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2021-02-28 23:08

2021/02/28:創世記(9)あなたはどこにいるのか-2

2021/02/28 聖日礼拝

尹善鎬牧師

創世記 3:8-10


00:03
おはようございます。
今日もこのようにして、主に支えられて、また皆さんも守られて、一緒に、今日本当に、いつも一緒ですけれども、今日はさらにね、本当にみんな集まって一緒に出会いできますことを、本当に感謝いたします、主の恵みです、本当に感謝いたします。
皆さんに本当に熱く、温かく祈っていただいて、私も支えられて、このように後段に立たせていただきました、本当に感謝いたします。
また今週の3月3日から3週間明けて、また抗がん剤の治療が2サイクル目が始まります。
どうか祈っていただいて、本当に神様がその薬を用いてですね、癒してくださって、神の使命を全うできますように、どうぞ覚えてお祈りしていただけたらと思っております。
一言短くお祈りいたします。
天の父な神様、主の皆をあがめて賛美いたします。
私たちは主の力と命によって生かされております。
今日も主が命を許してくださって、この主の宮に集まって、喜びをもって礼拝を捧げてまいります。
どうか神様ご自身の顔を私たちに照らしてくださって、あなたに愛し、またあなたを愛し、またあなたにこの朝出会って、神の栄光に触れ、神の命に満たされる今日の一日になりますように。
どうか一人一人を覚えて豊かに祝福してくださいますように。
イエス様の皆によってお祈りいたします。
アーメン。
今日はですね、先週の続きになります。
あなたはどこにいるのか、2回目になりますが、先週全部終わってなかったので、その続きとしての後半の部分。
8節から10節までの御言葉を持って、今日も神の御言葉に耳を傾けていきたいと願います。
先週のメッセージの内容を皆さん覚えていらっしゃるでしょうか。
罪というものは何であるか。
罪は、ただ悪いことをするという意味ではなく、それを超えて、罪の結果は、人が罪に対して生き、神に対しては死ぬことである。
これは私たちが取るべき生き方の反対であることを言いました。
私たちは、罪に対しては死んだものであって、神に対しては生きるものである、そういう存在であることをお話ししました。
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改めてもう一度申しますと、皆さん、罪に対して死ぬ、死んだものというものは、
つまり、死んだ人はどうですか。
何の反応をしないわけなんです。
死んだ人には何の影響も与えることができないんです。
死んだ人は何もできないんです。
ですから、簡単にわかりやすく言いますと、罪に対して死んだというものは、私は罪から何の影響も受けない。
その罪に、あるいは誘惑に対しても反応しない、できない、何もできないというものであります。
だから、もう罪と悪と無関係のものであるという意味になるでしょう。
また、神に対して生きているというものはどうですか。
それは、生きているから影響を受ける、生きているから反応する、応答するわけですね。
ですから、神様に対して応答しますし、神に向かって歩みますし、神の力が私の力になりますし、
神からの影響を受けて生きるということであります。
さあ、今日は、ソのアダムという場が、ソの実を食べてから、彼らにどういう結果が出てしまったのか、そこを見ていきたいと思います。
改めて、もう一度、八節を一緒に読みたいと思います。
八節、せーの、
そよかぜのふくころ、かれらは、
アーメン、ここにですね、
罪が私たちに、人にもたらす決定的な結果が一つ書かれています。
それは、神である主の御顔を避けて、これです。
神である主の御顔を避ける。
主の御顔を避けることが、罪の結果であります。
ソの実を食べてしまったアダムとエバは、罪に対しては目が開かれて、神に対しては目が閉ざされてしまった。
その結果ですね、神の御顔を避けてしまったんです。
皆さん、彼らが、アダムとエバが、罪を犯す前はどうだったんでしょうか。
彼らはですね、神様とこのうえない喜びの関係、
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愛して愛される関係、信頼して信頼される関係、信じてより頼む関係だったんですね。
最高の美しい関係だったんですよ。
また神様は彼らに全てを任せて、彼らは喜びをもって神様に従いました。
だから、神の御顔を避けるということは、彼らの人生にはなかった言葉だったんです。
ところが、罪が、この非常に悲しい結果をもたらしてしまいました。
愛して従って死体を求める愛の神の御顔、その栄光の御顔を避けてしまったわけなんですね。
私たちはここでですね、罪は人に神を怖がる、神を避ける霊をもたらすことが分かりました。
愛すべき神様、従って喜ぶべき神様を恐れる、怖がる、そして避けてしまう悲しい結果、死の結果がもたらされました。
これはですね、神である主の御顔を避けた、ああ悲しいなあ、それくらいの話ではないですね。
これはもう、罪の報酬は死であると御言葉にありますように、これはもう死、死亡なんです。
アダムといえば、罪を犯した結果、彼らの肉体はしばらく生きてはいますけれども、彼らの霊は既に死んだものになってしまいました。
これはですね、神様にとってはどんなものなんでしょうか。
神様にとっては、父なる神様にとっては、本当に極めての悲しみであり、神の心の苦しみなんです。
神様から見れば、今までは、神様を愛して、神様を喜んで、神様を礼拝して、神様に従っていた子どもたちが、
突然ある日から、神様を怖がって避けて逃げてしまった。
神様の心はもう、避けるほどの痛みを覚えられたのではないでしょうか。
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罪というものは、神の心を痛める、悲しませることである。
そのため、神の霊である聖霊様は、悩みを持って、泣いておられるということなんですね。
2番目、彼らがその身を食べてしまった結果、つまり、罪がもたらした結果、彼らに現れたことは、
その木の間に身を隠した、とありますね。身を隠した。
これは、10節の後半にも、自分が裸であることを恐れて、身を隠しています、と2回書かれているんですよ。身を隠した。
皆さん、罪というものは、神の御化を避けて、身を隠させるものですね。
なぜなら、罪というものは、恐怖心をもたらす、罪意識をもたらしてしまう。
そして、死ぬことに対する、この怖い心をもたらす。
神の無知、神からの罰という、裁きという、それに対する恐ろしさをもたらす。
そして、その結果として、その魂は、枯れてしまい、傷んでしまい、病んでしまい、
平安と喜びが取り去られてしまう、ということになります。
一言で言うならば、罪というものは、私たちの霊と魂と身体と心、人生全体を全てを壊してしまう、ということになります。
二度と組み立てることができない、人間の力ではそれを直すことのできない、破壊をもたらしてしまうことですね。
その始まりは、御化を避けて、身を隠してしまうことです。
隠してしまうんですね。
だから皆さん、罪というものは、悪というものは、闇が好きです。
夜が好きです。隠しやすいです。
だから、罪は偽りが好きです。隠す神です。
だから、罪は偽善であって、良い人の不利をする、明るみに出ない、いや、もっともっともっと、闇の方に入ってしまう。
隠して、もう隠し上手であって、秘密だらけのものである、ということになります。
12:05
だから、どんどんどんどん、闇の中に自分を隠してしまう。
自分の存在を隠してしまう。
神の光に照らされて、自分の全てが明らかにされて、そして、神との関係が癒されて、直されて、行く道が恵みの道なのに、その逆の方向を行ってしまうんですね。
隠して、隠して、光から逃げて、照らされることを逃げて、隠してしまうことなんです。
それが、罪の結果であって、隠してしまっているんだ。何かを隠している。
思っている。秘密が多い。神様に自分自身を表すことが嬉しくない。
これが、私たちが、人が罪の中にいるときに、罪の中に沈んでいるときの、ま、兆しというか、サインなんですね。
例えば皆さん、車の調子が悪いときには、何か変な音がするんじゃないですか。ガタガタガタ、音がしたり、ガラガラガラガラ、音がしたりするんでしょう。
人の体も同じなんですね。どこか悪いときには、何かの症状が出るんですよね。
私自身のことを話しますと、去年のですね、風邪が、風邪じゃなくて、咳が続いていたときには、
もともと私、若いときから季節の変わり目とかに、よく咳をするものだったんですね。20代だと。
大学生のときからそうだったんです。何十年も、2月、3月になったり、夏になったり、冬になったりしたら、1週間、2週間咳をする。
ほぼ1年ある意味でも、咳を持っているもののようなものなんですけれども、去年はちょっとそれが酷かったんですね。
さあ、それでですね、もし私がですね、咳をし始めたときに、これはもう肺がんの症状なんだ。早く部院に行ってですね、もう精密検査をした。
そして手術をしたら、状況が変わったかもしれない。だからといって、今公開しているか、そんなことはありません。
このすべての状況もですね、神様の御胸であること。
そういうふうに私は感謝して受け止めておりますけれども、後からですね、入院しているときに、いろいろ担当医と話していたり、聞いてみたらですね、
他のがんはわかりませんが、肺がんの場合は、初期で見つかって肺の一部を取って、
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守られる場合も結構あるんですね。肺がんの種類にもよりますけれども。
でもですね、もし取ったとしたら、治ったらいいんだけれども、
2度肺にがんになってしまったら、肺がんは2回3回の手術はできないそうなんですね。
そして一度肺を取ってしまって、切ってしまって、もし再発したら抗がん剤の治療も難しくなりますし、
いく倍も不可能になってしまう。そして悪くなるスピードも非常に速いみたいなんですよ。
そういった意味として、とにかく私は肺は取ってはないんですので、神様が癒してくださるならば、
両方の肺を持って生きて生きるんじゃないかと、そういうふうに考えて感謝しておりますけれども、
とにかく皆さん、私たちは自分自身の霊的状態がどんなものなのかに敏感なものでありたいんです。
私はもし今、自分自身が隠してはいないのだろうか? 神の見顔を避けてはいないのだろうか?
神の見顔を求めてそれを喜んでいるのだろうか? そういうふうに、
私は神を礼拝することを最後の喜びと楽しみとしているのだろうか?
神様に出会って、その神様に祈ること、 神の前に感謝と喜びと平安で満たされて生きているのだろうか?
あるいは、神の見顔を避けて、
怖がって闇の中に隠して、
偽りの自分自身、その自分自身を覆って偽ってはいないのだろうか?
もし、そういった部分に神の恵みによって気づいたならば、
今、私はこの罪のために、私が神の見顔を避けているんだ。 身を隠しているんだと気づいて、早く悔い改めて、
そして自分の存在が、霊と魂と肉が生きられるように、
神の見前に行って、 自分の罪や偽り、あるいは偽善を、
それを悔い改めて、自分自身が生きられるように、 神様との関係を回復して、愛の関係を回復していきたいんですよ。
ところが皆さん、彼らが主の見顔を避けて、 身を隠している時に、罪が深くなっている時に、
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神の憐れみと愛が働き出します。 それが旧説ですね。
旧説をみんなで、もう一度一緒に読みたいと思います。 旧説、せーの、
アーメン。 ここに、
彼に言われた、あなたはどこにいるのか。 あなたはどこにいるのか。
皆さん、 神様の愛と恵みは、私たちが弱い時、
私たちが罪の中にいる時に、もっと強く熱く現れるんですね。
アダムとエヴァが神の見顔を避けて、 自分自身が克服して、怖がって震えている時に、
自分自身ではどうしようもない時に、どうしたらいいのかわからない時に、 神様が先に、
自ら彼らを訪ねてくださったんですね。 人に呼びかけてくださったんですよ。神様が先に彼らに呼びかけてくださった。
声をあげてくださった。あなたはどこにいるのか。 これなんです、皆さん。
アダムとエヴァは、 神の見顔を避けて、離れて、失われてしまいました。
彼ら自分自身では、神様を求める心も力も思いも持てない死の状態だったからです。
彼らのその状態をご存知の神様は、
ご自身自ら愛の心、癒しの心を持って、 彼らに呼びかけて、
声をかけてくださいました。 あなたはどこにいるのか。
神様が先にこの愛の手を、 許しの手を、主が
差し述べてくださったんですね。 その最初の言葉が、あなたはどこにいるのか、という言葉です。
この言葉はですね、お前はどこにいるのか、 もう
頭に来た神のですね、怒りの、 アダムとエヴァを怖がらせる、そういう言葉じゃないんですね。
彼らを可哀想に思う、 哀れみの心、
帰ってくることを願う父の心、 自分の子供を失ってしまった、
悲しい父の心、愛と哀れみの、 心からの言葉が、
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あなたはどこにいるのか、 という言葉なんです。
みなさん、
神の御母を避けて、身を隠して、神から離れてしまった、 人々に対する父なる神様の心が、まさにこれです。
あなたはどこにいるのか。 今日も神様が、
この朝私たちに、 呼びかけて、
私たちに、声をかけてくださいます。 私たちを求めておられます。
あなたはどこにいるのか。 あなたはどこにいるのか。
これは、ただの怒りの神の心ではなく、
良きお父さんの、哀れみと愛と忍耐の、 心からの言葉です。
私はあなたを愛している。 私はあなたが帰ってきてほしい。
あなたが私に帰ってきたら、生きるよ。 という、
愛を持って、呼びかけてくださいました。 あなたはどこにいるのか。
私たちは今日も、この良きお父さんの心を、 その心からの言葉を聞きたいんですね。
お聞きしたいです。毎日お聞きしたいんです。 そして、私を求める父なる神様。
先に私に呼びかけて、私を探してくださる、 愛の神様。
忍耐と慈しみの心を知りたいです。 そして、この父なる神様の心を知り、信じて、
父なる神様に、さらに近づいていきたいと願います。 私たちの父なる神様を喜ぶことこそ、
私たちの命であり、力です。 お祈りしましょう。
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