人についていきたい。もちろん立場としては嫁でありシュート女でありますからその人に従っていく。
それとはまた別に一人の人格として一人の人としてその生き様に魅力を感じてこの人についていこう。そうルツは決心したんだろうとそう思うわけです。
39:13
ナオミは自分では意識していなかったでしょうがルツにその自分の生き様を残していった。そう言えると思うんです。
三つ目にこの母ナオミは何を残したのか。それは信仰を残した。それはルツの言葉に現れています。あなたの神は私の神です。
これはルツの信仰告白。モアブの地にはモアブの人たちが信じていたものがあったわけです。しかしルツはナオミとの出会いを通してあなたの神は私の神です。ルツはそう信仰告白をしました。
あるいはルツにそう言わしめたものそれがナオミの信仰であった。そう言ってもいいわけです。ナオミさんあなたが信じておられる神様なら誠の神様です。
ナオミさんあなたが信じている神様なら間違いない。あなたが信じる神様なら私もそれを信じます。そうルツに言わしめた。それはナオミの信仰のゆえであったわけです。ナオミは実に尊い信仰というものを残したわけです。それがルツにしっかりと受け継がれていった。
信仰それはいつまでも朽ちることはありません。信仰は誰にも奪い取ることのできないものです。信仰というのはどれだけ多くのお金を積んでも得られることのできない尊いものであります。
そして信仰は私たちにとってその救い主イエスキリストの永遠の命につながる道であります。聖書に天に宝を積みなさい。そういう言葉があります。まさに信仰というのは私たちが天にまで携えていくことのできるかけがえのないものです。
私たちはいかにやがてこの地に置いていかなければならないことに熱心であろうか。天にまで携えていくことのできるものに熱心になりなさい。私たちにとって今大事なことはもちろんこの地上で生きていくこと。それも大事です。しかしそれで終わってはいけない。天にまで携えていくことのできる。
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それは信仰です。この信仰を私たちをしっかりといただき、そしてまたそれを次に残していく。また受け継がれていく。そういうことをこのナオミの記事から教えられるわけです。
私たちは賛美をいたしますが、信仰こそ旅路を導き支えてくれる杖だ。信仰こそ弱気を強める力である。ナオミは数々の試練を受けましたが、信仰によってこの試練を乗り切った。そうとも言えるわけです。
ナオミは実にこの図に信仰という尊い遺産を残したわけです。きょう母の日、私たちは親として子や孫たちに何を残すのかを改めて考えるときとさせていただきたいと、そう願ってお祈りをいたしましょう。
あなたの神は私の神です。天の父なる神様、きょうすべてのお母様方を祝福してください。すでに天に召されたお母様方をあなたの御手に委ねます。
また現役で労しておられるお母様方には、どうぞ慰めを与え、また励ましを与え、そして新しい力を注いでくださって、その尊い務めを全うすることができるようにお助けください。
そしてきょうもう一度、信仰の継承ということについてお示しくださったことも感謝をいたします。私たちが残すべきもの、受け継がれていかなければならないものは何なのかをしっかりと覚えて、それを伝えていけるように神様どうぞお助けお導きくださいますように。
終焉様の尊い皆によってお祈りいたします。
アーメン。