1. 名谷教会 podcast
  2. 2015/06/28:聖日礼拝(旧音源)
2015-06-28 48:22

2015/06/28:聖日礼拝(旧音源)

2015/06/28 聖日礼拝(旧音源)




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皆さん、改めておはようございます。よくいらっしゃいました。
今日も、礼拝として神様が、最初に一人一人の上に、豊かに、恵みと祝福をお与えくださりますように、お願いいたします。
それでは、いつものように、周りの方々と挨拶しましょうか。
よくいらっしゃいました。ありがとうございます。感謝します。
それでは、伝おうとお祈りさせていただきます。
この方以外には、誰によっても、救いはありません。
アーメン、主よ、今から神様の御言葉に、みんな傾けます。
どうか、私たちの内に、主よどうぞお入りになって、あなたの御言葉を、また私たち一人一人にお聞かせください。
お願いいたします。そして、その御言葉に従える力も、上からお与えください。
このものを隠して、主の御名だけが定められ、主の御言葉だけが語られますように、
イエス様の御名によって、お祈りいたします。アーメン。
聖書を見ますと、神様の御言葉を聞くときに、多くの人々が救われたり、あるいは癒されたり、
あるいは印や不思議な御業を体験することを、聖書の中で多く読むことがあります。
今日の箇所の中にも、四節を見たら、御言葉を聞いた人々が大勢信じ、男の数が五千人ほどになったとありますように、
主の御言葉を聞くときに、救いが起こります。主の御言葉は、命であって、救いの力であって、
癒しの源泉であって、天の諸々の恵みの源泉であるからです。
今日も、私たちが主の御言葉を聞いているうちに、救いが望まれます。
私たちが主の御言葉に耳を傾けて聞いているうちに、命が注がれるでしょう。
そして、よく知っていない人も、神の御言葉に耳を傾けて聞いていると、そこに救いが起こり、
03:00
恵みがそこに注がれることを心から信じて、今日も主の御言葉に恵みを預かりたいと願います。
今日の4章の12節まで読んでいただきましたけれども、
このイエス様が御証言をなさった後、周りには本当に120人のように、あるいは3000人のように、
本当に神の御言葉を聞いて救われる人々が多く起こされることがあります。
しかし一方、いくら真理が語られても、それを拒む人々、あるいは聞こうとしない人々、あるいはむしろ反対する人すら多くあります。
ところが、今日も3節と4節は、本当に全く違った光景をこの御言葉は私たちに語っているんですね。
3節をご覧ください。
彼らに手をかけて捕らえた、つまり弟子たちを捕らえたわけなんですね。
そして翌日まで留置することにした。すでに夕方だったからでは。
このように弟子たちを反対して、彼らを留置するほどまで苦しめている人々はどんな人々だったのでしょうか。
彼らは全く神様を知らない人々ではなかったんですね。1節をご覧ください。
彼らが神に話していると、その次ですよ。
祭司たち、宮の主延長、また里会人たちがやってきて、彼らが弟子たちを留置してしまったわけなんですね。
しかし、そんなことがあっても、また一方では、しかし御言葉を聞いた人々が大勢信じて、男の数が何人ですか。5000人ほどですよ。
5000人ほどだから、女性と子供がもしあったかどうかは知りませんけれども、5000人以上なんですよね。
1万人なのか、1万5000人なのか、8000人なのか、それは知りませんけれども、少なくとも5000人以上の御言葉を聞いた人々は救われた。
だから皆さん、使徒とか世世老人とか、人間に力があるのではなく、
06:00
使徒を救わせるのは人間の力ではなくて、御言葉の力です。
御言葉に救いの力があって、御言葉に不思議な感動と恵みと導きの力があるんですよね。
聖書1ヶ所ですね。1ヶ所に開くかと思います。新約聖書。ヘブル・ディトイの手紙4書12節です。
新約聖書428ページです。では御質問にお寄せたいと思います。
神の言葉は生きていて、力があり、用馬の剣のよりも鋭く、魂と霊、関節と骨髄の分かれ目さえも察し通し、心のいろいろな考えや諮り事を判別することができます。
皆さん、神の言葉は死んでいますか?いや、生きています。
力がないですか?力があります。
ですから、この人の働き4人において、4人だけではないんですけれども、多くの場面において、
多くの人々が、どんな人々が救われたのか、ペペロのメッセージを聞いた人々、あるいはステパノ、あるいはパオロの御言葉を聞いた人々が御言葉を聞いているうちに、
その霊の中に救いの恵みが起きたんですね。
ですから皆さん、どうか、この神の御言葉、命のある御言葉、力のある御言葉、救いのある御言葉をよくよくお読みください。
清書ですね、よくよく読んでいただいて、そして深く深く黙想していただいて、
毎日ですね、毎日毎日この御言葉からこの命の泉を毎日汲み上げて飲んで、そして私の霊が満たされますよ。
そうしているうちに魂が、この身体が皆さん生きるようになるんです。
皆さん、どんな信者が恵まれて祝福を受けるのでしょうか。
宗の御言葉を読み、聞き、黙想する人ではないでしょうか。
もう一箇所清書を開きましょうか。四編です。旧約聖書四編第一編一節から三節。旧約聖書907ページです。
09:15
907ページ四編第一編一節から三節まで一緒に読みたいと思います。
ちょっと長いですけれども一緒に読みましょうか。
日が来ると実が成り、その葉は枯れない。その人は何をしても栄える。
皆さん、一節を見ますとですね、宗の御知恵、これは御言葉ですね、宗の御言葉を喜びとするんです。
唯一の喜びとするんですね。
そして昼も夜も、朝も午前も、昼も夜も、その御言葉を口ずさむだけです。
そのような人は水路の傍に植わった木のようです。このイスラエルは砂漠荒野が多いですから、水路の傍に植わった木は素晴らしいことなんですよね。
時が来ると実が成り、その葉は人生は枯れることがありません。
どうなるんでしょうか。その人の人生はですね、何をしても栄えるようになる。
その力はどこにあるでしょうか。御言葉にある。聖書の御言葉に力があるんです。
ところが、皆さん、この世は、この死の御言葉を好みません。拒んだ。嫌いです。
この世は、死の御言葉に逆らい、あるいはこの人の働きが変わられているように死の御言葉を語る人々を苦しめることがよくよくあります。
その時代も同じです。
これもですね、見ますように、一説の斎主たちですよ。あるいは宗宮の主英雄たちです。
それから佐渡会仏たちとか、あるいは立法学者とか、あるいはパリ裁人たち。
皆さん、彼らはどんな部類の人ですか。
彼らはですね、斎主ですから、立法学者、パリ裁人ですから、聖書を最もよく知っているはずの人々です。
12:07
主を最も愛して、主に最も従うべき人々なんです。
いや、むしろ彼らこそ御言葉を伸び伝えるべきその立場の人々ではないでしょうか。
ところがですね、彼らは、ペテロとかヨハネが御言葉を伸び伝えること、民を教えることが嫌だったんですね。嫌いました。
そしてですね、まあ嫌だな、それぐらいで終わるんじゃなくて、そこからもっと一歩進んでですね、
仏筆を土屋に入れてしまったり、苦しめたりすることがよくよくありました。
どの時代もですね、この世は真理である神の御言葉を拒みますね。聞こうとしない。
ここで私が知ることができる一つの技術というのは、この真理ということを全ての人がみんなが好む、あるいは聞こうとするわけではないことなんですね。
みんなに聞いてほしいんですね。みんなにそれを愛してほしいんですね。悟ってほしいんですね。
しかし、この世は耳が、目が、目が、暗くなってですね、殺されているから、それを知らない。喜ばないんですね。
神の御言葉を愛するべき妻子たちが、あるいは晴れ妻人、あるいは届かへ人たちが、むしろ御言葉をさまざけるものになっているんですね。
真理が来ても、光が来ても、命が来ても、それを好まない、拒む。なぜでしょうか。その原因はどこにあるんでしょうか。
それをですね、聖書から、それを開きたいと思います。
ヨハネの福音書をちょっと開きましょう。ヨハネの福音書。新約聖書です。ヨハネの福音書1章。まずは5節を開きましょう。
新約聖書172ページです。172ページ。ヨハネ1-5。5節を一緒に読みましょうか。
3、光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。それから9節から11節ですけれども、一緒に読みましょうか。すいません。
15:09
3、すべての人を照らす、そのまことの光が世に来ようとしていた。この方はもとから世におられ、
世はこの方によって作れたのに、世はこの方を知らなかった。この方はご自分の国に来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。
ここに書かれているように、イエス様は命であって、光です。光としてこの世に来ましたが、この世は知らなかった。
知らないだけではなく、受け入れなかったとあるんですね。なぜでしょうか。この世は闇だからです。
闇の世界に皆そこで苦しんでいるから、実は自分たちが闇の中にいることを気づいていないから、光を拒む、御言葉を拒む、
そしてこのサイクたちのように、サドカイ人たちのように、ファリサイ人たちのように、リッポ学者たちのように、もっとも死を愛し知るべき人々がこの世に転落してしまうことが起こるんですね。
ところが、このように拒まれても、あるいは嫌われても、あるいは迫害されても、あるいは生き押しされても、
ペテロたち、この当時の人たちは、クリシャンたちは、そんなことがあっても、にも変わらず大胆に屈服せずに御言葉を伝えていきました。
いや、この政治の事態だけではないんですね。
10年前くらいでしょうか、この日本に、あるいはそのもう先にですね、この日本に福音が来たときに、多くの迫害がありました。
嫌われました。仲間外されました。しかしそんな中でも、諦めないで御言葉を伝える信仰の先輩たちがあったわけなんですね。
そしてそのうちに、聞いた人々は救われて、それが皆さんのおじさんとかおばあさんとか、あとその前のですね、
ひいおじさんとか、そういう方々が救われたのではないでしょうか。御言葉に力があるんですね。
ですから私たちは、真には神の御言葉はこの世の中で当然嫌われるんだ。拒まれることが当たり前かもしれません。
18:01
だからこそ私たちは、諦めないで、妥協しないで、述べ伝えていかなきゃ。このペテラのように、イワネのように。
もう一箇所、聖書を開きたいと思います。イエス様が教典なさる前にですね、弟子たちに残された御言葉です。
マルコノフイン書、十六書、最後のところですが、マルコノフイン書、第十六書、十五節、十六節。
神学聖書の103ページです。では一緒に読みたいと思います。
3来、それからイエスは彼らにこう言われた、全世界に出て行き、全ての救われた者に福音の御伝えなさい。
信じてアプテスマを受ける者は救われます。しかし信じない者は罪に定められます。
皆さん、この御言葉通りに、このイエス様以来の多くの信者は、いや全ての信者はこの道を歩んできましたね。
私たちもこの道に歩んでいるわけなんです。
ここにですね、イエスは彼らにこう言われた、全世界に出て行き、全ての救われた者にとありました。
皆さん、全ての救われた者、つまり全ての者の中にはキリスト教に効果を持っている人、
あるいは関心のある人々だけではなく、無関心な人々、あるいは無視する人々、
あるいは好まない人々、あるいは反対する、あるいは逆らう、
あるいは迫害する人々も、この全ての者の中に含まれているわけなんですね。
この人々に、全ての人々に福音は述べつかえられなければならないわけです。
なのでしょうか。
逆らう人々も、無関心な人々も、素人しない人々も、
今日も四書において御言葉を聞いたら、聞いているうちに、
三千人が五千人が救われたように救えたのが、その中から起こるからです。
ですから皆さん、時が良くても悪くても、御言葉を伝えてまいりましょう。
そのうちに、この人の働きに記されている、一日に大勢の人々が救われる恵みが、
今日も絶対に起こらないと私は信じていないんですね。
主の御胸であれば、起こると。
救われると、それは御言葉かもしれない。
21:02
さて、このサイスたちとか、イアノ・シュウエクト、
あるいはソドカイブとパリサイブとリッポフたちは、
なぜこんなに、イエス様の御方は信じて従うべきになるべきの人々が、
なぜこのように迫害者になったんでしょうか。
彼らは、あのペテルガスに、このようにひどいことまで言いました。
それは、七節に書いてあります。
この彼らは、六節に書いてあるように大祭祀ですよ。
あれは祭祀の一族なんです。
多くの宗教家たちが、ここに集まっていました。
その、いわゆる宗教家たちが、このペテルあるいはヨハネの人にですね、
このように言うんですね。
あなた方は何の権威によって、また誰の名によって、こんなことをしたのかと尋問だし、
つまり、述べ伝えるな。
そしてですね、誘致してしまう。
なぜですね、この大祭祀とか、祭祀、リッポが来た人たちが、
これほどまでに罪を犯して、堕落して、間違った道に走っているかのようになっているのでしょうか。
彼らはですね、祭祀として、あるいは長老として、あるいは聖書学者としては、
本当に立派な人物であったかもしれません。
しかし、簡単に言いますと、
彼らは宗教家に過ぎなくて、イエス様を信じる人々ではなかったわけなんですね。
イエス様を信じる人々でならば、祭祀のポストにいるに、こんなことはしない。
いくらですね、祭祀と言っても、大祭祀と言っても、長老と言っても、聖書学者、パリ祭祀だと言ってもですね、
イエス様を信じない。
いや、イエス様に会っていないと、このようにですね、恐ろしいほど、
宗教を迫害する、教会を迫害するものになるということなんです。
信者はイエス様を信じる人々です。
クリティアンはイエス様にお会いして、そして、神の御言葉を、全能なる神の御言葉として信じる人々がクリティアンなんです。
24:04
結局ですね、弟子たちは流氏状に入れられてしまいました。
ところがですね、この世が、いくら神の人の体を閉じ込めさせても、縛ってもですね、
体は縛ることができるかもしれませんが、神の人、私たち神の人の背を縛ることはできません。
本をご覧ください。このようにですね、尋問を出されました。
ところがですね、発説その時ですよ。
ペテロは聖霊に満たされて、彼らに言いました。
神の人たち並びに教路の方々、そこに教路たちもいたわけなんですね。
私たちが今日取り調べられているのが、病人に行った良い技についてであり、
その人が何によって癒されたかということのためであるなら、皆さんもまたイスラエルの全ての人々もよく知ってください。
この人が治って、あなた方の前に立っているのは、あなた方が十字架につけ、神が死者の中からよみがえらせた流れに、イエス・キリストの御名によるのです。
あなた方が家を建てる者たちに捨てられた息が、礎の息となったというのは、この方のことです。
ペペロは、イワネは、そこで恐れることなく、あるいは、そうですか、申し訳ありません、そしたらやめますね、とか妥協しないで、
その民の指導者たちですよ、教路たちですよ、その人々はイエス様を十字架につけて殺したその指導者たち、
その彼らに恐れることなく、むしろ大胆に、あなた方が十字架につけて殺したイエスが、この汗の流れた人を癒やせましたと、救いの真理を堂々と語ります。
このような御言葉が働かれるところに、救いが起こるのです。
それが四節です。四節ですね。もう一度一緒に読みたいと思います。四節。
三回。しかし御言葉を敷いた人々が大勢信じ、男の数が五千人ほどになった。アーメン。
今日も同じだと思います。御言葉を拒む人も多いでしょう。聞くことしない。あるいは関心がない。
あるいは逆らう。人々は今日も大勢います。しかし、そんな中でも御言葉を聞いて救われた魂は必ずあるでしょう。
27:12
永遠の命を得るその魂、定められた魂がどこにいるか私には分からない。だからこそ、このペテのように述べ伝えていくこと。
そうすると、御言葉を聞いた人々は必ず救われるでしょう。
ですから皆さん、私たちがノンクリスタルの家族の方々に、あるいはユーヒンチジンの方々に会った時に、何を聞かせたらいいのでしょうか。
もちろん、ワンクイストン、ツックイストン、それは必要かもしれませんけれども、御言葉を聞かせることです。
誰にも御言葉に力があるから、御言葉を聞かせることです。御言葉を応えることです。
そうすると、御言葉がその人の魂に入って、御言葉が働く。御言葉は力がありますね。
このような大きな大きな迫害の中でも、またその中でも大きなリバイバルが、救いが起こることは、皆さん不思議と思いませんでしょうか。
でもですね、迫害があったからリバイバルは起こらない。教会は潰れてしまうことではない。
むしろですね、迫害があるからこそ、そこに主の素晴らしい御業を見ることができるチャンスになるのではないでしょうか。
苦しみや迫害は決して恐れるものではありません。
イエス様がペペロバケのうちにおれというように、私たちのうちにイエス様がいらっしゃれば、主が共におられるならば、
どんな試練があっても、どんな迫害があっても、どんな侮辱があっても、決して問題にならない。
ここですね、皆さん、人の働きのストーリーを二つで予約しているならば、一つは福音を述べ伝えるところには、必ずかのように迫害や苦しみが伴われることです。
どこを読んでもそうなんですよ。しかし、苦しみがあればあるほど、精霊十万な教会には成長しリバイバルが起こる。
そして、多くの人々が救われる。この世は不意の力を潰そうとします。主の人々を教会を威嚇します。様下げます。
しかし、皆さん、恐れることも悲しむことも心配することもありません。
30:03
どの時代も、この世は教会に反対したり、キリストを知ろうとしない、苦しみようとすることがあります。あるいは無関心だったりするんですね。
しかし、この人の働きのエルサレム教会のように、巨大教会のように、福があっても、試練があっても、無視や無関心があっても、御言葉を述べ伝えていくときに、その御言葉を聞く人々は救われますね。
ところが、このように見ていきますと、人の働きに記されている、巨大教会のこの恵みと祝福には、いくつかの秘密があると思うんですね。
その一つの秘密は、この巨大教会の成長のスピードと言いましょうか、この祝福は、人間の考えや常識を超えるものでした。
さかのぼって考えてみましょうか。イエス様が残された弟子は十二人でした。その十二人で、百二十人の余りがペンテコステのときに集まっていたんですね。
ところが、その百二十人が三千人になって、その三千人のうえにさらに五千人が加えられるまで、いくらかかりましたか。
何十年かかりましたか。いや、そうでないんですよ。たったわずか数日しかかからなかったんです。これは驚くべき奇跡ではないでしょうか。
すべては聖霊様がなされたことなんです。このような救いの不思議な見方が、この日本にも起きてほしいんですね。起きてほしい。
人の裁きを見ますと、聖霊様は、神の御言葉は誰からも何によっても縛られたり妨げられることは一切ありませんでした。
妨げがあったから、博化があったから、聖霊様は困ったな、困ったな、そんなことはありませんでした。
ここにですね、救いの力、教会祝福の秘訣がここにあるんです。三味体の神様は、聖霊様は、人の反対や、あるいは状況や時代や、何によっても縛りつけられる方ではない。
そして、聖霊の救いの働きは、時間の制約も、迫害の制約も、どんな制約にも縛りつけられることはありません。
ですから、この三味体の神様、聖霊様のこの無限なる力を信じることが信仰ではないです。
33:07
私たちの業績や、あるいは今までの経験、あるいは自分が持っている金額、それをですね、はるかに高く乗り越えて働かれるのが、聖霊の働きなんです。
皆さん、十二人が百二十人、百二十人が三千人、三千人が五千人、それにですね、増えました。
今より、今日より、最も難しい時代です。信じがたい時代です。しかし、そんな時代であっても、救いは起こるということです。
ですから、今日のこのね、この日本のこの時代にですね、救いが起こらないわけではありません。
私たちの信仰が、その救いの見業を、不思議な不思議な奇跡、しるしを、それを見ることができる、その信仰があれば、それを担える信仰があれば、神がなってくださるでしょう。
だから皆さん、信仰というものは、この神様、イエス様、聖霊様の力を信じることではないでしょうか。偉大な使として信じることではないでしょうか。
信仰とは、そのお元気、善のある神様が、私たちのために働いて、救いとしるしを行ってくださることを信じることです。
さてでは、このように言葉を語り続けて、そして十二節のように結論に彼は運びました。
十二節を一緒に読みましょうか。これですね、今日の本当に中心課題なんですけれども、十二節を一緒に読みたいと思います。
この方以外には、誰によっても救いはありません。天の下で、この皆のほかに、私たちが救われるべき名は、人に与えられていないからです。アーメン。
聖像のすべての御言葉は大事ですが、その中でもこの御言葉は最も大事だと思います。
人類歴史上、多くの人々がこの御言葉を聞くときに、読むときに、この御言葉に出会って、大勢の人々が救われました。
その御前にひれ打って、そして真理と救いを受け入れて、イエス・キリストを救い主として受け入れて、新しい人生が始まったわけなんですね。
36:05
今日もそのような救いの恵みが起きますように、心からお祈り申し上げます。毎日起きますようにお祈り申し上げます。
この御言葉を語っています。イエス・キリスト様以外には、誰によっても救いはあります。人間が作った宗教には救いはあります。よりおこないによっては救いはあります。
いくら立派な人であっても、その人が本当に法律がなくても悪事をしない立派な人であっても、いいことをたくさんしていても、イエス・キリスト様を信じない限り、救いはその人には始まります。
誰でしょうか。天の下でこの皆のほかに、イエス・キリスト様の皆のほかに、私たちが救われるべきのは、人に与えられていない。つまり、神様はイエス・キリスト様以外に救いの皆を与えていない。
ところが、こういうメッセージをお伝えしますと、世の中の人々は、キリスト教はあまりにも利己だとか独善だとか、なんでキリスト教だけに救いがあるんだろうか。
他の宗教にも救いがあって、多くの宗教の中で一つを信じたらいいんじゃないか。そういうふうに言わないで、他の宗教と仲良くしたらいいんじゃないかと言われたりします。
例えば、富士山へ登る登山の輪、たくさんあるかのように、多くの道があって、救いや神に至る道も多くあるんじゃないかというふうにおっしゃる声を聞いたりします。
他宗教にも救いがあるんじゃないか。他宗教も認めるべきではないかと言われます。
この話は、とてもジェントルで、礼儀正しくて合理的で、愛の宗教と言われるキリスト教の様子にふさわしく見えませんが、決してそうではありません。
神の御言葉が唯一の標準です。イエス・キリスト以外には救いはありません。
近住教に救いがあるでしょうか。仏教に救いがあるでしょうか。神社に行けば救いがあるでしょうか。この質問に対する答えはただ一つです。イエス様以外には救いはありません。
こういうふうに語るのは、とても負担になったりするかもしれません。みんなから嫌われるから、聞こうとしないから。しかし、これが真理です。
39:15
私たちが信じる主なるイヤーウェイの神様、お一人だけがマコットの神です。多くの神があって、例えばエイからデッドまで神々がたくさんあって、その中の一つの神がキリスト教の神ではありません。
マコットの神様は主なるイヤーウェイの神様お一人しかありません。そして救いもイエス・キリスト他にはありません。天地をお救いになった神様は人類歴史上イエス様以外に救いのみなを与えたことがないからです。
人間の命には終わりがあります。その先には裁きがあります。祝福か滅びか、どれかです。私たちはこの言葉を信じます。だからこそ私は主を礼拝し、伝道し、あるいは仏化しているわけです。
皆さん、宗教とは何でしょうか。宗教は人間が神になりたくて作り立てたものが宗教なんです。しかし人間は決して神になることはできません。
いくら良い人であっても、いくら深い哲学を取った人であっても、あるいは孔子のような人になったとしても、人間は決して神になることはできません。
だから人間は自分自身を自ら救うことはできないからです。しかし神様は、唯一の与えの主神様は人間になることができます。だからこそ主なる作り主なる神様なんです。
今日の御言葉にペテロは彼らに、イエス様を信じていなかった宗教家たちに向かって彼はこのように言いました。
キリスト以外に救いはない。では皆さん、なぜイエス様が唯一の救い主なんでしょうか。
その一つ、イエス様が神様だからです。イエス様こそ神様だからです。多くの宗教、すべての宗教指導者たちはすべて人間です。
42:01
しかし聖書はイエス様は神と共にあって神様であるとあたかしに語っているんですね。
もう一つ、聖書を開きたいと思います。ヨハネの福音書。さっきの新約聖書のヨハネの福音書第一説、172ページです。
ヨハネの福音書一説を一緒に読みたいと思います。
三内、はじめに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった。
この言葉、これはイエス様を指しているんですね。イエス様は神様の共にはじめからおられました。
そして、このイエス様が神様であることを、もう一箇所ですね。同じヨハネの福音書、十二章、四十五節です。
十二章、四十五節。二百六ページです。一緒に読みましょうか。
三内、また私を見る者は、私を使わせた方を見るのです。
イエス様を見る者は誰を見るのですか。神様を見るのです。
イエス様と神様は同じ方だからです。だから、イエスキリストこそ救い主であられます。
二番、イエス様はこのように神様でありますが、同時に人間でありました。だからこそ、その方こそ唯一の救い主です。
もし、イエス様がただの人間に好きなかったならば、救いは不可能でした。
救い主は神でありながら、同時に人間でなければありません。
罪人は罪人を救うことはできません。
例えば、海に溺れてアップアップして火にかけている人々を、自分で自分を救うことはできないんですね。
あるいは、同じく溺れている人が隣の人を救うことはできないように、罪人は罪人を救うことはできない。
だから、罪のない神でありながら人間である唯一のイエス様だけが救い主なんです。
そして、イエス様は神様であられますから、十字架で死なれて、そしてそれで終わりだったんですね。
救いはないんですね。
死んで終わった、それでおしまいだったら、救いはないんです。
45:02
しかし、イエス様は神様であられますから、三日目にその死からよみがえりました。
人間にはできないことを神様にはできるわけです。
だから、聖徒の御言葉は、イエス様におさって道であり、真意であり、命であると語っているんですね。
もう一か所を開きましょうか。
ヨハネの福音書14章6節です。
開いていただきまして、一度読みたいと思います。
14章6節。新約の209ページです。
209ページ、ヨハネ14章6節。
5・1・2・3・4
皆さん、イエス様は多くの道の中の一つではなく、唯一の道です。
イエス様は多くの真理の中の一つではなく、唯一の真理でございます。
イエス様は多くの命の中の一つではなく、唯一の命です。
私たちはこのイエス・キリストを信じています。
皆さん、人の人生の中で最も大きな秘区は何でしょうか。
金持ちになることでしょうか。あるいは立派な仕事を持つことでしょうか。
この金持つ秘区であるかもしれませんが、最も多くの秘区、秘区の現世、いや全ての秘区、
それはイエス・キリストを信じることではないでしょうか。
このイエス・キリストを一人だけを信じることで感謝する私たちでありたい。
もし皆さんのうちに、まだこのイエス・キリストを隙道として信じていらっしゃいない方々、
あるいは迷っている方々が、もしもいらっしゃるならば、
今日、この方以外には誰によっても救いはありません。
私を通して出なければ、神の身元に来ることはありません、という御言葉を受け入れようではありませんか。
聖人は、救い主はイエス・キリストを一人だけだと。
クリスタンの皆さんは、このイエス・キリストを愛して歩んでまいりましょう。
48:02
そしてこの方を、ペテロたちのように、ヨハネたちのように伝えてまいりましょう。
そうすると、必ず御言葉を聞いて、救われる魂が起きますよ。
そして希望を持ち、このイエス・キリストの御言葉に従って歩んでまいりましょう。
お祈りいたします。
48:22

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