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アーメン、お願いします。
皆さん、おはようございます。
聖日は一週間、金曜日から月曜日まで皆さんに祈っていただいて、ソウルの仕事を無事済ませて帰ってきました。
お祈りありがとうございました。
では、今日もメッセージに入る前に隣の方々と、さらかな声で挨拶してきませんか。
はい、おはようございます。よくいらっしゃいました。
よくいらっしゃいました。ありがとうございます。
それでは一言お祈りします。
めぐみ深い天皇神様、今日もこうして新しい月が始まり、また第1週のこの礼拝日、私たち一人一人の名を呼んで、
死の位前に集めて、また愛をもって喜びをもって、新しい世を待って迎えてくれる神様、本当に感謝いたします。
今日もどうぞ、今から神御自身が私たち一人一人の心の中に、あなたがどうぞ愛の言葉を、また御言葉の真理の言葉を語りかけてくださいますように。
悟りが与えられ、そしてその御言葉に従う信号を与え強めてください。
神様の皆によってお祈りいたします。
はい、今日から終報ですね。
終報のお知らせの1番、最後の6番に書いてありますけれども、
今日から数週間にかけて、キリスト教のエッセンスのシリーズ説教をさせていただきたいと思います。
大きな題は1から12番まであります。
1は現在、2は救い、3は信仰、4番は死なる神、5番は御子なる神、6番は御霊なる神、7番は教会、8番は聖書、9番は霊的戦い、10番は終末論、11番は悲鳴、最後は御言葉と精霊の教会。
いわば神学では組織神学というキリスト教の教理なんですけれども、私たちの信仰においてもこの土台、基礎が最も大事なんですね。
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ともに私も含めて皆さんもこのキリスト教の真理を聖書から確実に一つ一つそれを教えていただいて、信仰を確かめて、そして確実にしていきたいと思います。
この土台はとても大事なんですね。
例えば橋とかビルとか高い建物であればあるこそ、基板工事や基礎工事は大事なんですよね。
例えば50階、60階以上の建物、ビルを建てるためには、この基板工事、基礎工事だけでも半年、あるところはもう1年間もするところもあるんですよね。
それほどこの基礎は大事。
我々の信仰の基礎も同じなんです。
そのように信仰の基礎を確実にしておけば、何があっても揺れ動かされることがなくて、そして確実に誘惑されないで信仰を持って歩んでいくことができると思うんですね。
信語というものは皆さん、学びを通して我々の信語は成長していくんです。
知らないことは教えてもらう、あるいは尋ねて教えてもらう、そして聞いて学んで読んで信語は成長していくんですよね。
今日はその中で第一番目、現在ということです。
教会に来ましたらよくよく耳にする言葉の中の一つが、罪とか罪人という言葉です。
教会に初めて来られた方には、罪とかあなたは罪人ですよと言われたらあまり聞きたくないんですね。
違和感を感じる、稽古感を感じるものなんですけれども。
キリスト教では聖書は全ての人間は罪あるものとして生まれると語っています。
聖書には偽人はいない、一人もいないと語っているんです。
私たち人間が罪人であることは、論理的とか科学的に証明しなくてもみんなわかるんですよね。
例えば子どもを育てたことがある親の方はみんなわかると思うんです。
子どもたちに、1歳とか2歳とか3歳の子どもたちに嘘をつくる方法を教えなくてもよく嘘をつくる。
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よく犯行することを親がこうして親に犯行するんだよ、教える親はいないんです。
でもよくよく犯行する。
自分の弟をこうしていじめるんだよ、教える親はいないんです。
しかし、嘘はなくてもいじめる。悪口を言う。するんです。
子どもたちは、ママとかパパとか、最初言うんですよね。
その次によく子どもたちの言葉から出てくる言葉、嫌とかダメとか。
人は生まれつきの罪人なんですね。
それは聖書が語っている真理その通りなんです。
人間の罪を証明できる最も大きな証拠は、
人間の自己中心、自己中心主義と言えると思います。
もともと人間は神様中心として生きるように作られたんですね。
すべては神中心のものとして生きるように素晴らしいものとして、
見て良しとされた、素晴らしい、すごいと神様が思われるほどの価値あるものとして作られたんですね。
しかし、罪が人間の心の中に、人間の間に、社会に、夫婦の中に、家族に、
罪が入り込んでしまった後から、人間はなんと自己中心的に生きるようになっています。
人間は罪のせいのゆえに、何があっても大体ほとんどの人間は自己中心になってしまいます。
それは我々人間なんです。
もちろん、この自己中心の支援をもって、あるいは何かの人間主義をもって乗り越えられる人もあるかもしれません。
しかし根本的に人間は自己中心なんですね。
2週間前でしょうか、韓国の南の海のほうでフェリーが沈没してしまったんですけど、
船員の十何人は乗客を船にほったらかして、自分だけ生きるために逃げてしまったんですね。
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危険の場合に晒されているときに、自分の命を守ろうとするのは、
ある意味で本能的ですし、ある意味で当たり前のように思えるかもしれません。
しかしその根本的に、その底には自己中心という罪から生じた性質が、私たち人間の中にはあるわけなんですね。
では、その罪には大きく二つを分けて言えます。
一つは、最も根本的な罪として、今日の説教の題である原罪という罪です。
それから、そこから生じてしまったあらゆる犯罪、大きく二つ当てて思ってきると思う。
この根本的な原罪からお話をしていきたいと思います。
今日の第一の原罪は、罪に対しては今日で十分お話できないと思いますので、
また二回、三回に分けてお話したいと思いますが、
私たち人間は、神様を主として誓えようとしない。
自分が主人になって、自分の人生の死は自分であるかのように考えたり、行ったり、振る舞ったり、ことを進めたりするんです。
神様の御言葉通りに生きることが、従うことが、そもそも最初の創造の私たちの形でした。私たちの人生でした。
しかし、罪の上に、神を神として認めない、主を主として信じようとしない、御言葉を御言葉として、絶対的な神の御言葉として従おうとしないという聖種、それは罪から来たものなんです。
この根本的な罪は、現在というものです。
その始めは、今日の聖書課長、漱石三長に明らかにそれが記されています。
全ての罪の問題の根本は、このエデンの園でアダムとエバが犯した罪から、全ての悪は、罪は始まりました。
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皆さんがよく、御存じのように、神様はアダムとエバに、最初の人間に、このエデンの園の全ての生物、生き物を治める、支配する、育てる、また、管理をする権利を、力を神様が与えてくださりました。
これは、神様の神聖でもありますから、素晴らしい良いことでした。最高のことでした。
それは、神は創造主で、人間は死生物である、この二つの関係を明白にしたものが、神のいません。
しかし、人間はむしろ、自分が治める、管理すべきものに騙されて、罪を犯してしまって、滅びの罠に溺れてしまったんですね。
人間が治めるべきものから、むしろ、ほほのかされた。
神様は、私たちを自由を持って生きるような存在だ。
自由を持って、神様と人格を持って交わる、喜んで、自ら自発的にできるような存在として作ったんですね。
神の子供として、等々に価値あるものとして作ってくださった。
しかし、罪というものが、人間をサタンの奴隷に転落させてしまったんですね。
この現在の原因とプロセス、そしてその結果を、もう少し詳しく見ていきたいと思います。
まずは、誘惑者が登場します。サタンです。
サタンは代理者として蛇を操りまして、サタンは霊的な存在ですから、自ら形をもって現れることはできない。
何かの代理者を操るんですね。その操られたものが蛇ですから。
皆さん、この関係をよく覚えておいていただきたい。
創造以来、今日に至るまで、悪の勢力の背後には、代理者を前に立てて、裏で操る、操縦するものがある。
それがサタンなんですね。悪魔ってことです。
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まるで、いい例えか知りませんけれども、サタンは日本全国の役者の親分のようなもので、
蛇は、例えば神戸の古文のようなものです。操られるんですね。
そのサタンに操られた蛇は、まず女性のエヴァに使ってきました。
そして最初の欠けた言葉は、今日の一節です。一節をもう一度見てみたいと思いますが、一緒に読みましょうかね。
一節を3回。
さて、神である種が作られたあらゆるもの、獣のうちで、蛇が一番豪華すであった。
蛇は女に言った。あなた方はそのものならないと、神は本当に言われたのですか。
皆さん、このアダムとエヴァが生きていた時代は、神様の御言葉は、黒と白のように明らかに明確な時代でした。
紛らわしいものはなかったんです。明確にアダムもエヴァも、いや、サタンも知っていたんですね。
ところが、蛇はサタンに操られて、その明らかな神様の命令に対して、あなた方はそのものをどんな力も食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。
と、その価値が言われました。神様、本当にそう言ったの。本当に。蛇が関西のものだったら、本当にと言ったかもしれない。
皆さん、蛇が知らないから、こう言ったわけではないんですよ。また、答えるエヴァとかアダムも、答えを知らないから、こういう話が今、なっているわけではない。
みんな知っています。サタンもエヴァも知っているんです。しかし、みんな知っているんですけれど、本当にそうなんだろうかと、突っ込んでいるような。
サタンはこのようにそそのかして、誘惑しているんです。神様の御言葉を、命令を、明確なんですけれども、それを疑わせる。少しずつ徐々に徐々に疑わせる。
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百の中で一を疑わせて、その次は二を疑わせて、その次は三を疑わせて、本当にそうなんだろうか。これは神様に対する反抗霊。
神様の真実で素晴らしくて、よき神様の御品性を疑わせる、サタンの緻密な作戦でした。
この一節の蛇の言葉には、こういう意味がこもっていると思うんですね。
おい、エヴォン。本当に神様が、このすごいエレンの園にたくさんあるこの木の実の中で、もしこの善悪を知るこの木の実を食べるなと言ったならば、
神様はあまりにも意地悪で無情な方じゃないかと、神様の聖なる品性、清い真実な神様の品性にですね、決勝膜をつけさせるんですね。
本当なんだろうか。神様を疑わせる。皆さん、私たちの神様はいつも最も良きものを与えてくださるお方なんです。知りますか皆さん、アメンですか。本当にその通りです。しかしサタンはいつもそれを疑わせるんですね。
もう一度申しますと、もうすでに神様からいただいているこの素晴らしい祝福、恵みがある、数え切れないほどの素晴らしいことをもういただいて持っている。
その中でたった一つ二つ持っていないものに目を向けさせてですね、つぶやかせる、そそまかせる。それがサタンの、皆さん、神様はいつも良きお方で、素晴らしくて真実なお方です。
行けば行くほど最も良きものを与えてくださるお方であることを信じなければならないんですね。しかしエヴァはサタンのその一言でそそのかされて、神様のその誠実さを疑うようになって乗っかってしまいました。
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そして二節を見ましょう。三、女は蛇に言った。私たちはそのにある木の実を食べてよいのです。
しかしそのの中央にある木の実については、神はあなた方はそれを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなた方が死ぬといけないからだと仰せになりました。
皆さんよく見ますと、エヴァは神様のかばったない言葉を拡大して作って話をしています。二章の七節を見てみましょう。二章の十六節、十七節です。十六と十七節を一緒に読みましょう。
神である日は人に命じて仰せられた。あなたはそののどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるときあなたは必ず死ぬ。
神様はこのように仰せました。あなたはそののどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるときあなたは必ず死ぬ。
神様はこのように明確に語られた。しかし今エヴァがヘビに何度答えているんですか。あなた方はそれを食べてはならない。ここまではいいんですね。しかしそれに触れてもいけない。神様は語ったことがないんですよ。
そして必ず死ぬと神様がおっしゃったのに、死ぬといけないからだと、自分勝手に神様の言葉を消えてしまいます。神様が語ってくださった祝福を清索してしまった。他のものは全部食べてもいいんですよ。
しかしサタンはたったこの一つの木の実だけ、それに目を向けさせて注目させて、神様がなんでこれを食べてはならないとパパパンだろう、疑わせているんですね。
まるで皆さん、こういう例えはどうでしょうか。企画の問題に行きました。まずはものすごいあるんですよね。かけると何万の食べ物があるかもしれません。
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食べ物からお菓子から飲み物からたくさんあります。ここにある全てはあなたのものです。何でも食べてもいいんです。しかしこのお菓子だけは食べてはいけませんよ。一つだけ選んでと決めておきましょう。
そんなときに他の十万個あるとしましょう。そしたら九万九千九百九十九個は食べる自分のものです。しかし人間はなんでこれを食べてはいけないんだよ。
そしてそこにサタンはそそのかして、これは神様が食べてはならない理由があるんだよ。あなたが神のようになってはいけないから、神様が恐れているから、そういうね、言っておいたんだよ。
そういうふうにそそのかして。そして人間が九万九千九百九十個があるのにもかかわらず、たった一個のためにつぶやいているなら、なんと愚かなものなんでしょうか。でも今エヴァがそのように振る舞って語っているんですね。
サタンは巧みに神様の御言葉を歪ませた。変えた。曲げてしまった。そしてエヴァの心を揺さぶったんですね。でエヴァは徐々に徐々にサタンのトラップになってしまいました。
ところが皆さん、悪罪というものはサタンから始まりましたが、しかし人間側にもそのサタンの誘惑に反応した責任が人間側にあるものなんです。
サタンがたった一言葉、その甘くて狡猾な言葉にそれをもって人間を罪を犯させたとしますね。それに乗っかってしまった。それは人間の心の中に貪欲がある。それを私たちにこの最強が教えているんですね。
このようにしてエヴァはサタンに細かされて、そして罪悪の知識を知る血を食べてしまいました。しかし罪というものはそのエヴァ一人で、そこで終わったわけではないんです。
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罪というものは伝染病のように、山火事のように、インプレーザのウイルスのように広がってしまうんですね。一途に広がってしまうんです。
この前、静野新学校の卒業式のときに、私は中2回しか行っていないのでかかってなかったんですけど、一人の新学生がインプレーザにかかって、
みんなに広がって、半分の人は待つだけで、もうかろうじて卒業式に出た新学生もいました。
罪というものはそんなものです。山火事のようにウイルスのように伝染病のように広がってしまうんですね。
エヴァに罪を犯された方の策略は、エヴァだけではなく、その家族の夫であるアダムにも一致しました。
夫のアダムを、実はエヴァが罪の罠に入り込ませてしまったんですね。
このように、罪というものは近くすればするほど、私たちは薄ってしまう、染まってしまう、そういう罪の性癖があるんです。
ところが、残念ながらも興味深いことは、エヴァが夫にそれを渡して食べてほしいと。
食べてほしいと掘ったときに、なんと旦那さんのアダムは従順で、奥さんの言うとおりに食べてしまう。
このときから旦那さんたちはみんな奥さんに従順にあるかもしれませんね。
そういう話がよく出てくるんですよ。
早期にアブラムのところを学んでおりましたけれども、アブラムに子供がいなかったんですね。
そしたら奥さんの侍が女奴隷にハザルを、このハザルとして子供をもらいましょ。
そしたらアブラムはなんと断ることもなく、はいって子供が生まれてしまった。
いじにしても、罪というものはエヴァから始まって、夫の、つまり母国全てを罪の虜にさせてしまった。
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皆さん、夫婦は神様が人類最初の共護祭と言いましょうか、カップルとして神様が救ってくれた。
自分と共にいるものが夫であり妻なんですね。
ですからお互いに、お互いの霊性を、お互いの信仰、お互い神様を信じる心を、お互いに守り合う責任があるんです。
夫は妻の信仰を守ってあげる責任がある。
妻は夫の信仰を守ってあげる。
お互いに囲いを囲んで、信仰を守り合う責任がお互いにあったんです。
しかしエヴァは、まず自分でその身を食べてしまったですね。
さあ、よく見てみますと、エヴァが食べた時は、身が明るくなって自分が裸になっていることを気づいていないんですよ。
アダムが食べてしまった後、やっと二人は自分たちが裸になっていることを気づいてしまう。
このようにして、夫婦という最初、神様が予知とされた人類の最初の凶暴体が、罪に染まって堕落してしまう。
お互いに守り合うべき関係が、お互いに罪を犯させる関係になってしまった。
その原因は何ですか? 罪であり、悪なんです。
今の時代も同じでしょう、皆さん。
夫婦の間、親子の間、家族の間、いや、教会の凶暴体の兄弟姉妹たちの間で、私たちがいつも心を支えて、覚えていかなければならないことは、
お互いの信仰を守り合うことです。
兄弟が、姉妹が、親子をよく守ることができるように、祈りを持って支える。
そして時には導く。時には励んで。一緒に祈りましょう。一緒に礼拝しましょう。
というように、親子をお互いに支え合うことが、神様が罪と予知とされた我々人間の最初のイメージなんですね。
さあ、続いて3章の5節をご覧ください。
5節を一緒に読みたいと思います。
3回、あなた方がそれを食べるその時、あなた方の目が開け、あなた方が神のようになり、善悪を知るようになることを神は知っているのです。
33:09
そこで女は見ると、その木は誠に食べるのによく、目にしたわしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。
それで女はその実を取って食べ、一緒にいた夫にも与えので、夫も得る。
妻の罪が夫の罪になってしまいました。
一人の罪が、この夫婦、家庭、家族の関係を痛ませてしまいました。
これが罪の破壊力と言えるでしょう。
このように罪というものが、一人から始まって二人に、家族へ、共同体へ、国へ、世界へ広まっていく。
そして破壊してしまう、滅ぼしてしまう、痛ませてしまうのが罪の性質なんですね。
その罪のせいによって、アダムとエヴァの関係には日々が入ってしまいました。
二人の間にお互いも手に入ってしまいました。
込みのいない関係になってしまったんですね。
人間の、この邪悪な人間の罪の性質が、この三章にですね、もう赤七に記されている。
このアダムとエヴァが、邪悪な人間の身を食べた後、夫婦の間でも、またその次に生まれてきたカインとアベルの関係からもわかるように、
敵のような関係、対立の関係、憎しむ関係、恨む関係が生じてしまった。
民族と民族が、人種と人種が戦って対立する魂、人間、力士が、ここから始まったわけなんですね。
アダムとエヴァは、神様のようになりたかったんです。賢くなりたかったんです。
しかし、その身を食べた結果は、全く違う結果になってしまいました。
自由を得ようとして、知恵を、知識を得ようとして、食べてしまったんですけれども、むしろ自由じゃなく、鎖に縛られてしまった。
36:04
恨みに、憎しみに、縛られてしまったんですね。
神様から離れようとする時、その先に待ち構えているのは、鎖である、束縛である、不安であることを、私たちは忘れてはいけません。
この身を食べたら、もう賢くなって、知識がいっぱいあって、目が開かれるようになると思って食べたんですね。
その先にパラダイスがあるんだろうと思って、幻想を見ていた。しかし、それは幻想で、待ち構えていたのは、鎖であった。
七節を見てみましょう。一緒に読めますね、七節三回。
このようにして、二人の目は開かれ、それで彼らは、自分たちが裸であることを知った。
そこで彼らは、一軸の歯を綴り合わせて、自分たちの腰の覆いを作った。
人間が身を食べた後、善悪を知る知識が増えて素晴らしくなるんだと、神のようになるんだと錯覚していました。それは錯覚でした。
皆さん、神様がとても意地悪な方だから、その身を食べてはいけないと語ったわけではありません。
それは、それを食べてしまったら、人間は到底それを担うことができない。
だから、人間としてそれを担うことができないから、食べてはいけないと、神様がそのように承知をしておいたわけです。
善能でない存在が、善能の方のようになろうとした時には、死ぬしかないわけです。
神様は、アダムとエバを守るためでした。
人間はそれを担う能力がないから、食べてはいけないと。
そして、その身たった一つだけを持って、私は神である、あなたは非生物の人間である、その関係を忘れないようにしておかれた神様の装置でした。
しかし、人間は、人間の領域から神の領域にそれを侵害しようとしました。
39:00
そしてその結果はどうなったのでしょうか。
ただにですね、誘惑されて目が開かれたんですけどね。
神様のようになったんでしょうか。死がものすごく素晴らしくなったんでしょうか。
いいえ、神様のようになったのではなく、自分たちが裸であることを知りました。
気づきました。恥を感じました。
それは単なるですね、裸だから、この肉体的な裸のゆえに恥ずかしさを感じたわけではなく、
罪というものが人間の心の中に恥ということを押し込めたわけなんです。
神様から離れた人間の心の中の結果は恥、そして恐怖、それから恐れということです。
最初ですね、アダムとエヴァは作られた時に強い存在として、
神様はですね、何の邪魔者もなく、壁もなく、本当にですね、ある人間として、動物として、
潔く神様と交わっていたんですね。振る舞っていました。生きていました。
神様から得られた権威をもって、この生き物を支配して、潔く生きていました。
しかし罪が入ってしまった瞬間から、もう近づけてしまいました。
神を見ることができなくなってしまった。
礼的な権威もどうもたらう、あの遺産予算もなくなってしまった。
そして本当に惨めなものになってしまったんですね。これが罪の破壊力というものです。
罪というものは、神様から、神様と私たちの間から、この清さを奪ってしまう。
人間に最初、最初からこの神様の生まれ、動物と遺産よく交わった、その素晴らしさも奪ってしまう。
そして、惨めな存在に恥を感じる存在に、恐れる存在として転落させてしまった。それが罪の結果です。
神様はそこで何もいなくて終わってはいない。
8節から神様も働きがけがある。神様が語りがけとしてくださる恵みが8節から始まる。
今日は7節までしたいと思いますが、今日のメッセージをまとめましょう。
42:02
私たち人間は、最初の神の愛を受ける存在として、価値ある存在として作られたことを思いましょう。
そして、罪というものはどれほど恐ろしいものであって、さまざまな関係を破壊してしまうのか。
しかし神様は、そんなたたきをほったらかく語りはなく、
拘ってくださる、立ち直ってくださる、ゆるってくださる、もとに戻してくださる神様。
アダムよ、あなたは今どこにいるのかと語りがけとされる神の声に応答しようでありませんか。
お祈りします。