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では一言、祈りさせていただきます。
幸いなことよ、故郷の神を助けとし、その神、主に望みを置く者は、
アーメン。主よ、今年一年間、主にのみ望みを置かせていただいて、
本当に、ただただ主の憐れみと許しによって、憐れまれて、許されて、
今日もこの世に礼愛を守れるこの恵みを、この特権を、主よ、心から感謝いたします。
今から、神の御言葉を、主御自身から語っていただきます。
一人一人、悟る心、礼の目を大きく、主が開かせてくださって、
あなたを見上げ、あなたを愛し、また、隣人を愛し、自分自身を愛し、
主のために生きる、主を喜ばせる道を歩みたいと決心する時としてください。
イエス様の御名によって、お祈りさせます。アーメン。
感謝します。
今日は、揺らがれています新編の御言葉から、主に望みを置く者は幸いである、
という題にして、今年最後のメッセージを取り付けていきたいと思います。
今日は31日、聖日で、また明日は1月1日、元旦でですね、元旦礼拝を共に捧げつつ、
また新しい年を始めることは、本当に感謝でございます。
皆さん、2017年、この今年1年、皆さんにとっては、どんな1年だったでしょうか。
感謝にあふれる1年だったでしょうか。
あるいは、愛して愛された1年だったでしょうか。
あるいは、主にあって成長された1年だったでしょうか。
あるいは、祈りと御言葉によって、強められて歩まれた1年だったでしょうか。
私たちみんなは、神様からいただいた恵みがですね、哀れみが数え切れないほど、たくさんあったに違いないと信じております。
どんな恵みが我らにこの1年間注がれてきたのでしょうか。
今日の御言葉から大きく3つのことを共に、御言葉の恵みをお受けしたいと思います。
まず、第一は、神を礼拝できた恵みです。
言い換えれば、礼拝の恵みにあずかりまして。
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まずですね、今日の詩篇の御言葉の1節と2節を一緒にお読みしたいと思います。
1節と2節。
これは、ダビデの詩篇と言われていますけれども、
このダビデは、この1節と2節に、まず私たちに詩を礼拝しよう、詩を褒めたたようと進めていますし、
また2節においては、私、命のある限り、私の神に褒め歌おうと自分自身が生きている限り、
詩の裏を賛美します、詩を礼拝しますと決心しているんですね。
私たちを救ってくださって、また救ってくださって、また愛ってくださって、また憐んでくださった神様に、
私たちができること、その最高の最大の愛の表現は、礼拝ではないでしょうか。
神様が許されてくださった祝福の中で、最も大きな祝福は、神を礼拝できる祝福、他にはないでしょう。
神を賛美できる祝福、他にはないでしょう。
神の恵みがあったから、私たちは聖地と礼拝、あるいは通用基督会、あるいは創宣基督会などなど、出席させていただいて、
礼拝の大きな恵みにあずかりました。賛美の中にみんないなさる神様にお会いできました。
また、私たちの一つ一つの祈りを聞いてくださって、また私たちをあらゆる形をもって慰めてくださった聖霊様にお会いできました。
説教のメッセージを通して、神様の心を知ることができました。そして、私たちが行くべき指針を教えてさせました。
または、愛する兄弟姉妹たちとその交わりを通して、共に信仰が励まされ、共に笑い、共に泣き、共に祈り、共に助け合ってここまで歩んでまいりました。
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私は、僕会社として、皆さんが何とかして神の恵みにあずかりたいと、恵みを受けようとしておられる、その皆さんのお姿が一番美しいです。
いくら会社としても、礼拝の恵みを主の恵みにいただきたいという主体を求める、そのお姿が一番美しいです。
ところが皆さん、この礼拝というものは、私たちがこの地上で、教会で共に集まって捧げているこの礼拝、その恵み、あるいはその感激、あるいはその栄光というものは、
やがて、新しい天と新しい地で、すべての聖徒と共に、御使いと共に、作り主、神様に捧げる、礼拝の前味なんです。
聖書の二ヶ所を開きたいと思います。
ヨハネの黙示録、まずは七章を開きましょう。ヨハネの黙示録、七章の九節から十節、484ページ、新約聖書の484ページ、
ここの九節と十節を、まず一緒に加え合わせてお読みしたいと思います。
これはですね、人ヨハネが幻の中で、新しい天と新しい地で救われた神が、全世界のあらゆる国民、部族、民族、国宝のうちから、
誰にも数え切れぬほどの大勢の群衆、つまり救われた群衆ですね。国豪を越えて、民族を越えて、部族を越えて、国共を越えて、皆一つになって、
そして、身座と子羊との間に立って、死を賛美している。救いは身座にある、私たちの神にある、子羊にあると支えているその礼拝を、私たちは今日、ここで、この授業で、その礼拝を前味をさせていただいていることであります。
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もう一つやってみましょうか。ヨハネの黙示録、19章です。19章の5節。それではですね、5節を一緒に読みたいと思います。
また、身座から声が出ていった、全ての神のひもべたち、小さい者も大きい者も、神を恐れかしこむ者たちよ、我らの神を賛美せよ。アーメン。
イエス様がやがて入りなさって、救いと裁きが下された後、新しい天と新しい地が始まるわけなんですね。そこで何があるでしょうか。そこには賛美たいの神様と救われた神、そしてそこに神を賛美する礼拝だけが残るでしょう。
そこには教会道も、教団、教派の区分もなくなるでしょう。あるいは牧師と生徒の区分もなくなるでしょう。国や人種や言語の区分もなくなるでしょう。金持ちも貧乏な者も、その区分も全てなくなるわけなんですね。
そして、ただ皆が一つになって神を礼拝する、永遠に日を喜ぶ、それしかそこにあるわけなんです。
それで神様はこの地上において、教会を建てて下さって、やがて私たち皆が行く新しい天と新しい地で、永遠に神を礼拝する、その恵みと祝福を、喜びを、この地上で、ここで私たちに前もって前向きをして下さい。練習して下さいわけなんですね。
皆さんはでしょうか。一回一回の礼拝を、新しい天と新しい地で、永遠に神を礼拝する、その感激、栄光、喜びをもって、今年一年間、礼拝してきたのではないでしょうか。
また、これからもそういう信仰をもって、礼拝に臨んでいきたいと願っております。
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ここに主の教会がありまして、愛する信仰の兄弟姉妹たちがそばにいて、聖地の灯になると、喜びをもって、教会に向かって、この席に座ってですね、共に礼拝できるということは、実は皆さん、この地上で私たちが味わえる最も大きな喜びなんです。
礼拝よりもっと甘い喜びを探してはいけないでしょう。もっと嬉しい喜びを、本当に味わえなくてはいられない、それほどの礼拝の喜び、恵みをですね、求める心をもって、主に近づいていきたい。
そういう礼拝を主に求めていこうではありませんか。来る新年は、神を礼拝することに心を尽くして、思いを尽くして、力を尽くして、聖拝に専念していこうではありませんか。そういうふうに願っております。
2番目、どんな恵みがあったでしょうか。今年1年間、主は我々を癒してくださり、すべての災いから私たちを守ってくださいました。
今日の主編の146編の7節から8節、9節を私が読みしたいと思います。ご覧ください。
主は正しい者を愛し、主は在留異国人を守り、みなしごとやもめを支えられる。皆さん、ある方は、今のような時代に、実は生きていることは奇跡だと言われていますね。本当にそうではないのかなと思います。
事件、事故が絶えません。飛行機に乗っても、電車に乗っていても、車に乗っていても、いや、海に逃げて、船に乗っていてもですね、あるいは日本にいても、日本から逃げて、他の国にいても、どこにいても、事件、事故、災いが起きていますし、あるいは、存在しているわけなんです。
本当に皆さん、考えていただけたらいいんですね。私たちが、ある意味で平凡無事な日々を過ごしていること、実は本当に神様の恵みとお守りなくしてはありえないことなんです。それを忘れてはいけないでしょう。
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私たちが感じているか、感じていないか、それとは関係なく、今日の御言葉のように、主は私たちの心を、腕を、体を、いつも癒してくださいました。全ての拘束の鎖から、私たちを解放してくださいました。どうでしょうか、皆さん。
一年間の恵みを振り返ってみるならば、神様は時には、私たちが愚かに人の御前で、あるいは悲しい心を持ってですね、涙を持って祈れば、主は断らず、優しい御手を持って、私たちの心をタッチしてくださって、慰めてくださって、涙を拭い去ってくださいました。
時には、本当に愚かに、主の前にですね、訴えているかのように、公弁しているかのように、心を注ぎ出すと、主は静まって、私たちの御手を引いてくださり、新しい道を開いて教えてくださりました。
時には、お金がなくて困ったときに、主は私の財布をもいたしてくださいました。時には寂しいときに、主は私の心の友となってくださいました。
そうではないでしょうか。この世に来て、私たちは今日のこの日を迎えていますし、また明日という日を迎えて、365日ちょうど今日に至ってきたのではないでしょうか。
誰でも自分が偉いから、能力があるから、才能があるから、金があるから、経験があるから、歩めた人は一人もいないのです。
西洋の名言に、こういう言葉があります。
今日という日は、昨日亡くなった方が心から生きたかった日である。わかりましたか。
今日という日は、昨日亡くなった方が心からそんなに生きたかった日である。
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そう考えていますね、皆さん。私が今日、2017年12月31日に生きていまして、主の教会がありまして、愛する兄弟姉妹たちがいて、共に集まって神を礼拝できるこの恵み、
それは、主が私を癒し、私を闇の力から通してくださり、神の翼の下で守ってくださったから、今日があると言うでしょう。
時には、神様に訴えている時があるかもしれません。
神様、なんで私にこんなことが起こるんでしょうか。あるいは、私にはなんでこれしかできないんでしょうか。
そういうふうにつぶやくかのように、訴えている我々自身があるかもしれない。
その時に私たちは、覚えてほしいことがあります。
それは、神様が私たち一人一人に、あるいは家庭に、あるいは教会に、主がどれだけ多くの憐れみと、許しと、助けと、癒しを与えてくださったのか。
それを思い起こして、数えてみて、あるいは知ってみて、感謝すべきではないでしょうか。
神様に対してでもそうですし、家族に対してでもそうなんです。
ぜひ、今日が最後の日ですから、12時前に、夜の12時が過ぎる前に、お互い家族がもし、いつでもいいですが、お互いに今年一年間の感謝の気持ちをお互いに述べあったらいいなと思うんですね。
あなたは今年一年間何をしてくれたの?そういうつぶやきじゃなくて、本当に。
何もしてくれないんですよ。それが一番悪いんですよ。
思い起こすこと、それを見表すことこそ。
神の助けと憐れみに感謝し、上手な人は、神様が私にくださらなかったことを数える代わりに、私にくださったことを、
神様の助けと憐れみに感謝し、上手な人は、神様が私の祈りに答えてくださらなかったことを数える代わりに、答えてくださったことを数えます。
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神の助けと憐れみに感謝し、上手な人は、私ができなかったことを数える代わりに、できたこと、させていただけたことを数えます。
そして、その力強さたちを褒めたたえます。
ですから皆さん、信者の、クリスタンの人生は、結局のところ、神様に向かう礼拝と賛美と感謝に帰結するんですよ。
だから、私たちもこのザビデのように、自分自身のよかからですよ、オリジナル四辺を一辺ぐらいは持ってほしいんです。
それでですね、昨日の夜、メッセージを準備しながら、こう言っていますから、自分もですね、今年最後のメッセージを準備させていただきながら、
自分の毎一辺、オリジナル四辺をですね、信仰の告白でありますけれども、大したものではありませんが、作らせていただきましたので、お読みさせていただきますので、
聞いていただけたらと思っております。
主は高くそびえる山のようで近づくことができません。しかしあなたは汚れた私の心に近づいてくださいました。
主は深い海のようでその強い心を知り尽くすことができません。しかしあなたは私の愚かな心さえも知ってくださいました。
主は広い空のようで測ることができます。しかしあなたはその広い許しの心で罪深い私を抱きしめてくださいました。
ああ、なんという哀れみ、なんという許しでした。私は生きている限り主の皆を褒め称えましょう。
みなさん、今年が過ぎる前に、みなさん心を込めて神様に感謝の祈りを捧げるではありませんか。
あるいは神様に、ちょっと子供っぽいかもしれません。神様に手紙を書いているのもいいかもしれません。
3番目です。どんな恵みがあったでしょうか。3番目。主に望みを侵していただけたということであります。
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そしてそれが幸いであることを私たちは分かりました。
5節を一緒にお読みしたいと思います。
幸いなことよ。ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを贈る者は、アメン。
誰が幸いな人でしょうか。みなさん、どんな人が幸いな人なんでしょうか。
神を助けとする人が幸いな人なんです。どんな人が幸いな人なんでしょうか。
望みを他ではなく、誰ではなく、私たちの神、主に望みを贈る者が幸いな人なんです。
この世の中に幸せの講演会、いろんなことをやっています。
セミナーをしたり、自己啓発、本がたくさん出版されたり、いろんなことがあります。
しかし、聖書は主に語って教えていますね。誰が幸いな人でしょうか。
誰か人ではなく、何かのものではなく、神様のみ助けとする人が幸いな人です。
主にのみ望みを贈る者が幸いな人です。
みなさん、いかがでしょうか。
今年1年間、誰を何を助けとしてこられたのでしょうか。
誰に何にあなたのみなさんの望みを贈られたのでしょうか。
まことに幸いな人は、幸せな人は、この真理を一日でも早く悟る人なんです。
そして、神様のみを助けとする人です。
主にのみ望みを贈る者が幸いな人です。
この真理を早く知れば知るほど、幸せは、恵みは、祈福は、早く自分の人生に訪れてくるわけなんです。
そうすると、時間や力や金やそういったものを無駄遣いすることはなくなるでしょう。
この真理を20代に、この真理を辿った人は、80歳まで生きるんだったら、60年間、主にあって幸せに生まれていだけるということであります。
みなさん、もし今年の中で、あの時はまずかったな、取り戻したいな、そういう時ありませんか。
なかったらいいんですけどね。あるかもしれません。
しかし、時間をバックできない。取り戻すことはできない。
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だから、もしも私たちが神様でない誰か何かを助けとした時間が、もしあって、それが重ねて、重ねて、重なって、重なってするならば、
それは自分に助けになるのではなく、むしろ棘になって、自分を。
最初はですね、誰かを何かを助けとして暮らしているうちに、小さな棘だから無視できるかもしれませんが、
それがどんどんどんどん後には取り戻すことすらできない巨大な火事に刺されて、人生に大きな痛みが生じてくるかもしれない。
手に負えないほどの大きな痛みが来るかもしれない。
だから幸いな人は、何かではなく誰かではなく、神様のみ助けとする人です。
そして、望みを誰か一人ではなく、何か力ではなく、あるいは何かのものではなく、そこに希望を望みを行うではなく、
ただ、全知全能の神様に望みを置いて歩む人が幸いな人であります。
皆さん、人生に痛み苦しみがあるのは、ある意味で人生が痛み苦しみであるからではなく、神様を助けとしないからではないでしょうか。
今日の主演の3節をご覧ください。
ダビデもこのように歌っているんですね。3節私はお読みします。
君主たちに頼ってはならない。救いのない人間の子に頼ってはならない。
ダビデは知っています。
イスラエルだけではなく、他の国、あるいは自分の国の誰か君主、権力があって力がある、そういう人たちに頼ってはいけないこと。
そこには救いがないのだ、ということをダビデは。
もう一回私は3節を書きましょうか。
四辺の31辺の1節を書きたいと思います。
イザヤ書31章1節。
1173ページです。
ご一緒に読みましょうか。
ああ、助けを求めてエジプトに下る者たち、彼らは馬に頼り、多数の戦車と非常に強い騎兵隊とにより頼み、イスラエルの聖なる方に目を向けず、主を求めない。
30:18
当時イスラエルは国運が傾いていて、アシティリアにエジプトに挟まれて、どうしてもない時でした。
ところが神様に助けを求めるべきなのに、神様を助けとするべきなのに、エジプトに行ったり、アシティリアに行ったり、バベルロに行ったり、そういうふうに密議を送ったり、何かの同盟を結んだり、あるいは戦略的な結婚をして、何か忍びをしようと思った。
それは愚かな道であると語っているわけであります。
皆さん、お願いしたいのは、神様だけを助けとしてください。イエス・キリスト・聖霊様だけを皆さんの唯一の助けとしてください。
これも助けとし、あれも助けとしするのではなく、神様だけを助けとする人が幸いな人であります。
なので、今日の四辺の御言葉のように、神様にのみ望みを置く者が幸いな者であります。
自分自身でもありません。主人でもありません。子供でもありません。神様にのみ。
そして、私は365日のうち365日目の今日、あるいは来年の今頃、こういうふうに神様に告白できたらいいなと思うんですね。
神様、今年1年間、手にだけ望みを置くことができました。そして私は幸せなものでした、と言える私たちでありたい。
確かにですね、生きているうちに何か助けとできる何かの人、物があるかもしれません。
望みを置ける何か、誰か、物があるかもしれません。
しかし皆さん、誰かに何かに望みを置くというものは、という意味はどういう意味なんでしょうか。
それは、その人、あるいはその物に、自分が生きる意味をそこに置くという意味であります。
希望を慰めよう、あるいはそういったものを、全てそこから、その人からもらえようとするということであります。
そして、そこに向かって自分は歩んでいることであります。
33:01
それが、望みを置くという意味であります。
ですから、普通に望みを置くという意味は、私が生きている意味は、イエス・キリストです、神様です、他はありません、という告白であります。
また、主に望みを置くという意味は、主なる神様に、そのうちに、自分が生きる目的を発見しているということであります。
そして、その方だけが、自分の先どころ、頼みである、自分の光である、その意味が、主に望みを置くという意味であります。
私が、一日一日、夜の寝床に入るときに、あるいは一ヶ月を占める毎月の三十一日、あるいは一年をとじるこの十二月三十一日に、
このように、この四辺のダビレのように告白できる、クリスタルでありたいと、主に願っております。
主よ、私は望みをあなたに置き、私は助けをあなたにさせていただきました、と告白できる、そういうクリスタルでありたい、メッセージをいただきたいと思います。
幸いなことよ、ヤコブの神を助けとし、その神、主に望みを置く者は、アーメン。お祈りします。