00:03
皆さん、おはようございます。
創世記の7回目になりました。感謝します。
早くですね、コロナが終わって、みんなで集まって、思いっきり出会いしたいなと、そんなふうに思ったり、祈ったりしております。
今日は私たち、創世記の2章の15節、17節から、いわゆる聖書の中の難題の一つに出会ってしまいました。
クリスチャンの方々も、あるいはミシンジャの方も、聖書を少し聞いたりした人は、いわゆる、神様はなぜ、この善悪の知識の木を、神様は廃止させて、
アダムとヤバカ、最初はヤバでしたけれども、それを食べてしまって、この人類にこんなだらっこ、罪、問題が起きてしまったのか、そういった疑問、あるいは訴え、質問があったりするかと思います。
皆さんも、そんな疑問を持ったことがあるんじゃないですか。たぶんね、あるかと思います。
なぜなのか、その理由は、目的は何なのか。
人間として、私たち人間として答えを言いますと、人はそれを知らない。
もう神様だけがその答えをご存知であると。
でもそう言ったら、今日のメッセージはなくなってしまいますし、あまりにも無責任になりますから、
聖書全体からその答えを一緒に神様から教えていただきたいと、そういうふうに願います。
まず、その木がなぜあるのかとか、それを考える前に、アプローチを変えたいと思うんです。
まず、神様と人、作り主と被造物、創造主と被造物の関係。
この関係は場所的な位置じゃなくて、いわゆる神様との関係における人間の位置。
それを教えてくれるヒントがあるところがあります。
これが十五節です。
十五節、みんなで一緒に読みたいと書いてあります。
十五節、みんなで読みましょう。せーの。
アーメン。
ここにですね、そのエデンのそのにね、アダムとエバオ、神様を置いて、
03:04
さあ、このエデンのそのは、もうあなたたちのものなんだ。勝手に自由に好きにやれ、と神様は言われましたか。
そうではないんですね。
エデンのそのに置いて、そこを耕させ、守らせたとあります。
これはお前のものだよ、ではないんです。
好き勝手にしていいんですよ、じゃないんです。
つまり、神様が主である、主人である、オーナーである。
人はそのエデンのそので、自由に何でもできるんだけれども、耕すもの、守るものとして、つまり管理するものとして、そこに人は置かれたということなんです。
だから、最も大事なのは、エデンのその、それは象徴的ですね、アダムとエバに全てが与えられましたが、その主は、主人は、オーナーは誰なのか。
それは神様であるということなんです。
神様はあなたのものだよ、と言われてないんですね。
神様が全ての主である。
皆さん、この言葉はですね、私信仰生活をしていたら、あまりにもたくさん聞いた言葉だろうなと思います。
全てのものの主は神様である。
命も物も全て、頭で私は知っている。
ところがですね、今日のこの箇所からですね、本当に大事なこと、
本当に神様が主であり、私たちはそのしのべである。
この関係をはっきりと今日、心に、心の板に刻みたい。
しかし神様は、アダムとエバ。
アダムという名前の意味は、人間、人という意味なんですね。
だからアダムというのは、全ての人間、人類の象徴だと考えればいいんです。
そこで神様は、何でもしていいんですよ。
でもこの一つだけは覚えておいてね。
善悪の知識の木を、その実を食べてはいけない。
これだけは食べてはいけない。
他は何を食べても、何をしてもいいんですよ。
そしたらあなたはこのエデンの園で、永遠に幸せに生きられるよと、
06:05
神様が想像を超える自由と至福をお与えになりました。
例えてですね、言うならば、神様はアダムとエバに99.9%の自由を与えてくださって、
0.1%くらいの制限と言いましょうか、ルールを一つ、たった一つだけ置かれたということです。
教会の外にいるキリスト教を少し触れたり知っている人々は、
いや、宗教はね、キリスト教は何か制限も制約も多いなと。
酒を飲んではいけないし、タバコを吸ってはいけないし、
日曜日にどこかに行っちゃ困るし、恋愛しなくてはならないですし、
献金もしなくてはならないし、方針もしなくてはならない。
いや、もう息苦しくて、めんどくさくて、もう縛りが多いんだと。
そういうふうに外から見れば、そう思われるかもしれない。
この聖書をキリスト教にちょっと知ってみようかなと思って、
それを読んだところですね、神様はこんな縛り多く神なんだなと、
そんなふうに思ってしまうかもしれない。
しかし皆さん、そうではないです。
デンマークの哲学者、キエルケゴールという人がいるんですね。
彼はクリーチャーでしたけれども、
神の国、神の世界のことをこんなふうに例えていました。
神の国に入ること、神の世界に入ることは、
その入り口が非常に狭い洞窟に入ることと同じである。
最初は非常に狭いように見える。だから息苦しいですし、
いや、あんな狭いところに入って、中は何があるんだろう。
何もないんじゃない。ずっと狭くて苦しいんじゃないかと思うんだけれども、
しかし入り口は狭いんだけど、その中に入ったら、
この世界よりこの世より想像を超えるほど、
広くて新しくて豊かな新しい世界があるよと、そのように彼は言いました。
だから少なくない人がキリスト教の入り口まで来て、洞窟の前まで来るんです。
見たらもう狭い。教会に行ったらもう、
使徒の心臓をしなくてはならない、使徒の祈りをしなくてはならない、
09:01
賛美を謳ってはならない、もっとオーソドクスな教会は、
もう本当にいろんなルールがある。
見たら狭い。いやもう苦しい、めんどくさい。
それで入っていこうという勇気が出ない。
ある意味で残念なことだなと思うんですね。
その中にある神の世界がどれだけ豊かで、
主は私たちにどれだけの多くの自由を与えてくださったのか、
それをみんなに知ってもらいたいなと、そういうふうに思います。
神様は善悪の知識の木を作ってくださった。
それは創造主と非造物の間の秩序のためなんですね。
神は創造主である、私は非造物である。
その関係をよく知って、その秩序を守っていくときに、
自由もすべても祝福になるということなんです。
確かなことは皆さん、この木を神様が与えてくださったのは、
縛るためじゃないんですね。人を縛るためじゃなくて、
本当の自由を思い切り味わってもらうためにくださったことなんです。
そしてもう一つのことは、創造主がおられる、私は非造物である。
だから私はこの神によって生きるものなんだ。
神に頼るものなんだ。
神によって生かされるものなんだという、
いわゆる神依存の存在であることの象徴、それがこの木なんです。
だからエヴァが、もちろんサタンの予約がありましたけれども、
それを食べてしまったということは、いわゆる、
神なんて神様はいらない、そんな依存の応答はいらない、
もうめんどくさい、私は独立するよ、みたいな、
人が神を必要としない、その依存関係を神によって生かされる、
その大事な命の関係を人が切ってしまった罪による独立宣言のようなものなんです。
神の権威の中での自由こそ本当の自由なのに、
それを蹴っ飛ばして、そこから脱出してしまったということなんです。
だから今日の17節の最後に、
12:02
その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬとありますが、
それは神様が恐怖を恐れさせるための御言葉ではなく、
もう人を殺すための御言葉ではなく、
生かすために、本当に生きる道は私の御手にあるんだよ、
あなたと私のこの信頼関係の中にあるんだよ、
それを教えてくださる神の御言葉なんです。
皆さんは本当に神様を主として信じて生きているのでしょうか?
その神の主権を、神の力を信頼して生きているのでしょうか?
神様は人に、あなたは作られたものですよ、
私は創業主である、そして私は同時に、
もう裁き主、審判主であることを正確に教えてくださった御言葉は、
今日の御言葉なんです。
しかしそれも、裁きまくるための御言葉じゃなくて、
人が生きるために、そのガイドラインを教えてくださったこと。
皆さん、こんな例えはどうでしょうか。
夏にビーチに行ったりしたら、
この海の向こうの深いところに何か浮いているもので、
これ以上入るなみたいに書いてあるものがあるでしょう。
危険みたいに入るなと書いてある赤文字で。
それはなぜあるんですか。
それを作って、みんなそこに行かせて、
人を死なせるためにそれを設置したんですか。
そうではないでしょう。
ここは危ないですよ。
ここを越えていったら、もう死ぬかもしれないんだから、
そのうちで自由に思い切り楽しんでね、とね。
その安全のために、自由のために楽しんでね、と、
そのためにその場をそこに設置したわけなんです。
そういうことなんですよ、この木は。
神様は、あなたがこれさえ守って、
あなたと私の関係が主と下辺、作り主と被造物、
神と人間の関係であること、
あなたは私によって生かされるものなんだ、
ということを忘れずに生きてね、と。
そのための印がこの木なんです。
15:03
そして何より神様は、
そのアダムとエヴァに何でもできる自由を与えてくださったわけなんです。
命の木の実を食べても、
実を食べても、あるいはこの善悪の知識の木の実を食べても、
他の実を食べても、何をしてもできる。
その自由をくださったわけなんですよ、神様はね。
本当の自由をくださった。
それほど神様は人を信頼した、愛した。
そしてその人が神によって生かされる存在であることを、
さらにさらに深く知るようになっていくことを、
神様は望んで願っておられた。
それほどの素晴らしい人格として作ってくださった。
その自由をもって神を愛すること、神をあがめること、神を喜ぶこと、
その本当の自由による幸せを主がくださったわけなんですよ。
だからこの関係はどれだけ美しい関係でしょうか。
神様はその人を見守ってくださる。
思い切りすべての自由をくださって、その人が何でもできる、
そういう自由をくださった。
そこで神を思い切り礼拝して、喜んで幸せに、
愛によって生きるように主はくださった。
人もその自由をもって神を礼拝する人生が嬉しくて、感謝のあふれる、
愛によって生きる、神の命によって生きる、
そういう存在として生きるような関係を作ってくださったんです。
皆さん、こんな関係は美しくないですか。
素晴らしいでしょう。どんなに素晴らしいんでしょう。
それが最初の神様が描いた絵だったんですよ。
人と私のこんなラブラブするね、本当に愛して、
私もあなたを愛する、あなたも私も私を愛する、
そんな美しい絵を神様が作ってくださった。
ところが皆さん、この関係が崩れてしまう。
壊れてしまったらどんな関係になるんでしょうか。
ちょっとよくない例えなんだけど、
家庭のこと、夫婦のことをちょっと考えてみましょう。
皆さんきっとそうではないと思うんですけれども、
旦那さんであろうが、奥さんであろうが、
例えば奥さんが家の家事をする。
でもそれもやりたくなくて、いつも怖い顔をしてですね、
18:02
ブスブス不満いっぱいの顔をしてですね、
家事をする、洗濯をする、それも適当にする、
もう食事をご飯を作りながら、
なんで私こんなことを作るんじゃないんじゃないかな、
しながらもね、適当に食事を作って、
やりたいんだけどやれないことってちょっと別ですよ。
そんな風な、やるはやるんだけれども何の喜びもない。
そんな旦那さんと奥さんと一緒に暮らしたいですか?
じゃないですよね。
そこにはですね、義務的な行動はあるかもしれない。
義務的に食事を作る、義務的に仕事をする、
その義務的な形ばかりの何かの行動はあるかもしれませんが、
そこには本当の自由がない。
愛がない。喜びがない。賛美がないんです。
そこはもう天国じゃなくて地獄なんですよね。
神様はそういう関係じゃなくて、美しい関係を作ってくださる。
もしかしたら0.1%の制限を下さったと言いましたが、
その制限さえもですね、アダムが自分の身分を知って従順を学んで、
従うこと、これこそ自由なんだ。
従うこそ神を礼拝することなんだ。
その従うことを、嫌いじゃなくて喜びとして従う。
そこに神の恵みを感じる、経験する。
さらに従っていく。さらに神を礼拝する。
そんなふうなことが神の心だったんです。
メッセージはそろそろ終わりにしたいと思いますけれども、
ここでこのメッセージを準備しながら、
一つ本当に新しく教えられたことがありました。
神様は私たち人に失敗もできる自由をくださった。
アダムがやたら善悪の知識の木を、その実を食べることもできる、
そこまでの自由を、愛をもってお当たりになった。
そこまで人を愛してくださった。
そこまで人を信頼してくださった。
21:02
そこまで人を見守ってくださった。
そしてやがては、そのアダムとエヴァが食べてしまった、
その人間の人の堕落、その贖いも、その回復も、
神様が全部背負ってくださった。
そして一人後、イエス・キリストを使わせてくださった。
その人間が犯してしまった過ちでさえも、
主が背負ってくださって、回復してくださった。
失敗できる自由を、いやもう罪を犯し得る自由さえも、主はくださった。
そこまでの本当の自由をくださった神様が、私たちの神様なんです。
本当に素晴らしくないですか、皆さん。
失敗できる自由までくださって、見守ってくださった神様。
そこまで私たちを信頼してくださった神様。
愛してくださった神様。
この神様をですね、命あるかけり賛美して、
礼愛して、従って、礼愛して、喜んでいこうではないでしょうか。
これを見ながら、私たちも互いにこの神の心を持っていきたいなと、そういうふうに思いました。
夫や妻や子供、兄弟姉妹たちに失敗できる自由を与えること。
いやもう神様がくださった本当の愛による自由なんだから、
そういうふうに生きるように見守ってあげること。
そして神様が家様を通して私たちの失敗を、罪を、
私たちを責めるんじゃなくて、裁くんじゃなくて、
もう全てを背負ってくださった神様のように、
覆ってくださった神様のように、私たちも覆ってあげる愛を持って、
その愛を持って、生きる私たちでありたい。
そしてこれまでも私たちを信頼して愛してくださった神様を、
命ある限り、礼愛して愛していこうではないでしょうか。
お祈りしましょう。