1. 名谷教会
  2. 2011/05/01:聖日礼拝(旧音源)
2011-05-01 28:39

2011/05/01:聖日礼拝(旧音源)

2011/05/01 聖日礼拝(旧音源)


00:01
聖書をお読みします。
マルコの福音書、9章の33節から35節。
もう一箇所、同じく10章の42節から45節まで、
新約聖書の84ページです。
新約聖書84ページ、マルコの福音書、9章の33節。
カペナウムについた。イエスは家に入った後、弟子たちに質問された。
道で何を論じ合っていたのですか。
彼らは黙っていた。
道々、誰が一番偉いかと論じ合っていたからである。
イエスはお座りになり、十二弟子を呼んで言われた。
誰でも人の先に立ちたいと思うなら、
皆の心狩りとなり、皆に使えるものとなりなさい。
続きまして、88ページ、10章の42節から。
そこでイエスは彼らを呼び寄せて言われた。
あなた方も知っている通り、
違法人の支配者と認められた者たちは、
彼らを支配し、また偉い人たちは彼らの上に権力を振るいます。
しかし、あなた方の間ではそうではありません。
あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、
皆に使えるものになりなさい。
あなたが…。
異動です。すみませんでした。そこまでです。
続きまして、聖歌隊により、新聖歌98番を賛美していただき、
その後、内田先生より、
使えるものになりなさい。と題しまして、
説教をしていただきます。
03:30
その恨みも、その怒りも、
人の住まいを移す。
しばらくにも、
尽きた前に、
貴方の声すよ、
君の水面を、
御使い達を、
踊る時に、
巡りに御祈り、
追いかおる足跡を…。
おはようございます。
今日もまた皆さんと礼拝をお捧げできます特権を感謝しております。
今日の御言葉をいただく前にお祈りをいたします。
神よ、私に清い心をつくり、揺るがない霊を私の内に新しくしてください。
私をあなたの御前から投げ捨てず、
あなたの精霊を私から取り去らないでください。
あなたの救いの喜びを私に返し、
喜んで使える霊が私を支えますように。
アーメン。
恵み深い天の父なる神様、
今日もよみがえの詩を覚えつつ御前に集っています。
どうぞ私たちの心から捧げるこの礼拝をどうぞ受け入れてくださり、
06:04
またそれにふさわしくあなたが報いてくださいますようお願いいたします。
主は私たちの救いのために来てくださり、
また十字架の贖いによって私たちを御救いへと導き、
そこに神の愛をあらわしてくださいました。
それでは終わらず、主は予言の通り三日目によみがえられて、
今も生きたお方として私たちと共にいてくださり、
この礼拝の主として今真ん中にお立ち下さっていることを覚えて、
今委ねています。
どうぞ今日の御言葉を通しても、またあなたの御胸を私たちに教えてください。
今日もまたあなたを待ち望んでいます。
今日は私たちは聖霊様に導かれてここに来ることができたことを感謝いたします。
中には弱さを覚えてここに来れなかった兄弟姉妹方、
あるいは避けられない事情のためにここに来ることができなかった兄弟姉妹方を覚えますが、
神様どうぞあなたが行き巡ってくださり、またその場をあなたを覚え、
また礼拝賛美と祈りの場としてくださいますようお願いをいたします。
今日もまた主御自身がお語りくださいますように、
御言葉を通して私たちに礼の糧を与えてくださいますように、
真摯委ねて主キリストの皆によってお祈りいたします。
アーメン。
イエス様はこのように言われました。
私は道であり真理であり命である。
私たちがイエス様を信じて生きるということ、
それは宗教をしているというよりもこれは生き方である。
少なくとも私はそういうニュアンスの方が強い、そう思っているんです。
華道とかあるいは茶道とか剣道とか柔道もそうですが、
そういうふうに私たちのこの宗イエスを信じて生きるその信仰生活、
それはイエス様のこの道を行くということであり、
いわばイエス道を極めていくという、そういうものではないかなとそう考えているんです。
私たちが外に出てこのイエス様のことを伝えたり、あるいは聖書を読みませんか、
あるいは福音を伝えて、そしてこの宣教の働きに預かっているものですが、
中にはいやもう結構です、宗教はいいんですとおっしゃる方がいますよね。
09:08
世には悪い信仰宗教がありますから、そういうものと一緒にしておられるんだと思うんですが、
私は少なくともこのイエス様を知っていただいて、あるいは聖書を読んでいただいて、
そして福音の恵みの中に生きていただきたい。
これはあなたの生き方のことを言っているわけであって、
自分の生涯、自分が与えられたこの人生をどう生きていくかという、
そのことの中でイエス様を知っていただき、聖書を基礎にしたそういう生き方、
あるいは福音の恵みの中で生きてほしいんです、これは生き方なんですということを常に言ってきたわけです。
どうかそういう生き方を選び取ってほしい。
私たちが今日もこのイエス様を信じる信仰に生きる、それはイエス道を極めていくこと。
それは本当に私たちにこの幸いを与え、そしてまたそれが真理なのだ。
それこそが私たちに命あふれる生き方を教えてくれているんだ。
そういうことを今日覚えながら、今日のテキストに入っていきたいと思うんです。
今日のテキストのところの始めは、弟子たちが道々誰が一番偉いかと論じ合っていたという、そこから展開していくわけです。
弟子たちが誰が一番偉いか、その中には、それは俺だ、あいつではない、この自分こそが一番偉いのだという、そういうことも含まれていたでしょうし、
自分こそ偉くなりたいし、自分こそ人の先に立ちたい、人の上に立ちたい、そういうことがあったということが言えるわけです。
これに対してイエス様は、そんなことを考えるのは良くない、だめじゃないか、そんなことは言っておられない、別にそのことに対して叱ってもおられないわけです。
誰が一番偉いのか、そして自分は偉くなりたい、人の先に立ちたい、人の上に立ちたい、弟子たちお前たちはそんなことを考えているのか、そういうふうにイエス様は思われたわけですね。
12:08
偉くなりたい、人の上に立ちたい、人の先に立ちたい、これは決していけないことではありません。
むしろ大いにそういう思いやそういう願いを持つべきであると思うわけです。
いわゆるリーダーになると言うんでしょうか、そういうことは大切なことでありますし、そういうトップに立つということを目指すということは非常に尊いことであります。
最近の話ですが、ある方が小学生とか中学生に将来どういうことをしたい、どういうふうになりたいと聞いたら、普通でいい、そこそこ生きれたらいいというようなことを言ったというんですね。
普通、あるいはそこそこ生きる、それも悪くはないと思います。悪くはないと思うんですが、こういうおじさんとか、あるいは星野監督なんかに言わせると、もっと気概を持って自分はリーダーになるぞとかトップに立つ、それぐらいの勢いを持ってガッツを持たないかというような、そんなことをおじさんたちは言うわけですね。
でも実際、彼らの世界を知ってみますと、彼らは案外周りに気を使っているということもあるらしいですね。子どもは子どもなりの社会の中で大変気を使っていると、おじさんたちはそういうことを知らないからそういうふうに言ってしまうわけですが。
でも彼らの本当の気持ちは、やっぱり自分も偉くなりたい、リーダーになりたい、トップに立ちたい、そういうことはあろうかと思うんですね。誰しもそういうことは持っているわけです。しかしそういうことを思わせない、口に出せない、そういうことをさせない、何かそういう力が働いているのかもしれない、そんなことも想像するわけです。
このイエス様の弟子たち、彼らは普通どころか、そこそこどころではない、自分こそ一番偉いんだ、自分こそトップに立つ、自分こそイエス様の一番弟子になるんだという、そんなところだったと思うんですが、今日でもそういう人はいるのも確かであります。
弟子たちが考えていた、それじゃあそのリーダーとは何か。彼らの言うリーダー論というのが、このマルコの十章の四十二節に書いてあることなんです。
15:02
彼らはなぜ自分は上に立ち、トップに立ち、偉くなりたいのか。それは四十二節。あなた方も知っているとおり、違法人の支配者と認められた者たちは、彼らを支配し、また偉い人たちは彼らの上に権力を振るいます。
支配し、権力を振る。偉くなったら、上に立ったら、先に立ったら、権力を用いて支配できるんだ。人々を思い通りに動かすことができるんだ。だから自分は偉くなりたい、上に立ちたいんだ。そういうことを彼らは言うわけですね。
上に立ちたい。それは私たちの誘惑でもあり、またそういう願いでもあり、欲でもあります。もう長のつく、そういうタイトルに憧れるという人もいますし、それも一つの誘惑ですね。
市長であるとか、課長に、部長に、社長に、会長に、理事長に、もう長がつくなら盲長にでもなりたいという、そんな人もいるくらいですから、もうとにかく上に立ちたいという、そういう人、それもいてもいいわけですね。
そして弟子たちは、その権力を振るって、そして人々を支配するんだ。自分の思い通りに人々を動かすのだ。それが彼らのいわゆるリーダー論であったわけです。しかしイエス様はそれに待ったをかけなさったわけです。
弟子たちよ、9章の35節から。弟子たちよ、誰でも人の先に立ちたいと思うなら、皆の心狩りとなり、皆に仕える者となりなさい。10章の43節。
あなた方の間で偉くなりたいと思う者は、皆に仕える者になりなさい。あなた方の間で人の先に立ちたいと思う者は、皆の下部になりなさい。イエス様は偉くなりたい、上に立ちたい、先に立ちたいと思うならば、心狩りとなりなさい。心狩りとは一番後ろ。
そして下部になりなさい。これは当時の奴隷制度でいう奴隷のことですね。そして仕える者になりなさい。弟子たちにとってはもうびっくりです。そんなことをしたらリーダーでもトップでも偉くもないじゃないですか。それは逆じゃないですか。
イエス様にとっては何が逆でないか。そんなことは問題じゃない。あなた方がもし偉くなりたい、先に立ちたい、上に立ちたいならば、心狩りとなり、下部となり、仕える者となりなさい。イエス様はそのように言われたわけです。
18:09
これがイエス流のリーダー論。私たちもイエス様を主と信じて、そしてそのお方に従い申し上げますと信仰告白したものであるならば、このイエス流リーダー論に従っていくわけです。
なぜイエス様は弟子たち、そして私たちにこのイエス流のリーダー論を教えなさるのか。なぜなら、これが上に立つ者としての一番祝福された尊敬される方法だからです。そしてこれがみんながついてくる方法だからです。
心狩りとなり、そして下部となり、仕えること、これに徹すれば偉くなりたいとか、そんなことを思わなくても、みんながあなたを偉い者としてくれる。上に立とうとか先に立とうとか思わなくても、心狩りとなり、下部となり、仕える者になるならば、みんながあなたを上に立ててくれますから。イエス様はそう言うわけです。
このようにイエス様は弟子たちの考えを正されたわけです。
それはイエス様ご自身がそういうところをお通りなさって、まさにイエス様ご自身がそのように身をもって私たちにそれを示してくださった、そういうお方であるから、この言葉は説得力があるわけです。
四十五節の言葉、十章の四十五節の言葉、人の子が来たのも仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり、また多くの人のための贖いの代価として自分の命を与えるためなのです。
イエス様ご自身が私たちに仕えるために来てくださった。それは決して仕えられようとか、そんなことをみじんも思われない、ただただ仕えるためである。
そして多くの人の贖いの代価として自分の命さえも与えて、仕えに仕えてくださった、そういうお方。
それがイエス・キリスト。そのことを通してイエス様は私たちにこの御言葉を語ってくださった。
ピリピへの手紙二章の八節から、皆さんもよく御存じの言葉と思うんですが、これこそイエス様のこの下辺の姿を表している。
21:12
交互訳でお読みしますが、キリストは神の形であられたが、神と等しくあることを固守すべきこととは思わず、かえって己を虚しゅうして、低くして、下辺の形をとり、人間の姿になられた。
そのありさまは人と異ならず、己を低くして死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
イエス様は本当に自分を低くし、そして本来なら神様のその下でいるべきお方がこんな汚れた醜い人間のところまで降りてきてくださった。
これに勝る謙遜はないというぐらい。それも死に至るまで、十字架の死に至るまで下辺としてその従順を貫き通しなさった。そんなことをここで書かれてあるわけです。
私自身がまだあまりイエス様をそんなに知らなかったそのころ、福音書を読んで、イエス様ってどういうお方なんだろうか、まだこのお方に従っていくべきだろうか、そんなことを迷っていたころであります。
私たちはよく、例えば時代劇というんでしょうか、チャンバラのそういうドラマ、映画でもよく見ますように、主役の人が悪い親分でしょうか、そういうボスのところに挑んでいくわけですね。
そしてその親玉が命危なくなると、さっと家来たち、それこそ子分たちが来て、そしてそのものを守るわけですね。これがまさに世の中であり、自分もまたそういう社会、会社の中で上下関係の中で、そういうふうに教えられ生きてきたわけです。
それが当たり前だと、そういうふうに思っていた。しかし、キリストは神の形であられたが、神と等しくあることを屈出すべきこととは思わず、かえって己を虚しゅうして、しぼむな形をとり、人間の姿になられた。己を低くして、しかも死に至るまで、十字架の死に至るまで、従順であられた。
私は一つのイメージを与えられる。私が弟子であり、そしていわば家来であり、子分である。その私自身が狙われて、そして命危うい、そういう時。
24:09
その時に、イエス様がさっと私の前に来て、「そして、この者を討つなら、この私を討て。この者の命を取りたいなら、まず私を討て。この者には一本も指を触れさせることはならん。」と言ってください。
私はこのことを思った時に、全く今までのそういう自分の思っていた、描いていた、いわば上下関係だとか、その弟子と主人の在り方、あるいは上司との在り方、あるいは自分がそういう立場に立った時の、そういうことの一切が崩れ去ったわけです。
私はこの方についていこう。この方を自分の、まあ会社で言うならば上司にしたい。この方を自分の主人にしたい。そしてこの方を我が主として信じて生きていこう。そう決めて、そして信仰告白をしたんです。
それから私の生涯は変わってきました。私の信ずる主人様は私の神であり、そして主人です。この方に従って、この方にお使いしていこう。
それは自分が接する全ての人に使えることなんだ。なぜなら私の主がそうなさったから私もそうしよう。またそれが一番幸いで祝福されることなのだ。そのことをイエス様は弟子たちにも教えなさったわけです。
あなた方が偉くなりたいなら、人の先に立ちたいなら、皆の真狩りとなり、皆に使える者となりなさい。偉くなりたいと思う者は皆に使える者となりなさい。そして人の先に立ちたいと思う者は皆の下辺になりなさい。
これが私たちに今日与えてくださるイエス流の生き方です。
皆さんの中には、上に立ち、またリーダーとして尊いその務めをなさっておられる方もいましょうし、またこれからそうなっていかれる方もいますし、そしてますますその責任を負い、またその地位も上がっていったり、それこそ長とつくようなそういうところに立つこともこれからあろうかと思うんですね。
27:08
そんな時に私たちはもう一度イエス様が教えてくださった、真狩りとなれ、下辺となれ、そして使える者となりなさい。そのことをしっかりと覚えてこのイエス様に従っていきたいと思います。
まさに、実るほど神戸を垂れる稲穂稲穂かな。そのことだと思います。お祈りをいたします。
愛する天の父なる神様、あなたは今日も御言葉を通して私たちに一つの生き方を教えてくださいました。
イエス様の御言葉を通してもう一度私たちの在り方を正してくださり、また何が幸いなのかを教えてくださって感謝をいたします。
今、尊い立場にあってご苦労なさっている多くの方々の上にどうぞ祝福がありますように。
そして私たちもまたそういうところに立つ時にも真狩りとなり下辺となり、また使える者となって、何よりも神様が喜んでくださるその道をひたすら歩んでまいります。
どうぞ助けお導きください。
主役様の尊い皆によってお祈りいたします。
アーメン。
28:39

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