1. 名谷教会
  2. 2014/06/08:聖日礼拝(旧音源)
2014-06-08 48:33

2014/06/08:聖日礼拝(旧音源)

2014/06/08 聖日礼拝(旧音源)




00:01
アーメン、ありがとうございました。
皆さん、おはようございます。
はい、では今日もですね、メッセージに入る前に、隣の方と挨拶をしたいと思います。
よろしくお願いいたします。
おはようございます。
すみません、あの、ドアを閉めて下さいますか。
では一言お祈りいたします。
愛する主の神様、今日もこうして、主の御前に主が私たち一人一人を呼び寄せて、そして主の御前をあがめる賛美するこの時を、お待たせてくださり、ありがとうございます。
どうぞ主よ、今から神様が私たちに語ってくださる御言葉を得り下って、心を無にして聞き伝うことができますように。
どうぞ主よ、神御自身が私たちにお語り下さい。
見ていただけます、ジェス様の御名によってお祈りいたします。
アーメン。
はい、今日はね、先ほど宮田姉妹が子供のメッセージを語ってくださったんですけれども、
打ち合わせに来たわけではないんですけど、今日のメッセージですね、つながるメッセージ、通じるところがあって、
神様の恵みは深いなと改めて考えさせられました。
人の前で機会とかこういうメッセージをすることは、誰にでもできるように思えるかもしれませんけれども、
実に人の前で語ったり機会するのは、そんなに容易なことではないんですよね。
だから皆さんから祈っていただいて、こういう働きができることを本当に感謝いたします。
いつも祈りに感謝いたします。
今日はキリスト教のエッセンスシリーズ説教、大きなテーマ、2回目のテーマなんですけれども、救いです。
先週まで3回にかけて、現在、それから福について、御言葉から教えていただきました。
今日は、今日から3回に分けてですね、また救いに関してともに、聖書の御言葉から教えていただきたいと願っております。
今日はその中で、救い、特に義と認められる、義とされるという、義人というですね、救いについて考えていきたいと思いますけれども、
皆さん、このキリスト教のエッセンス、いわば教理なんですけれども、これはですね、私たちの心肝の骨格のようなものです。
03:13
まるで人のですね、背骨のようなものです。
これがしっかりとして立てられていますと、私たちの心肝がぐにゃぐにゃにならない。
しっかりと立って、御言葉の上に立って、歩むことができるわけなんですね。
ですから、これはですね、ぜひぜひ皆さんにはっきりと知っていただきたい。そして、覚えていただきたい。
また、もっと願うならば、皆さんがそれを他の人にそれを説明したり、話すことができるところまで生徒していただけたらと、そう願っております。
救いはキリスト教の信仰の基本中の基本です。
ところが、教会生活は長い間、20年、30年、50年、ある方は60年、70年しておられるわけですけれども、
自分が救われたのか、救われていないのか、といったような福祉を持っていない方が案外少なくないということです。
あるいは、救いの確信は持っていますけれども、救われたこととはどういう意味ですか、教えていただけますか、と話をしたら、うまく答えできない。
そういう場合も少なくないと思います。
皆さん、救い、救われるということは、単なるイエス様を信じることだけを意味しているわけではありません。
間違った話ではないんですけれども、イエス様を信じること、それだけが救いに関する完全な説明には及びません。
私たちが救いということを話すときに、あるいは考えるときに、大きな目で、それから広い目でそれを考えていかないといけない。
特に救いということを考えるときに、話すときに、この自当される義務といいますね、それから成果、それから栄誉化、この三つのことをいつも一緒に救いの中に入れて、
共にいつも考えなくならないわけなんですね。
今日はその中で、救いの意味の中、この自当される、義と認められる、あるいは義人について、共に考えていきたいと思います。
06:03
まずその前に、今日、今から皆さんに私が十個の質問をいたします。これは救いに関する質問です。
皆さんがよく考えていただいて、はい、いいえ、わかりません。
秘密の中、心の中に答えていただきたいと思っております。正直に考えてお答えください。
1番、あなたはイエス様を信じて救われましたか?
2番、あなたのうちにイエス様はおられますか?
3番、あなたはすべての罪を許されたと信じますか?
4番、あなたは神のことをされましたか?
5番、あなたは義と認められましたか?
答えておられますか、皆さん。答えるか答えないかそれは皆さんの自由ですけれども。
6番、あなたは永遠の命を得ましたか?
7番、あなたは新しく生まれましたか?
8番、今晩もしあなたが死ぬとしたら天国に行けると確信しますか?
9番、あなたは聖霊を受けましたか?
最後です、10番、あなたは罪の裁きを受けないと確信しますか?
さあ、いかがですか、皆さん。
この10個の質問の中で、もし1つでも1個でもわからないと思っていらっしゃる方がおられるかもしれません。
実際にこの質問は今、水曜日、人会で学んでいるテキストの中にあった質問ですけれども。
午前中午後もわからないとか、そういうふうに答えている方がおられました。
それについて無言から教えていきましたけれども、皆さん。
皆さんがイエス様を信じて救われた、この答えにはいと答えたならば、他の9つの答えはすべてはいです。
09:07
いや、はいと信じなければならない。
なぜなら、聖書が私たちに約束して、そう語っておられるわけですから、その御言葉に基づいて、イエス様を信じれば救われる。
イエス様がうちにおられる、罪を許される、神の施される、また義と認められる永遠の命を得、また新しく生まれ、天国に行ける、聖霊を受ける、罪の裁きを受けないと、
これはイエス様を信じる者に同時に与えられる神様の恵みなんです。
皆さんが救われたのならば、このすべてのことがもうすでに皆さんのものであることを御言葉に基づいて、御言葉を根拠として信じる、受け止める、それが信仰なんです。
もう一つ、よく耳にすることですが、この救いに関して、あるいは罪の許しとか、天国に行けるか、聖霊を受けたとか、罪の裁きはないのか、
そういうことに対して、感情的に、あるいは知識的に、あるいは体験的に、あるいは記憶力として、
そういった体験があまりなかったんです、感じてませんとか、あまり記憶がないんです、というふうに答える方が少なくない。
ほら皆さん、よくよく、今日のメッセージはとても大事です。よく覚えておいてください。
私たちの救いは、私たちの感情や知識や記憶や体験を根拠にしています。
人間の感情や知識や記憶力、体験というものは不完全なものです。
感情には波がある記憶がありますし、知識とか記憶は疲れます。また体験というものは、人それぞれ、世界の人口が60億になったら、60億に全部違うわけです。
ですから、もし皆さん、私たちの救いを自分の感情に基づくとすれば、自分がものすごく嬉しくて喜びに満たされているときには、救われることが確実に思えるでしょう。
しかし、何らかのように落ち込んでしょんぼりしているときには、自分が救われていないように感じられるときもあるんですね。
12:00
そしたら皆さん、ものすごく嬉しいときには救われて、ものすごく落ち込んでいるときには救われていないのでしょうか。そんなことはあります。
また、記憶というものも同じなんです。
イエス様を信じて救われたあの日のことを皆さんよく覚えていますか。何時何分何秒に何をしたのか覚えていますか。
あの時の皆さんの感情をまるまる全て100%記憶していらっしゃいますか。
そう記憶していないんです。50年あるいは100年経って、自分の救いのあの時の体験記憶を明らかに記憶するのは不可能なんです。
記憶力というものは廃れるものなんです。だから信仰を記憶に基づいて自分が本当に救われるのだったかと思ってはいけない。
あるいは僕ね。もっとよくあるケースで話をしましょう。
若い時に救われました。そして歳を召されて、認知症になかったとしましょう。
自分の名前すら覚えていない。牧師?誰ですか?とか、イエス様?あれイエス様って誰ですか?って自分が覚えていない、記憶していないとしましょう。
そうしたらば、その認知症になったおじいさんおばさんは、昔救われたあの救いは無効になるのでしょうか?そんなことはありません。
私たちの救いは、人間の感情や記憶や体験を根拠にしています。感情的な体験にも基づいていないんです。
例えば、救われる時に聖書に書かれているヒトパウロのように劇的な体験をする人もいるでしょう。
しかし、私のようなプリスタホームの者は、自然にイエス様を信じて救われるようになりました。
何かものすごい映画のような劇的な経験は私にはありません。
もちろん、人格的にイエス様を自分の意思でイエス様を受け入れたのは大学生の時でしたけれども、人はそれぞれ体験というものはそれぞれ違います。
そうならば、パウロのように劇的な体験をした人だけは救われたもので、そんな劇的な体験をしていない人は救われていないものなんでしょうか?
15:00
そんなことはありません。
また、あるいは救われた後の話もしましょう。
ある人は、本当にキスといった熱々なもので、祈る時にも何をするにもいつも熱いです。
いつも涙をして、いつも大声で祈るです。
ある人は、静かな生活を持っている。祈る時もいつもずっと祈ります。
強烈的ではないのですけれども、真面目で信仰生活をしています。
そうしたら、もう熱烈で劇的な体験をしている人は救われて、沈んであまり熱くない人は救われていないのでしょうか?
そんなことはありません。
もう一度申し上げますが、私たちの救いの根拠は、私たちの知識や記憶や感情、体験、あるいは経験にも基づいています。
例えば、教会で長い間信仰生活をしました。50年、60年、70年、80年しました。生活会もしました。役員もしました。様々な報酬もしました。回答もしました。
教師の教師もしました。経験をたくさん報酬しました。その報酬の経験、報酬力によって人は救われるのでしょうか?
そんなことはありません。
私たちの救いの根拠は、神の恵みのゆえに信仰によって、救いはイエス様の十字架の指標を根拠にして、神の恵みを根拠にしているわけですから、
神の恵みの指標に、神の恵みを信じなさい。そうすれば救われますという指標を私たちが信じておれは、その救いは永遠に有効であることを確信しなければなりません。
ではすぐに皆さん、先ほど十個の質問がありましたけれども、皆さんがイエス様を信じて救われたのであるならば、すべてのものはもう確定されている。すべて皆さんに与えられていて、皆さんのものなんです。
神様の救いは、神様の決定は変わることはありません。豚キャンもありません。永遠に変更されることはないということを私たちは確信しなければならない。それはなぜですか?
聖書がそう語っているから、聖書がそう約束しているから、私たちの救いは取り消されることはありません。
18:06
さあでは、この義と認められることについても、具体的に友に教えていただきたいと願っております。
義と認められるということがわかります。この義人といいますね、それは神様が罪人であった私たちを、あなたには罪がない、無罪だ、義人だと主が認めてくださる。
それが私たちが救われるときに同時に起こった恵みなんです。先週までですね、罪の問題に対して学びました。
罪というものは皆さん、隠したからといってそれがなくなったり、あるいは時間が経ったからといってその罪がなくなるものではありません。
あるいは自分の罪をアダムが蛇にラスにつけとして、その罪がなくなるわけでもありません。
罪はその代価を払わなければならない。でもその罪の代価は報酬は死です。死のことです。
ところがその払わなければならないその代価を、先ほども宮田姉妹が言ってくれたんですけど、家様が代表として、身代わりとして、それを支払ってくださったんですね。
そして私の罪が許されてないことにされた。これを聖書は贖いと言います。贖い。贖いという言葉は元々ローマ時代に奴隷の制度がありましたよね。
奴隷を買うときに、例えば一人の男性の奴隷を買うとしましょう。そしたらその奴隷の代価をその持ち主に払います。
そしてその買い取った奴隷を、新しく買った奴隷の主人が持ち主が本当に良い人であって、その奴隷を自由人にしてあげる。
その時に使われた言葉が、このあがなう、あがないという言葉なんです。もはや奴隷の身分ではない。自由人になります。
これがあがないという言葉なんです。
皆さん、私たちは罪の奴隷でした。サタンの奴隷でした。自分の力ではそれを知り放すことも、解放させることもできませんでした。
21:16
罪のサタンの奴隷として生きて、永遠に滅ぼされるしかなかった者たちでした。
ところが私たちを愛されるイエス様は、その罪の報酬、罪の代価は死ですから、
イエス様が人類のすべての罪を背負って十字架で亡くなれることを通して、
そのすべての人類の昔も今もこれからのすべての罪の代価を死が代表者として身代わりとして払ってくださったんですね。
それは、罪という持ち主から私たちを買い取って、食って、自由に来てくださった。
通してくださった。これがあがないということなんです。
ですから、罪の代価が支払われて、罪の奴隷から通された子のことは、私たちがイエス様を信じる時に起きたんです。
起きました。聖書はこう語っているわけですから、その御言葉を受け止めて信じるのです。
皆さん、いいですか?
イエス様が十字架で亡くなられることを通して、すべての罪が許されました。
その罪から救ってくださった救いが、私たちが自分が罪人であることを告白して、
イエス様を救い主として受け入れた時に、すべては有効になって、私のものになったんです。
罪許しも、神の断されたことも、義徒を認められたことも、敬礼を受けたことも、天国に行けることも、
新しく生まれたことも、すべてイエス様を信じる時に行われたんです。できているんです。
そのすべての救いの恵みは、一度きりで、訓示的なもので、それから完全なものなんです。
それを疑ってはいけません。
サタンというものは、悪魔というものは、私たちを訴えるものです。
何か失敗をしたり、罪を犯したとしたら、お前、そういうことを知っても、あなたは救われたものなのか?
あなたの救いは本当のものなのか?
敬礼を受けたのか?神のことなのか?そういう訴えに来るんです。
惑わされてはいけません。揺れ動かされてはいけない。
皆さん、十字架の救いは、取り消されることはありません。
24:12
そのように、イエス様の救いは、罪人であった私たちを、あなたは正しい人ですよ、義人ですよ、と認めてくださった。
自動してくださった。
それを御言葉を基づいて、それを受け止めて信じることが、神法なんです。
そして、救われた者として、自信と認められた者として、この救いの恵みをですね、思い存分ですね、味わい楽しむことが、救われた者の生活なんです。
それを神様が望んでおられるわけなんです。
皆さん、この救いの恵みを、喜びを享受すること、喜び楽しむことが、救いなんです。
皆さん、例えば、こういう例えはいかがですか。
2年前でしょうか、寺院の教会で先生方の研修があった時に、あの時は40人足りなかったんですね、30何人でしたけれども、
教会のある信徒さんが、日本の先生方は僕会で苦労されている方ですから、おもてなしをしたいということでですね、
草に、朝鮮ウェスタンホテルという韓国のトップのホテルがありましたけれども、その夕食のバイキングをその方が全員におもてなしをしてくれました。
もうお金は払われているわけですね。
ですから、私たち30何人の日本から来た先生方は、そこにいてですね、思い切り贅沢な夕食を食べればいいんです。
もう払われているわけですから、人の貨物が必要もありませんし、バイトすなわちお皿洗いしたり、トイレを掃除したり、休日をしたりする必要はありません。
もうお金は支払い済みですから、そこで思い切りですね、もう腹いっぱいですね、食べればいい、楽しめばいいんです。
皆さん、これがイエス様の十字架の秩序によって、罪の報酬は代謝は払われました。支払い済みです。
ですから、救われた者として、この地上で、この福井の恵みを、神様の恵みを、豊かさをですね、思い切りですね、贅沢にそれを享受する、味わう、楽しむことが神様の御心です。
27:09
これが、福井の恵みなんです。いいですか、皆さん。私の福井は、このように、豊かな豊かな恵みなんです。
そこでは、今日の福井に関して、今日の政策箇所をまた見ていきたいと思うんですね。エペルソービットへの手紙2章の8節をご覧ください。
このエペルソービットへの手紙2章8節は、ぜひぜひ覚えて、暗記していただきたいと思うんですけれども、
私の福井がどんなものなのか、この一箇所でですね、明確に私たちに教えているんですね。
さあ、8節一緒に読みたいと思います。
3.あなた方は恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
アーメン。私がもう一度読みますね。よく考えていてください。
あなた方は恵みのゆえに信仰によって救われたのです。それは自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。
みなさん、みなさんは救われましたよね?救われました。
その救いはどこから、何によって、何のゆえに与えられたもんですか?
神の恵みのゆえです。
信仰によって救われました。
私たちが救われたのは、私たちの行いが強いから、善であったから、あるいは金持ちだから、あるいは凄い大学を卒業したから、あるいは美男美女だったから、救われたわけではありません。
もし美男美女が救いの助手だったら、この中で救われた人は何人いらおられるでしょうか?私は実はありません。
みなさん、人間の行いというものは、その行いがですね、いくら善で、清くて、正しいものであっても、神様の御前では、すべての人類は罪人に救います。
ですから、どんなに良きことをしたとしても、その行いによっては、救われることは決してありません。
先生は明確に語っています。
みなさん、私たちが救われたのは、ただただ神様の恵みの由です。
30:01
信仰によって救われました。
神様が世の前から私たちを救うこと、あなたを救うことを定めておられ、そして時になって滅してくださって、精霊の感度を与えてくださって、信じることができるように感度を与えてくださって、そして救ってくださったわけですから、
私たちの救いは、何から何まで、最初から最後まで、すべては神様の恵みなんです。恵みの由なんです。
ところが、信仰というものも、私たち自分自身から出たことではないんです。
ここに2つ書かれているんですね。
信仰は自分自身から出たことではありません。
なぜなのか、このエペソーション2章の1節をご覧ください。
あなた方は自分の罪と罪との中に死んでいたものであってとありました。
死んだものでした。
ですから、死んだ者は何の応答も反応もできません。
神の救いの手をですね、自分の手を差し伸べてですね、それを掴むことすらできないんですね、死んだ者ですから。
ところが、その神様の救いの御手を掴むことができた。
信じるようにできた。
それは神様の不思議な恵みであり、神秘なんですね。
ですから皆さん、我々の救いはですね、100%神様の恵みのゆえなんです。
信仰すら神様の恵みのゆえなんです。
ですから人間の暴力や人間の行為、行いはですね、冷静、冷冷冷冷冷冷冷、永遠に1%も働くこと、及ぶことはありません。
もう一度申し上げます。
私たちの救いは、すべて神の恵みのゆえです。
死んでいた私たちが、何もできない私たちが、神様の感動をされ、またイエス様を信じるようになり、そして救われた。
これが救いの神秘なんですね。
救いの神秘、神様のおくぎなんです。
このように罪人であった私たちを救ってくださったときに、救われたときに、信じたときに、私たちにおけた祝福が、この義人と認められる義人というもの。
聖書一箇所見てみましょう。
ローマ人の手紙1挙17節です。
290ページですね。
33:09
ローマ書1挙17節、一緒に読みたいと思います。
3回、なぜなら福音のうちには、神の義が掲示されていて、その義は信仰に始まり、信仰に進ませる柄です。
義人は信仰によって生きると書いてある通りです。
アメン。
皆さん、信仰によって生きるんです。信仰によって義と認められるんです。
行いや知識や記憶やあるいは感情や体験によるものではありません。
罪人でありました。有罪です。しかし、神様があなたには罪がない。
無罪。義人。正しい人ですが、判決して宣言してください。
これは一度きりであり、瞬時的なものであり、完全なものです。
神様の決定ですから、神様の決定は完全なものです。
私は背景出身が聖路派ですから、昔ながら学んだことの教理の中に、
ウェスト・ミンスター教教理文部というものがありますけれども、
その中で33問にこういうことがあります。
義人とは何ですか。それが問です。その答えはこういうことです。
義人とは神の一方的恵みによる決定です。
それによって神は私たち全ての罪を許し、私たちを見前に正しいと受け入れてくださいます。
それはただ私たちに点火され、信仰によってだけ受け取るキリストの義の家です。
こういう内容です。ですから皆さん、
使徒は死後に神に裁かれ、永遠の命か永遠の死を受けます。どっちかですね。
私たちが死を信じた瞬間、この裁きの判決を地上でいただきました。
そして神様から永遠の命にふさわしいものと認められました。
これが不思議なメロディーなんです。これが義人です。
これは最終判決です。決して変更されません。
義人というものは神様が私たちをあなたが保護するものです。
36:05
救われたと認めていただくのは判決であり宣言ですから、変更される、取り消されることはありません。
これを福祉にしていただきたい。
もう一度申し上げます。繰り返して強調しますけれども、
この救いは、この義人というものは、
瞬時的であり、一度きりであり、完全なものです。
最終判決です。決して変更されることはありません。
皆さん、それをですね、ローマ人の世代にはこのように語っていますね。
ローマ書11章29節です。
308ページですね。一緒に読みますね。
神の賜物と証明とは変わることがありません。
アーメン。皆さん、神様賜物、証明は、
寝捨て、救ってくださったことなんですよ。
私の救いは、変わることがありますか、ありませんか。
自信ないですか、皆さん。
もう一度、救いは変わることがありますか、ありませんか。
ありません。
私の感情や体験に基づくわけではありません。
記憶に基づくものではありません。
御言葉が約束しているんです。
それを受け止めて、確信すればいいです。
神の賜物と証明とは変わることがありません。
今ですね、送天機とかにおいて、送席を一つずつ見ていますけれども、
本当に恵まれているんです。
夫婦がおいでになる方々もいらっしゃいますし、
一人なんですけれども、他の教会の鎮人さんもずっと送天に来ていますけれども、
送席を見てみます。送席を見てみますと、
アブラーム、イシャク、ヤコブ、あるいはヤコブの子供たち、息子たちを、
彼らの教会を見てきました。
見てきたら、神様の救いに関して、よくですね、強く教えられることは、
神様の決定と、彼らを選んだことと、神様の救いには、
39:00
変わることがないということなんです。
人間は神様の御前に罪を犯してしまいます。失敗をしてしまいます。
神様を疑います。神様の言葉や約束を疑います。
そして罪を犯してしまって、大変な大失敗が起きてしまいます。
アブラームとかヤコブをご覧ください。
彼らの行為を見たら、彼はですね、偽り者で、不信仰者で、詐欺師なんです。
ところが、神様は、そんな彼らを一度も、捨てたことも、
救いを、もうお前はダメだ、向こうに行ってよ、キャンセルします。
そういう語ったことは、一度もありません。
彼らが神様を疑ったことがあっても、彼らが罪を大失敗したことがあっても、
神様はまた訪ねて、また訪ねて、彼らに、私はあなたの神、私があなたを祝福すると、
その救いの御言葉を何度も確認して、確認して下さいました。
皆さん、ですから、私たちが、もしも神様を全く捨てて、
そう罪を犯したない限り、そんな罪がない限りは、私の救いは、完全なもので、安全なもの。
時にですね、こういう自分の救いを、歌語り、神話の方がおられるようです。
昔の罪は許されたんだけども、これから犯している罪はどうなるんでしょうか。
すごくですね、恐ろしい罪を犯したら、救いを失うことはないでしょうか。
ということです。
皆さん、よく覚えていただいて下さい。
この問題を誤解したら、私たちの信仰が、この根っこから揺れ動かされるんです。
皆さん、私たちが救われた時にも、行いによって救われたわけではないです。
信仰によって救われたわけですから、救われた後、罪を犯したり、過ちをしたり、あるいはペテのようにイエス様をいなんだりすることがあるかもしれません。
そしたら、救われる時と比べてですよ。よく考えて下さい。
救われた時と比べて、今がもしあの時よりものすごく滅茶苦茶な人生を送っていたとしましょう。
そしたらその救いがキャンセルされるんでしょうか。ないものになるんでしょうか。そんなことはありません。
救われる時に、私たちがすごい良いことをたくさんして、素晴らしい人格を持って、罪も一秒も一つも犯したことがなかったから、救われたわけではありません。
42:15
罪人でした。罪人でした。しかし、救われたんですよ。
神様の憐れみのゆえに罪にある罪人でしたけれども、あなたは罪人ではない。義人だと認めてくださったわけなんですね。
ですから、救われた後私たちは、アブナーのように、ヤコブのように、あるいは彼らの息子のように、罪を犯すことがあります。失敗することがあります。
もちろん、ある人はものすごく清く生きられる人もいますし、でも、罪の中で苦しんでいる人もいるんです。しかし、その行いによって救いが取り消されることはありません。
私たちの救いの条件は、イエス・テリトの資料によって救われたものですから、私たちが倒れても失敗をしても、神様を全く否んで神様を信じないことがない限り、私たちの救いは変と変わることがあります。
この救いは、ですから、天国に行くあの日まで決して取り上げられることも奪われることもない。完全な救いなんです。一度きりの救いなんです。これを皆さん、私を思い出してください。
ローマ書8章30節からですけれども、まず30節を一緒に読みますね。
3.神はあらかじめ定めた人々をさらに召した人々をさらに人を認め、人を認めた人々にはさらに栄光を与えになりました。
皆さん、ここをご覧ください。これから与えるであろうじゃないですよ。与えになりました。だから、救いも義人もまた栄光もすでに私たちに与えられている、この神様の決定は変わることはないんです。
それをどういうふうにまた表現しているかと見ますと、3図4節から見ていきますね。一緒に読みましょう。3図4節から。
45:03
3.罪に定めようとするのは誰ですか?死んで下さった方、いや、よみがえられた方であるキリストイエスが、神の御利の者につき、私のために取りなじていて下さるのです。
私たちをキリストの愛から引き離すのは誰ですか?
患難ですか?苦しみですか?迫害ですか?裸ですか?危険ですか?剣ですか?私が最後に読みます。38つから私が読みます。私たちは、私はこう確信しています。
私も命も身遣いも、剣やるものも、今あるものも、持ちに来るものも、力あるものも、高さも深さも、その他にどんな秘蔵物も、私たちのキリストイエスにある神の愛から私たちを引き離すことはできません。
救いが取り消されることはありません。私が完全に神様を否定すること、その罪がない限り、私たちが失敗したこともあるでしょう。言葉通りに、引きしたことがないことがあるかもしれません。
神様の自分から見たら情けないものであるかもしれません。あるいは偉いことをしているかもしれません。しかし、その救いはどんな場合にも取り消される、変わることはあとめましょう。
皆さん、誰でも救いの死にて、自分の罪を食い温めて、イエス様を救いの死として受け入れたならば、その救いは確実なもので、一度きりで、安心で、完全なものです。
聖書を勉強しなければ救われません。そんなことはありません。千年の前に、日本の俗に、この千年の学びをものすごくする風土があるわけですけれども、聖書と学びというものは、救いに対しての確信を持たせる道具にすぎないのです。
聖書を勉強によって救われるわけではありません。イエス様を受け入れて、私たちは救われます。生まれ変わります。生命を受けます。神の子供になります。天国に行けます。
祈祷されました。永遠の命を受けました。この救いは、安心で、完全で、一度きりのものです。その恵みが私たちに与えられているのだから、その恵みに、救いに応答する責任は私たちにありません。
48:07
皆さん、どうとして、どう歩むでしょうか。その応答、救いに、私たちが救われたものとして、さらになおなお、ふさわしく、強く歩み、神と神の義のために生きるものとなります。
48:33

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