00:00
それでは、メッセージに入る前に、いつものように周りの方と、挨拶をしませんか。よく来てくださいました。
おはようございます。
それでは一言お祈りいたします。
愛する月の神様、今日もこうして、喜びの洗礼式が盛り行われようと、本当に感謝いたします。
全ては、あなたの恵みです。
祈りの魂が救われ、神の子になる、天霊、本当に喜びの賛美が歌われていることです。
本当に心から感謝いたします。
今から御言葉に学びます。
どうぞ、主よ、私たちに、今日でなければ聞くことができない、神の御言葉を教えて、語らせて、そして、さが言はできる信号へまで、主をどうぞ引き当てて下さい。
感謝して、イエス様の御祈りによってお祈りいたします。
アーメン。
皆さんのお祈りを感謝いたします。
僕自身として、また主として、神様に感謝、皆さんにも感謝いたします。
向こうではですね、私が信仰生活していた教会は、小老派の教会でしたから、1歳、2歳の子供を親の信仰のもとで幼児宣明を受けるわけなんですね。
ですから、うちの子供3人は、もうみんな幼児宣明を受けましたけれども、大きくなって、自分の意志で、また自分の心と口でですね、深呼吸して、宣明を受けるのが、その方が良かろうと判断をして、
こうして、皆様にまた祈っていただいて、今日、宣明式が行われたと、本当に感謝いたします。
また、宮谷教会においても、僕の娘でもありますけれども、これをきっかけとしてですね、次から次へ新しい探しが生まれ変わって、宣明を受けるその恵みが起きますように、祈って参りました。
はい、では見言葉に寄せたいと思いますが、今日は、キリスト教のエッセンス、現在、その2です。
今日の見言葉をまた共に学んでいきたいと思いますけれども、荘石を今見ています。
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まず、アダムから始まったスニ、それが人間に入ってしまいました。
それを最初から最後まで、御存じである神様、その神様の御本位と言いましょうか、裁きと言いましょうか、神様が働きかけてくださる、その神様の働きが始まるわけです。
まず、今日の見言葉を見ますと、3書、11節をご覧ください。一緒に読みましょうか、11節です。
神様がまず、先に誰に問われているでしょうか。エヴァではなく、アダムの方なんですね。
神様はまず、先に、この善悪の知識の木の実を食べた、その罪を、その責任を、女の人、エヴァではなく、男の人、アダムに問うておられるわけなんですね。
確かに、先に食べたのは男の人ではない。エヴァ、女の人が先に食べされました。そして、その女の人が自分の夫に罪を犯させたようなことが起きました。
ところが、神様はですね、その罪の責任を、エヴァではなく、アダムに問うておられるんですね。
一見見たらですね、アダムの立場から、男の人の立場から見たら、これはペアじゃない。同じ、女の人が先に食べて、奥さんの話しか聞いただけなのに、なぜ神様は私に、俺に問うておられるんだろうか、と思えるかもしれません。
精査に行きたいところを見てみましょうか。ローマ人への手紙は、このように語っています。ローマ人への手紙、第5章、12節。
06:02
契約聖書ですね、296ページです。一緒に読みましょうか。3、そういうわけで、ちょうど一人の人によって、罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。
ここにですね、ちょうど一人の人とあります。この人はエヴァを指すのではなく、アダムを指します。アダムという名前の意味がですね、人、人間という意味なんですね。
一人の人ではないんですね。一人の人です。アダムの立場から見たら、悔しいかもしれません。しかし、神様はエヴァではなくて、アダムにその身を食べた罪の責任を問うておられます。その理由は何でしょうか、皆さん。
たぶんですね、スモーグ部の政府の学びで学んだかもしれませんけれども、その理由は、原因は簡単です。神様が一番先に、この善悪の知識の身を食べてはならないと、神様が言われた相手はアダムなんです。
その時には、エヴァはまだ作られていませんでした。アダムは神様の言葉を先に語られた最初の人間でした。これが重要な事実なんですね。また、同時にこれはすごい特権であり責任でもあります。
ところが、彼は神様の御言葉をいただいた者にふさわしく振る舞って、そして神様から預かったその御言葉をエヴァによくちゃんと教えて守ることができるようにしなければならなかったんです。その責任がアダムにあったわけです。
ところが、アダムは結果が語っているように、その責任を果たしていなかった。あるいは、それをおろそかにしていなかった。おろそかにしていた。
ですから、最初の責任がアダムに与えられたわけですから、神様はエヴァではなく、アダムにこの実を食べた責任、罪の責任を問うておられるわけです。
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ところが、このような罪の背後には、神様の御言葉を逆らったその罪の背後には、もちろん人間の弱さもあるわけですけれども、そこにはサタンの誘惑があったわけです。
サタンはこのアダムの時代も今の時代も、常に私たちの隙を狙っている。母のその隙を、隙間をサタンは狙いました。アダムの油断を、隙を狙ったわけです。
その結果ですね、アダムは妻姉に神様から預かった御言葉をちゃんと教えていなかった過ち、またエヴァの油断と自分の夫を共犯者にした妻の罪、アダムの油断、隙、そのゆえに罪が入ってきたわけなんですね。
その隙間をサタンは狙っていて、そして攻撃してやってきたわけなんですね。聖書はそのことについて、私はこのように教えています。
聖書を一箇所開いてみましょう。第1ペテロ5の8節です。新約聖書458ページです。第1ペテロ5の8節を一緒に読みましょうか。
第1ペテロ5の8節を一緒に読みましょうか。
皆さん、敵である悪魔サタンが、アダムのあの時代も今の時代も、世の終わりまで吠えかける獅子のように、食いつくすべきものを探し求めるんです。
狙っている。歩き回っているんです。私の周りを歩き回って、この葬石はエヴァの周りを歩き回っていたわけなんですね。
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ですから皆さん、御言葉に語っているように、私たちは目を覚まして慎んでいなければならないんですよね。
御言葉と祈り、祈りと御言葉、礼拝に私たちがもっぱら専念しなければならない理由は、まずは神様と深い交わりを持っていくため、恵まれるためでもあります。
同時に、このような吠えかけるサタンの誘惑、攻撃と対抗をして、そしてを勝利できるためなんです。
皆さん、エヴァとアダムが誘惑に負けてしまったのは一瞬でした。一瞬なんです。
信仰を守るのは確かに本当にですね、祈りと御言葉と一生懸命自分との獲得があるわけですけれども、でも誘惑に負けてしまうのは一瞬なんです。
その隙をサタンは狙って、一瞬で倒してしまうわけなんです。
ですから私たちは目を覚まして、居続けていなければなりません。
神父にはですね、多くの箇所において、私たちに目を覚ましていなさいと語っています。
その御言葉を開いてみましょう。
マサイの福音書26章41節です。
3つの箇所をまた見ていきたいと思いますが、イエス様はこのように語られました。
マサイの福音書26章41節です。
新約聖書57ページです。
では一緒に読みましょうか。
誘惑に落ちらないように目を覚まして祈っていなさい。心は燃えていても肉体は弱いのです。
皆さん、このお言葉通りじゃないですか。
誘惑に落ちらないように。
皆さんイエス様はこのように語っておられません。
あなたイエス様を信じてこれからしたら、絶対に誘惑はありませんよ。
心を見ぬものはありませんし、誘惑もありませんし、そう語っておられないんですよ。
誘惑があります。
子供にも大人にも。
もう死の直前まで人間には誘惑があるんです。
イエス様は確かにあなたの人生にこれから誘惑があるよと。
しかし、誘惑に負けない道がある。
勝利できるうちに勝てる道があると語ってくださるんですね。
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それは何でしょうか。
目を覚まして祈っていなさい。
心は燃えていても肉体は弱いのです。
この肉体に罪の性質を持っているわけですから、
この罪の性質のある肉体が裂けばしてしまって、
心は磨いていないんだけれども、すぐに犯してしまう。
それが誘惑だったんです。
だから目を覚まして祈っていることが勝利の指決なんですね。
もう一箇所見てみましょう。
第一コリント16章13節です。
第一コリント16章13節。
新約聖書344ページです。
13節お一緒に3杯。
目を覚ましていなさい。
叩く鎮魂に達しなさい。
男らしく強くありなさい。
アメン。
まるでこの御言葉をアダムに語っているようなんですね。
男らしく強くありなさい。
奥さんからどんな誘惑の声がかけられても、
惑わされてはいけないと語っているようですけれども、
目を覚ましていなさい。
イエス様もスト・パウルも私たちにですね、
目を覚ましてい続けていなさい。
叩く鎮魂に達しなさいと語っているんですね。
聖石に戻りましょう。
皆さん、誘惑は一瞬にあってきたんです。
だから目を覚ましていましょう。
そして御言葉と祈りにもっぱら専念しようではありませんか。
それが私たちの貧困が礼な人生が支えられる、
生かされる唯一な道なんですね。
ところが皆さん、聖石に戻りますと、
罪というものは何なのか。
それは神様の御心を逆らう、
全ての思い、決定、価値観、行為であります。
神様の御言葉に反することが罪です。
ここで基準は世の人々の価値観、あるいは憲法や、
あるいは風習が基準ではありません。
これが罪なのか罪じゃないか、
この物差しの標準は神様の御言葉なんです。
ところが皆さん、よく考えてみますと、
私たちは大体絶対的な価値観を持っているよりは、
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相対的な基準を持っています。
誰かと比べて自分はましなほうだ、と思いがち。
私たちはこうなんですね。
誰かと比べたら自分はいい子だ、悪事をしていない、と思います。
ところがそれはある意味で勘違いです。
なぜなら皆さん、人間が作った法律とか価値観というものは、
相対的なものなんです。
例えばアメリカと日本では、私は調べてみました。
結婚した男とか女の人が、自分の夫や妻でない他の人と不倫をすることは、
日本とアメリカでは貫通法というものは今はありません。
ですから法的には、そういった行いをしても不法ではありません、日本では。
貫通法というものは日本にはありません。アメリカにもありません。
平視されました。私は調べてみました。
ところが韓国には貫通法というものがあります。
そしたらこの人はいないと思うんですけれども、
もう法律にそれはそういうことはないと書いてあるから、もう犯してきてもいいんですか。
そうではないです。神の御言葉はそれを罪と定めているわけなんです。
このように法律というものも価値観というものも相対的なものです。
人と比べて良いあるいは悪いと思うのであります。
しかし神様の御言葉が唯一のものさしの基準なんです。標準なんです。
ですから御言葉に照らしていただいて、これが罪なのか罪でないのか。
これが神様に喜ばれることなのか、そうでないのかを、
私たちはいつも御言葉を持って判断して照らしてみなければならないのです。
そしてその御言葉に従っていくこと、これが信仰なんです。
皆さん、信仰というものは従うことです。
わかりますか、皆さん。信仰イコル従順なんです。
信仰と従順はいつも罪になります。
神様を信頼する、そしたら従っていきます。
神様を信頼するならば、神様から言われる御言葉を疑わないで御言葉についていくんです。
例えば、こういう例えはどうでしょうか。
私は妻ハンナを信頼するから、ハンナが作ってくれる食べ物を疑わないで食べます。
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この食べ物に毒が入っているのではないか。
そういう疑い一度もしたことはありません。
信頼するからです。
あるいは寝ているうちに何か恐ろしいことが起こるのではないかと一緒に言っているのは怖いからと思ったことがあります。
信頼する。
信頼する。
そしたらその信頼する相手についていきます。
これが信仰と従順というものです。
神様を信頼しますか、皆さん。
神様を信頼しますか。
そうするのであれば、その御言葉に全ての御言葉が真実である、真理であると信じて疑わないで
まったく従順を持っていくことが実は信仰なんです。
ですから皆さん、従順の問題は実はその根っこに信仰の問題があるわけなんです。
信じ切っているのか、急と半端なのか。
ですから私たちは神の御言葉に従うようにアダムとエバは最初からそう作られたんですね。
神の御言葉に従う存在として、彼らに必要なものは神の御言葉である。
彼に与えられるべきものは御言葉。御言葉に従っていくものとして作られたんですね。
例えば皆さん、ガソリンスタンドにたまに行ってみたら、こういう文章が書いてあるのを見たことがあります。
軽油は軽自動車の燃料ではありません。皆さん、見たことありますか。
福岡ではちょっと書いてあって、神戸に行ったら神戸はあんまり書いてないんですけど、
福岡から見たらちょっと間違って言えたかなと思うんですけれども、軽油は軽自動車の燃料ではないんですね。
軽油、軽車。今わかりますか、皆さん。検索してみたら、ちょっと入れる人があるらしいですよ。
皆さんこんなことないと思うんですけれども、軽車、軽油。
自動車はガソリン。車はガソリンを入れて動くように最初から作られたんです。
ガソリンの色と液体に似てるから、そこに日夜サイダーを入れて、それは動かされるわけではないんです。
自動車にはガソリンを入れて、それが動くように最初から作られました。
私たち人間も神様の御言葉によって生きるように、そもそも最初から作られたんです。
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ですから御言葉を食べて、御言葉によって生きるものなんです。
だから御言葉を離れては、神様を離れては生きられない。
まるで日夜サイダーを入れて、エンジンが壊して廃車してしまう車と同じなんです。
神様の御言葉を離れますと、私の人生はエンジン故障を起こしてしまって、もう廃車になるかもしれません。
そのように御言葉から離れて、御言葉を逆らう時から、人間は最初の創造の目的から離れてしまいます。
これが罪ということなんです。
罪が入ってきたわけですから、一人一人の人生においても、人類の世界においても、故障が、トラブルが起きたわけなんですね。
皆さん、人間の死亡、戦争、苦しみ、妬み、葛藤、あるいは環境の破壊、さまざまな問題がですね、原発やさまざまな問題が起きているわけですが、
その根本的な問題はどこにあるんでしょうか。原因はどこにあるんでしょうか。
それは、罪にある神様の御言葉に逆らった、それらの原因なんです。
御言葉をいただくはずなのに、そうでなかった。
そういった罪を、今日の3章6節を、もうちょっと詳しくですね、見ていきたいと思います。
3章6節と、さっき読んでいただきました、第1行はね、2章16節をですね、ちょっと比較しながら見ていきたいと思いますが、
まず6節をもう一度ですね、一緒に読みたいと思います。
6節、聖石3の6節を一緒に読みましょう。
3、そこで女が見ると、その木はまことに食べるのによく、目にふたわしく、賢くするというその木はいかにも好ましかった。
それで女はその実をとって食べ、一緒にいた夫にも与えたので、夫も食べた。
第1行はね、もう見てみましょう。第1行はね、2の16節です。466ページです。いいですか。では16節一緒に見ますね。
3、すべての世にあるもの、すなわち肉の欲、目の、自慢などは、道地から出たものではなく、子の欲から出たものだからです。アーメン。
27:13
さあ、まず聖石6節を読みましょう。ここにですね、大体というか、もう人間の罪はおおよそですね、その有様は三つなんです。
つまり有様は三つなんですけど、まずは食べるのに欲と書いてあります。食べるのに欲、これを第1行はねは、肉の欲と書いてあります。
皆さん、人間はですね、この制度的なニーズを持っています。食欲とか、あるいは性欲とか、あるいは様々な欲を持っています。
それが制度的に動いていれば、それは良いことであり、健康であり、健全なものです。
しかし、やりすぎた欲は、体にも害をしますし、また自分の将来にも、神様との関係においても、害をもたらすわけです。
例えば、夫婦の間での性的ニーズは、神様は食欲なんですけれども、夫婦というバウンダリを超えてしまうと、それは罪になるわけなんです。
皆さん、悪魔が狙っている隙は、私たちのこのニーズを怪我して、そして、それをそのバウンダリ、境界線を超えさせて、置かせようとする。
食べるのに欲。目の欲なんです。
二つ目。目に相応しくなりますね。六節なんです。目に相応しくなります。
これを第一四羽目は、目の欲と言います。目の欲。これが実は、罪の実態なんですね。
この目の欲というものを、目に相応しくというものは、見て非常に魅力的なんです。
そして、似たものを欲しがる、持ちたい、思える欲望があるんですね。
このように、欲望というものは、実は全てのあらゆる罪の原因なんです。
聖書は、このように語っています。
ヤコブの手紙、1章15節を見てみましょう。
新約聖書、ヤコブの手紙、1章15節。
30:08
445ページです。
よろしいですか。ご一緒に読みましょう。
ヤコブ、1章15節、3回。
欲がはらむと罪を生み、罪が熟すると死を生みます。
最初は何から始まりますか。
欲から始まります。
欲は不思議にも、はらんでいきます。
そして、罪を生み出すわけなんですね。
ですから皆さん、肉の欲、目の欲に注意しなければならない。
私たちが、皆さんが、日ごろ何を見て、何を聞いて、どんなものに触れて、接しているのかは、
私たちが清く生きられるのか、あるいは罪を犯しがちなのか、
実はその出発は、スタートは、何を見て、何を聞いて、どんなものに、どんな人に触れて、接しているのかによって、
その結果が異なっていくわけです。
ですから皆さん、私たちクリーチャーは、見ること、聞くこと、触れることに、よく注意しなければなりません。
他の誘惑は甘いです。
徐々に徐々に、罪という沼に溺れさせて、後々は、そこから抜け出すことができなくなってしまうわけなんですね。
ですから皆さん、私たちは清く生きるためには、神様が忌み嫌われるものを遠ざけていかなければならないんです。
ある日前の私です。
昔はですね、テレビを見るのがとても楽しみでした。
しかし、神様をもっと深く、浅く、愛するようになってからは、もうテレビの番組とか、それを見てですね、
ああ、笑っている、そういったものが無くなってですね、今はほとんどテレビを見なくなった。
また、ある日前の私です。
イエス様が落ちる前には、子供たちの岡田松と会ってですね、世間話になってですね、笑ったりしてですね、悪口をつけてですね、それがとても楽しみでした。
しかし、今はそれがもう嫌になって、そのままどころにはいかない。
むしろ、神様を愛することをもっと求めるようになった。
神様に親しむものに変えられたと、私たちは言いました。
皆さん、神様が忌み嫌われるものを遠ざけて離れること、そして神様に喜ばれることにもっともっと親しむこと、
33:02
これが信仰と従順の道なのです。
ですから、御言葉と祈りと礼拝に、私たちはもっぱら鮮明していかなければなりません。
3月6日に戻りますと、三つ目は何でしょうか。
その三つ目の誘惑は、加速するというその気は、いかにも好ましかったされます。
これを新京都役政治はこのように訳しているのです。
加速するという言葉を、賢くなるようにそそもかしていた。
賢くなるようにそそもかしていた。
これを第一弱音は何と話していますか、皆さん。
暮らし向きの自慢と話しています。
自慢なんです。
見せつけたいです。見せつけたい欲があるのです。
財産や学歴や職業や自分の業績とか権力とか自分の何かの実力を見せつけたい。
そういう欲がある。
それが、その自慢が見せつけたい欲がバウンダリーを超えますと、罪を生み出してしまうことであります。
こうして、財産はエヴァとアダムを罪の虜にしてしまいました。
今も同じパターンなんですね。
もちろん、時代が変わって文化、文明が発達しているから、悪魔の誘惑のやり方ももっと巧妙に、狡猾に発達していると思うんですね。
皆さん、私の筋が見逃してはいけないことが一つあります。
3章1節をちょっと見てみましょうか。
1節に、さて、神である主が作られたあらゆるもの、獣のうちで、蛇が一番狡猾であったとあります。
この狡猾であったというものは、実は、サタンが、悪魔が一番狡猾でした。
日本語で狡猾という言葉の意味は、そもそも最高の知恵を意味します。
とても素晴らしい知恵を、早速記憶した言葉が、この狡猾という言語の言葉です。
皆さん、ですから、悪魔のサタンの知恵は、いくら私たちが賢くても、知恵と知恵と戦って勝つことはできません。
悪魔の知恵は、ものすごく巧妙で、悪賢くて、人間がいくら賢くても、サタンの知恵と人間の知恵だけが立ち向かったら負けます。
36:14
ですから、神の知恵が必要であり、神の御言葉が必要であり、また神の霊と思って武装していなければなりません。
皆さんいかがでしょうか。日頃、御言葉と祈り、祈りと御言葉を持って武装していらっしゃるでしょうか。
毎日朝昼晩、祈りと共に過ごしていらっしゃるでしょうか。御言葉を共に暮らしていらっしゃるでしょうか。武装していらっしゃるでしょうか。
そうしますと、勝利するクリスタルになることができるんです。
今日はここまでしたいと思います。皆さん、悪魔の誘惑はいつも私たちの周りに歩き回っています。
ですから、私たちは目を覚ましていて、御言葉と祈り、礼拝と専念する、神様が意味嫌われることは離れて、神様にもっと近くの歩みをしようでありませんか。
お願いいたします。