1. 名谷教会
  2. 2011/05/15:聖日礼拝(旧音源)
2011-05-15 46:39

2011/05/15:聖日礼拝(旧音源)

2011/05/15 聖日礼拝(旧音源)


00:01
聖書を読みいたします。
マルコの福音書5章の25節から34節。
新約聖書のマルコの福音書の5章25節から34節。
73ページです。
マルコの福音書5章25節。
ところで、12年の間、長血を患っていた女がいた。
この女は、多くの医者からひどい目に合わされて、自分の持ち物を皆使い果たしてしまったが、何の甲斐もなく、かえって悪くなる一方であった。
彼女はイエスのことを耳にして群衆の中に紛れ込み、後ろからイエスの着物に触った。
お着物に触ることでもできればきっと治ると考えていたからである。
するとすぐに血の源が枯れて、ひどい痛みが治ったことを体に感じた。
イエスもすぐに自分の内から力が外に出ていったことに気づいて、群衆の中を振り向いて、
誰が私の着物に触ったのですか?と言われた。
そこで弟子たちはイエスに言った。
群衆があなたに押し迫っているのをご覧になっていて、それでも誰が私に触ったのか?とおっしゃるのですか。
イエスはそれをした人を知ろうとして見回しておられた。
女は恐れおののき、自分の身に起こったことを知り、イエスの前に出てひれ伏し、
イエスに真実を余すところなく打ち明けた。
そこでイエスは彼女にこう言われた。
娘よ、あなたの心肝があなたを治したのです。
安心して帰りなさい。病気にかからず、健やかでいなさい。
聖火隊の方に賛美していただきます。
新聖火260番。
その後、内田正春牧師より、心肝は力なり、と題してメッセージをいただきます。
心肝は力なり、と題してメッセージをいただきます。
03:03
心肝は力なり、と題してメッセージをいただきます。
心肝は力なり、と題してメッセージをいただきます。
心肝は力なり、と題してメッセージをいただきます。
心肝は力なり、と題してメッセージをいただきます。
心肝は力なり、と題してメッセージをいただきます。
心肝は力なり、と題してメッセージをいただきます。
心肝は力なり、と題してメッセージをいただきます。
心肝は力なり、と題してメッセージをいただきます。
心肝は力なり、と題してメッセージをいただきます。
心肝は力なり、と題してメッセージをいただきます。
知識をみてあらわれし、
わがみぞけにもさちがう。
心のけがれあらわれ、
よろこびもねむとたり。
いつかやむとしあえり、
わがみのこえもおさえもなくむこうりま。
知識をみてあらわれし、
わがみぞけにもさちがう。
心のけがれあらわれ、
よろこびもねむとたり。
おはようございます。
今日も皆さんとともに礼拝を捧げできる特権を感謝しております。
今日も神様から聖書を通して御言葉をいただきます。
一言お祈りをして、今日のテキストを見たいと思います。
信仰によって義と認められた私たちは、
06:03
私たちの主イエスキリストによって神との平和を持っています。
またキリストによって今私たちの立っているこの恵みに
信仰によって導き入れられた私たちは、
神の栄光を望んで大いに喜んでいます。
恵み深い天の父なる神様、
こうして今日も私たちに命を与えて、
そしてこの尊いあなたへの礼拝を捧げるために、
ミドに送り出してくださりありがとうございます。
この礼拝の主であるあなたを今拝して、
心からの礼拝をあなたに捧げます。
賛美をし、また祈りを通してあなたとの交わりを今いただいています。
そしてまた御言葉を通してあなたの御胸を
今日も教えていただきたく願っております。
どうぞ私たちにあなたへの植え替わりと、
また御言葉に対する従順を私たちに与えて、
そしてまた私たちを送り出してくださるようお願いをいたします。
今御前にありますお一人お一人を今あなたの御愛で包み、
また精霊を満たし、そして慰め励まし、
また癒しを与えて、それぞれに必要なものをあなたが与えてくださるよう
心からお願いをいたします。
今日ここに来れなかった兄弟姉妹方を覚えます。
中には弱気を覚えておられる方、
必要があって今日ここに来れなかった兄弟姉妹方、
どうぞあなたがそれぞれを行き巡って、
その場をあなたとの交わりの時、礼拝の場としてくださるよう
お願いをいたします。
私たちは今ここにあってあなたに礼拝を捧げるこの恵みを感謝します。
来れなかった人たちの分まで心を込めて、
あなたにこの礼拝をお捧げいたします。
どうぞ天においてお受け入れくださり、
あなたが豊かに上から力を与えてくださるようお願いをいたします。
また今日も御言葉に養われて、
私たちを強めてくださるようお願いをいたします。
委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日も今朝電話がありまして大変体調が悪いというようなことで、
お休みせざるを得ないというようなことが日常三半時のようにあるわけですね。
ですから今日だけではなく、
私たちは日ごろ健康であるということ、
あるいは病になったときに私たちはどうしようか、
09:02
そういうようなことをいつも意識的にあるいは無意識的に
いつもそういうことを考えているというものであります。
ちなみに私が病院なりクリニックのそういう診察カードと言いましょうか、
あれが何枚あるだろうか、数えたことはないんですが、
おそらく30枚ぐらいはあると思うんですね。
あるいは生まれてこの方ここに至るまでどれほどお医者さんにお世話になったかというようなことを考えるときに、
本当に助かっているあるいは感謝している医療に携わってくださっている方々には本当に敬意を表して、
本当にまた今はよくてもいつまたお世話になるかもしれない、
そんなことを日々思いまた感謝し、
そして私たちは人間としての一つの願いとして、
病気にならないように健康であるようにいつも願っていますし、
あるいはそういう病のときには医者にお世話になって、病院にお世話になっているものですね。
今日のそういうテキストの中にそういうことが出てきますから、
そのことをまた改めて考えたわけであります。
人間にとってのこの病を持つということは本当につらいことでありますし、
また心苦しい痛むことであります。
もちろん病にもいろいろな種類があったり、私は専門家ではないので詳しくは言えませんけれども、
人間にとっての切実な願い、
もう病がなくなってほしい、でもそうならない、
そういう世界に私たちは生きているわけですね。
ですから、もちろん私自身が病にならないように、あるいは愛する人たちが病にならないように、
あるいは今病んでいる人が早く元気になってほしい、早く治ってほしい、健康を取り戻してほしい、
そういうことを思いながら祈りまた日々私たちは過ごしているわけですね。
あるいはなぜ病があるんですか、そんな永遠のテーマを思いながら考える。
私たちが生きている限り、やはりこの病と隣り合わせであるような、そんな気もするわけですね。
そしてこれまで幾人ものそういう病と戦ってこられた方々、
自分自身も含めて、そして癒されたときに、
神様感謝します、癒してくださってありがとうございますと主をたたえた、そういうことも何度もありました。
12:07
しかしあの病さえなければ、あの人がどうしてこんなことになったんでしょうかと、
本当に心を痛んで共に悲しんだという、そういうこともあったわけですね。
ですから私たちのこの生きていく中で、病とあるいは健康である、そんなことをいつも覚えているものであります。
そんなことを思うと、健康であるということ、とにかく手足が動いて食べることができて、
また何か奉仕ができる、それは決して当たり前のことではないんだ、
これはやはり神様の恵みであり、また賜物である、そう思い感謝をするわけですね。
ましてや私たちが神様に贖われ、そして救われたもの、
この体をもって神様の栄光を表しなさいと、そのように御言葉にある限り、
私たちはこの与えられている体を最大限に用いるために、やはりこの体を整えておく必要がある。
ある人が、神よ私を平和の道具として用いてくださいという、そういう祈りを捧げた人がいましたが、
私たちがこの道具としての体、それを神様に用いていただくために、いつもそれを手入れしておく。
もしそこが痛んだなら、それを早く癒して直していただく、そういうことは必要であろうと思うんですね。
それは神様に私たちが100%使えていく。
良きものを神様に捧げていこうとする時に、私たちはこの与えられている体をしっかりと手入れしておくということが必要なんだなと思うんですね。
そういう中でも私たちは時に疲れを覚えます。弱さを覚えます。あるいは病にもなります。
私たちは得てして休むことに罪悪感を覚えることがありますが、決してそんなことは必要ないと思うんですね。
人の目にはどう移ろうと、もし自分自身にこの時、今必要だ、休みが必要だ、休まないと100%の力で神様にお使いできない、その時はきちっと休んで、
そして癒していただく、弱っているところを強めていただく、そして体をいたわって、そしてまた力が与えられたら、回復したら、その体を用いてまた神様にお使いしていく。
ですからどうぞ自分の判断で、もし休みが必要な時はどうぞしっかりと休んで休養をとってください。
15:07
イエス様が疲れた人、主に酔っている人は私の下に来なさい。あなた方を休ませてあげようとおっしゃってくださっているこの主に委ねて、主に癒していただく、それが神様のまた願いであるわけです。
健康といえば、皆さんも十分気をつけて、体の健康を気になさっておられることと思うんですね。
クリニックに行きますし、またサプリメント、栄養剤を飲んで健康にいられるように、また病にならないように、そういうことを気をつけているわけです。
私たち人間は体だけではありません。心も、そして魂もあるものですね。
心の健康はどうでしょうか。いつも平安でいられるようにリラックスして、そして必要な時にはしっかりと奉仕できるように、心のケアというのも大事ですね。
それと私たちは魂の健康、魂が健全であるかどうか、そのことを私たちはどういうふうに考えているだろうか。魂の健康、心、あるいは体にはサプリメントを飲んで健全であろうとしますが、魂のケアはどうでしょうか。
ある人が言いました。あなたはどうして魂においてそんなに元気なんですか。その人は答えました。私は旧薬と新薬を飲んでいますから。
数人の方はちょっとわかりぬっていない方がおられましたら。要するに旧薬、新薬。要するに人はパンのみに生きるにあらず、神の口から出る一つ一つの言葉によるという、そこにあると思うんですね。
私たちは神様の言葉をしっかりいただいて、それが私たちの魂の養い、また健全でいることの秘訣であります。そして神様に祈り、そして今日テーマにありますこの信仰というもの。これをしっかりと私たち今日御言葉から教えられて、また使わされていきたいとそう思います。
このテキストの中に一人の女性が登場しますが、この方は十二年もの長い間患っていた。そして今大変な状況の中、どん底のような状態の中にあるということを見たわけですが。
18:12
そういう中で彼女が二十七節でイエス様のことを耳にしたという、ここから彼女がどういうふうになっていったのかということ、私たちは今日御言葉を通して教えられたいと思います。
信仰は力である、そのことをこの一人の女性の成したことから教えていただきたい、そう願っているわけです。まず一つ、信仰とは求める力である。彼女はなるほど体は病んでいたわけです。
ところがイエス様のことを耳にして、そしてそれで終わらなかった。私たちは多くの人にイエス様のことを伝え、そして何とかイエス様のことを知ってほしい、そういうふうに願って働きをしていますが、中にはイエス様のことを知りたいと願って集会に来てくださる。
そこからまた救いへと導かれる人もいますし、イエス様のことを耳にしても、いや私には関係ありません。あるいはいやまだ私はそういう信仰とかそういうものは必要ないんです。
あるいは何か誤解なさって避けておられる、あるいは自分の家庭には自分たちの先祖の宗教と言いましょうか、信仰があるので結構ですというようなことでありました。
しかしこの彼女はイエス様のことを耳にして、そして群衆の中に紛れ込み、後ろからイエス様の着物に触った、そういう行動に出たわけです。
一つ私たちはこのイエスの着物という言葉に関して、私たちがイエス様を想像するときに、イエス様がこの地上におられたときにどんな格好をしておられたのかということをイメージするわけです。
ある本に確かイエス様がサラリーマンだったらというようなタイトルの本があったと思うんですね。私も一度読んでみたいなと思ったんですが、決してイエス様がシャツにネクタイをしめてスーツを着ておられるという、そういうイメージはないわけですね。
21:01
でもイエス様がスーツを着てビジネス界で働いておられたらどんなのだろうかという、その人なりのイメージで描かれているんだと思うんですね。
でも当時、中東のイスラエルのあのあたりでは何か上から羽織るような長いものを着ておった。皆さんも絵とかあるいは映像で見られたことと思うんですが、ああいうものを着ておられたわけですね。
中には着物の、決して私たちが日本人が着る着物のことではないと思うんですが、その衣類の裾にはこのふさがついていたということも言われています。
そういうイエス様の着物に触りたい、あるいは着物じゃなくてもそこについているふさでもいいから触りたいという、そういうことを彼女は願って、そして群衆の中に紛れ込んで後ろからその着物に触ったというんですね。
彼女はなるほど体は病んでいました。しかし、この主なるお方を求めようという、そういう意味で魂は病んでいなかったわけです。私たちはそのことを感謝したいと思うんですね。
イエス様のことを聞いて、そしてその主を求めていく。彼女にはそういうまだ力が残っていた。それが信仰なのだ。そしてこの彼女の信仰から来る、求める力、それもさることながらその求め方がどのようなものであったのかということを私たちは想像しています。
イエス様のことを耳にした。イエス様が近くにおられる。しかし群衆がもういっぱいいて中に入れない。そしておそらく自分自身のそういう立場もあったろうと思うんですね。
人に知られてはいけないようなそういう立場であったならば何か頬かむりのような頭巾のようなものをして、そして紛れ込んで後ろからイエス様の着物に触ったというんですね。これは大変なことです。
もう群衆がいっぱいいて遮られて、なかなかそこを塗ってイエス様のところに到達することはできない。いわばそういう中でも彼女は必死にイエス様を求めていったということです。
もうかきわけかきわけ、戻されるそれもまたかきわけて、そして手を伸ばしてイエス様の衣物。裾でもいいんですから触りたい。そういう思いでとにかく必死で彼女は求めた。
24:13
聖書の中にもいろんなそういう言葉があります。求めよ、さらば与えられん。探しなさい、そうすれば見つかる。叩きなさい、そうすれば開かれるであろう。そのお言葉を私たちはいただいていますが、求めよ、でもその求め方はどのような求め方でしょうか。
神様、私はこういうことを願っています。こういうものが欲しいんです。よろしくお願いしますという求め方と、もう神様、何としてでもこれが欲しいのです。もう必死の思いで、無我夢中で、探しなさい、どこかにないかな、なかったらなかったでいいやという求め方と探し方と、
もう何が何でもそれを見つけないと、自分は後のことは何もできない。必死で探す。叩きなさい、開いてほしい。その叩き方はどのような叩き方でしょうか。
ある人が夜中にパンを貸してくださいということが聖書にも書かれてありました。もうその人が夜中なのに貸してください、貸してください、もうそれこそ必死で言うから、もううるさい、うるさい、もうあなたが友達だからとか、そんなことはもう抜きにして、もう夜中、もう近所迷惑だし、もうそこまで言うなら貸してあげようという。
そんなことが書かれてありました。私たちの求め方はどういう求め方だろうか、そんなことをここから考えさせられるわけです。
私たちは夢もあり、またビジョンもあり、希望もあり、目標もあります。またそういうものを持たなければいけないと思います。個人において、夢もビジョンも目標も希望も持たないといけないと思います。
教会もそうです。教会のビジョンがありますか、目標がありますか、あるいは私たちの職場、勤めでいるその中で、そういうものをきちっと持ってそこに向かって進んでいかなければならない。しかしそれを求めるときの求め方、願うときの願い方はどんな願い方だろうか。
本当に必死で、本当に無我夢中のような、そういうものを私たちは持っているだろうか。そしてそういうものを私たちに湧き上がらせるもの、それが信仰なのだ。求める力を湧き出させるもの、それが信仰であり、またその求め方も信仰によって違ってくるのだ。
27:07
そういうことをここから教えられるわけです。私たちはまず、信仰とは求める力であり、そしてその求め方は、この女性がしたような、何としてでもイエス様の着物に触るんだという、そういう必死の願いと思いでそれを求め続けていくとき。
何かが起こる。私たちが今、今日ここにいます。こうして何年何十年生かしていただいています。あるときおそらく自分たちのこれまでのことを振り返るときが必ず来ると思うんですね。
そのときに残っているもの、おそらくそれはあのとき必死だったな、あのとき本当に無我夢中でやったな、そういうものが私たちに残っているんじゃないだろうか。
私たちが今ここにこうしておる。ここまで来たその多くはおそらく必死だった、本当に心から願った、そういうものが一人一人を作り上げてきているのではないか。そう思うんですね。
ですから私たちが何かを求めるとき、それは信仰を通して求める力を与えられますし、またその求め方を今日もう一度問われて、そして心から必死で無我夢中になって、
そしてその真摯な私たちの求める態度に人々も打たれ、神様もそれに応えてくださるんだ、夢をただの夢に終わらせないんだ、それをすっかりと実現させるのだ、そういう思いを持って。
目標を定めたけれどもこれはただ自分の慰めのためではない。目標を定めた限りこれは何が何でも達成するんだ、というそういう強い思いを私たちは信仰を通して神様に求めていきたいと、そう願うわけです。
二つ目に信仰とは確信する力である。これは二十八節に彼女がこのように考えた、あるいはこのように信じたということが書いてあります。
イエス様の置物に触ることでもできればきっと治る。私たちは今日素晴らしい御言葉をいただいています。短いですけれども素晴らしい力ある言葉。きっと治るというこのきっと治る。
30:17
この彼女の確信の言葉、信仰から湧き出た確信のあるその力、それを今日私たちにも与えてくださろうとしています。
彼女はイエス様の着物、あるいは裾にあるふさぎでも触りさえすれば私は治るんだ。いや、治るかもしれない。治ってくれたらいいなという程度のものではない。きっと治るんだ。
もう迷人の疑いもない。もう確信に満ちた彼女のその信仰、それがそう言わせているわけです。きっと治るんだ。ヘブル人への記者は十一章の一節でこのように書いています。
信仰は望んでいる事柄を保障し、目に見えないものを確信させるものです。
交互役では信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することである。信仰の中に、あるいは祈りの中にもそれが起こっている、なっているものと信じて今私は祈っています、願っています。
もう彼女の中には、もうイエス様に触って自分は癒されたということがもう見えていたわけです。だからきっと治るんだ。もう治っているんだ。
私たちは今日、この聖書の箇所から教えられることは、決して信仰を持ったから病気にならないとか、信仰を持ったからどんな病気になってもすぐに治るんだということではありません。
これは私たちの生き方の問題です。前にも申しましたように、聖書は私たちに生き方を教えています。健康な時も自分は信仰を持って生きていくのか、信仰を持たないで生きていくのか。病気の時も信仰を持って生きていくのか、信仰を持たないで生きていくのか。
そのことを私たちはもう一度確認した上で、この聖書の見言葉を聞いていきたいと思うんですね。
この彼女はそういう信仰を持っていたわけです。きっと治るんだ。彼女の中にはもう治ったという、いわゆる先取りの信仰を彼女は持っていたわけです。
33:11
でもある人はそう言いますけれど、やはり治らない時もあるんじゃないですか。私の経験でもそういうことはありました。
でも私たちが信仰を持つということは、その結果のことを言っているのではないんです。私たちが信仰を持って力を与えられ、求め、そしてきっと治るんだ、という私たちがその確信を与えられるということ。
それと後、神様がそれをどういうふうな結末を与えてくださるかどうかというのは、それは私たちの範疇を超えた神様の側の世界のことですから、そこまで立ち入ってはいけないわけです。
私たちが信仰として指定させていただくのは、神様を信じてきっと治るんだということを先取りをするような確信をいただくという、そこまでです。
それによって神様はどう働いてくださるか、どのような結末を見せてくださるか、そのこともまた楽しみつつ、あるいはそのことに希望を持ちつつ、一歩一歩進んでいくわけです。
私たちはこの確信ある信仰を今日いただきたいと思うんですね。ある人は言いました。人間とは何と諦めの早い生き物だろうか。何かあるとああもうだめだ、何かあるともうやっぱり無理かな、諦めてしまう。
まるで私のことを言われているような気がいたします。もうだめだ。でも彼女は諦めなかった。置物に触ることでもできればきっと治るんだと考えていた、あるいはもう信じていた。
それが彼女の信仰であるわけです。信仰とは望んでいる事柄を確信し、まだ見ていない事実を確認することだ。
実際にはまだ起こっていないんです。しかし私の祈りと信仰の中ではもうそれが起こって、今まさまざと私の瞼の前にはそれが浮かんでいますというぐらいの確信に満ちた、そういう信仰。
そして諦めない、そして神様を疑わない、そういう信仰。それに神様はどのように答えてくださるだろうか。
36:07
これもある教会である人が、投票の結果役員に選ばれたわけです。そして私のところに来まして、先生私役員なんかとてもじゃないですけど、もう勤まりません。
まあなるほど、今までそういうことしてなかったし、その人曰く私はこんなもんでこんなもんで、とてもじゃないですけど他の人たちのようにできません。自信がありません。確信がありません。
そう言われたわけです。しかしあなたは神様に選ばれて召されたわけですから、役員であることには間違いありません。
とりあえず1か月役員やってみましょう。あるいは3か月やってみましょう。私のようなものできるんですか。できるできないかわかりません。きっとできます。
もうそれしか言えませんし、そう祈るしかなかったわけです。その人はわかりました。
そして1か月たち2か月たち3か月経って、役員会で先生もう3か月来ましたね、そうですね。また半年経って、先生半年になりますね。
そして1年経って、先生私1年役員としてどれだけできたかわかりませんけれども、1年間勤まりました。とニコニコして喜んでおられたわけですね。
きっとできる。そういう確信が与えられたらもうそれはなっているんだ。
中には私は妻を、あるいは夫を、子供たちを、親を救いに導きたいんです。そうですか。お祈りしましょう。
でもね、私の主人は私の妻を、私の子供は、私の親はとても無理ですよ。
もうなんでそういうふうにおっしゃるんですか。先生知りませんけど、私が家族ですから一番よく知ってます。
そうではない。もうあなたが信仰があるんだったら、私のその信仰において私の妻は、私の夫は、私の親は、子はもう救われているんだと。
きっと救われます。救われていますと、なぜ確信の祈りを持たないんですか。なぜその信仰がないんですか。
そういう信仰はもう与えられているんですから、きっと救われる。きっと彼らはクリスチャンになる。
私の祈りと私の信仰においても、私の家族は皆クリスチャンです。
39:05
そういう祈りと感謝と、そしてその信仰を私たちは与えられているんだ。
決してもううちの何々はダメです。もう頑固でダメです。そういうことを言ってはいけません。
もう確信を持って、もし疑うならば、もしそういう諦めをするならば何にも起こりません。
もし私たちはきっと治る。きっと救われる。きっと自分はできる。
そういう確信を持つならば、それこそきっと神様は何かしてくださる。
自分の中に何かが起こる。自分の家族に何かが起こるわけです。
どうしてそう早く諦めるんですかと、今日私たちに神様は語っていてくださるわけです。
いろいろな相談がありますけれども、中には自分にはこういう悪い癖がある。
どうしてもこういうことをすぐにしてしまう。私にもありますし皆さんにもそれぞれあろうかと思うんですね。
それも私はこういうことがあるからもうダメなんですという、それはもう言い訳にしか聞こえない。
もし信仰があって確信があるなら、もう私の治さなければならないものはもう治った。
治るんだ。きっと神様は治してくれます。もう治っていますと、そこから始めるわけですね。
後のことはもう神様に委ねて、そして自分が決めたこと、自分が約束したこと、目標に定めたことをそれを忠実にやっていく。
それがこの確信のある信仰なんだ。決して疑わない。決してぶれない。決して迷わない。
この女性はきっと治る。この確信に満ちた信仰が与えられていたということは本当に感謝であります。
もう一つ、三十節。イエスもすぐに自分の内から力が外に出ていったことに気づいて、そして群衆の中を振り向いて誰が私の着物に触ったのですかと言われた。
三十四節。イエスは彼女にこう言われた。娘を。あなたの信仰があなたを治したのです。
第三に信仰とは力を引き出す力。要するに神様が持っておられる力とか、あるいは恵みとか富とか、そういうものを引き出す信仰を私たちには与えられているんだ。
42:08
神様は神の国銀行というこの金庫に富とか財、宝、あるいは祝福、恵み、それがいっぱい詰まっているわけです。
そして私たちにそれを思いのままそれを引き出していいと言ってくださっているわけですね。
しかし私たちにその金庫を開ける鍵がない。
ですから神様の富も恵みも祝福も引き出せないまま、もうただ指を加えている。
しかし私たちに与えられている信仰、それが神様の力と富と栄光と祝福を引き出す鍵なんですね。
私たちは信仰という鍵を持ってそれを開ければ、いっぱい神様の富も力もそして祝福もいただくことができるわけです。
それがあなたの信仰があなたを直したのです。
なるほど、彼女が信仰を持って求めました。
しかし三十節にありますように、それはイエス様の家にあったその癒しの力が外に出て、その彼女に及んだわけですね。
その着物からその房から彼女にその癒しの力が及んで、そして彼女は癒された。
しかしイエス様のその癒しの力を導き引き出したのは、やはり彼女の信仰だったわけです。
ですから私たちはこの信仰を持って、神様が与えようとなさっておられるそのすべてを私たちは引き出して、
そして私たちに必要なものをみんな満たしていただきたい。
そのための信仰、それが必要なのだ。
ですから信仰とは神様の力を引き出すための鍵であり、力なんだ。
今日私たちはこの箇所を通して、信仰とは生きていくために必要な力なんだ。
それを求めていく、求めさせる力なんだ。
そのことを私たちはもう一度覚えます。
そして信仰とは確信する力なんだ。
きっと治る、きっと救われる、きっとできる、そういう強い確信を持たせていただける、それが信仰である。
45:07
そして神様からの多くの恵みと祝福をたくさんいただけるその鍵である。
そのことを覚えて、ここからそれぞれに使わせていただきたく願っております。
お祈りします。きっと治ると考えていたからである。
天の父なる神様、私たちに信仰が与えられていることを感謝いたします。
今日改めてあなたを深くまた強く求める信仰と、あなたをいささかも疑わず信じる信仰と、
そしてあなたの大いなる力を引き出す信仰をもう一度与えてくださいますようにお願いいたします。
また信仰に行き詰まりを覚える時や、また信仰のスランプを覚える時、
信仰が弱っていると感じる時にも、どうか私たちをもう一度十字架を仰がせ、
そして主の癒しと慰めと励ましと与えていただいて、そこからまた小さな、
しかし新しい信仰の一歩を踏み出していくことができるように導いてください。
イエス様の尊い皆によってお祈りいたします。
アーメン
46:39

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