今日は、私たちの信仰の基本の基本、神様との親しみ、神を愛すること、それについて一緒に考えていきたいと思います。
神様は人格体と言います。 神様は人格体だということは、どんな意味ですか?
その話は、人間と全く同じだということです。
当たり前でしょう。創世記1章27節、神様は神の見姿に人間を作られたと言われるからですね。
神様と人間は、全く同じような内面性を持っているということを考えていいでしょう。
では、人間が一番願っていることは何でしょう?
もし、皆さんに神様のような想像の力を持っているんだとしたら、
皆さんは一番先に何を作りたいですか?
私は神様のような全能の力、想像の力を持っている。
だったら、私は何を先に作りたいのか?
いろいろ話を私はたびたび聞いたり、どっちに行ってもその質問をして話を聞いたりするんですけど、
大勢の人は、一番理想的な、愛したい人を作りたいという人が大勢いました。
私が何か作りたいなら、私が一番願う、私が一番理想的だと思う、
愛する人を作って、その人と一緒に永遠に永遠に暮らしたいという希望、
それが私たち人間が持っていることではないかと思います。
人間が持っている希望、神様も持っている希望は愛です。
ですから神様は、人間を想定しておいて、愛する人間を考えておいて、全世界を作られた。
結局、全世界というのは、神が一番愛する人がうまく暮らせる環境、
この愛する人間が食べるのに、生活するのに必要な全てを満たしておいた世界です。
だから結局、この世の中は、神様が人間を想定して、その人間を幸せにしてあげるために、
全世界を作られたとしても過言ではないでしょう。
そして、人間との愛のために、神様は、神様だけの特権である自由意志、主権、
主権的なことを人間に与えてくださいました。
もし人間が神様に反客するなら、どうするつもりですか。
それだって人間をロボットに作っておいて、愛することではできないでしょう。
ですから、人間に神様が持っている全て同じような権限、自由意志を与えておいて、
私たち愛しましょう、という神様の希望、私たちが理解してくださればと思います。
また、人間が一人いるのは良くないと言って、彼にふさわしい妻を作ってくださいました。
また、神様は人間だけではありません。
全ての動物、全てのものは、メスとオス、ペアで作ってくださったことをわかります。
それは、みんなが愛の中で幸せになることを願っておられたからです。
また、その愛する人間には一番良いことをたくさんくださったんですけど、
何より、エデンの園、家庭、神様が作られた全てを人間に任せられました。
だから、神様は全世界の管理者、人間、全世界に対する使命人、人間ということで、
神様が作られた全てを人間に任せて、人間がやることを神様は見ておられた。
このように、神様は愛です。
神様は愛のために全てを作られたんです。
そして、神様は第一の言いましめ、第二の言いましめ、
神を愛しなさい、隣人を愛しなさいと言われたんですけど、
そうするなら、全世界の全てが幸せになるからですね。
ところが、そこに事件が発生しました。
創世紀3章の事件です。
蛇として現れたサタンが、神様が一番愛する人間を誘惑しました。
結局、人間が神を裏切るようにさせたんです。
要は14章21節、神様に従順することは、神に愛することなんで、
神に不従順するようにして、神様との愛をダメにしてしまいます。
第一要は3章8節、罪を犯すなら悪魔の奴隷になるんですけど、
悪魔は奴隷になった人間に、悪魔の心、悪魔の属性を人間の中に入れてしまいます。
それが、自己中心性ということ。
自分だけ愛すること。自分の身内だけ愛すること。
それによって、神様に対する愛はダメになり、隣人に対する愛もダメになります。
結局、それによって、幸せにならないだけではなく、
神様の想像の根本精神を破壊してしまいます。
この問題を解決するために、神様は女の子孫としてイエス・キリストを贈ってくださり、
十字架で地を流して、贖いの死を担わせてくださりました。
神の日報には、ヘブラリシア9章22節、
地の流しがなければ、罪の許しがないと定められていたからです。
イエス様の十字架には、縦軸と横軸があるんですけど、
縦軸は、神と人間の間にダメになってしまった、ダメにしたこの罪。
また、人と人との間をダメにさせておいたこの罪。
この真ん中にイエス様がかけられて、そこで地を流してください。
それで、神様と人間がダメになったことを和解させてください。
人間と人間がダメになったことも、イエス様は地上において和解するようにしてくださりました。
これからは、悔いを改めて、悔いを改めるなら、許して和解ができるようにすべてやってくださいました。
そして、頼まれます。
これからは、あなたのために生きるのではなく、
あなたのために死んで、蘇ってくださったイエス様の身旨通りに生きなさい。
あなたの考え通りじゃなくて、イエス様の考え通りに生きなさい。
じゃあ、イエス様の考えは何ですか?
神を愛しなさい。隣人を愛しなさい。ということです。
神様は、神の身旨通りに生きなさい。
そして、罪から私たちを救ってくださったんですけど、
私たちは、どんな気持ちで救いと信仰を受け入れたんでしょう?
ある人は、自分の目的の手段として信仰を利用しているかもしれません。
この世でうまく食べて、うまく生きて、合理学的に信仰を考えているなら、
神の身旨をよく知っていらっしゃらないことではないかと思います。
ですから、聖書を私たちに続けて続けて、
互いに愛し合いなさい。敵をも愛し合いなさい。
私があなたを愛したように、あなたたちも愛し合いなさい。
私が心配しているのは、私たちの信仰が変わらないまま、天国にそのまま行くなら、
この世でやったことを天国で同じようにやったら、天国は天国にならないでしょう。
天国に行っても、全部自分の利益ばかり考えながら信仰生活するなら、どうなるんでしょう。
ですから、ある方は、天国は愛することを学んだ人が入るところだと言われることも、
まあ、意味があるかなと思います。
では、今日の主題、神様との親しい愛、交わり。
それがなぜ大事なのか考えていきましょう。
愛することは、天地を作られた神様が一番願っておられることです。
先ほど申し上げましたけど、創造の理由であり、創造の目的が、
愛する人を幸せにするために創造された。
また、神様と人間は、愛し、また愛される時に一番幸せになります。
愛を受ける。私が愛する。愛を受ける。
その愛し合う時に、人間は幸せになっている存在だからです。
また、私たちが愛する時、実行中心から、愛する人の中心に変わっていきます。
これを愛してみればわかります。
ある人を愛するなら、その人の願い通り、私が全部やってあげる。
これが何の意味かというと、実行中心から、その人の中心に、中心が変わっていくということです。
ですから、私たちが神を愛するなら、神様が願っておられることを、私がやってあげたい。
また、他の人を愛するなら、その人が願っていることを、私がやってあげたいと思うから、
実行中心から実行が変わります。
これがいい意味があるのではないかと思います。
また、愛する人たちの間には秘密がありません。
お互いにすべての話をしてあげる。すべてを分かち合うことができる。
その関係が愛する人に。
だから、愛する二人の中で何が話されるのかは、他の人は分かりません。
その人だけが分かっている。
だから、愛する人にはすべての秘密を明かすことができるんだ。
また、愛する人にためには、すべてを犠牲し、すべてを献身することができるから、愛がすごいですね。
ですから、神様は、神を愛する人にすべてを任せ、
神様は愛する人を用いてください。
これは当たり前のことでしょう。
また、愛する人の特権があります。
愛する人は、また、愛する人とすべてを共有します。
だから、夫婦が一緒に暮らすなら、日本はよく分かりませんけど、
旦那さんのものが全部奥さんのもの。私はそうでした。
私の給料は全て妻のところに入っちゃうから、そのような生活をしていたものですから。
愛する人はすべてを共有するということです。
王様の特権がある。王様は素晴らしいです。
しかし、王妃が王様のすべての特権を味わうことができる。
また、社長は、社長の奥さんが社長のことを味わうでしょう。
私、最近、大谷選手、日本人すごいですね。
アメリカに行って、トップ選手になったんじゃありませんか。
私、一番羨ましいのは、大谷選手の奥さん。
本、二人似てますよね。
この方は幸せかなと、私はずっと見ながら思っているところなんですけど、同じです。
イエス様と愛するなら、イエス様は万王の王、万主の主です。
イエス様の健性とイエス様の栄光、イエス様の素晴らしさ、
それを全部、キリストの花嫁、キリストの神父さんが全部味わうことができます。
ですから、イエス様を愛するなら、イエス様のすべてを共有するようになるので、
イエス様を愛することよりもっと大事なことはないということです。
ですから、私たちは、イエス様を愛すること、これから出ることを受けられるこの恵み、祝福は、もう考えられないほどあります。
ですから、イエス様を愛することが一番いいですよ、イエス様を愛することが一番いいですよ、と言われることです。
親しい関係性を聖書は共通しますけど、それを通して、私たちにいろいろなたとえで教えてくださいます。
じゃあ、牧者と羊、羊は今日の対応祈りで言ってくださったんですが、羊は弱いです。目が弱い。
だから、一ミートの先もよく見えない。自分の保護本能がなかなかできない。
だから、羊はそのまま置いておけば、狼によって散らされるような存在です。
しかし、この羊が生きる道は、良い牧者、巡り合うことですね。良い牧者は、羊のために命を捨てる。
そして、羊を守ってくれるし、導いてくれるし、羊が幸せになるように助けます。
だから、羊は牧者にうまくついていけばいいんです。これはすごい関係ですね。
また、木と枝の関係です。枝は枝自らは何もできません。
だから、農夫と木は枝に栄養分を供給して、そこから実が結ぶように助けてくれます。
だから、木につながっている枝は何の心配がありません。
また、新郎と新婦です。新婦の幸せのために、新郎はもう一日中頑張ります。
全てを尽くして、新婦、早の嫁を幸せにしてあげたいと思います。
だから、新婦さんは新郎の懐で、そこで幸せに暮らせばいいんです。
ここで、羊界によく従う羊は心配がありません。
木につながっている枝は、たくさんの実を結びます。
新郎を愛する新婦は、何の最高の幸せを味わうことができます。
しかし、羊界がいない羊、また、
木から切れられた、離された枝、
まだ新郎がいない花嫁、
これは一番世の中でかわいそうな存在として考えられるでしょう。
だから、牧者と羊の関係、
木と枝の関係、新郎と新婦の関係のように、
親しい関係性を保つことは、どれほど大事なのかということです。
ところが、私たち人間は、自由意志を持っている羊であり、枝であり、新婦です。
自由意志があるから、自分勝手にしたいと思うから、これが問題です。
ここに、サタンが働きます。
これを利用して、それで人間をためにしようとします。
この危険性を知りながらも、なぜ神様は人間に自由意志を与えたのでしょう。
神様はロボットと愛したくない。神様は人格を持っている人間と愛したい。
だから、神様は人間に自由意志を与えてくださったんですけど、
自由意志があるからこそ、神様との関係が危なくなる。
だから、パウロはこのように警告します。
第2コリント注意書3節。
ただ、エヴァが蛇の悪巧みに欺かれたように、
あなた方の思いが穢れて、ギリソーに対する真心と純潔とから、
そりてしまうことがないように、気をつけなさいよと言います。
皆さん、天地創生の初めに、アダムとエヴァを誘惑した悪魔。
その悪魔は今どこに行っていますか。
今は悪魔は何もしていないんですか。
いいえ、悪魔は相変わらず、今も吠えたける獅子のように、
誰かを食い尽くそうと探し回っています。
また、特に、今まで自分の侍だった、奴隷だった人間。
神様の子供になってしまったから、その神の子供を奪い取ろうとしている。
もう取り戻そうとする悪魔の働きはすごいです。
だから、悪魔は粘り強く、私たちを誘惑したり、騙したり、攻撃します。
じゃあ、これをどうしたらいいんでしょう。
この時、私たちは神様をもっと愛して、神様ともっと親しくなって、
神様につながっていなければいけない。
この親しみのために、今日、二つだけ考えていきましょう。
一つは、神をよく知らなければいけません。
皆さん、知るということの先取的な意味をご存知ですか。
創世紀4章1節。
さて、アダムはエヴァを知った。
彼女は身をもってカインを産んだ。
アダムがエヴァを知った。
ところが、彼女は身をもってカインを産んだということです。
そこで見てみますと、聖書で知るという単語は、
肉体的な関係を通して知るということです。
ただ、理論と知識的なレベルではなく、体験的な関係を意味します。
私たちは神を知らなければいけないのですが、
私たちの神様はどれほど素晴らしいお方でしょう。
神様は美しいお方、栄光に満ちあふれたお方です。
神様は無限のお方ですが、
皆さん、私たちが神を理解するのに一番分かりやすいのが、
目白の4章と5章の天国の礼拝です。
天国の礼拝には、
もう今世の中には神の栄光が見えないのですが、
天国の礼拝には、神の栄光と神様の美しさが丸見えです。
全ての人にそのまま見えるところです。
そこで、神の前で礼拝するこの天使たちが、
神様の前で何をするのですか。
聖なるかな、聖なるかな、聖なるかなという、
もう神の前で何も、
聖なるかな、賛美と、聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、
それをある先生は驚いて、
うわーという言葉で表現したのですが、
何が驚いているのですか。
神様の美しさ、
神様の栄光の素晴らしさ、
それを見て、みんながうわーという叫び声、
驚いた叫び声ということです。
皆さん、天国の礼拝はいつからですか。
何千年前から今まで続いています。
何千年前から、
もう毎週礼拝をされるのか、
毎日礼拝をされるのかわかりませんけど、
毎週礼拝を捧げるんだとしたら、
今週出会った神様は、うわーと、
来週出会った神様は、また新しい、
全然想像もない新しさを持っていらっしゃる、
神の栄光と神の美しさ、
そこでうわーと、
次の週、また完全に別の素晴らしさが照らされる。
皆さん、あるとき素晴らしいと言われた人、
同じだったら、次の週はまあそうかなと思う。
また次の週は何の感じもないとかもしれないけど、
毎週新しい、毎週違う、
毎週新しい美しさで、
いつも照らしてくださる神様の素晴らしさ、
天国ではそれを味わっているんです。
いつまで、永遠に。
たとえら、神様は一体どのくらいの栄光、
どのくらいの美しさ、
どのくらいの素晴らしさを持っておられるお方なんでしょう。
無限の素晴らしさ、無限の美しさ、
無限の栄光の中でおられる神様。
毎日が違う、毎週が違う。
一体神様のこの知恵と知識の深さはどこまでなんでしょうかと、
言いたいほど神様は素晴らしいお方です。
皆さん、世の中を考えてみてください。
私たちが今、日本、私たちが生きている世界を、
この中でもこの深さが違うんですけど、
全世界を見たら、全宇宙を見たら、
その中で、その深さ、この美しさ、その栄光の素晴らしさ、
それは限りがないと思います。
だから、私たちは神様、限りがない知恵と知識と富と深さを持っておられる神様を、
私たちが今、信じています。
今、生きている間、私たちはもう目が明るくないので、
神様の栄光を見る、神様の美しさを見る、
これは、ある個々一部だけ見て、私たちが信仰に入って、
また毎週毎週、神様を感謝し賛美しているところなんですけど、
私たちはまたまた、たくさんの神様を知ることがいっぱいあります。
じゃあ、この神様の素晴らしさを知れば知るほど、
私たちは神をもっと愛し、もっと信仰ができるんですけど、
どうしたらいいんでしょう?
ここで、マッタイの五書八説、
心清い人は幸いである。
その人たちは、神を見ると言います。
私たちの心が、常によって汚くなっているから、目が汚くなっているから、見えない。
しかし、心を清めて、心から神を見る。
そうするなら、私たちに少し少し少し少し照らされる、
神様の素晴らしさを見て、私たちの神様をもっともっと知っていく。
そうするなら、私たちもいつかは天使たちのように、
聖なるから、聖なるから、聖なるから、賛美に満ち溢れるでしょう。
それほど、私たちは神を知っていきたい。
知ることが力だということを、ぜひ考えていきましょう。
2番目、神を信じることです。
ヘブラリー書11章6節に、
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。
神に近づく者は、神が存在しておられることを、
また、神はご自分を求める人たちに報いてくださる方であることを、信じなければならない。
ここで、信仰がなければ、神に喜ばれることはできません、ということです。
その意味は、信仰がなければ、神様との親しみができないよ、ということと同じです。
ところが、皆さん、霊の世界は、私たちの目には見えません。
何で見るんですか?
信仰によって見るんです。
だから、信仰は、目に見えない世界を見ること。
今日、教会学校でヘブラリー書11章1節を教えてくださりました。
私たちは、神様を信仰によって見ます。
でも、信仰の素晴らしさは、信じたらそのままできます。
信じたら、そのままできてしまうんです。
信仰は力があるんですね。
ところが、なぜ私たちは信じることができないのか?
理論的、知識的な信仰だと。
この理論的な、知識的な信仰は、約部2章19節で見ますと、
悪霊共も持っている信仰だと。
悪霊共も、神は唯一だと信じている。
だから、このような、悪霊を持っている信仰、
そのことを、神様に願っていることではありません。
正しい信仰は、精霊様の照らしによって信じることなんですけど、
その信仰によって、神を信じれば、神の栄光を見ると言います。
ですから、ぜひともぜひとも、
神の栄光を通して、神を信じる私たちになれればと思います。
このように、神を知り、神を信じるのは、
私たちの努力ではできません。
神様が見せてくださらなければできません。
だから、これを恵みだと言います。
神はどんな人に恵みを与えてくださるのか。
神を、神言の1章7節には、
死を恐れる人に恵みを与えてください。
だから、死を恐れること、これが基本的なこと。
もう一つは、マタイ18章19節には、
鳥無し祈りです。
私たちが心を合わせて祈るなら、
神様が必ず示してくださると言ったから、
私たちは神様が照らしてくださるように、
神ご自身を照らしてくださるように、
栄光を見せてくださるように、
私たちは祈らなきゃいけない。
私が一番気にしているのは、私たちの子供たちです。
皆さん、子供たちが神様に対して、
恐れ敬う心があるなら、どれほどいいかと思う。
なぜなら、信仰の始まりが、
神様が見せてくださらなきゃいけないので、
神様はどなたに見せてくださるのか。
神を恐れ敬う人に見せてくださる。
だから、神様が恐れ敬う心を子供たちが持っていたら、
神様はいくらでも見せてくださるでしょう。
ダビデにたくさん見せてくださった、
ヨセプに見せてくださったように、
私たちにも、ダニエルにも見せてくださった、
サウメルにも見せてくださった、
ボウセにもヨウシワにも見せてくださった理由は、
彼らはみんな、神を恐れ敬う心があったからです。
私は、ぜひともぜひとも私たちの子供たちが、
神を恐れ敬う心を持つなら、
神様はこの子供たちに、いくらでも光で見せてくださるでしょう。
だったら子供たちが、
立派な信仰を子供の手から持っていくことができる。
これが私たちの祈りが必要でないかと思います。
神を愛すること、神様と親しみの鍵は、
聖霊様が持っておる。
今日読んでくださった、第一コリント2章、12節、13節。
私たちは、世の霊ではなく、神からの霊を受けました。
それで、私たちは、神から恵みとして与えてくださる、
知るようになったんです。
そして、私たちはこれについて語るのも、
人の知恵に教えられた言葉ではなく、
霊に教えられた言葉によっています。
つまり、霊的なものによって、霊的なことを説明することができるんです。
信仰は霊的な世界だから、それは聖霊によって説明ができる。
だから、聖霊様が私たちに照らしてくださらなきゃいけない。
それを妨げることは、悪魔がどんな方法を使うのか、
理論的、また知識的な信仰を、私たちは導いてきます。
信仰、神様を難しいものにしてしまったことは、
たぶん、このような理由があるのではない。
以前、私は西南に通っているときに、西南の教授の中で、
ドイツに行って、カール・バルトの神学を学んだ先生がいらっしゃいました。
カール・バルトを専門する先生が大勢いるんですけど、
その先生がドイツに行って勉強すると、今もたびたび行って勉強しますけど、
カール・バルトという神学者の著作、本はものすごい膨大で、
それを読んで読んで理解していくのに、
その先生がこう言いました、授業の時間で、冗談話ですけど、
私が今、天国に行っているのか地獄に行っているのかわからない。
それほど、著作の中で、その本の中で、知識の中で迷っていると言いました。
そうです。知識的な、理論的な信仰は、
これは信仰ができるのか、信仰がもっと迷いになるのか、
まあ、難しいところですね。複雑で何もわからなくなった。
私たちは聖霊様によって、栄光の神様を照らしてくださることによって、
私たちは信仰ができるんです。
しかし、神学的な知識、理論で陥ってしまうなら、
限りがない疑惑を疑問に陥ってしまって、
信仰が前に進むことができなくなってしまう。
ですから、神様は私たちに助け主、聖霊様を送ってくださいました。
なぜ聖霊様が必要なのか、
霊力な世界は、勉強によってできないからです。
霊力なことは、霊力によって私たちが理解できるからです。
救われた私たちを知っても、聖霊様の助けがなければ、
神を知ること、神様と親しみができません。
ここにサタンが働くから、私たちは聖霊の助けが絶対的に必要です。
大事な聖書、第二国と四書、四説、