1. 名谷教会 podcast
  2. 2012/05/13:聖日礼拝(旧音源)
2012-05-13 40:41

2012/05/13:聖日礼拝(旧音源)

2012/05/13 聖日礼拝(旧音源)


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いけだむつみ姉妹です。今日の聖書の箇所は、 サムエル記第一一章二十一から二十八節です。
聖書を読みいたします第一サムエル記一章二十一節より、 夫のエルカナは家族そろって年ごとの生贄を主に捧げ、自分の誓願を果たすために
登って行こうとしたが、ハンナは夫に、この子が血離れし、私がこの子を連れて行き、この子が主の御顔を這いし、いつまでもそこに留まるようになるまでは、と言って登って行かなかった。
夫のエルカナは彼女に言った。あなたの良いと思うようにしなさい。この子が血離れするまで待ちなさい。ただ主の御言葉の通りになるように。
こうしてこの女は留まって、その子が血離れするまで父を飲ませた。その子が血離れしたとき、彼女は大石三刀、小麦粉一枝、
彼女は武道士の革袋一つを携え、その子を連れ登り、城の主の宮に連れて行った。その子は幼かった。彼らは大石一刀をほふり、その子を襟のところに連れて行った。
ハンナは言った。大祭司様、あなたは生きておられます。祭司様、私は勝って、あなたのそばに立って、主に祈った女でございます。この子のために私は祈ったのです。主は私がお願いした通り、私の願いを叶えて下さいました。
それで私もまた、この子を主にお渡しいたします。この子は一生涯主に渡されたものです。こうして彼らはそこで主を礼拝した。
聖火隊に新聖火345番を賛美していただき、その後、内田牧師より母に感謝を徒来しまして、説教していただきます。
聖火隊に新聖火345番を賛美していただき、その後、内田牧師より母に感謝を徒来しまして、説教していただきます。
聖火隊に新聖火345番を賛美していただき、その後、内田牧師より母に感謝を徒来しまして、説教していただきます。
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聖火隊に新聖火345番を賛美していただき、その後、内田牧師より母に感謝を徒来しまして、説教していただきます。
聖火隊に新聖火345番を賛美していただき、その後、内田牧師より母に感謝を徒来しまして、説教していただきます。
聖火隊に新聖火345番を賛美していただき、その後、内田牧師より母に感謝を徒来しまして、説教していただきます。
聖火隊に新聖火345番を賛美していただきます。
皆さんおはようございます。それでは一言お祈りをして始めさせていただきます。
恵み深い天の父なる神様、こうして5月の第二聖日をここに迎えて、またここで礼拝を捧げ得る特権を感謝をいたします。
特に今日は5月第二聖日として、母の日をここに迎えていますことをありがとうございます。
神様が備えてくださったこの良き日を心から感謝し、またそこに込められている神様の耳根を覚えながら、また母を思いながらこの一時を過ごさせていただきます。
06:08
御言葉を通してもまた教えていただき、それぞれが神様からのメッセージをいただいてまた使わされてまいりますように、安息日、そしてこの礼拝の主であられるお方が今ここに伴っていて、全てを導いてくださることを信じておいだねします。
どうぞ教会の働きをもあなたが祝福してくださり、この福音が尊く全地に述べられていくことができますように、そしてまた私たちこの罪人を招いていてくださる主御自身を今日も覚えてここに礼拝を捧げ、またあなたからの新たなる霊の注ぎと、
そしてまた私たちも悔い改めの祈りを主に捧げて、そして清められてここから出ていくことができますように、どうぞ導いてください。
今日もたれる日本中のまた世界中の教会の礼拝が祝福されますように、また語られる御言葉が祝福されますように、どうぞお導きください。
今日ここに来れなかった兄弟姉妹方、あるいは夜明けを覚えている方々にどうぞ癒しを与え、また妨げを取り除いて来たる時には共にまたあなたを礼拝することができるように、どうぞこの一週間もお支えくださいますように、全てを委ねて主キリストの皆によってお祈りをいたします。
アーメン。
やはりそこには神様の御胸があったんだということを覚えた次第であります。どういうわけか、父の日よりも母の日の方が華やかというか盛大と言いましょうか。
それは決して気のせいではなくて事実ですね。毎年そう思うんですが、お父さん方はもう寛大ですから、それでもいいじゃないの、というそれぐらいのことであります。
古今東西ですね、多くの偉人たち、要するに偉人と言われる人たちのそういう生涯について学びますと、その多くが母親、お母さんの影響を受けているということも知って、ああそうだったのか。
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お母さんの影響というのは本当に大きいんだなということをまたそこで知らせたりするわけです。今日はこの母の日。母というのはいろいろな呼び方があると思うんですね。
母、あるいは母親、お母さん、あるいはお母さん、そんな人いないか。おふくろとかね、それぞれ思い向きがあると思うんですが、私も今日お話ししながら、母と言ったり母親と言ったりお母さんと言ったりいろいろ出てくるかと思うんですが、そういうふうにして私たちは今日改めてですね。
日頃も思っているんですけれども、改めて母、お母さん、そのことを思いながらこのひとときを過ごしたいと思うんですが、ただ私たちのお母さん、母といってもまたいろいろだと思うんですね。
中にはもう母はすでにこの世にいない天国に帰ったという人も当然います。今は年老いていますけれども健在で、そしてそのお母さんのお世話をしているんですという、そういう場合もありますし、今は子育ても終えて、今度は孫のお世話に孫孫しながら忙しくしている。
お母さん、あるいはもう一段落して老後を楽しんでいるお母さん、それと同時に今私がお母さんの役を今しているという、そういう方もおられると思うんですね。
青年期の子供さんを持っているお母さん、あるいは高校生、中学生、小学生、そういう子育て真っ最中のお母さんというそういう方もおられましょうし、家庭の働きとともに働いているお母さんというのも中にはありましょう。
あるいは赤ちゃんを産んでお母さんになりたての、これからいよいよお母さん道を突き進んでいくんだという頑張っておられるお母さんもいましょうし、もうすぐお母さんになるというそういう人、さまざまそういう人、皆さんを含めていろいろなことを考え、
またそれぞれに忍び、また思っていただきたいと思うんですね。
どんな立場であろうとも、私たちがお母さん、母と言うときに、それは本当にかけがえのないものであり、なぜこの母というものが大事なのかということですよね。
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それは私たちがここにいるということ、私たちが今命をいただいてここに存在するということは、母を通してでしかそれはなし得なかった。
私たちは母の体内から生み出されて、この世に生み出されたということにおいて、誰一人お母さんと関わりのない人なんていないということですね。
みんなそれぞれお母さんを通してこの世に生み出されてきたという、それはどの人も同じ共通したことであるということですね。
それはもう大前提でありますが、今日はお母さんへの感謝ということで、三つの感謝を考えてみたいと思うんです。
一つは私を生んでくれたそのことへの感謝、また産み育ててくれたというそのことへの感謝。
そしてもう一つは母の愛への感謝。
三つ目は母の祈りに感謝。
先ほど読んでいただきました第一サムエル記の一章、この全体は一人の人物、ハンナという人のことが書かれてあるわけです。
このエルカナという人の妻、それがハンナという人なんですが、その人は長い間子供が授からずに悩んでおったわけです。
そして彼女は宮に登って祈った。
それが一章の十節あるいは十一節、サムエル記第一の一章の十節。
ハンナの心は痛んでいた。
彼女は主に祈って激しく泣いた。
それほど心を痛めておったわけです。
そして誓言を立てて行った。
行ったこれも祈りであります。
万軍の主よ、もしあなたが端溜めの悩みを顧みて私を心に留め、この端溜めを忘れず、この端溜めに男の子を授けて下さいますなら、私はその子の一生を主にお捧げします。
そしてその子の頭に紙反りを当てません。
この紙反りを当てないというのは、主にお捧げしたそのものはそういう決まりがあったということを後で私たちも学びますけれども、
そのようにして子供が与えられたら、その子は神様からの授かりものとして、また主にそれをお捧げしますという、そういう誓いを立てて祈ったということですね。
15:10
そして19説、20説、19説、20説。
主は彼女を心に留められた。19説。主は彼女を心に留められた。日があらたまって般若は身ごもり男の子を産んだ。
そして私がこの子を主に願ったからといってその名をサムエルと呼んだ。
後、神の人サムエルと呼ばれるその人物の母親がこの般若というご夫人であったということ。
ここからお伺いすることができるわけです。
その生まれた後のことを先ほど読んでいただいたわけですが、
まず私たちはこのお母さんに対して私を産み、そして育ててくれた。そのことを覚えて感謝をしましょうという、これがまず第一ですね。
全ての人はお母さんの体内、そこに宿り、そしてそこからこの世に生み出された。母があってこそ今のこの私がここに存在するのだ。
たとえ何ヶ月ですか。9ヶ月でしょうか10ヶ月でしょうか。この子と母は一体であったということですね。
そのことを私たちは、私たちは当然知らないわけです。お腹の中にいたので、そういうまだ知恵もなかったですから記憶もありませんが、間違いなくそれは証明される。
誰かが知っていること。あるいは私たちも人のそれを見て知っているわけです。
父と母はある期間一体であったということ。このことに間違いはない。そしてその産んでくれた子を父母、特に母はそれを育ててくれた。そして今日のこの私があるのだ。
この聖書はこの10回の中の一つとしてあなたの父と母を敬いなさいと書いてあります。それが神様の教えであります。今日は母の日ですからあなたの母を敬いなさい。
この敬いなさいがどういう意味ですかという質問があって、それは尊敬です。それでは尊敬とは何ですか。尊敬は尊敬だという答えになっているのかなっていないのか。難しいですね。
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それは言葉で説明するよりも、例えば私たちがこの味を味わったときにそれをどう表現するか。これは難しいですよね。あるいは何か触った感触を伝えたり。それも本当に難しいことですね。
そのようにこういうことだというのを私自身の中に感じること。尊敬、敬うというのもそういうことではないかな。何か言葉では説明できないんですけれども、この人は敬える。この人は尊敬できるというそういう思いが誰しも持っているし感じる。
そういうものがあります。あるいは敬われる人も尊敬される人も、自分は言葉ではないけれども何か表現ではないけれども、自分は尊敬してくれているのかな。敬ってくれているんだろうなという、そういうのはお互いの中で分かり合える。それがこの敬うとか尊敬ではないのかなということですね。
ですから聖書はあなたの父と母を敬いなさい。これが神様の言いましめです。しかし、あんな母は敬うことはできない。
誰から見てもひどいね、お母さんはちょっと難しいなという、そういうことも確かにあります。私も聞くこともあります。
中には、私は幼い時にその母に見捨てられたんです。そんな人をどうして敬うことができるんですかということも実際聞いたこともあります。それも事実ですね。
しかし聖書は、それはそういうケースもありますけれども、神様というのはまず全体に、全体人間に対して、まずあなた方の父と母を敬え。その父と母というのは神が親としての権威を授けたものであり、
そしてその親も当然のこととしてその子を産み育て、そして愛情を注いで、そしてその子のために祈り、そしてそれを成長へと導いていくという、そういう親としての責任なり使命なり愛情なり、
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そういうのは当然あるという前提で、そういう親に対して父に対して母に対して子が尊敬する、敬うのはそれもまた当然だろうという、そういうことがあるわけですね。
でも中にはそうでない、そういうこともあるというのはまたこれは別のこととして当然だと言えます。
私が結婚の式をさせていただいた一つのカップル、若いカップルですが、その結婚式にお母さんは出席していませんでした。
聞いてみますと、それこそ親老の彼とその妹、その二人がまだ幼いときに両親の中で何かあったのでしょう。お母さんはいなくなっている、それっきりだということなんですね。
本当に残念なことですが、お母さんにすれば息子は今どうしているだろうか、そろそろ結婚する年頃だろうな、ここにいたらさぞうれしいだろうなという、そんな思いを私たちは持ちますけれども、何かかつて夫婦の間で何かあったんだろう。
夫婦だけではなくその取り巻く何か状況の中で、そうせざるを得なかった理由があったのかもしれないし、お母さんにしてもそうせざるを得なかった何かわけがあったんだろう。それはもう当事者しかわかりませんし、ましてや幼いその二人には知るよしもなかったでしょう。
今どんな思いでいるのかわかりませんけれども、もし私の母は私を見捨てていった、どうしてあんな母を敬うことなんかできるんですかという、そういうことも考えられなくもないんですが、願わくはどうぞ許してあげてほしいなと思うんですね。
お母さんもそのことは十分わかって、どこかで過ごしておられるんだろうと、そう思います。私たちはそういうケースもありますけれども、それは特殊なケースとして。
聖書は人間全体に対して、まずあなたの父と母を敬いなさい。その父と母を敬いなさいという、これは子に対して語っている言葉である。
しかし、これはまた父である私、母である私がその敬われるに尊敬されるに値するものになれるようにという神様のそういう見思いも含んでいるのではないか。
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子に対しては父と母を敬えと言いながら、果たして私は父としての母としてのその務め、あるいは責任、あるいは愛情を注いできただろうかということをもう一度振り返りながら、またそこから新たに父と母としての歩みを進めていく。それも含んでいるのではないだろうか。そんな思いがするわけです。
私たちは母親を選ぶことはできません。たとえこのよそのお母さんを見て、ああ、あんなお母さんに私は生まれたかったのにと思っても、それはかなわないことです。私がここにあるのはこのお母さんでしか私はこの世に存在しなかった。
このお母さんあってこの私。このお母さんはこの世にこの人しかいないんだ。それをかけがえのない存在というわけですね。もう変わりはない。どんなに願っても、あるいはどんなに足掻いても、お母さんは、私のお母さんはこの方しかない。それが尊いということなんです。
かけがえのない、もうこの世にこれしかない、この一つしかない、この一つしかない、それがかけがえのない存在。母とはそういうもの。ですから私たちは、このかけがえのない存在であるこの母を思って、忍んで、そして感謝を捧げるわけです。
二つ目に、母の愛に感謝を捧げましょう。お母さんは私を愛してくれた、あるいは私を今愛してくれているということですね。
日頃は何気ない行動の中に私たちは暮らしているんですけれども、間違いなくお母さんは私たちに子供に対して愛情を注いできてくれた、あるいは今も注いでくれている。
そのことを振り返る、そういうときが今日なんだろうな、あるいは今日をきっかけにまた日々そういうことをさせていただければ幸いである。
このハンナという人は、生まれてきたこの子を主にお渡しします、主にお捧げしますということを言ったわけですね。これは母親としては大変な決断、勇気、ハンナのこの強さ、たくましさをここで見るわけですが、このハンナは、それは彼女の信仰から来ている。
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聖書が教えているように、いわゆる神様の愛、アガペそのことをハンナはしっかりと持っていた。その神様の愛をこの子に注いで、そしてこの子は当然エルカナ、そしてハンナの子として生まれましたけれども、
私たちだけで育てるのではなく、神様がどうぞこの子も一緒に神様を育ててくださる。あるいは私たちが至らないところも神様が補って、この子は立派に育つように成長を神様が促してくださる。
ハンナはそういう主を恐れる人であった。主を信じて、主に委ねることを知っている。そういうハンナであった。そのような母に育てられた子も、また主を恐れる主に用いられる器となる。それが後のサムエルであるということですね。
私たちは聖書を通して、もう一度神の愛というアカペというのを覚えながら、それを今学んでいるわけですが、愛と訳されている言葉なんですが、日本人の私たちが考える愛。
それは友達同士の間で起こる友情であったり、友愛であったり、あるいは肉親の間で覚える愛であったり、あるいは男女の間で起こる愛であったり、そういうふうないろいろな愛があるわけですが、ギリシャ語ではそれぞれ言葉が違ってわかりやすいんですけれども、
日本語の場合はそれも全部愛ということになって、アカペもまた愛と訳されている。そういうことが前提になっているんですが、私たちの人間の持っている愛というのは、これも素晴らしいものです。
そして本当に麗しい、美しいものですが、時にはそれが行き詰まるということがあります。あれほど誓ったのに行き詰まってしまう。あるいは条件付きでその愛が発生する。
こういうことであるならば愛しましょう。こういう条件に満たされたら愛される。それから外れてしまうともう愛はそのところから消えてしまう。そういうような、それが人間の持っている愛であるわけですけれども。
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しかしアカペはそうではない。アカペは他の愛とは違うのだということを私たちは今学んでいますし、またこれからも学んでいくわけですが、この神の愛、アカペに最も近い愛が母の愛ではないだろうか。
イコールではないにしろ限りなく近い、それが母の愛ではないか。
お母さんはもし子どもが命を脅かされるような状態になったとき、病気になったり、あるいはけがをしたり、あるいは何かでもうこの子の命が危ない、そういうときにお母さんはどうかこの子を助けてください。この命を助けてください。
できるなら私の命を取ってください。私の命の代わりにどうぞこの子を生かしてくださいという、そういうことを言います。それはアカペです。まさにアカペです。
イス様が私たちの生くべき罰を、死ぬべき私たちを身代わりに、私が十字架にかかってその罪の刑罰、十字架を受けますと言ってくださった。そのこととまさに同じです。
こういう経験もあるのですが、この子どもが、この私が学校に呼び出されて、そしてお宅のお子さんは学校でこうこうこういう悪さをしましたと言って、お母さんが学校に呼び出され、そしてお母さんはこの先生に申し訳ございません、申し訳ございません、もううちの息子がいたら悪さをしました。
本来私が謝らなければならない、そのしたことに対して、お母さんがもう平謝りに謝ってくれている。これがまさにアカペです。
私だけが気づく、気づかないに関わらず持っているその罪を、先生様がそれを受けて、そしてその重宝者として取り成してくださる父よ、彼らを許してください。彼らは何もしているのか自分ではわかっていないのです。
ですからそのしたことを皆私が背負いますから、この私に免じてどうぞこの子を許してあげてください。それがアカペです。まさに母親はそのようにして、その愛を子供に注いでくださる。そのことを覚えて私たちは感謝をするものであります。
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三つ目に私たちが母に捧げる感謝、それは祈りに対する感謝です。母は常に祈っている。ハンナも祈りました。
27節、私はこの子のために祈ったのです。この子のために私は祈ったのです。これがハンナの偽らざる思いでした。私は祈ったのです。母は常に祈っている。生まれてきたこの子がすくすく育つようにどうか神様、あなたが助けてください。
まだ神様を知らない、まことの神様を知らない人だって何かすがるように願うようにどうぞこの子が育つようにお願いしますということを何かに今訴えなさっておられると思うんですね。そういう思いが常に母親にはあるわけです。
私たちはねわが悪はその何かに対してということではなくはっきりとこの創造主なるお方、そして三味一体の神、父なる神、子なる神、イエスキリスト、聖霊なるそのお方、そのお方をしっかりと覚えてその方に向かってどうぞこの子をあなたが育ててください。
私たちも一生懸命育てていきますというその祈りを捧げるということは本当に大事なことだと思います。
お母さんはいつも子供のことを心配して祈っています。何かあると大丈夫かな、大丈夫だろうか、そして何かよくできるとよくやった、そして何かご褒美をもらってきたらよくやった、そして励まして祈る。
私たちは手を合わせて父なる神、主なるイエスキリスト、聖霊なる神様に向かって手を合わせて神様ありがとうございます。
こうしてこの子がこういうことをさせていただきました。神様がそのようにしてくださったことを感謝をいたしますと、そしてその祈りを捧げるということをします。
成長したといっては喜んで、そしてまた感謝の祈り、そして時には子供が悩む時があります、行き詰まる時があります。
それを見てまた母親は、母親も心配なんですけれども、そこを信仰を持って大丈夫だ、何とかなる、祈るから大丈夫だ。
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あなたも祈りなさい、私も祈ります、そして一緒に親子は祈るわけです。あるいは隠れたところで母は祈ってくださっている。
そしてやがて子は親から離れて育つ時がきます。
その時も、ああ寂しいな、せっかく今一緒にいたのに、いよいよそういう時が来たのか、この子も育つ時が来たんだ、そういう寂しさをこらえて頑張れよ、行ってきなさい。
そういう風に励まして、その時にも天皇神様、今この子は育ちます、でも神様がともにいてくださいますから私も安心です。
そしていつでも帰ってくる時は私が迎えます。
そういう風にして、母はこのために生涯祈る、それが母の務めであり、また母の喜びでもある。
願わくは母は祈ります、この子が救われるように。
魂においてこの子が神様を信じて救われてほしいという、その祈りを母は常に絶やさない。
その思いを賛美歌にしたのが、この賛美歌の510番、幻の影を置いてという歌ですね。
今日はプログラムに入っていませんでしたが、その4節にこういう歌詞がついています。
永ために祈る母の、いつまで世にあらん。
永に悔ゆる日の来ぬ間に、とく神に帰れ。
春は軒の雨、秋は庭の露。
母は涙渇く間なく、祈ると知らずや。
お母さんは私たちの知らないところでも、この子が救われるようにと祈っていてください。
私たちもそのうちそのうちと言いながら、
言っている間にお母さんがもういなくなってしまったら、本当に申し訳ないなという、そういう思い。
母はいつまでこの世にあらん。
親孝行したい時に親はなし。
そういう悔ゆることのないように。
今できること、お母さんに対しての感謝。
それをしっかりと表して、その思いを伝えることができたら。
あるいはもうすでに天国に帰ったそのお母さん。
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そのことを忍びながら、残してくださったその良き思い出。
その母の遺産というものを私たちもしっかりと受け継ぎ、また次に渡していく。
そういう使命も私たちにも与えられている。
今日こうして、ハンナの祈りを私の祈りとして、これからも歩んでいきたいと思います。
今日、全世界のお母さん方に祈りを捧げます。
お祈りします。
ハンナは祈りました。
この子のために私は祈ったのです。
天の父なる神様、
今日母のことを覚える時を持つことができましたことを感謝いたします。
すでに主の身元に帰っていったお母さんのことも覚えます。
これからもそのお母さんが残してくれた良き思い出を大切にしていきたいと思います。
今現役で頑張っているお母さん方のためにも祈ります。
子育ては難しいこともありますけれども、そこに愛と祈りを込めて育てていきますから、
どうかこの尊い務めを全うすることができますように、お一人お一人を支えてください。
イエス様の尊い皆によってお祈りいたします。
アーメン。
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