00:01
アーメン、ありがとうございました。
みなさん、おはようございまーす。
マラソンように足入りなんですけれども。
ではですね、今日も御言葉に入る前に隣の方と挨拶しませんか。
はい、挨拶しながら、挨拶したいと思います。
よくいらっしゃいましたー。ありがとうございます。
ありがとうございます。では、ひとつお祈りいたします。
恵み深い、愛する天皇父神様。
今日も熱い日々が続いているわけですが、
でも、日の日を覚えさせてくさって、
朝さっきとりとりをこの日の教会に集めてくさり、
賛美を捧げ、祈りを捧げ、またこうして、
御言葉に心を注ぎ花ぼときを本当に感謝いたします。
どうぞ、神様の御言葉によって、
私たちの心も体も思いも全存在が変えられ、
清められ、精霊に満たされますように。どうぞ。
今日も神様御自身が私たちに、
今日でなければ聞くことができないあなたの御言葉を、
一人一人の心の中、霊の中にお語りくださいますように、
お願いいたします。
どうぞ、主の皆だけが崇められますように、
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、今日は支流鉄教の3回目なんですね。
キリスト教のエッセンス、大きなテーマ、
現在というテーマのその3回目、
現在と福音について御言葉から教えていただきたいと願っております。
今日は、アダムとエヴァ、
彼らのよく皆さん気になったり疑問があったりする自由意志について、
それからその背後にある神様の素晴らしい愛、
それから今日はその福音についてまで、
共にですね、考え、また教えられたいと願っております。
このアダムとエヴァが、
善悪の知識を知る火の実を食べたこと、
03:01
それについてよく疑問になる、あるいは気になることが、
人間の自由意志ということなんですね。
だいたいこういう質問をしたりします。
神様はどうしてその気の実を作って、
エゼンのそのに置かれたんだろうか、という疑問だと思います。
その神様のご意図、目的を正しく知るためには、
まずこの人間の自由意志について正しく知っていただきたいと願っております。
皆さん、まずこの善悪の気は、
人間にいわば自制、セルフコントロールについて語っているわけです。
神様は人間を、
すべての動物、生き物を、
神様が作られたこの万物を納める存在として、
神様は創造されたわけなんですね。
それはアダムとエヴァに、
それを納める、管理する、支配することができる能力と自由を、
神様がアダムとエヴァにお与えになったわけなんです。
また、能力、力と自由と同時に、
人間に自制というものも与えられました。
ですから、アダムとエヴァは、
その気の実を食べることができる能力と自由が与えられていたわけですが、
同時にそれを食べない自制も、
神様が同時に与えられたわけなんです。
だから、人間がですね、アダムとエヴァが、
その神様から与えられた自制を使って、
その実を食べないこと、
それを神様は望んで願っておられたわけなんですね。
ですから皆さん、その気の実を食べたということは、
アダムとエヴァが自制を辞めたということになりますし、
自制を辞めたということは、
またその人間が欲の奴隷になったということになります。
つまり、サタンの奴隷になったということなんですね。
皆さん、このように、
06:00
よく神様が人間に能力と自由と同時に自制を与えた、
そんなアダムとエヴァという存在として、
神様が作られたということには、
神様からの立場からちょっと考えてみましょう。
そうすると、これはですね、
神様がアダムとエヴァに非常に大きなリスクをかけて、
彼らを愛してくださったわけなんです。
人間に自由と自制が与えられている。
しかし人間は自由意志があるわけですから、
その自由意志を持って自制を使って実を食べない、
神様に従うこともできるわけですが、
その反対のこともやってしまうこともできるわけなんです。
それ、その両方ができる大きなリスクを
神様はアダムとエヴァにかけられたわけなんです。
人間はこの自由意志を使って神様を愛することもできる。
自由意志を使って神様を逆らうこともできるわけなんですね。
だから神様はアダムとエヴァだけではないんですね。
私たちにも神様は実は大きなリスクをかけておられる。
それほど私たちを愛しておられるということなんです。
神様が私たちに戻っておられる愛はですね、
否定されて強制されて神様を愛する。
そう、怖くて神様を愛する愛ではなく、
自由意志を使って心から喜んで神様を愛する
そのような愛を神様は望んで求めておられるわけなんです。
ところが人間アダムとエヴァは
その神様の愛のご意図を知らず
その自由意志を神様を逆らうことに使ってしまいました。
自由意志を使って神様を愛するようにお作りになったんですけれども
人間はその自由意志を神様を逆らうことに使ったわけです。
神様の想像の目的から外れてしまったわけなんですね。
だからよくですね、隅という言葉の言語的な意味は
的外れという言葉をよく使いますね。
的から外れている。
自由意志を持って神様を愛するように作られた存在が
その自由意志を神様を逆らうことに使ってしまったわけですから
的から外れてしまった。これが隅なんです。
09:00
ところがもう少し深く掘り下げて考えていきたいと思います。
このような疑問があったりします。
神様は人間が自由意志を使って神様を逆らうことも知っておられたじゃないですか。
人間がその実を食べて隅に置かすことを神様は前もってあらかじめ知っておられるのに
なんでエデンの園にその木を置いておられたんでしょうか。
人間に自由意志を与えその実を尽くしたから
人間が罪を犯したじゃないですか。
人間が罪を犯したのはそれは結局神様のせいじゃないですかという疑問を見に行ったりします。
一見考えますと鋭い論理だなと、考えだなと思われるかもしれませんけれども
しかしこれは神様からの立場から見ますと
こんなことは日本で何て言いますか
盗りと竹竹し
盗んだものが生かしている
この例えはどうでしょうか。
ある人がベンツの車を盗みました。
もちもちに
あなたがあのベンツの車を私の前に置いておいたから私が盗んだわけですよ
あなたが置いておかなかったら私は盗まなかったでしょ
だからこれは私が盗んだのはあなたのせいですよ
ということと同じ
皆さんもう一度申します
神様は非常に大きなリスクをかけて
私たちに自由意志を与えた
なぜですか
その心を持って自由を持って
自制を使って神様を愛すること
そのために神様は何でもできる自由と
そしてそれをコントロールできる自制も同時に与えられた
そこにはリスクをかけられた神の愛があるわけなんですね
神様が欲しい愛はですね
つぎられて打たれて
お前私を愛せ愛せ
そして神様を愛する愛ではない
心から喜んで
主を愛する愛を神様は求められる
アダムとエヴァに対してでも
今の私たちに対してでも
だから皆さん
神様の愛は
アダムとエヴァを信頼してくれたんです
信頼してくださったんです
12:03
彼らが自由意志を使って
自制を使って主を愛するように
信頼してくださった
この木の実と神様が人間に与えてくださった
自由意志とその能力と自制は
実は神様がそれほど
人間私たちを信頼してくださったわけです
このように神様は
アダムとエヴァに対して
いや今の私たちに対してでも
一人の完璧な人格の存在として
主は接して預かって愛して守って
信頼してくださるんですね
もう全く信頼してくださるんです
神様は操縦する操られる人魚ではない
あるいは遠隔操縦ロボットでもない
結構昔ある人から
このアダムとエヴァの罪や
この木の実にまつわる疑問と言いましょうか
ある人から突きかかるように質問されたわけです
さっきの話と似たような話ですけれども
神様はどうして人間に自由意志を与えて
その実を食べてしまうことに
仕方ないんですか
神様の過ちじゃないですか
神様のせいじゃないですか
という質問でした
その時に私はさらにこう言ったんですね
あなた今あなたが神様に
神様なんで私たち人間に自由意志を与えて
罪を起こさせたんですか
というように突っかかることもできる自由意志も
神様がくださったものですよねと言ったら
それはそうですねと
そしたらさああなた考えてくださいね
神様があなたを
神様が操縦する通りに動かされる
ロボットのような
何も考えられない
読むこともできない
判断もできない
そのようなロボットのように生きることがいいですか
あるいは神様に今のように
反対の意見も述べることができる
突っかかることもできる
そういうような自由を持つ人間の方がいいですか
どっちがいいですかとしたら
それはもうもちろんとですね
ごらってしまったわけなんですけれども
15:02
皆さん神様は私たちに大きなリスクをかけて
人を動物に愛することもできる
神様に反対することもできる
自由を与えてくれました
そこには神様のある意味での無限大の信頼が
私たちに注がれていたわけです
人間が自由を使い間違って
そうするならばどれだけ恐ろしい結果がもたらされるか
そこまでは神様がご存知ながらも
それほど固やぶりの愛・信頼を
人間にお与えになったわけなんです
だったんですから
この自由という固やぶりのたまものを
使い間違った人間が悪いでしょうか
それともその自由意志を下さった神様の方が悪いでしょうか
私たちは心の中から正直にですね
考えていかなければならないと思うわけです
神様が悪いわけではない
人間の罪なんです
またこのような質問がお答えします
もし神様があの善悪の木を
エデンの園に作らなかったならば
人間は決して罪を犯すことはなかったのではないですか
あれがあったから罪を犯したのではないですか
という疑問なり質問です
本当にそうなんでしょうか皆さん
もしですねアダムといえば
エデンの園にあの木がなかったならば
決してアダムといえば
他の罪も犯すことはなかったでしょうか
そうではありません
人間というものは何かのチャンスがあれば
いくらでも罪を犯すことができる
潜在的な罪人なんです
罪が潜んでいる
潜んでいる罪を犯し得るその性質といいましょうか
それが潜んでいる潜在的な罪人なんです
だからですねあの木がなかったとしても
アダムといえば他の罪を犯したかも
ですから皆さんもう一度申し上げますが
神様は私たちが自由に死をもって
心から喜んで死を愛すること
死を喜ぶことを神様は望んでおられます
18:04
強制されて強いられて
無視されて愛する愛ではなく
心から死を本当に愛する愛を
アダムといえば今の私たちに求めておられるんです
それが本当の愛ではないんですから皆さん
さあこんな例えはどうでしょうか
もしですね私がスマハラに愛されたくて
愛が欲しくてですね誰もいない部屋に
何もない部屋にですね
スマを閉じ込めてですね
1日1時間だけ顔を見せて
あなたは私だけ愛せというように
強制されて愛すならば
それは本当の愛ではないですね
そんな愛は欲しくないんですよ
ハンナがテレビを見て
マシの男性を見て
テレビのですね
例えばロニ様を見ても
木村拓也を見ても
でも私はあなただけを愛せます
という愛が欲しいんですね
それが神様の愛なんです
それは神様の愛なんです
心から
自分の心を持って
死を愛せることを望んでおられる
だから今もですね私たちが
時々ひらひら積み起がしてでも
死の道から逸れても
悪いことをしても
私は全く信頼を持って待ってくださる
でもあなたは立ち返ってくるだろう
待って信頼し続けてくださる
愛が実はこのアダムとエヴァの
この事件の背後に
神様の素晴らしい信頼と
愛が流れているんですよ
それを見逃してはいけないんですね
ですから皆さん
私たちが神様に礼拝捧げること
あるいは奉仕をすること
あるいは捧げ物を捧げることもそうなんです
日曜礼拝を一度決定したら
ちょっと気まずいなと思いがするから
礼拝するんじゃない
十五の一
捧げなかったら
何か悪いことが起きるんじゃないか
気まずい思いがするから
捧げなくちゃ
そういう思いから
捧げても神様は喜んでですね
受け止めてくださるわけですか
そんな思いじゃなくて
喜んで自発的に
心から愛して
心から奉仕をして
心から礼拝して
心から捧げる
その礼拝
その奉仕
その捧げ物を
人は求めておられる
求めておられるわけなんです
そうなんですね
21:00
親だってそうなんです
うちですね
例えばうちの
例えば
少し掃除するだけですから
夜にですね
たまに
知事さんとか部屋さんにですね
掃除来てくれって言ったら
たまに来てくるんですけど
たまに嫌々な顔しながら
結構くれないんですよ
でたまに嫌々してて
一時間二時間行って
ぶつぶつしながらですね
掃除するときがありました
してくれたけど
親の心は
嬉しくないんですね
で何も言ってなかったのに
自分で自発的に
綺麗に片付け置いたら
親は嬉しいんです
それが神様の愛なんです皆さん
何か言われたから
気まずい思いがするから
そうするんじゃないか
そういう思いからではなく
喜んで自発的に
礼拝する
自発的に愛する
その愛を
主は求めておられる
全く知らないが
実はこの宗旨大三章の
この中に流れていることを
覚えていただきたいと
願っております
もう一つお話したいと思います
善悪のこの機は
神様が神様と人間の間に
置かれた最小限の
神と人間の境界線
バウンダリーというようなものです
創造者と非存物を区分する境界線が
善悪のこの機なんです
だからアダムといえば
いつもその機とその身を見るたびに
僕たちは非存物なんだ
僕たちは作られたもので
神様がおられる
創造者がおられる
ということを思い起こすわけなんです
僕たちは人間ではない
神様が人である
これを思い起こすシンボル
これが善悪の機なんです
だからそれをいつも覚えて
アダムといえば神様が
それ以外には何でもできる
自由と能力を与えてくれた
だから人間は傲慢になりやすく
たかぶりやすくなるわけですから
最小限の装置のようなことを置かれて
そして人間を守るためです
罪を犯さないように
神様のエリアまで
信頼することがないように
人間を守ってあげるための
その装置がこの機だったんですね
24:00
ですから皆さん
この善悪のこの機は
罰するための記録ではない
生かすため
守るための
神様の記録であり
神の意図なんです
それを覚えておいてください
今も同じなんです
皆さん私たちは
作られた秘蔵物です
神様は創造主です
私たちは使えるものです
神様は使えられる方です
私たちはヒモベイです
神様は王様なんです
ですからその王に
私たちは心から喜んで捧げ
心から喜んで奉仕する
愛することを
私たちは望んでおられる
そしてその王なる神様はですね
教養ばかりする王ではなく
あるいはやり込めるばかり王でもなく
大きなミスをかけて
それほど私たちを愛して
信頼してくださる神様なんです
しかし私たちは
アダムとエバが犯してしまった
犯してしまった結果を知っています
アダムとエバはその自由意志を使って
神様を愛し続けるのではなく
罪を犯してしまいました
それをローマ人への手紙
5の12節をちょっと見てみましょう
今日は17節からでしたけれども
12節を見ていきたいと思います
新約聖書296ページです
ローマ人への手紙
第5章12節一緒に読みましょうか
3
そういうわけで
ちょうど一人の人によって
罪が世界に入り
罪によって死が入り
こうして死が全人類に広がったのと同様に
それというのも全人類が
罪を犯したからです
続きまして
18節も一緒に読みましょうか
18節3回
こういうわけで
ちょうど一人の義犯によって
全ての人が罪に定められたのと同様に
一人の義の行為によって
全ての人が義と認められ
与えられるのです
ここにですね
一人の人は誰ですか
アダムです
一人の人
アダムという名前の意味が
人、人間という意味なんですね
27:03
アダム一人が
罪を犯した結果
彼から生まれてきた
全ての人類が
罪を持ったものになりました
その罪を原罪と言います
もともとの罪という意味なんですね
でも皆さん
ちょっと考えたらですね
本当に悔しく思いませんか
私たちはエデンで住んだこともありません
善悪の地を見たこともありません
食べたこともありません
私たちが犯した罪ではないんです
アダムとエヴァが悪いんです
だからこの罪は
現として言うならば
アダムとエヴァの罪なんですね
ところが
なぜ私たちは
私たちがアダムとエヴァの罪を
引っかぶらなければならないのでしょうか
それを
5章の14節を読んでいきたいと思います
5章の14節3
ところが
死はアダムからモーテまでの間も
アダムの違反と同じようには
罪を犯さなかった人々を支え
支配しました
アダムは
したるべき方の死なかったです
ここにですね
罪を犯さなかった人々を支え
支配しましたとあります
アダムその意味の名から分かる
名前の意味から分かるように
人間
人なんです
だからその名前から分かるように
アダムはいわば
人類の代表です
代表です
さあこういう例えはどうでしょうか
ワールドカップが始まりますが
日本のサッカー代表選手は
国家代表選手たちが
アメリカと試合をします
その選手たちが勝ったとします
そしたら
日本が勝ったと言います
その国家代表選手たちが負けたら
日本が負けたと言います
ここにいています
アダムは
人類の国家代表選手のようです
神様はアダムに
全く一人の人間として
作ってくださいました
完璧な体も
卓越な優れた人格も能力も
全ての動物の名前も
名付けたわけですからですね
知恵もあって
全てのものを管理もできる
自由と能力の彼に
そんなアダムに
自由意識が与えられた時に
30:04
アダムが罪を犯したならば
もし私たちがアダムだったならば
私は絶対罪を犯さない
と言える人はいないと思います
アダムは人類の代表選手でした
彼が失敗したならば
我々人間全てが失敗したわけです
そのアダムは
エヴァは自分たちが犯した罪に対して
何も後始末はできなかったんですね
全て後始末さえも
神様が全部してあげました
まるで子供を
小さい赤ちゃんを
生まれたばかりの
0歳1歳
まだおむつをしている赤ちゃんは
自分で何もできることが
ほとんどないんですね
父を飲むだけでなく
それぐらいしかできない
運動部から
おむつさえ自分で取り替えられない
今大きくなってちょっと悪いですけどね
長女しんちゃんが生まれたときに
私は新学校に入るため
仕事を辞めました
だから収入がないわけなんですね
本当に暮らしが急な感じでした
妻が幼稚園の先生をやり始めた
だから赤ちゃんだから
他の同じように
1日何回もうんこをしたわけなんですね
しかし1回切り捨てのおむつを
買うお金の
利用力さえないんです
だからあの時は今はほとんど使わないんですけどね
木綿で作った布のおむつを使いました
だから1日何回もうんこをしたんですね
そうするとそれを洗って
それを韓国でよく熱いお湯に沸騰して
消毒するわけなんですね
それを何回も自分が仕事をしてなかったわけですから
昼間に家にいたわけなんですね
おんぶしたりおむつを替えたりするわけなんです
罪を犯した人間は赤ちゃんのようです
自分に何もできない
しかし神様がまるで親のように
後姿をお尻ぬぐいを
全部神様がしてくださるわけなんです
33:04
神様がこの宗籍参事に戻りますと
アダモトエバを愛してくださった
愛は変わらない
彼らに対する信頼も変わらない
そしてですね
彼らが動かしてしまって
逃げてしまうような隠れてしまっている時に
神様が先に尋ねられました
そして彼らが生きる道も方法も
神様が全てやってあげたんですね
そのところを見てみましょう
宗籍に戻りましょうか
宗籍の3章のですね
まず3章
今日の御言葉
15節を一緒に見ましょうか
3回
私はお前と女との間に
またお前の子孫と女の子孫との間に
敵を置く
彼はお前の頭を踏み砕き
お前は彼の腹骨に貫突
神様がどのようにアダモトエバ
またその後から生まれてくる
人類の救いのために
神様はどのように
後始末をしてくださったのか
それを見ていきましょう
この15節をよく
原福音あるいは最初の福音とも言われます
またアダムがその実を食べた時から
神様は一人後
イエスキリストを
この女の人の子孫から生まれさせて
罪に溺れて苦しんでいる人類を
救う計画を立てておられました
その福音の内容がこの15節に記されている
ここにですね
この15節は神様がヘビに仰せられた
つまりササンに仰せられた御言葉なんです
そしてそのササンを呪うという
神様のメッセージです
15節をもう一度皆さんよくご覧ください
私はお前と女の子の間に
お前はササンです
女はエヴァです
そしてつまりその子孫のイエス様を
さしています
その間に
そしてまたお前の子孫と
女の子孫との間に
敵意を置く
だからクリフトと私たちクリちゃんと
ササンの間には敵意が置かれているわけです
しかし
彼はお前の頭を踏み砕き
36:04
お前は彼のかかとに噛みつく
これはですね
お前は彼のかかとに噛みつくを
先に読んだら意味が分かりやすいと思いました
シャタンが
悪魔がいくらイエス・ヒリスを十字架につけて
かかとを噛みついても
それは多少の機会はあるわけですけれども
イエス・キリストのその十字架の力
復活の力を全滅させる
潰してしまうことにはならない
及びます
しかし
キリストは十字架から蘇られて
シャタンの頭を踏み砕きました
それはシャタンの全てを全滅してしまう
イエス・キリストの十字架と復活の力
それから勝利の力をここに記録しています
すでに勝ち負けは決まったわけなんですね
イエス・キリストと信仰の我らは勝利する
決まっている
シャタンは負けるに決まっているわけなんです
ですから皆さんよく覚えていただきたい
イエス様の復活
地球を打ち破られたその復活は
私たちの罪を許すだけではなく
私たちの全ての闇から痛みから
あるいは様々な昔の罪から今の罪から
どんなにつらいトラウマがあったとしても
主はやがて私たちを
私たちに完全な勝利を得させてくださる
その力がキリストにあるわけなんです
この確信をもって
信仰生活をしていただきたいと願っております
皆さんどんなものも
神様の愛からあたたけを切り離すことは
どんな病気も
過去のどんな課税環境であっても
どんなにつらいトラウマであっても
どんなにつらい経験であっても
貧しさ貧乏であっても
その復活の力と
十字架の支障の力は
そして神様の恵みは
それら全てよりはるかに勝る力であります
そして全ての傷病
様々な昔の本当につらい経験を
乗り越えさせて
空空の道に導いてくださる力が
キリストにあるわけです
この他を信じていただきたい
そして神様は
39:03
21節に言いますと
アダムとエマのために
彼を愛しておられるわけですから
信頼し続けておられる神様は
後始末をしてくださいました
21節をですね
一緒に読みたいと思います
21節3
神である日は
アダムとこの妻のために
革の衣を作り
彼らに着せてくださった
こういうですね
この21節は
神様がアダムとエマの
罪の問題も解決してくださって
そして全ての人類の罪をあだなう
そのための
神様の
代表的な神様の行いです
それはアダムとエマに
革の衣ですから
動物の革の衣なんですね
植物にはこういう人間の
革の衣がないわけです
その衣を作って
彼らに着せてくださいました
そのためには
動物が必要ですし
動物をほぐって
血を流さなければならない
そして着せてくださった
この神科学が訳されているわけですが
それは
覆い隠す
そういう意味があります
覆う
覆い隠す
そういう意味があります
つまり
これはイエス・キリストの
十字架の基礎を意味します
アダムとエマの恥を
その罪を
神様は革の衣を作って
着せて覆ってくださったように
イエス・キリストの十字架の基礎は
私たちの罪と
その罪から来る恥と
全てを覆ってくださる
それが
あがなうという意味なんです
そこに神の愛があるわけなんですね
覆ってしまうのではない
攻め続けて
突っ込もうではなく
覆って
隠して
やる
さあ
ローマヴィト単位に戻りましょうか
ローマヴィト単位の
五問十七説を
一緒に読みたいと
五表
十七説です
一緒に読みますね
3
もし一人の違反により
一人によって
死が支配するようになったとすれば
42:00
なおさらのこと
恵みと義の賜物と
豊かに受けている人々は
一人のイエス・キリストにより
命にあって支配するのです
この通りです
もし一人の違反により
一人によって
死が支配するようになった
となりました
そうすれば
初めのアダムは
違反をして
罪をもたらされたわけですが
最後のアダムであられる
イエス・キリストは
恵みと義の賜物をもって
命にあって支配される
ここに神の愛が流れている
イエス様の赤らいの恵みが
表されているんですね
アダムといえば
自分たちが犯した罪のゆえに
自分の子孫の中に
イエス様が生まれになって
十字架で死なれることは
知らなかったでしょう
イエス様は
十字架でかかられて
死なれるときに
何も食べられなかった
鞭打たれました
そしてあの重さが
だいたい70キロぐらいの
あの十字架を背負って
エルサムでは
一番この急な方なんですけれども
ゴルゴダの奥羽の道を
歩んで行かれました
そこで死なれました
皆さん
人類をその罪から救うために
独り子イエス様が
その本当に
むごい恐ろしい苦しみと
身に当たっているその独り子を
見守らなければならない
その好きなる神様の
お気持ちはどうだったでしょうか
その神様の心を
私たちが救うならば
その恵みと
全く知らない
犠牲によって救われた
私たちであるならば
生涯一生ですね
神様のために
感謝と賛美を捧げること
他にはないと思います
また私のため
死ぬまで犠牲を払ってくださった
死のためならば
自分の全てを捧げようだって
何がもったいないでしょうか
皆さん
このように神様は
生かしてくださる方
アダムといえば
私たちが罪を犯した時にも
45:00
私たちを生かしてくださる
治してくださる
あがなって
覆い隠してくださる神様です
誤解をしてほしくないですけれども
いくら罪を思い切り犯して
死の食事で
今日帰ってきました
天国に逃げてください
そうしてはいけない
神様が生かしてくださる方である
その一つの神とか
エヴァという名前にもあります
最初は名前がなかったですね
女の人でした
エヴァという名前が
名付けられました
その意味は
全て生きた者の母親という意味です
生かす
生きるという意味が
エヴァという名前に含まれているんです
それは
このエヴァ
女の人の子孫の中から
イエス・キリストがお生まれになって
その方によって
人類が生かされる希望が
エヴァの名前に含まれているんです
メッセージを終わりたいと思います
皆さん
神様は大きなリスクをかけて
私たちを信頼してくださっています
そうするにあれば
私たちはその信頼に
その愛に
応答すべきではないでしょうか
信頼してくださる神様
待ってくださる神様
私たちが自発的に
祂を愛し捧げることを
望んで求めておられた神様がおられる
そうするならば
私たちがその愛に応答する
それが
信頼を求める
心から祂を愛します
心から祂を賛美し
心から祂を恋愛する
心から喜んで捧げ
捧げ
応しし
歩んでいこうではありませんか
お祈り致します
では今日の御言葉を覚えて
神様の信頼と愛が
どよど素晴らしなのか
その全く信頼と全く愛が
自分に
我々に
それが注がれている
その愛に
全く信頼に応答してまいります
そしてこの自由と能力をもって
自生をもって
罪を犯す道ではなく
主を愛する
御言葉に従う道を
歩ませて下さいと
祈っていきましょう
ではしばらく
ここで合わせて
御一緒にお祈りしたいと思います