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2017-12-24 36:51

2017/12/24:クリスマス・シリーズ・メッセージ(4)イエスさまと喜び

2017/12/24 聖日礼拝

尹善鎬牧師

ルカの福音書 2:8-14


00:02
名谷教会では、今年の12月は、クリスマス・シリーズ・メッセージをさせていただきました。
今日がその最後になりますけれども、紹介して申しますと、
第1回目は、イエスさまと救いでした。
2回目は、イエスさまと命でした。
3回目は、イエスさまと愛でした。
そして、今日最後になりますけれども、
イエスさまと喜びという題にして、
クリスマスの意味を共に考えていただきたい、味わっていただきたいと、
そういうふうに願っております。
この前、ある雑誌で読みましたけれども、
アメリカのシカゴ大学で、ジョン・カシオフという教授が心理学者ですけれども、
心理学のジャーナルでこういうのを発表しました。
彼は特に、孤独あるいは寂しさについて調査を長年したそうですけれども、
そのジャーナルにこういう記事がありました。
孤独というものは、社会現状であり、まるで病気のように人と人の間で伝染すると言いました。
一般的に、寂しさとか、あるいは孤独感とか、そういったものは、
それぞれ人の性格というか、気質から起因するものと考えられます。
実は、少なくともこのジョン・カシオフ教授の研究によりますと、
でもそれが不思議に、まるで風のように人と人の間で移るという現象があるということでした。
それが、実際に1983年から20年間、ある一つの町の住民4,500人くらいの対象を、
2年に1回調査をして、こういう統計の結果を出しました。
例えば、ある人がすごく寂しさ、孤独感を感じていて、うつ気味である。
すると、その人と近い関係にある人たちは、その人と付き合ってから2年後、
同じ寂しさとか、孤独感とか、このうつ感を感じる確率が、
関わっていない人と比べて、53%高いという統計が出ました。
それからもっと逆の意味として、興味深い事実は、幸福感と言いましょうか、
幸せも同じく移るということが分かりました。
03:02
その町で同じく、その4,500人くらいを、10年間、2年に1回調査してみたら、
本当にある人が、とても自分が肯定的で前向きで、幸せを感じている、
いつも感謝している人と知り合った人は、他の人と比べて、
15.3%幸せ感、幸福感が増えるという調査結果が出ました。
皆さん、もしですね、体の病気のウイルスじゃなくて、
ハッピーウイルスとうつのウイルスが、もしもあるとしたら、
もしもあるとしたら、皆さんの心の中には、今どんなウイルスがあるんでしょうか。
風邪じゃないんですよ。
ハッピーウイルスですか、あるいはうつのウイルス、闇のウイルスですか。
人はですね、それぞれ気質とか性格とか、生まれ育ちの環境はね、それぞれ違うから、
一律的には言えませんけれども、またそのうつとか、
暗い、暗い、そういう心、複雑な心が、すべて悪いものではないんでしょうけれども、
でも、イエス・キリストを信じる我々は、そのうつとか、悲しみとか、怒りとか、
そういったものが、イエス・キリストにあって、それが生成される、
リファインされて、新しくされて、変化されることが大事であると、そういうことであります。
以前ですね、東京に行った時に、ある選挙主さんが、コーヒーのバリスター資格を持って、
それでカフェみたいに選挙している選挙主の話ですよ。
コーヒー豆があるでしょうね。
ひいて、コーヒー豆がある。
そして、紙フィルタで手で入れるわけですから、それが彼の話ですよ。
まるで、私たちの人間の心の中には、このコーヒー豆の粒みたいに、
怒りもあったり、悲しみもあったり、嫌なところもあったり、暗いところもあったり、
いろんな粒がたくさんある。
しかし、コーヒーはその豆ままでは食べないでしょうね。
そういう粒がたくさんあっても、お湯を入れる人がまるで神様のようで、
お湯を上手に入れると、粒のコーヒーからおいしいコーヒーが入れられると。
私たちの心の中にある、そういったたくさんのいろんな粒がある。
怒りとか、憎しみとか、許せない気持ちとか、鬱とか、いろんな粒がある。
それが神様の御手によって、まるで精霊様の恵みが、
06:02
上手にのの字で入れると、おいしいコーヒーが入れられるように、
そこからいろんな粒があっても、すごい神様に喜ばれる。
人を愛し、人に愛される、きれいな品性が出てくるんですよ、と話して。
なるほど、すごいな、とね。
お湯を入れながらいい話をするな、と聞いたことがあります。
ところが皆さん、今日の御言葉に、二つの言葉に注目していただきたい。
それは天使が羊飼いに、こういう話をしました。
十節、私がお読みします。
天使が羊飼いは彼らに言った、恐れることはありません。
今、私はこの民全体のための、その次ですね。
素晴らしい喜びを知らせに来たのです。
素晴らしい喜びを知らせに来たのです、とあります。
この二つです。
素晴らしい喜び、そしてその素晴らしい喜びを知らせに来た、ということであります。
素晴らしい知らせってどんなもんでしょうか。
天使がですね、羊飼いに、そして今日この礼拝に来ていらっしゃる皆さんに、
イエス・キリストが、神様が、私たちに、皆さんに素晴らしい知らせを、
素晴らしい喜びを知らせに来たんですよ、と語っています。
素晴らしい知らせってなんでしょうか。
年末の残暴、宝くじの当たろうとでしょう。
そうではないでしょうね。
素晴らしい喜びというものは、イエス・キリストそのお方であられます。
天使はまず羊飼いたちに、この素晴らしい喜びを知らせてくれました。
そしてその羊飼いを通して多くの人々に、またその素晴らしい喜びを知らせてもらうことであります。
イエス・キリストが2017年前、あのイスラエルの別礼物を思い浮かぶ小屋でお生まれになったのは、
私たちみんなに素晴らしい喜びを知らせるためであります。
それを知ってもらうため、喜んでもらうため、楽しんでもらうために、
イエス・キリストがおいでになりました。
そしてそれを先に味わった人は、それを得て味わっている人々は、
先にその良い知らせを、みんなにそれを告げ知らせてもらおうということが、
イエス・キリストの思いであります。
まずイエス様を信じて救われて、新しい命を得ているクリスチャンの皆さんに、
09:05
まず一つ考えていたということがあります。
イエス様は素晴らしい喜びを私たちに知らせてくださいました。
そしてそのイエス・キリストを信じて、私たちは歩んで生きています。
キリストにあって私たちは生まれ変わりました。
日々新しく作られています。
そして私たちが周りの家族の方々、
知人の方々に、こういう風に言ってほしいですね。
皆さん、私がイエス様を信じて私は変わりましたよ。
この悪かった私が、頑固だったこの私が、
自己中心的だったこの私が、イエス様を信じてこんなに変わりましたよ。
ほら、見てきてください。見に来てくださいと。
そういう風に素晴らしい喜びを知らせることが、
イエス・キリストの思いであります。
もしもですよ。
もしもある教会に初めての方が教会に出席なさいました。
それでですね、教会に初めていたわけですから、
教会でどんな人がいるんだろうってね、こう見たらですね、
みんな暗くてですね、日もあんまり見えなくてですね、
みんなね、本当に真夏の白菜みたいにですね、
一緒に潮れてですね、
もう挨拶してくれる人もないし、
頑固な顔をしていたらですね、
もしもですよ、私が理信者だったら、初めて教会にいたら、
もうその次から行きたくないでしょう。
ところが、妙大に教会に行きますと、
みんな天使のようにですね、もうかやいている。
明るくて、優しくて、希望に満ちている。
悩みはもう全然ない。
そしてですね、初めて来られた方が、
ここに何かがあるかもしれない。
何だろうと思ってですね、と思うわけじゃないでしょう。
一つですね、私の20代の、
私は韓国人ですから軍隊に行くんですけれども、
兵役にいてですね、その時にクリチャーでしたけれども、
こういうことがありました。
軍隊っていろんな訓練があったり作業があったりするんですけどね、
銃を持つよりシャベルを持つ方が長いかもしれませんけれども、
いろんなことがあるから、体もしんどいし疲れているし、
いろんなことが、思いがあるんです。
そしてもう全国から集まった、一つの招待人、
20何人のですね、もう全然違う人がいるし、
専任、後任がいるから、その上下関係も厳しくあるわけなんですね。
ところがある日ですね、山の方で作業していたところ、
私のかなり上の専任が私にこう言いました。
お前ちょっと来ていいんですかって言ったら、
12:00
お前な、前から考えたけど、
お前なんてこういうしんどい作業をしていても、
あるいは帰って内務室に帰っていても、
いつもなんかあなたはお前はちょっと違うなって、
いつもこう講演でいるように、
何かしんどい顔をしていないなのと聞かれたんですね。
そしてこれは不思議なチャンスだなと思ってですね、
その人にですね、それはですね、実はイエス様を信じてですね、
イエスの話の心の中におられるから、
たとえ体は疲れているんだけれども、
でも希望があるから喜んでいられますよとね、
短い時間でしたけれども、そういう話をしたことがあるんです。
なので、ほほう、不思議だなと思ってですね、
その夜からですよ、その夜からほぼ2年近くを、
毎晩夜の終身の時に私がみんなのために、
終身の祈りをさせてもらいました。
それでね、その祈りをもって伝道したわけですね。
で、多くの人々はね、日曜日になったら教会にですね、
たまに私が洗礼になったら、
こうみんなね、強引に連れてですね、教会に行ったこともありますけれども、
そういうことを受けたね、人も生まれてきた。
ところが皆さん、この素晴らしい喜びを知らせに来たということの、
とても関連する大事な見言葉が一箇所あります。
字幕に出るかな、居座屋書あったっけ、ない?
ではですね、聖書をお持ちの方は開いていただいて、
お持ちのない方は私がお読みしますので、ご覧ください。
居座屋書、61章、1節、2節、3節です。
私がお読みしますので、聖書をお持ちの方は開いていただいて、
またお持ちのない方は聞いていらっしゃってください。
居座屋書、第61章、1節から3節、1226ページです。
それでは私がお読み出します。よろしいですか?
神である主の霊が私の上にある。
主は私に油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、
心の傷ついた者を癒すために、私を使わされた。
囚われ人には解放を、囚人には釈放を告げ、
主の恵みの年と我々の神の復讐の日を告げ、
全ての悲しむ者を慰め、
子音の悲しむ者たちに灰の代わりに頭の飾りを、
悲しみの代わりに喜びの油を、
憂いの心の代わりに賛美の該当を付けさせるためである。
彼らは義の果實の木、栄光を表す主の植木と呼ばれよう。
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アーメン。
ここにですね、こういう御言葉があります。
貧しい者に良い知らせを伝えること、
心の傷ついた者を癒すこと、
そして囚われ人には解放を、囚人には釈放を告げることこそ、
イエス・キリストがお生まれになったクリスマスの誠の意味ではないでしょうか。
弱い人が、あるいは病の人が、あるいは傷ついた人が、
何かに囚われている人々がイエス・キリストにお出会いして、
そして誠にそのイエス・キリストによって変えられること、
それこそキリストの誠の意味であります。
なぜならイエス・キリストがお出でになったのは、
私たちに新しい命を与えるためであります。
誠の平安と誠の喜びを与えるために来られたわけです。
だから、傷ついた人々が回復される、
何かに囚われた人々が解放を得る、
これがクリスマスの誠の意味であります。
だから、キリストにあって悲しむもの、苦しむもの、痛むもの、
彼らに冠よ、喜びよ、賛美のガイドを付けさせてくださる、
これは何と素晴らしい詩のような御言葉なんでしょうか。
ですから、クリスチャンの方々、あるいは初めての方々、
どうかお願い申し上げます。
イエス・キリストによって変えられるように、
死を待ち望んでいただきたいです。
希望のない方が希望に満たされること、
闇に何かに縛られる人々がすぐから自由になること、
悲しみとか痛みとか、そういったものに、
本当に一般になっている人々が喜びに満たされること、
そのためにイエス・キリストがおいでになる。
ところが、ここからもうちょっと掘り下げて、
もうちょっと根本的なことを一つ考えていただきたいと思います。
では、イエス・キリストと喜びとはどういう意味があるのか、
ということであります。
それは、教会に来たらいい人がいるから、あるいは面白いから、
あるいはたまにはおいしいものを食べるから、
嬉しい、喜ぶということではないでしょう。
18:03
それも一つの要素かもしれませんが、
もっとも根本的な喜びのことについてお話をしたいと思います。
なぜイエス・キリストには喜びに満ちているのでしょうか。
なぜイエス・キリストに出会った人には喜びに満ちているのでしょうか。
それは、イエス・キリスト様が我々人間として、人生としては決して解決できない
二つの問題について解決してくださって、答えをくださったからです。
その二つは何でしょうか。
それは、命と死というものであります。
命と死。
今はITとかAIとか人工知能とか科学医学といったものが発展して発展しすぎて
人間にできることがたくさんあります。
簡単に多くの人々が持っているスマートフォンありますよね。
そういうふうに、明日の神戸の天気はと聞いたら、明日の神戸の天気は晴れるでしょうとか言ってくれる。
この前ラジオのニュースを聞いたら、名古屋の愛知県では今年も一回
そして来年も無人の自動車のロードテストをやるということなんです。
アメリカでは少なくともある基地みたいですよ。
10年以内にアメリカでは軸を減らすために
人間が運転したら居眠りしたり加速したりして軸が起こるから
無人の車をアメリカでは全米に実施したりとかそういう話があるわけなんです。
ところが、いくら人工知能が医学が科学が発達しても
人間には解決できないことが二つある。
それが先に申し上げました、命と死というものであります。
あるもので人の病気を癒すことはできる。
そして病気を癒して生命を伸ばすことはできる。
とてもありがたいことですけれども
何もないところから命を生まれさせる、生じさせることは人間にはできない。
そしてどうしても死ぬことを防ぐことはできない。
立派なお医者さんやいい薬にあったら病気を癒すことはできても
無から命を救うことはできません。
死んでいく人の病気を癒して生命をある程度延長することはできますが
死そのものを防ぐことはできません。
21:00
我々人間、誰も命と死に対する答え、解決策は
実は人間からは出てこないわけです。
外からいただかなければならない。
それは作り主なる神なるイエス・キリストが
この命と死に対する二つの問題を解決してくださって
答えをこの聖書に、私たちに教えていくのです。
イエス・キリストが言いました。
ヨハネの福音書6章35節。
字幕に多分出るでしょうけれども、お読みいたします。
一緒に読みましょうかね。よろしくお願いします。3回。
イエス・キリストが言われた、私が命を与える説。
私に来る者は決して売れることはなく、
私を信じる者はどんな時にも決して買うことはありません。
それからもう一節、ヨハネの福音書14章6節。
これもよかったら一緒にお読みしましょうか。3回。
イエスは彼に言われた、私が道であり真理であり命なのです。
私を通していただければ、誰一人父の身元に来ることはありません。
皆さんそうなんです。ここに、作り失うイエス・キリスト。
命を作ってくださったイエス・キリストが、私たちに、私が道であり、唯一の道である。
唯一の真理である。唯一の命である。
だから、私を通していただければ、誰一人父の身元にパラダイスに来ることはできません。
命と死の問題は解決できません。
しかし、イエス・キリストを通してであれば、命の問題も死の問題も解決できるということであります。
ここでですね、教会ではお証しと言いますけれども、普通に言うならば、
信徒体験談ことをですね、ある方の一つのお証しを、私が読ませていただきたいと思います。
投票中にイエス様を信じて救われた、そしてその後ね、召された方。
そして、天国の希望と、そして永遠の命をいただいて、手に召された方のお兄さんの、クリスチャンのお証しであります。
信徒の皆さんは水曜日でですね、学びをしたそのお証しであります。
ちょっと省略をしながら、お話したいと思います。
今から3年前、2014年の春、東京の私立大学病院の病室で、ある先生により洗礼を受け、
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その後、2ヶ月後に招待した3歳下の弟のお証しをしたいと思います。
弟は終戦の年の春に生まれ、地元の高校を卒業、東京の信用金庫に就職し、
私転職にもなり、定年まで一度も転職せず、42年間勤務しました。
職場、結婚した妻と息子2人の4人家族。
彼の目標は、小さくても家を建てること、子供を大学に学ばせることでした。
理由があって、大学進学への意識が一倍強かったのです。
ある時、弟から電話がかかってきました。
兄貴、ちょっと話を聞いてくれないか。
俺はこれから何を生き甲斐にして生きていったらいいのかがわからなくなって、
夜もよく眠れないし、酒を飲んでもちっともおいしくないんだ。
彼はすでに目標だった家も建て、息子たちも有名私立大に入学させ、長男は卒業後、大企業に就職しました。
目標を達成した彼は、これから何を目標に生きていけばよいのか悩み苦しんでいました。
私は自分の力で頑張ってきたからなんだよ。
本当の神様から離れては、どんなに成功したとしてもそれは虚しい。
聖書に、私から離れてはあなた方は何一つできないからである。
ヨハネ十五の語と書いてあると言いました。
神様どうか今まで自分の力で頑張ってきた弟を憐れんでください。
そしてこれからは神様は第一として生活ができますように、彼の罪を許し、その重荷を取り除いてくださいと祈りました。
それから弟は聖書を読むようになりました。
朝夕の通勤に片道1時間以上かかり、その通勤時間を利用して聖書を読み始め、真剣に神様を求め始めました。
しかし当時は大文字刑などもあって、最始から宗教はお金がかかると猛反対に遭うことになりました。
そんな時、病気が再発して入院し手術を受けました。
俺はもう長くない?天国へ行けるかな?と弟から電話がありました。
大丈夫、あなたはイエス・キリストを信じると告白しているんだから心配しなくていいと私が答えると、
27:07
俺洗礼を受けていないからなと弟は答えました。
このことを牧師先生に伝えると病院での洗礼式を快諾してくださったのです。
弟は病気が再発する以前から罪を悔やるため、今まで神様のものを盗んでいたと十分の一の献金をなくなる直前まで8年かかさず兄の私に託し、教会に喜んで捧げるようになりました。
また、老いの献金を知ると俺は誰々が牧師になったら一番先に洗礼を受けるといった言葉を忘れることができません。
結局この夢は実現できませんでしたが、神様は病室での洗礼を用意してくださったのです。
弟は69年の障害でしたが、弟は魂は永遠に天国にあることが大きななごさめとなっています。
主は心の内に砕かれたものを癒し、その傷を包まれる。
いかがでしょうか。
問い投票中めされましたが、
でも、亡くなって終わりではない、滅びではない、闇ではない、永遠に人共に行くのだ。
私はパラダイスに行くのだという希望が与えられると、実はクリチャンは神を信じる者は死ぬことが実は恐れではない。
ある国では教会での葬式を、日本は前夜式、国別式と言いますが、ある国では葬儀を天国観葬式と言います。
天国にお送りする。
例えば家族が亡くなりました。
お父さんお母さん亡くなりました。
その中で慎むわけですが、感謝できる。
神の恵みと言える。
クリチャンは死を恐れない。
我々の体は、肉体は亡くなると土に還るでしょう。
しかし、新しい体、新しい魂としてよみがえって、
永遠に神を賛美し、礼拝し、喜んで生きられることを前もって、先取り信仰をもって見ているから、喜んでいられるのであります。
でも、お斬りしますと、皆さんが、そんなことなくても、私はとても幸せですよ、とても嬉しいですよ、何も問題もありませんよ、ニコニコね。
30:06
そう言える方がここにおられるかもしれません。
そうです。確かに今はですね、喜んで過ごせるし、何でも楽しんでおられるかもしれませんが、
もしも、大変失礼な言葉ですけれども、死を目の当たりにしていると、今まであったあの嬉しさ、喜び、楽しさは嘘のように消えるに違いないと思います。
そして、あの死に対して、恐れて、恐れて、死にたくない、死にたくないと叫ぶようになるでしょう。
それが人間であります。いくら覚悟しても、恐れない、恐れないと、何度も尋問受信に聞かせても、死というものを人間は避けることができない。
イエス・キリスト以外には、死というものを避けることはできません。
だから、クリスマスの本当の主人公であるイエス様は、このように言いました。
私はよみがえりです。命です。私を信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません。
このことを信じますから。
イエス・キリストは、命の主です。
その命の主が、この地にお生まれになって、私たちに本当の命を与えようとしておられます。
そして、このキリストから命をいただいて、自分のものに差していただく者には、命と死の問題を超越して乗り越えることができる。
だから、キリストと共に歩む人はいつも喜んでいられる。
それは何か物や富やそういったものが与えられるから喜べるのではなく、
我々の魂の奥底から泉のように、乾かぬ泉のようにポンポンポンポン湧いてくる、
真言の喜びがキリストから来るからです。
メッセージをあげたいと思います。
この真言の喜びを、ぜひここにおられる皆さん、イエス・キリストを通して皆さんのものにしていただきたい。
掴んでいただきたい。
今は若くても、あるいは今は元気であっても、必ず命と死というものを乗り越える道は、イエス・キリストだけにあります。
真言のクリスマスの意味は、私たちに喜びを与え、命を与え、愛を与え、
そして、私たちがこの地においても、また天においても、死と共に喜びのうちに歩むことを主は切に願っております。
33:01
この愛を、この救いを、ぜひ皆さん受け取っていただけたらと願っております。
お祈りします。
それではしばらくですね、それぞれ目との祈りの時をしばらくおしたいと思います。
しばらくお祈りいたしましょう。
お祈りいたします。
イエスは言われた、私はよみがえりです、命です。
私を信じる者は、死んでも生きるのです。
また、生きていて私を信じる者は、決して死ぬことがありません。
このことを信じますか。
アーメン。
私たちにまことの命、まことの喜び、まことの平安を与えるため、
この地におまわりになったイエス様、本当に心から感謝いたします。
死を、死と共に歩む人生こそ、まことの喜びの人生であること、
改めて教えてくださり、本当に死を感謝いたします。
ここに集まっているお一人お一人が、イエス・キリストを通して、
まことの人生の意味を、喜びと命と平安と愛をいただけるように、
神様どうぞ、覚えて祝福してください。
心の悩みや、ありがあるご病気、様々な複雑な問題を抱えている方がおられるでしょうか。
死を、すべての命の根源であるイエス・キリストが、
全知全能なるイエス・キリストが、死を、お一人お一人を覚えて、
その束縛から、病から、闇から、悲しみから、苦しみから、死を釈放して、
寛容して、まことの自由をお与えくださいますように、
まことの平安をお与えくださいますように、よろしくお願いいたします。
今日のこのクリスマス礼拝を、心から感謝いたします。
続く、また、食事、出会いにおいても、本当に死にあての喜びの時を、
死をお持ちできますように、死を祝してください。
36:00
今日、初めての方々、あるいは友人自身の方々、本当に死を感謝いたします。
ここで来たのは偶然ではなく、神様のお導きであります。
死をどうぞ、初めての方々、あるいはキリスト様、友人自身の方々の心の中にも、
喜びと平安と、あなたの救いの命で、満たしてくださいますように、お願いいたします。
いつも、死を愛して、主の教会のために、本当に推している、
三谷教会の信徒さん、一人一人を覚えて、
心身ともを祝し、本当にあなたの栄えの恵みを、
豊かに溢れるほど、お与えくださいますように、お願いいたします。
すべてのことに感謝し、イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン
36:51

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