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おはようございます。
2019年の最後の、最後の聖日に、共に集まって出会えてきますこと、本当に嬉しく感謝申し上げます。
今日もまた、久しぶりの方々、あるいはクリスマスでお祝いになった方々も、一緒に出会えてきて本当に嬉しく思います。
では、メッセージの前にですね、隣の方とちょっと挨拶をしましょうかね。
おはようございます。
はい、ありがとうございます。
さあ、では一言お祈りいたします。
子どもたちもお座りください。
さあ、お祈りいたします。
ところが、神のお恵みによって、私は今の私になりました。
そして、私に対するこの神のお恵みは、無駄にはならず、私は他のすべての人たちよりも多く働きました。
しかし、それは私ではなく、私にある神のお恵みです。主よ、本当にそうです。
神のお恵みによって、神のお恵みによって、私は今の私になりました。
そう、パオールが告白しているように、この朝、私たちも地の御前にあって、この世に告白しております。
どうか、今日の礼拝が、神に喜んで受け入れられ、また、私たちは本当に礼と誠をもって、今日、礼拝できますように。
まだ、教会のことやキリスト教のことを、まだ分からない方々もおられるかと思いますけれども、
どうか、全能の神様が、あなたご自身を現し、御言葉を示してくださいますように、お願いいたします。
主よ、感謝します。
イエス様の御名によって、お祈りいたします。
アーメン。
はい、今日はですね、今年の最後の礼拝でして、
クリスマスの前にシリーズメッセージをしておりましたけれども、
今日は最後の礼拝ですので、このようにタイトルを決めさせていただきました。
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全ては主の恵みによる。全ては主の恵みによる。
今年もいろんなことが、教会に、あるいは皆さんご自身の家に、あるいは家庭に、あるいはこの日本という国に、世界に、たくさんのことが起きたと思います。
でも、今日に至るまで、ここまで来れたこと、全ては神様の恵みであると信じます。
主の御恵みがありましたから、私たちは生かされており、
また、主の恵みによって、父なる神様を礼拝できますし、
また、主の恵みによって、働きができますし、
主の恵みによって、ここまで歩んで来ることができたこと、そういう風に信じて、
また、神様に心から感謝いたします。
雨でしょうね、皆さん。本当にそうです。
教会としては、今年、押忍姉妹の転入会、
また、さえちゃん、はるかちゃん、3人の家族で、両谷教会の家族として、一緒に祈を礼拝できるようになりました。
また、大本兄弟も、不思議な神の御恵みによって、
無線の恵みに預かり、共に礼拝できること、本当に神様の恵みであります。
今年1年の間、神様が私たち一人一人に、あるいは家庭に与えてくださったその恵みに感謝して、
そして、では、私たちはどのように主にお答えしたらいいのか、
その神の真の心を共に知っていきたいと願います。
今日、読んでいただきました聖書の箇所は、新約聖書にパウロ、使徒パウロという人がいまして、
その人は、今のギリシャにもその町はありますけれども、コリントという町にあった教会の信徒さんに手紙を書き送りました。
その中で、今も自分があることは何故なのか、その短い箇所ですが、
このパウロの信仰の告白のような二言葉が、この第一コリント十五章の九節、十節、十一節に書かれていると思います。
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その中で十節を一緒に見ていきたいと思いますが、字幕を出してもらえますか。
第一コリント十五章の十節、聖書は新約の三百四十ページです。
この十節を皆さん見ましたね。パウロはこのように告白しています。
ところが、神の恵みによって私は今の私になりました。今自分があるのは全て神の恵みですよという話なんですね。
そして後半には、私は他の全ての人たちよりも多く働きました。実際に多く働きました。
そしてそれは私ではない。自分が偉いから、自分が能力があるから、自分が頑張ったから働けたではない。
何ですか。私になる神の恵みです。自分が働けたのも神の恵みですよという素晴らしい謙遜な告白であります。
今日はこの十節を中心にお話ししていきたいと思います。
さあ、このパウロはどういう所ですか。
この聖書があって、この旧約新約聖書があります。旧約は全部で何巻ありますか。39巻あります。新約は全部で27巻あります。27章。
この新約聖書の27章の中でうちに、なんと13章、もう半分ですね。半分の聖書を記録した人物がこのパウロという人なんです。
だからこれだけ見てもすごい人なんです。
もう確かにですね、人類歴史、いやキリスト教歴史の中で、もうイエス様除いて人間の中で、もう本当に素晴らしくて偉大な人物であることには間違いないです。
このキリスト教の2000年のこの聖書の新約の半分を記録した人物ですからね。
そう見ると、今日もしキリストパウロが現れて、本当にもう鼻が高くても、もう高く降っていても、誰もいや、そんなと言えないほどの偉大な人物である。確かにね。
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そしてこの新約聖書にコリントとかエペソットとか、あるいはテサロニケ、コロサイ、多くの教会を開拓した。
その偉大な人物、誰から見ても素晴らしいとね、そう言われるパウロが私は神の恵みによって今の私になりました。
自分がこういう神の使徒として働きができたこと、今の自分があること、今自分が生きていること、それは神の恵みによるものですよ。
2019年を終わらせているこの日に、私たちの心からこの使徒パウロのように告白ができたらいいなと思いますね。
この10節の使徒パウロの告白の中に、まず二つの信仰がこの中に現れていると思います。
一つは感謝ですね。もう一つは謙遜ですね。
パウロは今自分が使徒として、主の人物として働きができていること、多く働きができたこと、それは神の恵みによるものですよ。
自分がしたことは何一つもありませんよ。
いや、私は何者でもありません、という告白ではないでしょうか。
そしてそれに対して、ファレリア、キシナ神様、感謝しますと告白しているんです。
ここにこのパウロの感謝が、神様に対する感謝が満ち満ちて溢れているんです。
そして同時にこれは、私ではなく、私にある神の恵みですよ。
神の恵みによって働かされました、働きをさせていただきました、という謙遜さがここにある。
一年が終わっているこの日に、私たちも今年一年間ここまで来れたこと、すべては神様の恵みによるものではないでしょうか。
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もちろん皆さん、それぞれ自分なりに学校で、あるいは会社で、あるいは海外で、様々な状況の中で生活をする、働く、
また信仰を本当に持ち続けるために、ある方は病気と戦い、ある方は自分の不信仰と戦い、あるいは周りの様々な状況の中で戦って勝利して、ここまで信仰を持ち続けてきたことがもちろんあります。
でも、そのすべても神の恵みによるものではないでしょうか。
今年の1月1日の元旦礼拝から始まって、この52回目のこの聖筆礼拝がここで変わることなく行われていて、
また私たちも変わることなくここに来ていることは、実は不思議であって奇跡であって神の恵みなんですよ。
皆さん私たちが普段当たり前のように思ったら、何でもすっと見過ぎてしまうんですね。
でもよくよく考えると、この世界に、私たちの生活の中に当たり前のものは実は何一つないんです。本当に何一つないんです。
簡単に言ってですね、妻が選挙行っていたインフルエンザで寝込んでいて、私は奥の部屋で避けておりましたけれども、
最後の礼拝に立てなかったら大変なことになりますから、なるべく家に帰らないでね、教会で過ごして。
でもその中で、普段当たり前のように思っていたわけではありませんが、家のこと、例えば食事とか家事とか子供のこととかですね、
それをだいたい旦那さんはね、奥さんの方が病気に寝込んでいたら大変だなと思われるんじゃないですか。
あるいは私たちがこのように健康と身体が守られて、日曜日の朝、教会に来れて礼拝をしていること、当たり前のように思うかもしれませんが、これは不思議なことなんです。
例えば先週亡くなられた方がおられれば、今日の礼拝はその方にはないことでありますね。
あるいは日本はね、そんなことはないんですけれども、他の国ではね、もう教会がなくなったら、その教会で礼拝できなくなってしまう。
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あるいは他の国ではクリスチャンたちが処刑されるならば、またその方には礼拝は当たりものではない。
本当に神の恵みにゆらないものは何一つもない。
我が家の話もたまにお話しさせていただきますけれども、12月5日をもって日本に使わされて、11年目になりましたね。
2008年12月5日、小さい子供を連れて飛行機に乗って福岡空港に着きました。
一度も3歳でしたからね。
その時にですね、もう今11年になって振り返って二度とですね、多くの向こうもこちらも多くの方々に祈っていただいていること。
あるいは多くの方々に、ある方には10年以上も、ある教会には10年以上も献金が贈られて支えられていること。
ゆくゆく考えるとですね、当たり前のものはない。
神様の恵みが、神様の助けが、神様の導きがなかったならば、何一つ自分でできることは実はないんじゃないでしょう。
今日のシトパウルの話はまさに、神の恵みによって私は今の私になりました。
神様の恵みを知る人、その恵みを経験している人は、その中で特にこの礼拝の恵みがどれだけ大きいかを知っている人なんですね。
ですから何がどうあっても、礼拝を守る、礼拝を捧げる、礼拝のために本当に心を尽くして力を尽くして捧げて守る人である。
毎週、御言葉をもって私たちの植え替わった魂を満たしてくださる神様。
祈りを通して私たちの魂を潤してくださる神様。
そして少しずつでも、主なる神様の心を知るようになって深く知るようになって、その恵みを味わうことができるようになること、本当に全ては神の恵みではないでしょう。
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だから神の恵みに感謝する人は、今の自分があるのは自分に能力があるから、自分に才能があるから、あるいは自分が頑張ったからできたんですよと、全ては神の力によってできたことである。
仕事ができること、勉強ができること、お金があって食べてきて生きていけること、全ては神の恵みである。
それを知っている人だからその人は謙遜なんですね。
皆さん、周囲を見るとですね、感謝の人はいつも謙遜なんです。
本当に神様に感謝している人であれば、その人は間違いなく謙遜な人なんです。
また逆にですね、本当に謙遜な人は神様に感謝する人である。
ところが皆さん、この謙遜さというものは卑屈さではないんです。
あるいはもうどんなことに対しても自信がなくてできません、できません、恐れることが謙遜であるわけではありません。
本当の謙遜というものは、主が委ねてくださるならば、自分にではなく神様に力があることを信じて、そして主を信頼して謙遜でありつつ、それを担ってその責任を払う。
その人が謙遜な人なんです。
誰が知ってくれてもくれなくても、褒めてもらってももらわなくても関係なく、主に任されたこの主の仕事を忠実になっていく人、それが謙遜な人であります。
だから皆さん、謙遜な人は神様に対する望みを抱きつつ、黙々と主の奉仕に、主の働きになっていく。
そしてその人には家様の美しさが現れていますね。主に期待すること、主が身を結ばしてくださることを待ち望みつつ、謙遜でありながら、その使命を、奉仕を果たしていくことであります。
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この謙遜さ、これも家様の美しい品性の一つでもありますね。
私たちが神様に感謝ができて、また謙遜であること、それを考えると、なぜ感謝ができるんだろうか、なぜ謙遜でいられるんだろうか、その理由があります。
最も根本的な理由があります。それは、この人は父なる神様を愛するからです。
父なる神様を愛する人こそ、謙遜であって感謝の人であります。
私たちの父なる神様を愛すること、心から愛すること、これこそ全てのことの根本ではないでしょうか。
誰よりも、何よりも、私たちの父なる神様を愛するから、いつも感謝して謙遜であります。
誰よりも、何よりも、私たちの父なる神様を愛して下さい。
ここで一箇所ですね、聖書を開きたいと思いますけれども、新明紀の6章4節、旧約聖書の315ページです。
新明紀6章4節5節です。旧約聖書の315ページ、下の段にあります6章の4節と5節。
聖書をお持ちの方は、ご一緒にお読みいきましょうか。
聞きなさい、イスラエル。主は私たちの神。精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神主を愛しなさい。アーメン。
ここにですね、心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神主を愛しなさい。
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皆さん、神様が私たちに願うこと、してほしいと神様が思われること、神様が私たちに実は求めていること、それは何でしょうか?
これなんです。心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、私たちの神主を愛すること。
皆さんはでしょうか?今年ですね、本当に心から心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、私たちの神主を愛してきたんでしょうか?
菱なる神様を愛する人は、菱なる神様が喜ばれることを自分も一緒に喜ぶ人であります。菱なる神様が大事にしておられることを自分も大事にする人。
それが礼拝であり、感謝であり、謙遜であり、清めであります。他にもね、たくさんありますけれど。
いかがでしょうか?皆さん、2018年、去年の最後の礼拝は12月30日でした。ちょうど一年が経ちました。
その時の、去年のこの頃の皆さんの神様に対する愛と、あるいは謙遜が一年経って、今日になりまして、その菱なる神様に対する愛が本当に本当に深くなっているんでしょうか?
去年より今年がもっと心を尽くして、精神を尽くして、力を尽くして、私の神主を愛してきましたと、我々は言えるんでしょうか?
神に対する愛が深くなっていただきたい。行けば行くほど菱なる神様のことが好きになって、行けば行くほどイエス様のことが好きになって、その愛がもっと熱くなり、もっと嬉しくなり、もっと深くなってくる。
そして、さらに謙遜して、さらに捧げて、さらに使える我々でありたいと。最初はゼロからスタートしたとしてもですよ。
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そして、今日のシトファウルのように、私たちが神の前に立つその日、主よ、今の私は、神の恵みによって今の私がありますと告白できる我々でありたい。
聖書は私たちにこのように言っています。神は愛である。同時にまた神様は、私は聖である、聖なる方だと語って、そして同時に神様は私たちに、さっき見ましたように、その愛の神様をあなた方も愛しなさいと求めてあります。
そして、また神様は聖なる方だから、あなた方も聖なるものとなりなさいと実は求めておられます。応答してほしいと語っておられるんですよね。
今年一年、皆さんはいろんな形をもって答えておられたと思います。礼拝を通して、あるいは法師を通して、あるいは伝道を通して、あるいは愛の業を通して、神様に応答して、お答えして、ここまで来たのではないでしょうか。
そのすべてのことを私たちも好きな神様は見てくださって、喜んで、受け入れてくださる。
そして同時に、そのすべてができたことも、その力も、その愛も、私たちの内側にある聖霊様がくださったからではないでしょうか。
助けてくださったから、それができたのではないでしょうか。
聖書には、聖霊によらないでイエスを主と告白できないと語られているように、聖霊によらずに心から主に応答はできないからな。
渡邉の父なる神様が三玉様を使わせてくださって、その聖霊様によって主を愛する心が与えられて、主にお使いできる力が与えられて、喜びが与えられて、また強い道へ導いてくださったのではないでしょうか。
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皆さん、それがなくしてはですね、神を礼拝できないんですよ。もちろん、礼拝したくても病気や様々な事情で、礼拝できない場合もありますよね、確か。
しかし、そういった場合を除いて、本当に聖霊の恵みがあるから、導きがあるから、私たちは神に礼拝できるわけです。
ちょっと静かにしてくれる?約束したよね?
メッセージを終わりたいと思います。
もう水曜になりますと2020年になります。
日本にはですね、2020年にオリンピックが開かれたり、この世界にまたいろんなことが起きるでしょう。いろんな変化が起こるでしょう。
ところが皆さん、私たちはクリスタントして、神の目でこの世界を見ていきたいと思うんですね。
そうすると、去年より来年になると、イエス様が再臨なさる日が1年近くなってきたということだ。
そういう感覚を持ってほしいんですね。
1日1日が経ちました。1月1月が経ちました。1年1年が経ちました。過ぎました。
そしたら皆さん、大体どんな思いをしますか?
ああ、1日が過ぎたな。1ヶ月本当に早いな。もう1年があっという間だな。いや、歳とってしまったな。
いろんな思いをするかもしれませんが、忘れないでほしいことがあります。
そして備えていただきたいことがあります。
それは1日が経ったら、1月が経ったら、1年が経ちましたら、私たちの救い主イエス・キリストの再臨が来る日が1日、あるいは1ヶ月、あるいは1年近くなった、短くなったということであります。
これを覚えていただきたい。そしてその日を備えてあげるのが我々です。
ここに飛び込む手紙1つ8節にこういう見事があります。
主もあなた方を私たちの主イエス・キリストの死に責められるところのないものとして最後まで固く保ってくださいます。という見事があります。
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私たちの好きな神様が作ってくださった私たちをまたこれから作ってくださる方々をすべてイエス・キリストが再び来られるその再臨のその日まで責められるところのないものとして最後まで固く保ってください。
そして私たちはその導きに固く保ってくださるその御手にその愛にお応えしていこうではないでしょう。
そして最後の最後の最後の日まで主を裏切ることなく主を愛して賛美をもって礼拝をもって感謝をもって謙遜をもって主と主の境界にお仕えしていこうではないでしょうか。
そういう風な神に喜ばれる我々でありますように心からお祈り申し上げます。
ではお祈り致します。