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おめでとうございまして。改めて、みなさん、新年おめでとうございまーす。
今日も、2018年度の最初の礼拝にようこそいらっしゃいました。
また、このようにして、新年、感謝、誠実礼拝を共に捧げることができる、この恵みを覚えて、心から感謝いたします。
今年一年も、イエス様のお言葉のように、礼と誠をもって、詩を礼拝する、この群れ、私たち一人一人でやりたいと願っております。
また、今日は、説教の後に、新年、最初の聖参式が取り行われます。イエス様の十字架の詩、それによる贖いと救いを記念して、感謝してですね、聖参のおめぐみに預かりたいと思います。
また、私からはあれですけれども、明日は聖人の日でして、今日、聖参式の後、我が家の長女、婦人の聖人になりましてですね、
父が娘の祝福の祈りをさせていただきたいと願っております。
では、メッセージが入る前に、隣の方と挨拶しましょうか、皆さん。
アーメン、感謝します。一言お祈りいたします。
生ける父が私を使わし、私が父によって生きているように、私を食べるものは、私によって生きるのです。アーメン、主よ、私たちを生きるように、救って、助けて、導いて、養ってくせる、あなた様のおめぐみに心から感謝いたします。
今日も、今年度、最初の礼拝を他のところ、場所ではなく、私たちが主の御前に集まって、主を賛美し、その御名をあがめて、また主からのお言葉をいただきたいと切に願っております。
一人一人の魂の中に、神様御自身が御言葉を語ってくださり、それをして、あなたをさらにさらに深く知り、また愛し、またその御心通りに生きるものと慣らしめて下さいますように、お願いをいたします。
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主よ、信徒の方々、また求仏の方々、初めての方々、すべての方々に等しく、豊かなおめぐみで満たして下さいますように、お願いをいたします。
御言葉をいただくうちに、すべての憂い、悩み、悲しみが消え去り、それを主が栄光の喜びの冠に書いて下さることを信じます。
主よ、祝して下さいますように、イエス様の皆によってお祈りいたします。アーメン。
去年の11月26日に、ヨハネの福音書公開説教17回目させていただきましたけれども、戻りましてね、大体5週ぶりですが、
今日は開かれている御言葉から、イエス様を信じるとは、イエス様を信じるとは、こういう題にして、御言葉の恵みを共にいただきたいと願っております。
皆さん私たちはイエス様を、イエスキリストを信じていますけれども、イエスキリストを信じるということは、一体どういうものなんでしょうか。
皆さんはどういうふうに考えて信じて歩んでいらっしゃるのでしょうか。
いろいろ言えると思うんですね。
救われること、あるいは天国に行くこと、あるいは聖書を学ぶこと、あるいは癒やされること、あるいは慰められること、あるいは成功して祝福されること、その他等々。
ところが皆さん、何者でも一番最初のスタートが大事だと思うんですね。
勉強でも、スポーツでも、ビジネスでも、何者でもそうだと思うんですね。
同じくイエスキリストを信じるということ、つまり簡単に申しまして、何のためにイエスキリストを信じるのか。
その自分の目的が何か、その設定によって方向が違ってくると思うんですね。
例えば、ただ救いだけがイエスキリストを信じる目的であるならば、もう救われたらそれでも完了なんですね。
それだけが目的だから、救われたからあえて成長する必要も感じないし、考えてないし、
救われたその救いを何とか守ればいいやと思いがちだと思うんですね。
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それで適切に信仰生活をやっていけばいいと思いがちだと思います。
あるいは、地獄に行くことは怖いから天国に行きたいと、イエス様を信じてパラダイスに行きたいと、それがまた一つの目的であるかもしれない。
あるいは聖書を学ぶこと、それがイエス様を信じる目的である人にとっては、
教会は学校であって、聖書は教科書であって、牧師は教師であると、
そして聖書の知識を学んで勉強して、知識を増やしていくことが目的であるかもしれない。
あるいは、癒されて慰められることが目的である人には、イエス様は自分を癒してくれる人、慰めてくれる人が第一の目的であるかもしれない。
あるいは、成功して至極されることがイエス様を信じる目的である人の場合は、
イエス様に祈って礼拝して、あるいは献金して、あるいは奉仕して成功すること、至極を受けること、それが目的としたら、それでもう終わりなんです。
もちろん、今申し上げたその目的一つ一つは、イエス様を信じる、全くイエス様を信じる目的ではないという話ではありませんが、
それよりもっと根本的であって、本質的な、一番大事な目的があるのではないでしょうか。
それを簡単に申しますと、イエス様を信じるということは、イエス・キリスのようになることではないでしょうか。
答えは簡単であります。
それが最も大事な目的であって、それこそイエス・キリスを信じるということではないでしょうか。
皆さん、先ほど申しましたいくつかの目的の場合と、今申しましたイエス様のようにすることのその目的には、最も根本的な違いがあると思うんですね。
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これが今日のメッセージの一番大事なポイントではないかなと思いますけれども、先ほど四つですね、救い、あるいは成功、あるいは祝福、あるいは癒しといった目的のフォーカスは、神様イエス・キリストではなく、自分なんですね、自分。
目的の中心に自分、エゴがあるんです。
私が救われて、私が天国に行って、私が癒されて、私が慰められて、私が成功して、私が祝福されて、イエス様を信じる目的がすべて、どこからどこまでも自分なんです。
ある意味で、最初のボタンがですね、かけ間違っているかもしれない。
最初は気づいていないかもしれない。どんどんどんどん行けば行くほど、それがですね、ずれていくわけではありません。
イエス様を信じる目的、最初はいいんですよね。
最初は本当にイエス様に慰めていただきたい、この病気を癒していただきたい、救われたい、それがダメですよという話ではあります。最初はいいです。
ところが進行が、その時間が経っていけば行くほど、イエス様を信じる目的が、自分中心から神中心、イエス・キリスト中心に変えられなければならないということであります。
成熟したキリシャンは、神のために信じて、イエス・キリストのために信じる人ではないでしょうか。
そうしますと、実はですね、自分はどうでもいいことになります。自分は癒やしくなっても構います。
自分は時に仲にされても構います。自分は劣等な人になっても構います。
自分は癒されなくても癒されても構います。自分には才能が一つもなくても構います。
自分は貧しくても構います。なぜでしょうか。自分の人生の中心、進行の中心は、私ではなく神様であって、イエス・キリスト様だからなんです。
その方が崇められるだけで、それでいいんです。十分足りているのです。私は亡くなって、キリストが生きるのです。
これこそイエス・キリスト様を信じるということではないでしょう。皆さんいかがでしょうか。皆さんのイエス・キリスト様を信じる設定はどうでしょうか。
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さて、今日の御言葉にイエス・キリスト様がイエス・キリスト様を信じるとは何なのかを改めて教えてくださいました。
今日の御言葉はね、聖三式にも関連する言葉でありますが、ここに大事な意味が含まれていると思います。
今日の御言葉に、五十三節をご覧ください。私がお読みいたします。
五十三節。イエスは彼らに言われた。まことに、まことに、あなた方に告げます。
人の子の肉を食べ、またその血を飲まなければ、あなた方のうちに命はありません。
私の肉を食べ、私の血を飲む者は、永遠の命を持っています。
私は終わりの日にその人をよみがえらせます。
ここにですね、イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲むというものは生きるとありますね。
実際にですね、ローマの時代に、ローマにクリシャンが多くいたわけなんですよね。
迫害の時代でしたけれども、でもその時から彼らは、生産式を彼らは行っていた、密かにね。
ところが、彼らが真っ赤なブドウジュールを飲んだり、パンを食べていることを、
クリシャンでないローマ人が見てですね、あのキリスト者たちは人食い人種だと、
子供を食べていると、食べ物がないから、というような噂が実際にあったわけなんです。
でもそうではないわけなんですよ。
また五十五節を見ますと、
私の肉は誠の食物、私の血は誠の飲み物だからです。
五十六節は、よかったらご一緒に読みましょうか。
五十六節3、私の肉を食べ、私の血を飲むものは、私のうちにとどまり、私も彼のうちにとどまります。
皆さん、人は食べるものが肉になり、血になりますね。
もちろん運動をですね、一生懸命すれば健康にはなれるでしょうけれども。
例えば、コレステロールの高い食べ物をもう食べまくるとですね、食べ過ぎるとその数値が高くなるでしょう。
ここから教えられることがあります。
イエス様を信じるとは何なのか。
それは、イエス様のように全てが変えられることなんです。
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イエス様の肉を食べ、イエス様の血を飲むならば、
その人のうちにイエス・キリストが生きている。
イエス様が生きていて働いておられるということであります。
言い換えますと、私のうちにキリストが住んでおられる。
私の礼拝のうちにキリストがおられる。
私の考えの中にイエス・キリストが住んでおられる。
私の言葉と行いの中にイエス・キリストが住んでおられる。
私の人間関係のうちにイエス・キリストが住んでおられること。
これこそイエス様のように変えられることではないでしょうか。
それこそイエス・キリストを信じることではないでしょうか。
だからイエス様を信じるというのは、ただの宗教生活を行うことではないんですよね。
ただ、誠実礼拝を守るだけで満足する、それが全てではない。
あるいは、信仰生活は、ただ今までの日本人としての教養や価値観や考え方や生活方式、伝統的な習慣をそのまま持ったままで、
その上でイエス・キリスト教みたいなブロッチをアクセサリーみたいにつけるものではないんですよね。
おまけではない。全てが変えられることだ。
このヨハネの訓書第2章に言いますと、イエス様はガリラ屋の金で水を葡萄酒に変えてくださったんです。
水が葡萄酒に変わった。
全く変えられない、完全に変わることでありません。
イエス様を信じるということは、こういうものではないでしょう。
何か、もう全て今のままで持った上で何かをつけるものではないんですね。
全てが変えられる。
皆さん、考えていただきたいです。
イエス様を信じて、10年、20年、30年、40年、50年、60年、経っておられまして、
自分は果たしてイエス様のように変えられているのでしょう。
そうすれば、皆さん本当に祝福された人であります。
神を愛する人であります。
神を愛してイエス様を愛するならば、そのように変えられていくのです。
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ところが皆さん、ここで変えられること、変化ということは、全てが良くなるという意味ではありません。
変えられるということ、それは生き方が、考え方がイエス様のように変えられることです。
全てのものが良くなっても、感謝ですし、良くならなくても、
だからイエス様を信じれば信じるほど、イエス様のように全てが変えられるのです。
もちろんですね、人それぞれその速度には違いが、差があるかもしれませんが、
必ずイエス様のように変えられるはずなんです。
なぜなら、私たちのお家に生きておられるイエスキリストが、
精霊様がそれを始めてくださったから、救いを始めてくださったから、
それを始めてくださった方が、それを完成してくださるのです。
それが聖書のお約束であります。
そしてもう一つ申しますと、変えられるということは一体何なのか。
もちろん祈りが深くなる、聖書より深く知るようになる、
神知識が豊かになることでもありますけれども、
それに今までのキリスト教が見逃したというか、そんなに強調していなかったので、
その弊害が起きていることの一つは、我々の品性がイエス様のように変えられることでございます。
ちょっと聖書を開けましょうか。
新約聖書の「ガラテア人への手紙 五書の二十二・二十三節」です。
新約聖書の371ページです。
五書の二十二・二十三と二十四節を、よかったら一緒に読みたいと思います。
手を合わせてお読みしましょう。
「しかし見たまの身は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、乳和、慈性です。
このようなものを禁ずる律法はありません。
キリストイエスにつくものは、自分の肉を様々な情欲や欲望とともに十字架につけてしまったのです。アーメン。」
イエスキリストを信じるということ、あるいはこのガラテア御事から言いますと、聖霊に満たされることとは何でしょうか。
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それは、我々の熱心ではなく、我々の品性が、このイエス様のように、聖霊の身のように、皆さん、イエス様のようになること。
それはイエスの霊でありますね。神の霊である聖霊様に満たされることであります。
その方の支配を受けることであります。
その結果は何でしょうか。
聖書ですね、特にこのパウルの書簡文、ガラテア人への手紙、コリント人への手紙、ガラテアエペソ人への手紙を見ますと、
そこに聖霊の満たし、聖霊に満たされた人に現れることは、特にこの品性の変化をよく教として語る。
だから、聖霊の満たし、聖霊十万の結果は何でしょうか。
イエスキリストを信じる、その信仰の表し、証は何でしょうか。
何時間もですね、朝も昼も、ずっと熱心に祈れることでしょうか。
預言をすることでしょうか。聖書ですね、荘石、一章一節から四連の目書録、最後まで全部知り尽くしていることでしょうか。
神的的な神の声を聞くことでしょうか。
祈れば、どんな病気も癒やされる、悪霊も追い出されることなんでしょうか。
もちろん、それも含まれているでしょうけれども、むしろパウロの書簡文をよくよく読んでみますと、そこには私たちの品性が、すべてがイエス様ように変えられることですよ、と教えていることに注目しなければならない。
個々のカラテア人もですね、御霊の御は何でしょうか。
どれを見ても品性の御でありますね。
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、入和、自省、これこそイエス様の品性である。
イエス様の信者というのは、このようにイエス様のように我々の品性が変えられることであります。
また、コリントヴィズへの手紙13章、14章を見ますと、そこにこういう見言葉があります。私、これを見せましょうかね。
聖書をお持ちの方は、開いてもよろしいです。
第一コリント13章を見ますと、一節にこういう見言葉があります。
たとい私が人の意言や密かいの意言で話しても、愛がないなら、やかましいドラやうるさいシンバルと同じです。
また、たとい私が予言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値打ちもありません。
また、エペソビットの手紙第5章に、聖霊に満たされなされという命令の見言葉があります。
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その後続く第6章を見ますと、聖霊に満たされた人の結果は何なのか。
夫は妻を、イエス様が教会を愛したように愛すること、また妻は夫に従うこと、子供は親を敬うこと、
下辺は地上の主人に従うことが、聖霊の満たしの結果ですよと教えている。
どれを見ても、神聖なイエス様のように変えられることであります。
例えばですよ、皆の中でそれらがいらっしゃらないと思いますけれども、昼も夜もよく祈っている夫がいる。
ところがですね、家に帰ったら何な乳は出ない、頑固である、人への配慮もなかなかない、愛もない。
そしたらその祈りは、その熱心は、やかましい、うるさい、しんばると同じであるということであります。
例えば、聖祖に関してですけど、すごい知識を持っているね。
もうものすごくですね、開ければ誰にも教えることができる知識を持っている。
強く誰にも教えられる、暗所している知識を持っていたとしても、
聖霊の品性である愛がない、ニューアがないならば、それはね、何の値打ちもありませんよと聖書は語っている。
皆さん、イエス様の信徒とは何でしょうか。
イエスキリストが私の家に生きておられるから、その方のように変えられる。
神聖が変えられることであります。
言葉が変えられることであります。
神を愛する愛が変えられることであります。
それこそ、聖霊の見出しであります。
ただの熱さ、ただの日清ではないことであります。
愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、ニューア、自省であります。
例えばですね、聖書をたくさんして高慢な人になるよりは、少ししか知らなくても、
謙遜であって、喜びであって、平安で満たされるのが神様に喜ばれることであります。
もちろん、知らなくてもいいですよ、そういう話ではありません。
いくら熱くて熱心だとしても、愛がない、ニューアでない、高慢であるならば、それは神様に喜ばれないということであります。
私は教団の牧師でありながら、同時にですね、韓国から派遣された、選挙してありまして、
10年目に入りましたけれども、日本の業界も愛して、韓国の業界も、母国の業界も愛してですね、
いつも二つの国の許可のために祈っておりますけれども、韓国の業界から学べるいいこともたくさんありますが、
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実は最近のことではないでしょうけれども、韓国の業界とか信者の中では、自らの反省の声が上がっているんですね。
それは、韓国の業界、牧師は熱心に、何でも熱心である。熱心に祈って、熱心に念のして、熱心に集まって、熱心に業界生活をする。
もう熱心から言えば世界大事かもしれない。熱心はあるんだけれども、なぜか変わらない。
その品性が、イエス様のように変わっていないから、ピース明快になるんじゃなくて、トラブル明快になる。
親は熱心であっても、子供はイエス様を信じない。奥さんは熱心であっても、旦那さんはイエス様を信じない。
教会に来たら長老さんだけれども、熱心なんだけれども、信者なんだけれども、教会外にドアを開けて出た瞬間、長老は亡くなってしまう。
信者なのかわからなくなってしまう。そういうところから反省の声が上がってですね、熱心もいいんだけど、それも必要なんだけれども、
それと共にイエス様のように品性が変えられなければならないんですよ、という。
今では熱心を強調してやってきました。何者でも熱心やりましょう。それが悪いことではありませんが、そのうちに見逃してしまった、
品性がイエス様のように変えられることができていなかった、つかんでいなかった、そういう反省の声があらゆるところに起きている。
熱心はありますけれども、一生懸命やりますけれども、まだまだ仁はでない、まだまだ頑固である、まだまだお金が好きである、まだまだ自己中心である、まだまだ不親切である、そういうところである、本当にそうだと思います。
皆さんいかがでしょうか。イエス様を信じて、少しでもイエス様のように品性が変えられているんでしょうか。
見たまの身が皆さんの中に見えているんでしょうか。そうであるならば、皆さんは信仰的に祝福された方であられます。
メッセージを終わりたいと思います。
さらに進んでいって、イエス様のように物を言い、イエス様のように考え、イエス様のように伝導し、イエス様のように祈り、イエス様のように神を愛し、イエス様のように神の国のために生きる決心する信念でありたいと願っております。
特に明日から金曜日まで、信念祝福太保基督会が1日3回開かれます。ぜひ来ていただきたい。共に恵みをいただきたいと思っております。
成熟したクリシャンは、自分のためにイエス様を信じるのではなく、そこから成熟して、神の栄光のために、神と神の国のためにイエスを信じる人であります。
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2018年は、神様のために何をしようかと思う我々でありたい。何をしてもらうかを考えるよりは、何をしようかと、いただいた御言葉を実践して、そして今年の最後の52周目の礼拝の時には、イエス様、神様、私は本当にイエス様のように変えられましたとね、証しできる私たちでありたいと願っております。
お祈りしましょう。