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みなさん、あらためて明けましておめでとうございます。
神様の恵みの中で2015年が終わりまして、この世に来て新しい年が明けました。
今年も神様の豊かな恵みを経験し、そして神様の祝福を大いにいただく一年となりますように、心からお祈り申し上げます。
それでは、いつものようにお互いに挨拶しましょうか。
明けましておめでとうございます。よくいらっしゃいました。
それでは一言お祈りいたします。
神様、今からあなたの御声に耳を傾けます。
我ら一人一人に、今年最初の礼拝に、神様の御言葉を一人一人に、
今日でなければ聞く言葉はできない。
天の御言葉、命の御言葉、光の御言葉を一人一人に、
詩をどうぞお語りくださいますように。
信仰を持っていただきます。
どうぞ詩をお語りください。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
はい。
今日はですね、新年に入りまして、
修法の1ページに書かれてますように、
信仰生活の5つの基本の、
今日はその意思、キリストを知り、キリストを伝えるという題にしまして、
今年、この5つの基本ですから、
5回におけて、神の御言葉の恵みをお受けしたいと。
そして私一人一人が、本当に神様が喜ばれる、神様に喜ばれる信仰生活の基本をですね、
共に学んで、また身につけて、またイエス様のように私一人一人が変えられていきたいと、そう願っております。
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その前にもう一箇所の提出箇所をですね、開きたいと思いますが、
エフェストビートへの手紙3章14節から21節でございます。
前の字幕にありますけれども、聖書のお持ちの方はどうぞお披露出ください。
新約聖書376ページ、エフェストビートへの手紙3章14節から21節までです。
それでは私がお読み出します。
こういうわけで、私は地座をかがめて、天上と地上で家族と呼ばれるすべての者の名のもとである父の前に祈ります。
どうか父がその栄光の豊かさに従い、御霊により力をもってあなた方の失う人を強くしてくださいますように。
こうしてキリストがあなた方の信仰によってあなた方の心の内に住んでいてくださいますように。
また、愛に目指し愛に基礎を置いているあなた方が、すべての生徒とともにその広さ、長さ、高さ、深さがどれほどであるかを理解する力を持つようになり、
人知をはるかに超えたキリストの愛を知ることができますように。
こうして神御自身の満ち満ちた様にまで、あなた方が満たされますように。
どうか私たちの内に働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを超えて豊かに施すことのできる方に、
教会により、またキリストイエスにより、栄光が世にわたってとこしえまでもまでありますように。
アーメン。
先ほど申し上げたように、信仰生活の5つの基本をご一緒に学ぶところから始めていきたいと思います。
今読みまけたエペソビートの手紙3の14から21節は、パオロ先生がエペソ教会の神と一人一人がこのようになりますようにとですね、
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切なる心を持って捧げた祈りなんですね。
祈祷文なんです。とても素晴らしい祈祷文ですけれども、その中にはですね、キリスト、イエスキリストを知ることの素晴らしさ、これがこの中から書かれているんですけれども、
それをですね、3つの面から、3つの側面からご一緒に考えていきたいと、そして恵みを受けたいと思います。
ここでパオロはこのように祈っています。
キリストがあなた方の信仰によって、17つです。
キリストがあなた方の信仰によって、あなた方の心の内に住んでいてくださいますようにと祈っていますね。
つまり、私たちはイエスキリストを知ることを通して、その方を知ることを通して、この知るということは単なる秩序的な知ることではないんですよね。
人格的に、全人格的に主にお会いして、その方のすべてを経験させていただくことを知るという言葉なんですね。
それを通って、私たちの心の内側にキリストの命が生き生きと働くという意味ではないでしょうか。
今年はこのような一年でありたいと、そう願っております。
キリストが私たちの内側に、あるいは家庭の中に、主の教会の中に、イエス様の命が、光が生き生きと働く年でありたい。
イエスキリストの命が私たちの内側に生き生きと働くためには、どうしても命の源であり、ブドウの木であるイエス様に結びつくことが当然必要であります。
イエス様に結びつくこと。
結びついていれば、自然とイエス様の力と恵みがイエス様から私たちへ流れてくるわけなんですよね。
では、私たちが御言葉と祈りによって、あるいは礼拝によってイエスキリストに結びつくことによって、具体的に私たちの内側に人生に生活に何が起こるのでしょうか。
それは、神様があるいはイエスキリストが良いお方であることがわかってくるということでしょう。
それは、主を深く知るものとなるということですね。
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主を深く知るものとなる。
そしてそれが、このところのストファウルの祈りがありますように、19節ですね、エペソの19節。
人事を遥かに超えたキリストの愛を知ることができますように、この祈りがです。この通りがです。
今年1年間、2016年、礼拝を通して、御言葉を通して、あるいはお祈りを通して、あるいはお交わりを通して、人事を遥かに超えたキリストの愛を知ることができる。
それを祈っていこうではありませんか。
例えばどうでしょう。
私たちにとって、本当に励ましとなり、神様はこういうお方だから信頼できると確信を与えてくれる御言葉が皆さんそれぞれあると思うんですね。
その中のですね、福音書に書かれている武道苑のたとえ話、それがあります。
皆さんよくご存知だと思いますけれども、こんなにその話を私が言いますと、武道苑で1日審議をもらうために働きました。
ある人は朝6時から、ある人はお昼12時から、ある人は午後5時から6時まで働きました。
だから朝6時から働いた人はまるまる、例えばですよ、12時間働きます。
でも12時から働いた人は6時間しか働かない。午後5時から働いた人はたった1時間しか働かない。
しかしその結果はどうなんでしょうか。今からその話をしたいと思いますが。
なぜたった1時間しか働かない人が1デナリオンをもらえるのでしょうか。
さも朝6時から汗を流して働いた者よりも、先に同じく1デナリオンをもらいました。
余的な価値観で見ればそれは不公平なんです。
しかし皆さん、ここにイエス様の神様の愛と恵みがあるんです。
イエス様はこのようにいらっしゃるのが愛の神様だ。
神様の恵みとは本来こういうものだということを私たちに示しているたとえ話であります。
考えてみていただきたいと思います。
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朝6時から12時間働ける人はたぶん体が余分な人でしょう。
能力がある人でしょう。また若い人かもしれません。
もしその人が独身であったならば1デナリオンもらわなくても食べていくのに困らないかもしれません。
ところが夕方5時までも仕事口がなかった人、たとえば体が弱かったかもしれません。
働くのにいろいろ不都合なそういったことがたくさんあったかもしれません。
彼はもしかしたら年齢制限を超えた中年やお年寄りかもしれません。
将来ならば養わなけれない家族が何人もあるかもしれません。
この家様の当時の労働者たちはニットをもらっても食べるのがやっとで貯金、蓄えるということはもうできないんです。
仕事をもらうと朝6時から並んでいて、たとえば家族5、6人が食べられるのが、それが食べられるかどうか心配でしょうがないんです。
でも午後5時になってようやく婚姻をかけてもらいました。
実際その人はほっとったかもしれません。
でも結局1時間しか働けませんでした。
その午後5時に休まれた人は計算してみたかもしれません。
当時は12時間労働で朝6時から夕方6時までだいたい労働の仕事をしたそうです。
自分は1時間働いたわけなんですよね。午後5時から働いた人。
そしたら自分は12分の1、その賃金しかもらえないかもしれないなと思っていたんです。
でも12分の1の賃金でどうして、たとえば家族が5人も6人も7人もいたならばどうやって休まうことができるんだろうと。
そのようにして11時間ハラハラドキドキしながら過ごしていた人を最初に安心させてあげたい。喜ばせてあげたい。
これで1日家族が食べていけるということを武道園の主人はその人に伝えたかった。
それだからこそ、みんなと道学の一例なりをそれも最初に知らせてあげました。
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皆さんここに使い、私たちが信じる神様の恵みというものがあります。
そのお方の愛の心であります。
もらえる何の値もない、神の愛をもらえる何の資格もないものに豊かにあふれて与えられるもの、それが神の恵みであります。
皆さんいかがでしょうか?
過ぎ去った2015年、まさにそのような恵みの1年ではなかったんでしょうか。
例えてみるならば、私たちが食べるもの、着るもの、住むもの、乗るもの、全てを考えてみても、
あたかもあたたちはこれは自分が働いたから、自分がお金を出して買ったからといって当然の権利のように思うかもしれません。
しかし考えてみるならば、全ては神様の恵みであります。
31日、家族揃って感謝の礼拝を短く礼拝しました。
そしてその中で、お前は牧師の家庭であり、また同時に選挙士の家庭でありますから、神様がその働きをお前はやめてと言われましたら、それで終わりであります。
日本から、あるいは韓国から様々なサポートをいただいているわけなんですけれども、神様がそれを助けてくださったのならば、それで終わりであります。
しかし実にも、今年日本に使わされて8年目に入りましたけれども、7年間食べ物がなくて着るものがなくて困ったことが一度もなかった。
本当に数えてみるならば、全ては神様の恵みでしたと家族揃って感謝の礼拝をさせてもらいました。
皆さんは今でしょうか。皆さんも同じではないでしょうか。
それが神様の恵みであって、その恵みの神様が私たちが信じる神様であること。
その神様を知ることこそ、私たちの信仰の基本ではないでしょうか。
先ほどの武道園の例え話の、あの一時間働いた人に同じく賃金が与えられたことは、それは常知恥れというものであります。
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しかし、愛の神様にとっては、これこそが当然のやり方なんです。神様にとっては当然のやり方であります。
その他では、お金は誰から出たものでしょうか。
武道園の主人のポケットから出たお金であります。
不満を言う人が出ても当然であるかもしれませんが、
でも、なんであなたたちに文句を言われる筋合いがあるのだと、はっきりと主人であるゆき様は言われました。
これが神の愛です。神の恵みです。
私たちは御言葉と祈り、礼拝を通してイエス様につながる中で、祈りが聞かれる経験をしました。
恵みを豊かに味わう経験をしました。
神の愛がこんなに素晴らしい愛なんだ、それを経験させていただく時がたくさんあります。
日々の生活の中で、聖書が示す神様が、そういうお方なんだ、本当にこの書かれている御言葉その通りの神様なんだ、それを経験します。
そして、日帰っていく時に、私たちは生活が変わります。
いや、生活が変わるだけではなく、私たち自分自身が耐えられていくんですね。
うちなる新しい糸が強められる。なぜでしょうか。
武道の木である、命である、光である、信念である、道である、キリストにつながっているからではないでしょうか。
どうか皆さん、今年キリストにつながって、そこからあふれ流れてくる神の愛と神の恵みを、豊かに豊かに経験していこうではありませんか。
二番目のことは何でしょう。
それは、キリストを知ることは、キリストの愛に根差す生き方へと、私たちを導くということであります。
私たちが愛ということを問題する時に、当然のこととして、その愛を必要とするのは、人間関係だと思うんですね。
あるいは、夫婦関係、親子関係、あるいは、友人関係、あるいは、隣人との関係。
その中に、愛を私たちは必要としています。
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振り返ってみますならば、皆さんは、去年の夫婦関係はいかがだったでしょうか。
親子関係はいかがだったでしょうか。
あるいは、隣人との関係の中に、そこに、ユーシャマの愛、神様のアガペの愛の花が満開っていたのでしょうか。
私たちは一般的に、相手が好きですというのが、愛の土台だと思ったりします。
しかし、政府にとって、それは入り口であって、土台ではないと教えています。
時々、こういうお話を聞いたことがあります。
例えば、私、結婚したばかりの人が、自分は結婚した後半、紙焼きチューブの押し方に腹が立った、味付けに違和感を覚えた、物の並べ方にお互い同士腹が立ったという話を聞いたりします。
ですから、許し、言い換えれば、それは相手を受け入れるということが、愛の土台ではないでしょうか。
花火チューブを先から押すか、後ろから押すか、どれもいいことなんですよね。
相手を受け入れるということが、愛の土台であります。
では、どうしたらよいんでしょう。
キリストは十字架において、「父よ、彼らを許してください。彼らは自分のしていることがわからないのです。」と許しを与えられました。
いや、それだけではないんですよね。祝福されたんですね。
自分を呪う人を、主は許すだけではなく、祝福されました。
自分でも自分をもて余ってしまうような、この私を、イエス・キリストの十字架という代価を払って、
ご自分のものとしてくださったのが神様です。
神様はこの私を、皆さんを、その過去、現在、そして不思議なことに、将来においても、許して、そのまま受け入れてくださっていますから、
私たちは確かに、さまざまな欠点や弱さを抱えていますが、
そして、なかなか好きになれないところもありますが、むしろ不意を見て、
羨ましい思いにさせられるような、自分自身がありますけれども、
そういった自分自身と向き合って、そして、自分自身を、イエス様が命を捨てるほど愛して、大切にしてくださった。
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私だ、それをわかってくる、そして、自分自身を大切にしようという気持ちにさせられていくんです。
それが、キリストを知る恵みであります。
そうなってくると不思議であります。
周囲の周りの人々に対しても、その人々を大切にして、重んじるようになっていくのです。
しかも、はじめは、神の十字架の、イエス様の十字架の愛を知って、自分自身がどれだけ大切なものなのか、これが皆さん、十字架の愛であります。
すべての人を許す十字架を見上げて、教会の交わりの中に、家庭や社会の中に、私たちを通して、十字架の許しと祝くの愛が広がっていくこと、
それがイエス様の夢なんです。イエス様の心なんです。
そして、その人は、流れの川に植えられた木のように、時が来ますと、実を結ぶようになるのです。
3番目のことは何でしょうか。
キリストを知ることは、何にも代え難い恵みであるということです。
エペソベル手紙の19節を見ますと、
19節を一緒に読みましょうか。
エペソ、エペソ書、3書、19節をですね、一緒に読みたいと思います。
では、5書に3回。
人知を遥かに超えた、キリストの愛を知ることができますように、
こうして、神御自身の満ち満ちた様にまで、あなた方が満たされますように、アーメン。
この祈りが、今年の私たち一人一人の祈りでありたいですね、皆さん。
ここでですね、パウルは、神御自身の満ち満ちた様にまで、あなた方が満たされますように、
ちょっとだけ満たされるわけではない。
もう、神様の満ち満ちた、あの様まで満ちあうれること、それを目指していくんですね。
言い換えれば、一人一人がもう完全燃焼して、神の国の全身のために用いられる境界を送るということではないでしょうか。
皆さん、聖書はですから、私たちに本当に最も大切な生き方を示しているんです。
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この聖書の中に、生き方が書かれている。
人パウルは、そのことを祈っているんですね。
それは、神様に作られたものとして、神様の栄光を表すことを目的とする生き方であります。
神の栄光は一体何でしょうか。
それをですね、簡単に言いますと、神様の神様らしさ、それが栄光であります。
例えば皆さん、何か芸術作品は、それを作った作者の素晴らしさ、その作者らしさを表しているんですね。
同じく、神様の御手の中で刻まれるように作られた、創造された宝物である私と皆さん。
その存在、その生き方を通して、私たちを作られた作り主なる神様を指し示す、表す生き方、それが本当に最も大切な生き方であります。
では、具体的にどうしたらいいんでしょうか。
それは、キリストに習って生きるということであります。
まず、神様を愛することです。隣人を愛することです。
祝福を祈って生きることです。
それを人生の目標とする生き方であります。
2016年1月、今日は3日ですけれども、皆さんは今年の目標とか何かをお立てになりましたでしょうか。
どんな一年であったらいいなと、皆さん願って祈ってもらえるでしょうか。
願う僕は、私たち一人一人を通して、また家庭を通して、教会を通して、神の栄光が、神様の神様らしさが表されたらいいなと思うんですね。
そう願っております。仕事が十分にできてもできなくても、最高の目的である愛のために人生の焦点を絞って、
この神様からいただいた新しいこの時を、神の視野で持って受け止めて生きることを目指していこうではありませんか。
メッセージを終わりたいと思います。
こうした生き方こそが、キリストを知る者の生き方であり、作者であるキリストが神様が私たちの生き方を通して豊かにご自身を明かせされることであります。
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ぜひこのことを私たちの信仰生活の基本に据えて、今年も共に手をつないで、祈り合って、愛し合って、助け合って歩んでいきたいと願います。
お祈り致します。