00:01
おめでとうございます。
今日も、聖日礼拝にようこそいらっしゃいました。
それでは、メッセージに入る前に、隣の方々と挨拶しましょうか。
1時間ぶりの方々もいらっしゃいます。
ようこそいらっしゃいました。
はい、感謝します。
それでは、短く一言お祈りさせていただきます。
二手を伸ばしていやしを行わせ、あなたの聖なる下部イエスの皆によって、知る人不思議な業を行わせて下さい。
アーメン。
主よ、今からあなた様の御言葉に耳を傾けて参りましょう。
どうか主よ、今日集いのこの一堂の上に、一人一人の上に、
主の光の御言葉、希望の御言葉、あるいは謎しため、あるいは規律の、あるいは確信の約束の御言葉をどうぞお語り下さいますように。
心を素直に聞いて、扉を開いて、あなたの御声を聞くことができますように。
御手に揺らげます、期待して、イエス様の皆によってお祈り致します。
アーメン。
今日は、この新約聖教の主との働きシリーズステップで、第十一回目です。
説教題は、御手を伸ばして、ということであります。
皆さん、私たちが信じる作り主なる神様は、私たちにいつも良いもので満たしてくださる方であります。
神主なる神様は、イエス様をこの地に使ってくださって、私たちの人生の全ての面を新しくしてくださる、祝福してくださるお方であります。
ですから皆さん、私たちがこのイエス・キリストにお会いすることは、私たちの人生において最も大きな祝福なのであります。
前回では、人の働き第三章、それから第四章に出てきたニアの美しの門で、歩けない人が施しを求めている人がいました。
03:14
その人が祈りに登っていたペテロとヨハネに会って、そして彼らを通してイエス・キリストにお会いしました。
イエス様にお会いして、そのイエス様の御名によって、彼は生まれてから一度も歩けなかったその足を持って歩いたり走ったり踊ったり、そしてニアに入っていきました。
皆さん、この新約聖書のマタイ・マルコ・ルカ、そしてヨハネの福音書とか、あるいはこの使徒の働きを読んでみたら、このように特に病人たちが癒されるストーリーが多く書かれているんですね。
ここには大事なポイントがあると思います。
それは、使徒がイエス様に出会って、そしてその方を自分の救い主として信じて使えば、その人の人生に全く新しい全人格的な変化と復旧が表示できます。
皆さん、イエス様は私たちの体だけではなく、心も霊もすべての関係さえも癒してくださるお方であります。
聖書ですね、ちょっと書きたいと思います。旧約聖書、イザヤ書、三十書、二十六説です。
聖書をお持ちの方はお披露目ください。三十書、二十六説。旧約聖書の1172ページです。旧約聖書1172ページ。
だいたい真ん中ぐらいにありますが、イザヤ書三十書二十六説、1172ページです。
では二十六説とですね、ご一緒にお読みしたいと思います。
三、主がその民の傷を包み、その打たれた傷を癒される日に、月の光は日の光のようになり、日の光は七倍になって、七つの日の光のようになる。
06:09
皆さん、イエス様にお出会いさえすれば、イエス様を信じさえすれば、その人の人生にですね、傷が包まれ、打たれた傷が癒される日が来る。
そしてその日は本当にですね、輝く輝く日になるということです。
もう一箇所同じイザヤ書ですけれども、六十一教一説です。
1226ページです。
イザヤ書六十一教一説。
では一緒にお読みしたいと思います。
三、神である主の霊が私の上にある。
主は私に油を注ぎ、貧しい者に良い知らせを伝え、心の傷ついた者を癒すために私を使わされた。
この私はですね、将来に生まれになるイエス様を指しているわけですね。
ですから、心の傷ついた者を癒すためにイエス様が使わされて来られたということではないでしょうか。
ですから皆さん、今日のタイトルを書いて申し上げますならば、
イエス様がその御手を差し伸べて、私たちの人格を達して下さい。
私たちの体を達して下さい。
心を達して下さい。
傷ついた心を達して下さい。
私たちの霊を達して下さい。
あるいは、つらい人間関係そのものを達して下さい。
癒して下さい。
このイエス・キリストにお会いして、その方を信じて歩むことが信仰なんですよね。
今日のその働きに出てくる、この足の撒いた人がそうでした。
彼はニアの門の傍らに座り込んでですね、そこで施しを求めているそういう人でした。
ニア、つまりですね、教会なんですね。
ニアの一番近くに長い間住んではいましたが、彼はイエス様を知らなかったんですね。
神を礼拝したこともなかったんですね。
09:02
そのような彼をイエス様が手を伸ばして、彼の足を察して下さって癒して下さい。
足だけではなくですね、彼の心も彼の人格も察して下さって、そして人々との関係をも主は回復して下さって、彼のすべてが癒されました。
願わくは、今日、私たちが主の御言葉を聞いている日に、主の礼が、主の御手が差し伸ばされて、私たちの心、体、礼を、全人格を察して下さって癒して下さりますように、心からお祈り申し上げます。
今日は大きく三つで取り付けさせていただきたいと思います。
まずは、主は、イエス様は御手を伸ばして、私たちの体を察して癒して下さい。
皆さん、私たちはですね、みんな元気に過ごしたいと、みんな願っていますね。
それで、ある方々はですね、もう実際にですね、インスタントの食べ物は食べない。
良いものだけ食べて、毎日ですね、散歩して、あるいはジョギングして、あるいはスポーツをしたりします。
ところが、願わない病気がかかって、苦しみの中に暮らしている方々が大勢いると思います。
もし皆さんの中に、病気のゆえに苦しみの中に生きている方々がいらっしゃるならば、
主の御手を、イエス・キリストがその御手を差し伸ばして、
皆さんのその病の体を察して下さって、癒される、回復されるその恵みがありますようにお祈り申し上げます。
また、そのためにもぜひ祈っていただきたい。信仰を持って祈ろうではありませんか、皆さん。
祈りによって癒されたある人のその記事を、旧約聖書からちょっと見ていきたいと思います。
日が来なくていいんですね。ちょっと今日は数が長いですので、私から説明をしていきます。
旧約聖書の中にレスオーキー第二という聖書があります。二十章のこのところを見たらですね。
12:03
ユダという国にヒゼキヤという王がいました。この人はですね、とても立派な信仰を持っている人でしたけれども、病気になって死にかけていました。
そしてですね、その当時に今の牧師のようなイザヤという人がですね、その王の元日ですね、彼にこうつけました。
あなたはもう死にました。家を整理してくださいと。それは死のお言葉ですとですね、もう死を宣告されたんですね。
その時にですね、あのヒゼキヤはどうしたんでしょうか。どう反応したと思いますか。
彼はそうですか。分かりました。諦めたんでしょうか。いいえ、そうではないんでした。
彼は諦めないで、すぐに壁に向かって主なる神様に祈り始めました。
そして彼がですね、祈ったのはですね、主よ、私があなたのために行った私の善を、正義を、死を覚えてきてください。
そしてですね、彼はもう号泣しながら、泣きながら、粘り強く主に祈りました。
これこそ皆さん、諦めない祈り、粘り強い祈りでした。
その結果はどうなったと思いますか、皆さん。
彼が今からですね、イザヤ言者から言われて、すぐに祈り始めてですね、主に祈りました。
そしてですね、悲劇や往にあなたは死にますよと言ってですね、帰ろうとしたイザヤが、あの王宮の中庭をですね、通り抜けていないうちに、神のメッセージがイザヤ言者に与えられました。
それ何でしょうか。私はあなたの祈りを聞いた。私はあなたの涙を見た。私はあなたを癒す。あなたは三日目に宮に上って、私を礼拝するだろう。
あなたの命はこれからさらに十五年与えられるという言葉がですね、
イザヤ言者が悲劇や往に言って、もう王宮を出ていないうちに答えが与えられる。不思議な皆さんが起こりました。
その言葉にですね、神様はこう語られました。私はあなたの祈りを聞いた。あなたの涙を見た。
彼の病気を癒してくださるだけでなく、十五年も生命を伸ばしてくださったんですね。何という素晴らしい秘訣なんでしょうか。
15:07
見ました?諦めない祈り、涙の祈りは神様の心を動かして変わらせる力があるんです。
上越の先生はこう言いました。サタンが喜ぶのは放棄、諦めることであって、不が喜ばれることは粘り強く祈ることであると言いました。
私の母の赤字を何回させていただいたことがありますけれども、1990年、空港の前で交通事故にあわされて、両足の膝から膝が全く粉々になって、歩くことができないと。
二つの病院からそう言われました。手術もできない。あなたはむかしがんの病歴もあるから、これは本当に難しいと。
もう医者が放棄しました。手術もできない。退院しても車椅子ぐだきになるでしょうと言われました。
私の母は、その後どうしたと皆さんは思いますか。あ、そうですか。分かりました。諦めたでしょうか。そうではありません。
手術は、医者がダメです。癒やせませんと言われても、手術は癒やせることができる。粉々になった足の骨も、手術はそれを丈夫に作ることができると信じる信仰を持って祈り始めました。
粘り強く祈りました。その結果は、約4ヶ月くらいになって、自分の足で、巻き場もなく自分の足で退院しました。
今は歩きがものすごく早いんですね。せっかくな手が困りますけど、たまに帰ってどこか急いで行くんですけど、私よりずっと先に行っちゃうんですよね。
歩くのに全然指標がない。皆さん、手は無から有を想像される方。
皆さん、もしも諦めてはいませんでしょうか。
しかし、今日の御言葉にあるように、二手を伸ばして癒やせを行わせてくださいと祈る人のどんな病気をも、手術は癒やしてくださる。
18:04
それがお出来になる方が、イエス・キリストであります。それを信じるのが信仰なんですね。
どうか皆さん、汐木や王のように祈りをやりませんか。涙をもって祈りをやりませんか。
もし、天国に行ったら、今の世界の人口が75億人ですから、その中にクリスタンが30億人としましょう。
そしたら、30億の瓶があってですね、そこに皆さんが死の見前に涙して祈る。
あの涙がですね、もう集まっているんだったら、あなたの涙はどれくらいあるんでしょうか。
300ミリリットルでしょうか。1リットルぐらいでしょうか。どれくらい死の見前に涙をして祈っているんでしょうか。
死は、私たちの祈りを一言も漏らすことなく、聞いて、涙を見て、癒してください。
今日からですね、この30節の今日の4章の30節のように、祈ってください。
見てを伸ばして、癒しを行わせてください。
死は、見てを伸ばして、皆さんの心を察して癒してください。
私たちが信じる神様は、創造主です。
その方は、私たちの体だけではなく、私たちの心もお作りになりました。
だから、私たちの心はですね、もともとは神の心に似て作られました。
その心は、愛であって、平和であって、平安であって、あるいは純潔であって、
癒しであって、傷つかないこと、傷つけないこと、それが最初の我々人間の心でした。
しかし、この世の中に罪が入ってきてから、私たちは家庭で、あるいは学校で、あるいは職場で、
あるいはこの社会の中でですね、傷を受けたり、傷をつけたりしながら、実は生きているんですね。
その根本的な原因は、人間の罪でありました。
ところが、主は、その傷ついた心をもたちして、癒してくださるお方であります。
ところが皆さん、クレイジーさんでありながらも、少なくない方々が、主にですね、自分の心を打ち明けづらいと言いましょうか、
21:09
なかなか打ち明けていない方々、その傷を見せたくないと思っている方々が、あるんじゃないかなと思います。
それを辛く思うんですね。この気持ちは十分わかりますけれども、皆さん、でもですね、私たちが病気になったら病院に行くんですよね。
そしたらですね、ちょっと恥ずかしいんですけれども、医者や看護師にですね、もう全部見せるんじゃないでしょうか。
なんででしょうか。治りたいから見せるんです。
人間の痛みも身体も恥ずかしいところも全部見せるに、私たちを作ってくださって、どんな心をも癒してくださるその主にそれをお見せして、打ち明けとっていくから、
癒していただこうではありませんか、皆さん。
聖書の中を見ますと、イエス様が身体を伸ばして、その心をタッチして癒してくださったストーリーがたくさん出てくるんですが、
新約聖書の中にルカノフイン帳19章を見たら、ザーカイという人が出てくるんです。
彼はいわゆる主刑人でした。
あの当時のイスラエルとローマの関係を理解する必要があるかと思いますが、
あの当時イスラエルは、もう国はなくなって、ローマ帝国の植民地でした。
だから政治や文化や言語や歴史、経済、信仰、すべても奪われている状態でした。
ところがその当時に、イエス様の当時ですよ。
イスラエルの人々にとっては、ローマ人や、あるいはローマ人とした人、あるいはローマのために働く人はみんな敵でした。
もう相手にしてなかったんですね。みんなから見らめられて憎まれていたわけです。
そんな部類の中で、主刑人という職業を持っている人々が大勢、あの当時にいました。
当時はですね、ローマは戦争をするでしょう。そしてコロッテムのような競技場も作ったり、道路も整備するから、
あらゆる植民地からですね、なんと税金を約60%から70%を納めたそうです。
だからその当時ですね、その税金を納めることができなくてですね、自分の家や畑や国を、それを納めるしかない人々が大勢いました。
24:01
そう納めても返済ができない人々は、自分の子供を奴隷で売るしかなかった、ああいう時代でありました。
そのような仕事をローマ人の代わりに、それを働く人々が主刑人でしたから、もう彼らはですね、
イスラエル人にとってはですね、もう敵であって民族の反逆者だったんですね。
ところが、あのザーカイの人が、なぜ主刑人になったのか。それはですね、先生に書かれていないんですけれども、
あの当時の記録の本を見ましたら、例えばある人がですね、もうその税金も納めていない。
そして他の債務も借りも多くあってですね、もう到底返済ができなくなって、そしてですね、もう返済してきてもたくさん残っているから、
そしたらローマからですね、お前、主刑になって税金を納める仕事をやれ。そういうように支えられる人々が、あの当時に大勢いたそうです。
だからですね、このザーカイという人は、自分が金持ちになりたくて主刑人になったわけではなく、もうこの針をですね、到底返すことができないから、
もう仕方がなくって、やりたくないんだけれども、自分もイスラエル人だからですね、普通に暮らしたいんだけれども、この返済のゆえにですね、主刑人に返られたと。
だから皆さん、十分想像、推測できるんですね。彼は常にもう精神的なストレスを受けていたでしょう。
街に出たりですね、多くの人々から指差されて、彼はそういう仕事をするしかなかった。
自分もですね、こういうことをしなくならない、自分の人生を呪っていたかもしれません。
自衛権を削除してですね、金持ちになっていたかもしれませんが、彼の心は、人生は砂漠のように虚しくて、つらくて、寂しくて、つらい日々を送っていたに違いないと思いました。
そしてですね、いつもですね、あのローマの高巻町にですね、なんと言いますか、ご祭りをしなくならない、お祝いをですね、しなくならない、
そういうふうに自分の人生を本当に仕返しながら生きていたかもしれません。
もし彼に子供がいたならば、多分ですね、街の他のですね、イスラエルの子供達にですね、いじめられたに違いないと思うんですね。
そんな座帰りに主は近づいてくださって、彼に会ってくださった。
27:04
そして彼の人生に、その傷ついたつらいその心に、主は御手を差し伸べて、彼の心を癒えてくださいました。
イエス様は彼の傷ついた心、錆びつくてつらいつらい心を御手を伸ばして、立ち入って、彼を救ってくださって、癒してくださいました。
今まで誰も相手にしてくれない、食事も一緒にしてくれなかった彼にですね、イエス様が相手にしてくださった。
皆さん、皆さんそんな経験あるかどうかわかりませんけどね。
誰も何とかの集団に入ってですね、誰も相手にしてくれない、声もかけてくれない、食事も一緒にしてくれない、遊んでくれない、見てもくれないのなら、それですね、もう見えたくなるんですよね。
そんな座帰りを、主は彼の家に行って、食事を一緒にしてくださいました。
多分ですね、葡萄酒を一緒に飲んだ名前でしょうか。
彼の話をイエス様は聞いてあげてくださいました。
なぜ死刑人になったのか、今もどんなにつらかったのか、彼と共に泣いてくださったでしょう。
彼と共にあるいは笑ってくださったでしょう。
この与熱天主は、もう毎日がつらいつらい日々を振っていた座帰りの心をタッチしてくださって、彼を癒して、彼を救ってくださいました。
皆さん、もしも皆さんのうちに打ち明けられない心の悩みや、あるいは寂しさ、あるいは心の傷があるでしょう。
もしもそうであるならば、その傷ついた心を父は同情してくださる。
共に泣いて、共に笑ってくださる主に近づいていって、その心を打ち明けようではありませんか。
私たちの孤独や心の傷をですね、その心を癒すことのできる、誠の医者はイエス・キリスト以外にはありません。
どうか皆さん、死のタッチを求めようではありませんか。
二手を伸ばして癒して行わせ、あなたの聖なる主侍イエスの皆によって、知る死と不思議な業を行わせてくださいと祈ろうではありませんか。必ず癒されますよ。
大きい三つ目です。主は二手を伸ばして、私たちの壊れた、あるいはつらい人間関係もタッチして癒してください。
30:22
私たちはですね、あらゆる人間関係の中で生きています。夫婦関係、あるいは親子関係、あるいは結婚した人は主と主との関係があります。
兄弟の関係があります。退散に来たら上司と部下の関係があります。隣人との関係があります。教会に来たら牧師との関係、信者との関係があります。
その中で私たちは暮らして生きているわけなんですよね。ところが少なくない人々がこの人間関係の中で、実は苦しんでいるんですよね。だから人生がつらいんです。
日本の診療内科の統計によりますと、日本には特に鬱病とか不眠症とか、あるいは引きこもり、あるいは不登校児という精神化的な病気の患者さんが多いんですけれども、
その原因のほとんどは、つらい人間関係から来るストレスの家だそうです。確かにそうだと思います。そこに人間関係の中心には、実は許しの問題があります。
この許し、人を許すことは、なかなか軽い問題ではないんですけれども、しかし許しの問題は、私たちが死ぬまで絶えず会う課題でもあります。
確かに許しの問題は難しいかもしれませんが、しかしよくそれを解決すれば、素晴らしい喜びと驚くべきの平安と幸福が人生に望まれるでしょう。しかしそれがなかなかうまく解決できないままで生きるならば、人生がつらいんですよね。
このアメリカのビリ・グラハムという先生がいらっしゃいますけれども、その先生が許しについてこう言いました。
もしこのアメリカの中で、この許しの問題もきれいに解決するならば、今アメリカの病院に入院している患者の中、半分は退院できるでしょうと言いました。
たぶん日本も似ているのではないかと思います。
ところが旧約聖徳にも、人間の一人ですから、この人間関係、特に兄弟関係のために苦しんで苦しんでいる一人の人がいました。彼はヤコブという人でした。
葬石三十日を見たら、ヤコブも、そして彼の兄エソウとの和解のストーリーが出てくるんです。
33:06
ヤコブは九歳のときに、自分のお兄さんのエソウの許しの権利、その救苦を奪って、そしてその家から逃げて、二十年間も逃亡者で逃げ回っていました。
二十年ですよ。もし彼が二十歳のときに、あの事件があったならば、四十歳まで彼は苦し苦しに死にを送ったにしかないと思うんですね。
もうエソウは見ていない、会っていない、一緒にいないから、その恐れの問題とか、それが解決されていないんじゃないかなと思うかもしれませんが、実は何も解決されていないんですよね。
ただ逃げているだけ。だから彼は自分の故郷、カナーに帰りたい。しかし兄エソウがいる。だから帰る勇気がないんですね。
それは勇気の問題ではない。あるいはお金の問題でもない。それは兄エソウと自分、ヤコブとの兄弟関係、人間関係がもう歪んでいて、これが直されていないからなんですよね。
そして二十年が経ちました。ヤコブは二十年間ストレスのうちに、不安のうちに暮らしていたかもしれません。
だから彼はその代わりに、あのストレス、あの不安を解消するために、ものすごく財産をかき集めていたわけなんですよね。
彼は勇気を出して、カナーに、故郷に戻ることにしました。
そして彼が野牧のパワーヒスに来ました。そこで彼は巣にお会いしました。
今日の見言葉を借りて言いますならば、巣がその二十年間も苦しんでいるヤコブを身手を伸ばして、
お兄さんとのその歪んでいる、壊れている関係で苦しんでいるヤコブを訪してくださった。
そして彼は野牧のパワーヒスにお会いして、自分の目が開かれて、自分自身がどんなものなのか、
自分が今までどんなに悪い人間だったのか、それを気づかされました。目が開かれたわけなんですよね。
皆さん、巣が身手を伸ばして活躍してくださるときに、神の恵みが育ちますよ。
36:07
そして目が開かれて、そして癒されることであります。
だから皆さん、すべての回復は、すべての癒しは、実は家様にお会いしたら、そこで完了して終了するんです。
それで、その野牧のパワーヒス、神に出会って、彼の名前がイスラエルにも改名されました。
そして、本当に恵みを受けて、自分の目も心も変わって、エソーが待っているところに向かって行きました。
ドキドキしたかもしれませんね。エソーが自分を殺しに来たんじゃないかと。
このままで死んだらどうすると、もう不安で不安でドキドキしていたかもしれません。
ところが、お兄さんエソーが先に自ら走ってきて、あの野牧を抱きしめて、口づけをして和解をしてくれました。
野牧もこんなに早く和解できるか、考えなかったかもしれません。
ここに不思議な素晴らしい恵みがありました。
主が野牧の心を助けてくださったから、野牧の新しい人生が始まりました。
そして、詰まっていて、歪んでいて、壊れていた兄弟関係が回復できました。
皆さん、この地上での関係が回復されますと、天の扉も閉ざされるようになります。
だから、野牧の人生が新しく始まったわけです。
皆さん、いくら難しい関係であっても、
あるいは、いくら壊れている兄弟、夫婦、あるいは親子の関係であっても、
主が野牧を察知してくださったように、
肉を伸ばして、私たちの壊れた、歪んでいる、
辛い人間関係の中に介入してくださって、察知してくださるならば、
回復の印が起こることを知ります。
そして、新しい一曲が始まります。
もし、皆さんの中で、人間関係のために辛い思いを持っている方々がいらっしゃるでしょうか。
39:05
それが、夫婦関係でしょうか。
あるいは、家族の兄弟関係でしょうか。
あるいは、親子関係でしょうか。
あるいは、職場での関係でしょうか。
そう言っていただいて、肉を伸ばしていただいて、
その人間関係をねじられている、詰まっている、歪んでいるその関係を主は回復してくださることを信じて、
そして、祈り求めよではありません。
メッセージを終わりたいと思います。
見てよ、伸ばって、癒しを行わせてください。
せっかくですから、この三十節を最後にご一緒にお読みしたいと思います。
ひとなだらき四書三十節。
それで、この御言葉を、今からの私たちの祈りに指していただきたい。
そして、このように祈っていきたい。
そして、主に本当に手を伸ばして立ちしていただいて、
もう癒される恵みが次から次へ起きますように祈っていきたいと思います。
三十節ご一緒にお読みしましょう。
三回。
見てよ、伸ばって、癒しを行わせ。
あなたの聖なるしもべイエスの皆によって、
知る人不思議な業を行わせてください。
アーメン。お祈り致します。