1. 名谷教会
  2. 2011/09/11:聖日礼拝(旧音源)
2011-09-11 48:30

2011/09/11:聖日礼拝(旧音源)

2011/09/11 聖日礼拝(旧音源)


00:02
そこでプテセオは、口を開いてこう言った。
これで私は、まっきりわかりました。
神は偏ったことをなさらず、どの国の人であっても、
神を恐れかしこむ、正義を行う人なら、神に受け入れられるのです。
神は、イエス・キリストによって、
平和を述べつかえ、イスラエルの子孫に言葉をお贈りになりました。
このイエス・キリストは、すべての人の主です。
あなた方は、ヨハネが述べつかえたバクテスマの後、
ガリラヤから始まって、ユダヤ全土に起こった言葉をよくご存知です。
それは、ナダレのイエスのことです。
神はこの方に、精霊と力を注がれました。
このイエスは、神がともにおられたので、
めぐり歩いて、よい技をなし、また悪魔に生せられているすべてのものを癒されました。
私たちは、イエスがユダヤ人の人、エルサレムットで行われたすべてのことの証人です。
人々はこの方を、火にかけて殺しました。
しかし、神はこのイエスを、三日目、三日目に呼びかえられて、
あらわれさせて下さいました。
ありがとうございました。
続きまして、聖火隊に、神聖火318番を賛美していただき、
その後、内田先生より、神は偏り見ないと題しまして、メッセージをしていただきます。
神は偏り見ないと題しまして、メッセージをしていただきます。
神は偏り見ないと題しまして、メッセージをしていただきます。
神は偏り見ないと題しまして、メッセージをしていただきます。
神は偏り見ないと題しまして、メッセージをしていただきます。
神は偏り見ないと題しまして、メッセージをしていただきます。
神は偏り見ないと題しまして、メッセージをしていただきます。
03:04
神は偏り見ないと題しまして、メッセージをしていただきます。
神は偏り見ないと題しまして、メッセージをしていただきます。
神は偏り見ないと題しまして、メッセージをしていただきます。
神は偏り見ないと題しまして、メッセージをしていただきます。
おはようございます。
9月の第二聖日をここに迎えております。
今日も御言葉をいただきたいと、そう願っております。
お祈りをして、今日の御言葉を取り継がせていただきます。
御声を聞かば、今すぐに。
御霊の言える如くせよ。
心を固くするなかれ。
恵み深い天の父なる神様、
あなたはこの礼拝の主であられますから、
最初から最後まで私たちと伴って、
この礼拝を導いていてくださることを信じて委ねています。
どうぞ、今、時と場所を一つにして、
あなたを賛美、また、礼拝しております。
この礼拝をあなたが清めてお受け取り下さり、
また、それぞれにふさわしく恵みを注ぎ、祝福を与えて、
ここからおつかわしくださいますようお願いいたします。
御霊の言える如く、御言葉を通して、
今日、あなたが語ってくださるその御声を聞いて、
また、それに従いゆくものとしてくださるように、
私たちの思いではなく、心を柔らかくしてあなたを受け入れ、
また、御言葉を信じて従いゆくものとしてくださるようお願いいたします。
まだまだ熱いところでありますけれども、
06:01
皆さんが主を主体求め、神の国と神の義をまず第一にして、
この宮に登ってくださったことを覚えて皆をあがめます。
その、どうぞ、あなたを思う思いを、
神様が豊かに祝福してくださいますように、
神を愛し、また、隣人を愛するその思いを、
また、高めてくださいますようお願いいたします。
弱く乏しく至らないものでありますから、
神様どうぞ、今日御言葉を通してもう一度くだいてくださり、
あなたにふさわしく整えられることができますように、どうぞ導いてください。
今日も様々な事情があって、弱気を覚えて、
また妨げぬ故にここに集えなかった兄弟姉妹方を覚えます。
神様どうぞその場にあって、あなたとの交わりがなされますように、
どうぞまた来る時には、
共にあなたを賛美礼拝できますように、
この礼拝の時を祝福してください。
また、今日でなければ聞くことのできない、
あなたのお声をしっかりと聞いて、
そしてその御言葉を心に蓄えていくことができますよう、
導いてください。
語るものは乏しいものでありますから、
神をどうぞあなたがお支えくださいますように、
全てを御手に委ねて、
主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
イエス様はいつも誰かに会う時に、
おそらくこのシャロームと言いましょうか、平安であるようにと、
こうおっしゃったということが福音書にも出てますね。
私たちがこうして主にお出会いするために礼拝に来る、
その時に、私は平安だから、
今は本当に穏やかで、
だからこの礼拝に行って、
そして神様にそれを捧げるんだ。
果たしてそうでしょうか。
それももちろん祝福でありますけれども、
私は別の教会で奉仕させていただいた時に、
いつも休みなく来ておられた、
御夫婦の方がおられたんですが、
もう欠かさず礼拝は来られたんですが、
礼拝は来て欠席なさったんですね。
そして次の週に、
先週どうなさったんですかと何気なく聞いたんですが、
実はこういうふうに言われたんですね。
実は夫婦でまたいつものように来たんですけれども、
車で運転してきたんですが、
途中で車の中でちょっとザクザクあって、
お互いも心がザワザワしてしまった。
これではいけないと思ってもう帰ったんですと、
09:01
おっしゃったんですね。
私はそのことを聞いて、
それははいけない。
そういう時こそ礼拝に来ないといけないんです。
神様はそういう人を招いておられるんだから、
神様が礼拝を通して必ずその二人の仲を、
また新たに作り変えて、そして平安を与えて、
そして仲直りして送り返して下さいますから、
そういう時休んでどうするんですかということなんですよね。
神様は言われました。
私は正しい人、丈夫な人、そういう人はいらない。
私は正しい人を招くために来たのではない。
罪人を招いて悔い改めさせるために私は来たのです。
ですからもし皆さんが、
今日何か平安がない、あるいはイライラしている、
あるいはもう何かで行きどっている、
もしそうするなら神様はもう大歓迎であります。
私たちもそういうことを前提に、
この礼拝というものを持っているということですよね。
そういう人のために神様はこの礼拝を用意してくださっている。
ですから前にも言いました、礼拝はライブであります。
もう生きた礼拝ですよね。
生きている人たちがみんなそれぞれの生活や心の思いや
さまざまなものを抱えて礼拝に来るわけですね。
ですからそこでもし何かが起こったとしても、
それは当然といえば当然。
むしろ平安無事、何事もなく進んでいく方がむしろおかしいのかもしれません。
むしろそれも祝福でありますけれども、
そういうことを私たちは常に覚えて、
神様は私たちを招いて何をしてくださろうとしているのか、
そのことを覚えながら今日も礼拝を捧げていきたいと思います。
今日は説教のタイトルにもありましたように、
神は偏り見ない。
地の如く偏見ですよね。偏見というものはない。
私たち人間には偏見というのがあるわけですね。
ちょっと偏った見方をしてしまう、そういう弱さがあるわけですね。
ですからそういう人も神様の身元に来て、そして礼拝を捧げていく。
そういう中で砕かれていく。そういうことを思うんです。
別の言い方をすると、要するに神様はバランス感覚を持っておられて、
私たちにもそういうバランス感覚を養いなさいと言っておられるような気がいたします。
よく私たちが健康を保つためにどういう食事をしたらいいんですか。
12:05
大抵の栄養士さんはバランスの良い食事をとりなさい。
あまり一つのもの、自分の好みばかりのものを食べないで、どれもまんべんなく食べなさい。
ですから韓国の料理なんかはすごくいいらしいですね。
いろんなものがたくさん出てくる。そういうバランスの感覚。
あるいはこういうことも言われました。
片足でそして手を広げてどれだけ立てますかというようなことで、
その人の体のバランス感覚はちゃんとなっていますか。
そんなことを言われたこともあります。
あるいは私たちの心のバランス感覚、あるいは魂のバランス感覚はちゃんと保っていますか。
測りというのもいろいろありますよね。
重さを測る測りと天秤のような、どちらに偏っているか、その偏りを修正するための測りですね。
そういうバランス感覚を身につけなさい。
私たちがそれぞれにまた使わされたり置かれている場のバランスはどうでしょうか。
家庭にあってその家庭の何かもしバランスというものがあるならば、そういうものはちゃんと保てるっているだろうか。
あるいはその教会なら教会のバランスはどうだろうか。
そういうことも含めて今日は見言葉からまたいろいろと学ばせていただきたいとそう思っているわけです。
今日のこの使徒の働き、十章全体を読んでいくわけですが、この十章の中に今日は二人の人物のことが書かれてあるということをまず見ておきたいと思います。
十章の一節から八節のところ。
さてカイザリアにコルネリオという人がいて、イタリア隊という部隊の百人隊長であった。
彼は敬虔な人で全家族とともに神を恐れかし込み、ユダヤの人々に多くの施しをなし、いつも神に祈りをしていたが、ある日の午後三時ごろ幻の中ではっきりと神の見つかいを見た。
見つかいは彼のところに来てコルネリオと呼んだ。
彼は見つかいを見つめていると恐ろしくなって主よ何でしょうかと答えた。
すると見つかいはこう言った。
あなたの祈りと施しは神の前に立ち上って覚えられています。
さあ今よっぱに人をやってシモンという人を招きなさい。
彼の名はペテロとも呼ばれています。
15:01
この人はカワナメシのシモンという人の家に泊まっていますが、その家は海辺にあります。
見つかいが彼にこう語って立ち去るとコルネリオはその下辺たちの中の二人と、側近の部下の中の敬虔な兵士一人と呼び寄せ、全部のことを説明してから彼らをよっぱへ使わせた。
ここにコルネリオという人、これはイタリア隊という隊長の百人隊長でありますから、イタリアから来たんだろうなということがわかります。
カイザリアという当時港の近くにある町で、どちらかというと当時ヨーロッパ的なそういう雰囲気のある町。
そういうところにいたコルネリオ。
ユダヤ人からすれば違法人です。
違法人という言い方がふさわしくないならば外国人ですね。
いわゆるユダヤの地にいる人たちの中に外国から来た人ですね。
日本でも外国から来た人が何人かいますが、考えてみますと、そういう人から見ると日本人は外国人なんですね。
ですからお互いいろいろなところから来ているという、そういうことを私たちはここでも見るわけです。
そのコルネリオが幻を見て、そしてヨッパという、これも少し離れた港町なんですが、そこにシモン・ペテロという人がいますから、彼を連れてきて自分たちの家に招きなさいという、そういう幻を見たんですね。
それに従って、それじゃあ3人使わせてペテロさんという方を迎えて連れてきなさいと。
全くの幻なんですね。ペテロさんと約束をして行ったのではないわけです。
ただただ幻の中で見たそのことに忠実に彼はその3人をヨッパへ送った。
一方そのヨッパでどんなことが起こっていたかということですね。
旧説から、その翌日にこの人たちが旅を続けて町の近くまで来た頃、ペテロは祈りをするために屋上に登った。
昼の12時頃であった。すると彼は非常に空腹を覚え、食事をしたくなった。
ところが食事の用意がされている間に、彼はうっとりと夢心地になった。
見ると天が開けており、大きな四季風のような入れ物が四隅を吊るされて地上に降りてきた。
その中には地上のあらゆる種類の四足の動物や羽生物また空の鳥などがいた。
18:00
そして彼にペテロ、さあほふって食べなさいという声が聞こえた。
しかしペテロは言った。主よ、それはできません。私はまだ一度も清くないものや汚れたものを食べたことがありません。
すると再び声があって、彼にこう言った。神が清めたものを清くないと言ってはならない。
こんなことが三回あってのち、その入れ物はすぐ天に引き上げられた。
ペテロがよっぱで見た幻、それがここに書かれてあったわけですね。
神様が備えなさったもの、それは全て清いんだから、あなたはそれをいただきなさい。
ペテロにとっては例えばレビキに記されているような、こういう生き物は食べてもいいがこれはダメだ、これはいいけれどもこれはダメだ。
そういうことを忠実に守っておったわけですね。
そのこれはダメですよと言われていたものもそこに入っておったわけです。
それを神様は私に食べなさい。ただ食べるんじゃなしに、神様が清いとしたものであるからそれをいただきなさい。
立法を忠実に守るペテロにとっては一つのチャレンジでありましたが、それを素直に受け入れて、それでそれを食すということをしたんでしょうね。
これは一体何を言っているのですかということをペテロは考えたわけですね。
いろんなものが入ったその式譜のようなものの中に、そしてこれは清いもの、清くないもの。
いや神様はみんな清いんだ、だからそれを食しなさい。
ペテロは後、これは何か食事のことを言っているのではない。
神様が備えなさったそこに入っているいろんなもの、そういうものをそれこそ偏り見ることなくそれをいただきなさい。
神様は決して何かが良くて何かがいけないという、そういうことはおっしゃらない。
神様が清めたものは全て清いものだ、だからそれをいただきなさい。
すなわちその生き物やあるいは動物、それは人間のことなんだ。
神様がペテロの前に備えてくださったこの人、あの人、その人たちはみな神様が清めた人たち。
そういう人たちを偏り見ないで、どの人とも接して、そして受け入れて、そしてこの神様の恵みの中に生きていくんですよ。
恐らくここから違法人伝道、外国人伝道、そういうものが具体的に始まっていった最初であろうと、そう言われています。
神様ではユダヤ人同胞の人たちへのそういう福音の選挙の働きをしておった。
21:01
ところがなかなか彼らは固くなで受け入れようとしない。
そういうところで少し方向転換のような形で、外国人と言われる違法人の人たちにこの福音を述べていただきなさい。
決して同胞のユダヤ人を放っておくということではなくて、この地球上にはあらゆる人が生きている。
その人たちのどの人にもこの福音を述べて伝えていくんです。
そのことのゆえに、ペテロにカイザリアのコルネリオという人が備えられていたわけですね。
コルネリオも本当の福音に触れるためにペテロという人が必要であったわけですね。
お互い生まれも育ちも違う。そして物の考え方も全部違う。ましてや国籍も違う。人種も違う。
そういう中の二人が神様によって今一つとされようとしている。
そんなことがここに書かれてあるわけです。
ペテロは三人に迎えられて、そしてコルネリオさんのところに行ったわけですね。
二十五節、ペテロが着くとコルネリオは出迎えて彼の足元にひれ伏して拝んだ。
ペテロのこのへりくだった謙遜な姿勢がここに現れています。
出迎えてくれたコルネリオに対して足元にひれ伏して拝んだ。
そしてコルネリオがペテロの足元にひれ伏して拝んだんですね。
要するによく来てくださいました。こんなところにわざわざよく来てくださいましたとひれ伏した。
するとペテロはコルネリオを起こして言いました。
いやいやコルネリオさんお立ちください。私も一人の人間です。
この言葉にこのペテロの今日のこのメッセージ全てが集約されているような気がいたします。
私も一人の人間です。今地球上に何億人いるでしょうか。
そのうちの私はただの一人の人間に過ぎないです。あなたもそうです。
あるいはここにおられるあなたのメス会の人たち、あるいは百人隊長ですからその部隊の人たち、みんなそれぞれ一人一人人間です。
この私も一人の人間に過ぎません。
そういう一人の人間と一人と人間とのこれからのお付き合いどうぞよろしくお願いいたします。
そういうことを彼は言ったわけです。
24:00
28節ペテロはなおこのように言いました。
ご承知のとおりユダヤ人が外国人の仲間に入ったり訪問したりするのは立法にかなわないことです。
ところが神は私にどんな人でも清くないとか汚れているとか言ってはならないことを示してくださいました。
それが幻で見た祝福の中にいろいろな生き物が入っていた。
そして神様はそれを清められてそれを受け入れなさいと言った。
そのことを精霊によってペテロはわかったわけですね。
そのことをここで言いました。
ユダヤ人もイタリア人も外国人だとかそういうものはありません。みんな一人の人間です。
そういうお互いこれから神様の恵みの中に一緒に生きていきましょう。
願わくはこの福音がもっともっと多くの人に伝えられたらいいですね。
そのことのために一緒に励んでいきましょう。
そういうことをペテロは言ったわけです。
34節ペテロは口を開いてこう言った。
これで私ははっきりわかりました。
神は偏ったことをなさらずどの国の人であっても神を恐れえ賢み正義を行う人なら神に受け入れられるのです。
ここにどの国の人であってもどんな人であっても誰でもという言葉が聖書の中に繰り返されています。そのことの一つであります。
偏見というものを捨て去りなさいということですね。
私たちが新しく聖書を読みたい。教会の交わりに来られて。そして一緒に聖書を読んでいきましょう。
というときにこれがなかなか難しい。聖書をそれじゃ漱石から順々に読んでいきましょう。
というのかあるいは新約聖書のまたへの福音書から一緒に読んでいきましょうとお勧めしたらいいのか。
そういう悩む相談もよくありますよね。
それでは私たちが最初に聖書を読んだときどうだったろうかというようなことなんですが。
またへの福音書から一緒に読みましょうと言ってこの名前をちょらちょらっと読んでいってもうやめたという人も何人かおられるわけですが。
これは導き方によりますね。
どんな人もこの名前を読まされて面白いはずはないということ。それはもう当然であります。
この名前を読んでここからこのことが恵みであったりあるいは自分の祝福の中にこういうものが書かれているというのがわかるのはもう少し時間がかかります。
27:21
何でもかんでもすぐにこの恵みや祝福をいただこうということ自体を間違っているわけですね。
このまたへの福音書の最初にアブラハムの子孫ダビデの子孫イエスキリストの経図そしてアブラハムからイサクヤコボというふうに来ているわけですね。
本来このユダヤの人たちが持っていたその経図ということを前提にしますとこのイエス様の経図というのは驚くことがいっぱい書かれてある。
まず第一に男性だけの名前しか載せられてはいなかった。そういうところに女性の名前が出ているということ自体が大変な驚きであったわけですね。
タマルであるとかラハブであるとかルツであるとかマリアさんのマリアも出ています。
こういう女性の名前が経図の中に記されているということを最初にこれを見た人たちは大変な驚きであったわけですね。
イエス様という方はそういう驚かそうとして驚かされているわけではないんですがイエス様の言うことなさることをみんななぜどうしてそういうことがたくさんあったわけですね。
それはイエス様という方はまっすぐに神様を見られてそして自分が精霊によって示されることをいよいよまた行ってきたわけですね。
ただただ神様の御心にかなうことをしておったというそれに過ぎないんですが、経図もそうですね。
このまたいにこの経図を書かせたときにタマルであってもラハブであってもルツであってもマリアという女性そういう人たちの名前も記していいんだ。
要するに男とか女とかそういう偏見を捨てて男女同じように神様の祝福に預かればいいんだということを示されたわけですね。
あるいはタマルという人も人をだまして自分にこう思い起きようとして少し問題があった人です。
ラハブも幽女でありましたしルツというのはモアブの違法人ですね。
そういう本来ユダヤ人の社会の中では問題のあるような人たちそういう人の名前もここに入れられている。
30:01
そういうことも含めてあの人は過去にこんなことがあったからあの人はこういうことだからという偏見ではない。
そういう人もみんな神様の祝福の中に入れられるべきだしむしろそういう人こそイエス様は招いていてくださるというそのことのためのこの経図であるということも言えるわけです。
そのような神は偏り見ることはなさらない。そんなことを私たちはこの経図から見るわけです。
私たちがいろんな面でこのバランス感覚というものをこれから養っていただかなければなりませんが
それは神様の見心というものをまず知らないと私たちもそういうところに到達できないと思います。
同じくマタエの福音書の中に皆さんもよくご存知の天の父は悪い人にも良い人にも太陽を昇らせ正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。
私たち人間は偏見を持つ弱さを持っていますから悪い人に太陽を昇らせとか雨を降らせというその表現は別にしても
ああいう人にはそんないい目させる必要はない。こちらの人は一生懸命熱心にそれこそ良いことをしている。
あの人たちにはいくらしてあげてもいい。私たちのそういう正直な思いがそこに現れます。
しかし神様はそうじゃない。悪い人にも良い人にも同じように太陽を昇らせてそしてその恵みに預からせようとなさる。
正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてその雨の恵みを与えようとなさっておられる。問題はその悪いか悪くないかということなんですね。
人間の側の問題正しい正しくないというそれは人間の側のこれから取り扱われなければならない問題で
天の神様はどの人も偏り見ることのない。みんなに同じように恵みを注いであげたいのだというのが神様のお心であるということ。
そういうことがここからわかるわけです。私たちはそういう神様のお心を知って
そして私たちの心や魂や生活のすべてにおいてそういうバランスがちゃんと保てているだろうか。
あるいはもし自分の中に偏見というものがあったならばそれを砕いていただいて
そして神様が見るような目線で私たちもすべてが見ることができたら幸いだな。
33:06
そういうところには争いも戦いも減っていくでしょうしみんなが平安に穏やかに過ごせていくのではないだろうか。
もちろん言いたいことはいろいろあるかもしれません。あの人はこんなことをしてあんなことをして人に迷惑をかけて
なのにああいう人にそういうものを与えなさるんですか。
私たちはそれはそれとしてその人自身がこれから作り変えられていくという必要は当然のことでありますけれども
神様の目線、神様は私たち人間をどう見られているかということ
それは悪い人にも悪くない人にも正しい人にも正しくない人にも
太陽を昇らせ雨を降らせてくださるみんなが神様の恵みに預かれるようにということを今日も教えられるわけです。
私たちが今置かれているその教会のバランスというものはどうだろうか。
コリントビートへの手紙の中でこの教会というのはキリストの体であるということが言われています。
その体にはいろんな部分、器官があってどの器官も大切である。
この器官はそんなに大切じゃない。
心臓と何とそれさえ保っておけばいいんだというそんなことではない。
私たちが手足が動いたり目が見えたり耳が聞こえたり
また先にいろんな目に見えないいろんな部分があってそれがちゃんと働いて全てが機能しているんだということをコリントビートへの手紙で示して
どの部分どの器官もみんな大切であって
どれが大事どれが大事でないというものはないんだということを示した箇所があります。
第一コリントの十二章の十二節からお読みいたします。
ですからちょうど体が一つでもそれに多くの部分があり
体の部分はたとい多くあってもその全部が一つの体であるようにキリストもそれと同様です。
なぜなら私たちは皆ユダヤ人もギリシャ人も奴隷も自由人も一つの体となるように
ここにもユダヤ人だとかギリシャ人だとか人種国籍そういうものを取り払ってみんな神様の恵みの中に一つなのだ。
あるいは奴隷も自由人もというこれはその人の身分であるとか地位であるとか
36:05
そういうものも取り払って偏見のないみんな一つの体の中の部分として機能していくんだと
偏り見てはいけないそれぞれの持ち場立場の賜物責任それを果たしていくのが
ふさわしいバランスの取れたそういう体である。
確かに体は一つの器官ではなく多くの器官からなっています。
たとい足が私は手ではないから体に属さないといったところでそんなことで体に属さなくなるわけではありません。
たとい耳が私は目ではないからといったところでそんなことで体に属さなくなるわけではありません。
このように神は見心に従って体の中にそれぞれの器官を備えてくださった。
そしてその一つの部分が喜べば他の部分も喜ぶ。
一つの部分が痛めば全体が痛む。
それを教会という一つの交わりのたとえにしたわけですね。
教会にはいろんな人がいる。
しかしその背景やあるいはどういう生まれ育ちあるいは何を今抱えてきても
神様はどの人も偏り見ることなく等しく恵みを注いでくださる。
古い人も新しい人もそんな偏見を持ってはいけない。
自分自身もそういう偏見を持ってはいけない。
自分はまだ新しいからとかあの人はもう古くから始めからいるとか
そういう偏見も持ってはいけない。
そういうことが言えると思うんですね。
男の人だから女の人だからそういうこともない。
年齢もそうです。
年配だからなんだからというそういうこともあってはいけない。
もちろんその敬うとか尊敬するそれは当然のことでありますけれども
偏見というそういう偏った見方というのは取り払われなければならない。
話は少し余談になりますが
日本で会社が人を雇うときに求人広告を出します。
そのときにいろいろ条件を書いてありますね。
まず職種こういう職種を募集します。
そして男の人とか女の人であるとか
あるいは年齢制限何歳から何歳までとか
そういうことが日本ではそれが普通です。
しかしある国ではそういうことは一切書いてはならない。
いわゆるそういう偏見を持って人を雇う
そういうことは許されないということ。
ですからやはりそれは聖書から来ているんでしょうか。
39:00
聖書のよく読まれている国ではそういうことがあるわけですね。
男の人であっても女の人であっても
その人がこの職にふさわしい人であるならば
たとえ年齢が低くても高くても
そういう人をきちっと面接して
そしてふさわしい判断をもとに雇いなさいと。
そういうことですね。
いろんな偏見というものが私たちにありますから
それを取り除いていただきましょう。
教会の中の偏見といえば言葉がきついですけれども
偏り見るようなことはないだろうか
あるいはバランスという面ではどうだろうか。
ですからここにも教会というのはいろんな部分があって
それぞれ皆が等しく神様の目に留まって
皆がそれぞれ与えられている賜物を用いて神様に使えていく。
そんなことを考えあるいは役員会でもお話をし
私たちは奉仕をするときも
ここにありますように
皆がその奉仕に預かるという
全体で奉仕をしましょうというのを基本にしましょう。
なぜかと言いますと
申し入れ性でありますと
一部の人だけがお祈りの当番で
お祈りということに関してはどんどん成長していきます。
それじゃお祈りの奉仕をしていない人は
その部分に関してはいつまでたっても成長しない。
バランス悪いですよね。
聖書朗読もそうです。あるいは当番の奉仕もそうです。
あの人たちはどんどん神様の訓練を受けて成長しているのに
一部の人はなかなかその部分で成長していない。
これはバランス感覚として非常に悪い。
だから皆が一緒に成長できるように
皆がその奉仕に預かっていきましょうというのを
まず基本にしましょう。
もちろんその中でこういう理由でこういう理由で
ちょっとこの奉仕はできないんです。
あるいは私たちの方で
明らかにこの部分ではちょっと足が弱っておられたら
歩くようなそういう奉仕は無理でしょうねという
それは当然考慮をして
しかし基本として全員が参加して
皆が神様の祝福に預かって
どの人も成長していく神道の訓練を受けていく
これがバランス感覚だと思うんですね。
そういうことを来年度から取り組んでいきましょう。
42:01
もちろん急に言いますと皆さんもどうしてどうして
なりますのでこの半年の間で
まずこの意識改革と言いますか
転換を十分しておいていただきたいと思うんですね。
もう一つのことはこのバランス感覚で
どの世代にも開放された教会を目指していきましょう。
私たちは知らず知らず3年5年10年20年経っていきます。
これでいいんだと思っていますけれども
振り返ってみますと
50代60代70代が多くなって
小学生は来ていますけれども中学生や高校生の人たち
若い人たちがなかなか教会に来ていない。
あと5年10年たったらこのままではどうなるんだろうか
ということを考えさせられたときに
バランスという面では少し問題があるんじゃないかということですね。
決して今の状態が祝福されていないとか
そういうものではありません。
神様が願っておられる偏っていない
そういう教会形成を目指していくならば
私たちは若い人たちあるいは中高生の人たち
そういう人たちのことも配慮しながら
神様はどんな教会形成を望んでおられるのかということを
私たちも一緒に考えていく。
それも一部の人たちだけが考える
教会にも任すとか牧師に委ねるとかそういうことではなく
みんなが愛されみんなが属しているこの教会が
どういう方向に向かって
そしてどういう教会形成をしていくのかということを
みんなで祈り合いそして取り組んでいくということをしていく。
そして少しでも神様が望んでおられる
バランスの良い感覚ですね。
そういうものを私たちも目指していくということ
そういうことがみんなの祝福であろうかと思いますし
いずれそういうことが必要になってきます。
私たちも5年10年経ちますと
どうしてもこの人の手を借りないといけない
そういう時が来ます。弱ってきますからね。
そういう時にやっぱり若い人たちの力とか
そういうものをお借りしないと
待っていかないということが言えるわけです。
これは少子高齢化の国全体の問題でもありますけれども
その波はもろにこの教会に来ているとするならば
それは考えないといけない。
教会というものはいつもいつも世の中の
世の成すこと、動きに影響されるものということも
45:05
考えてはいけないんですね。
要するに逆です。
教会が世に働きかけて世を変えていく。
ですから何でも教会が先端を行かないといけないということ
このことも私たちは聖書を通して教えられることですね。
ですから決して世の中の動きを見て教会が合わせる
それも一部必要なこともあろうかもしれませんが
基本は教会が神様に祈りそして神様が示してくださった
これはこうすべきだ、これはこうしてはいけない
今こうすべきだ、伝統とかあるいは慣習とかありますけど
そんな偏見などいらない
あなたが神に祈りそして神が示してくださったことを
大胆に行いなさい
そんなことを教会がまずしていく
それを見ている世の人たちが教会であんなことをしていると
それじゃあ私たちも一つそれに早かっていきましょうということで
世の中が変えられていく
それが本来の姿であります
私たちの礼拝はどうでしょうか
バランスのとれている礼拝だろうかということですね
私は少なからず中高生や若い人たちに申し訳ないという思いがいつもしております
こんなおじさんの感覚で礼拝を進めていっているところはないだろうか
それをずっと我慢して合わせてくださっているんじゃないだろうか
もしそうであるならば今度は私たちも
そういう若い人たちの感性で何か神様を賛美したり
神様を褒めたたいたいそういうものに
私たちも今度はそういうものに合わせてあげなければいけない
そういうことではないだろうか
そういうことでみんながバランスのよい
そういう神様の恵みと祝福に預かるんだろうな
そういうふうに思うわけであります
今日の御言葉神は偏り見ることはなさらない
ペトロは言いましたはっきりわかりました
神は偏ったことをなさらず
どの国の人であっても神を恐れ賢み
正義を行う人なら神に受け入れられるのです
お祈りをいたします
天の神様
今日は御言葉を通して偏見ということ
あるいは偏り見てはいないか
バランス感覚はどうか
そんなことをいろいろと示され
また共に考えたことであります
しばらく私たちは静まって
主の御声を聞きながら
祈りつつ私たち自身の在り方
48:00
あるいは置かれているそのところの在り方
あるいは教会の在り方をもう一度
あなたがふさわしく示してくださいますように
そしてはっきりとわかったならば
それを恐れず大胆に行っていく勇気と力を
与えてくださいますよう
主耶様の尊い皆によってお祈りいたします
アーメン
48:30

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